by 味岡 修
オリンピックをめぐる動きが様々に伝えられるのを聞きながら、「注文の多いオリンピック」だなという感想を持った。そして、宮沢賢治の「注文の多い料理店」という小説を思い浮かべた。宮沢賢治の小説は猟に迷った猟師が「山猫軒」という西欧料理店を発見し、それ幸いと入ったはいいが、怖い目に会うというものだ。この小説とやたらと注文のつくオリンピックはあまり関係がないのだがなんとなしに思い浮かんだのだ。
注文の多いオリンピックというのはそれだけで本来のオリンピックの意味を失っているのではないかと思う。簡単にいえば、お祭りとしてのオリンピックはやたらと注文がつくだけでおもしろくもなんともない。お祭りの持つ開放性と言うか、感動の契機を失しめているのだ。そこまでしてまでやることかよ、という声がでてきたのだが、こういう声が出てきたら祭りはおわりなのだ。終わりにした方がいいにちがいないのだ。
「安全・安心」という題目を訳も分からず(少しも具体性をしめさず)空文句を唱えているが、哀れさを誘いさえする。観客や選手の意向などはお構いなく、主催者の利害だけで暴走しているオリンピックだが、オリンピックの目的も意味ももはや失せての暴走である。
オリンピックについては多くの人によって思惑も目的も様々だろうが、それを超えたもの(あえて言えば公共のもの)としてあるのは、オリンピックはそれで人々が日常から解放されるお祭り(祝祭)だということである。オリンピックはスポーツの祭典といわれるが、それが祭典と呼ばれ、公的なものとしても催される意味はそれが祭り(祝祭)であるということにある。
人類はお祭り(祝祭)を必要とし、その歴史において様々の形でお祭りをやってきたが、近代でオリンピックが再興されたことは、近代での必要なお祭りだった、ということだ。最近はこの祭りついて意味が失われているのではないかという議論が出てきてはいた。主催者の権限を拡大し、その経済的利害(商業主義)が大きくなって、お祭りという性格が失われて行くことへの疑念は出てきていた。
オリンピックは競技者と観客と主催者の三者で行われるが、いつの間に主催者の目的が歪み、権限も膨らむ事態が生まれ、オリンピックの意味も目的も失われているという危惧が生じていた。とはいえ、人々はお祭りだということをまだどこかで信じ、そんなに疑わずに来た。そういえると思う。確かに国家がオリンピックを国威高揚の手段にしたいということは不愉快なことだが、それを凌ぐものがオリンピックにはあると、人々はそう思ってきたのだ。
しかし2020年の東京オリンピックがコロナ禍で延期され、そしてコロナ禍は収まっていないのに、強行開催されるに及んで、オリンピックの祭りとしての性格と存在が問われ出したのである。こういう注文というか、疑念が広範に出てきたことは祭りとしての意味が失われていることを意味する。見たくもないスポーツ競技なんて祭りの意味をなさないのである。
過剰な持ち上げは嫌だが、大谷翔平の活躍は目が行く。毎朝、その放送を楽しみにしている。そんな期待がオリンピック競技にあるだろうか。メデイア等はその宣伝をするだろう。笛吹けど踊らず、と言いたい。人々の気持ちがわかっていない。待ち望む期待というか、こころが冷めてしまえば、祭りなんて意味はないのだ。このようなスポーツ競技なんて何の意味がるのか。良くスポーツ選手が「元気を与えたい」というが、それは人々に祭典として望むものがあればということであって、その気持ちがなければ、そんなことはありえない。
今回の開催騒動の中で、僕らは普段はあまり考えずに済ましてきたオリンピックについて考える機会を与えられているのだといえるし、僕は人々があまり疑わずに良きものとしてきたオリンピックが疑われ考え直されるに違いないと思う。
今後、開催、中止どちらに転んでもオリンピックが見直され、今のような近代オリンピックの継続も含めて検討される転機になるべきだと思う。国威が高揚するとか、政治的人気に結びつくという愚かな幻想も壊れるだろう。その種の政治的思惑には痛打がもたらされるだろうと思う。
オリンピックをめぐっては森喜朗の「女性蔑視発言」があったことは記憶に新しい。森の発言はかつてスポーツ選手であった大会関係者(大会組織委員会やJOCの委員など)からの発言(開催の見直しを含めた)が出て来ることへの予防線だった。確かに森は辞任に追い込まれたけれど、この予防線は今のところ功を奏しているようにみえる。
僕が以前からオリンピックについて注目してきたのは、オリンピックがその競技者(アストリート)中心にあるものになるか、どうかだった。これは主催者の利害や意向が大きく出てこないで、選手が主体的に存在することを望んだことだった。僕らは競技を楽しみたいのであり、それを享受したいのだが、主催者の利害は思惑が大きくあることはそれを邪魔することだったからだ。
スポーツの世界では監督やコーチという指導層が大きな力を持ち選手が主体的に存在し、機能することはなかなか難しいことであるのを知っている。競技の主体は選手であるのに、監督やコーチという指導層が大きな力を持っている。このことは国家権力や社会権力にあるものが主催者として競技に介入することであり、これは競技を感受する人々を不快にすることだった。
僕はオリンピックが競技の主体である選手の自立性において成り立って行くことを願ってきた。それは競技を観客として観る人が気持ちよく競技を感受できることでもある。これはその競技が指導者などのためにあるのではなく、選手自身のためのものであり、その主体としての選手のためであって欲しいということでもあった。これはスポーツ選手の自立性ということであり、それはスポーツ界に横行するセクハラやパワハラなどの不祥事の解決ということにも関係することである。そんなところが僕の興味だった。
スポーツ選手が自由で自立的にあることは、スポーツを文化として享受する上でも不可欠なことなのである。選手だけのことではなく、それを見る形で享受する僕らにも深く関わることである。鍛練という名で野蛮な所業に耐えるなんていうのは美談でも涙をさそうものでもない。それは近代スポーツが戦争(軍隊)に影響されてあった後遺症に属することである。
現在のスポーツ選手の環境は彼等が自由で自立的にあることとは程遠いし、その対極にあるといえる。その意味で僕はスポーツ選手がどう振る舞うのか、振る舞えるのか、注視してきた。それはスポーツに限らないもっと社会的・文化的事柄でもあるのだ。
スポーツ選手(オリンピックの代表選手をめざす選手)が現下の開催に向けて何を考えているか知りたい。そう思う。彼等も様々の形で考えが揺れ動いているに違いないが、それはほとんど伝わってこない。現下のスポーツ選手が自分の本当の意見を語れる環境はないし、それはとても困難な事である。大坂なおみの言動に僕はそれをみている。僕らは色々と推察するしかない。
だから僕はスポーツ選手出身の大会関係者の発言に注目してきた。例えば元柔道の選手だった山口香さんがいる。彼女は昨年、誰よりも先にオリンピックの延期を提起した。コロナ禍が進む中でも誰もオリンピックについては語らない状況のもとでである。彼女は議論を期待したのだが、ほとんど議論はおこらなかったらしい。権威が支配し、議論などは起こらない会議が進む。発言は「わきまえた」共賛的なものしか存在しない。
議論があるということ、議論が存在することは、とても重いことだ。議論なんてと、軽々しく扱えるものではない。それは自立した個人が、自由に自分の考えをあらわし、他者との同意を形成することである。あらゆる領域で議論があり、議論が存在し、共同社会のすそ野を形成するときに、権威主導の社会はかわる。慣習(権威)が支配する社会は変って行く。
スポーツ界は上位下達式の権威と隷属という関係、その関係が強い世界である。対等で自由な関係というのは多様な存在としての他者の承認(相互承認)ということにおいて成立するが、そこにおいて議論は存在する。そういう中でしか議論は存在しない。
だから、なかなか議論は難しいのであり、今の社会で議論によって合意を形成しょうとすることは孤立させられる。山口さんはセクハラ問題なども含めてよく頑張ってきたと思うが、きつい環境で孤立無援の闘いをやらざるを得なかった。それでも彼女が議論の起こることを提起したのは重い事だったのである。
だがオリンピックを主催する大会組織委員会は開催か中止かを含めた議論を組織するという一番大事な仕事を放棄してきた。抑圧というよりは、自らが議論を組織するという任務を怠ってきたのであり、役割を果たしてこなかった。主催者の言動(例えば橋本聖子などの発言)に怒りを超えて哀れさを感じるのもそのためだ。ここには日本社会の宿悪というべきものが透けてみえる。
そういう意味でオリンピックの大会組織委員会はまともなことをしてこなかったし、彼等が主催のオリンピックの結末も想像できるが、ただ、オリンピックめぐる議論は僕らに大事な問題を提示してくれていると思う。これは今後も続くだろうが、オリンピック自体よりもこちらの方に貴重なことが残されているように思う。