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【メモ】 戦旗派の歴史の中で、いわゆる「血債・猛省」集会と言われて特筆されていたもので、ここからが新路線による戦旗派第2期建設の始まりとされる。
【メモ】 1970年代、といっても1974年以降だが、戦旗派政治集会といえば代々木八幡区民会館(東京都渋谷区代々木 5丁目 )と決まっていた。定員200人ちょっと、そこに収まりきれない日がやがて来ることを期してのこと、思えば(思わなくとも)少数派左翼であった。
新宿駅から小田急線に乗って、代々木八幡駅下車、降りたばかりは大体しまっていることの多い、カンカン鳴る踏切が開くのを待って渡り、徒歩5-6分。同会館の会議室などもあれこれと利用したから、あの道を何度通ったかしれない。その始まりがこの日の集会。基調報告は日向翔。1973年分裂からおよそ1年、苦難の再出発だった。
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わずか200人ちょっとのこの集会は、インターとの共闘を上回る、戦旗派にとってそしてそこに関わった人の人生をも左右した、ものすごく大きなターニングポイントです。少し長くなりますが、解説させてください。
超簡単に略して言うと、4年前の7.7華青闘告発(後日別項で解説)と、その前後から今日までの自分たちのあり方を「頭でっかちの学生共産主義者」として捉え返し、自分たちは命がけで闘っているアジア人民や第3世界人民の足元にもおよばない存在のくせに、理論主義的に理屈や言っていることが正しければ、それで彼らを超え出た存在であるかのように人を見下す帝国主義的な態度(先進国中心の発想)、さらにそれを人民に押し付けることを運動とするような主体のありかた(革共同イズム=とりわけ革マル派に顕著な)が第一期建設の敗北を招いたんだと。
しかし考えてみれば、そのような苦闘をアジア・第三世界人民に未だに強いているのは、他ならぬ帝国主義足下の我々ではないか。ならば我々はむしろ闘うアジア人民より数段劣った存在ではないか。他にも沖縄人民、下層日雇い労働者、被差別部落大衆、アイヌ民族、在日中朝人民などなど。彼らからの批判を受け止め、耳を傾け、彼らにわかる行動と言葉で話さなくてはならない。
何よりも我々は帝国主義国内の評論家や政治ゴロたちよりも「遅れた民衆」や「後進国人民」からこそ最も学び、偉そうな理論主義ではなく現実的な実践をもって、中国の作家、魯迅が言うところの「血の債務」を償還しきらねばならない。他党派に対しても、口先の他者批判で満足するのではなく、実践で相手を超える運動で証明しない限りは醜い負け犬の遠吠えじゃないか…みたいな。
墨で書かれた虚言は、血で書かれた真実をおおいかくすことはできぬ。
魯迅「花なきバラ」その2
血債は必ず同一物で償還されなければならぬ。
というような感じのことを、戦前からの侵略の歴史も振り返りながら、そして戦旗派の革命理論にも当てはめつつ諄々と説くみたいな。 わりと今見ると「当たり前じゃん」的な内容もあるのですが、70年代的な「俺が俺が」で前に出る新左翼的な世界で生きてきた人にとっては、この謙虚な作風は、それなりにコペルニクス的転回に感じられる面があったのでしょう。
当時の私たちが、学内政治に明け暮れている人々や、労組や市民運動での成り上がりを目指したり、評論家的に私たちを口先で批判したり、逆にすり寄ってくる「偉い人」たちを、「コーヒー片手に革命談義ですか?実践で見せてから出直してください」と軽蔑しがちだったそのメンタルを理解していただけるかと。このメンタルが80年代前半期までの戦旗派の(あるいは辞めてからの人生においてさえ)特徴的な党派性の一つになります。
この時期、日向翔(荒岱介)氏は、非常に内省的で新左翼らしからぬ平易な文体の論文を連続して発表しています。組織内での通称ですが、第一主体性論文、第二主体性論文、純プロ主義批判、スタ克論文などなど。
80年代初頭からの組織的伸長期にこういった内容に感化されて戦旗派に結集し、それを生真面目に実践しようとしてきた人が多かったです。70年代的新左翼文化を体験しないで、最初からこの内容で結集してきた活動家群を指して、第一期建設期の人などは「血債猛省世代」とか言う人もありました。私もまたその典型でした。
石川氏の獄中12年の苦闘を我がものとし、狭山九月決戦勝利の突破口を切り開くべく、全国からの革命的労学380名の結集をもって、8.18狭山現地調査が勝ち取られた。
全国各地から結集した戦旗派と埼玉糾弾共闘の現地調査隊は石川一雄さん宅を訪問。ご両親からお話をうかがい、「物証」とされる万年筆が発見されたという鴨居を見せていただき、石川さんの無実への確信を深めた。
参加者はこの全国現調の中で石川氏の不屈の闘いに学び、もって血債の思想・猛省精神をもって日帝の差別・分断攻撃を打ち破り、被抑圧人民との連帯で九月決戦を総力をあげて闘い抜く決意を固めた。
8月31日正午、突如西武線入間川駅に登場した戦旗派と埼玉糾弾共闘の労学は、あれよあれよという間にテントの設営を完了し「狭山差別裁判糾弾!無実の石川氏奪還!」の幟が立てられる。
駅前大交番にいた日帝=寺尾の手先、狭山署員は慌てふためいて本署に電話し、ハンストの様子を見に来て、隙あらば弾圧しようとするが、血債・猛省をかけ、狭山九月決戦勝利の決意に燃える我々はテントに一指も触れさせず、市民への訴えを続ける。
狭山市民の事件への関心は高く、ビラを受け取った市民から「がんばれよ!」と激励の声もとんだ。
午後9時30分、機動隊250名がハンスト隊に襲い掛かり、防衛隊に殴る蹴るの暴行を加えながら、ハンスト隊を引きずりだし、テントを破壊した。強まる豪雨の中で成り行きを見守っていた狭山市民からは口々に「止めろ!」の声が機動隊・公安に浴びせかけられる。
翌9月1日、ハンスト隊は狭山市役所前で再びテントを設営しハンストを継続、戦旗派は午後2時から狭山市中央公民館に石川氏のご両親を招いて、「日帝=寺尾決死糾弾!狭山九月決戦絶対勝利!総決起集会」を300名で開催した。石川さんから集会への獄中アピールを受け、豪雨の狭山市内をデモ。入間川駅前では昨夜の暴行を働いた狭山署と西武資本を糾弾するジグザグデモを敢行し、駅構内に突入。抗議のシュプレヒコールをあげていった。
9月5日、狭山署公安と市当局は機動隊250名をひきつれ、市民の目の届かない早朝にまたしてもハンスト隊のテントを襲撃破壊した。我々は抗議の署名活動を展開し、9月7日から17日まで連続の抗議行動の中で、「狭山闘争支持-ハンスト弾圧抗議」の署名が狭山市だけで一千筆にのぼり、とりわけ市職員からは全体の3分の2という圧倒的な支持を得た。この力を背景に、我々はハンスト戦への再々突入を敢行した。
9月22日、中央公民館で総決起集会を250名で開催。出席された石川さんのご両親からの「一雄は無実だ!」の叫びを全員が胸に刻み付けた。ハンスト戦士が決意を表明し、全体の拍手の中でハンスト隊を送り出していったのである。
我が戦旗派の革命的労学は、朝7時に某所に集結し、血債猛省をかけて石川氏を奪還しぬく集会を開催、そのままデモで日比谷公園に入り、戦闘的な部落大衆、労働者、学生との合流を勝ち取っていった。
【草加メモ】 写真を見ててあらためて思ったのだけれど、理由はよくわからないが、戦旗派が二期建設に入ってから、なぜか新しく結集してくる若年層の活動家に女性の比率が高かったように思う。あくまでも他党派との「比較的に」だが。
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日本の民衆運動・労働運動が、これまで韓国‐朝鮮人民と連帯する闘いをまったく行ってこなかったこと、それどころか私たちの運動が、尊大な排外主義・大国主義・物取り主義に陥っていたことを猛省しよう。
韓国民衆の不屈の民主化闘争によって苦境に陥る軍事独裁者・朴をてこ入れし、日米両帝国主義によるアジア支配を企む11.18フォード来日を血債にかけて阻止しよう。韓国民衆の死を賭した闘いに連帯しフォード‐田中‐朴の反革命会談を許すな。
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【草加メモ】 74年失脚辞任したニクソン政権の副大統領から昇格したジェラルド・フォードの来日‐訪韓は、60年にもくろまれたアイゼンハワー大統領の来日が安保反対運動の激化で中止されて以来、史上はじめての米大統領来日となった。
ベトナム侵略の敗退、ニクソンショック、ウォーターゲート事件による失脚、そして韓国での民主化闘争の進展に対する朴政権による人権無視の残虐な弾圧、その中での来日・訪韓であった。いずれにせよベトナム敗北以降の日米安保体制の再構築(日米の軍事一体化)、国際的な非難にさらされている朴政権への露骨なてこ入れ(韓国民衆への敵対)であることは明白だったろう。
【草加メモ】 フォードは来日三日目には京都を訪問、その翌日に伊丹空港から韓国に飛び立った。来日前後には多くの反対・抗議集会などが各々の立場から多彩に取り組まれ、京都では「フォード入洛阻止闘争」が京大同学会などの呼びかけで、また「フォード訪韓阻止伊丹現地闘争」が800名の参加で取り組まれた。
【草加メモ】 ちなみに副大統領から昇格したフォードは、ニクソンに恩赦を与えたことなどで支持率は低迷し、1976年の大統領選挙で民主党のジミー・カーターに敗れ、史上たった一人の「一度も選挙で選ばれたことのない大統領」となった。
74年の激動、とりわけ狭山9月闘争を、狭山現地-高裁を貫く実力闘争で貫徹し、続く11.18フォード来日阻止闘争を30名の被逮捕をものともせず闘いぬいた地平を打ち固め、きたる75年階級闘争の大爆発を実現する決意を打ち固めていった。
1.8 | 韓国・朴政権、「大統領緊急措置」発動 |
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2.3 | 春闘総決起集会 幡ヶ谷区民会館 |
4.3 | 韓国民青学連事件=緊急措置4号発動、金芝河氏らを逮捕 |
5.15 | 沖縄返還2周年・侵略反革命体制粉砕集会 東京渋谷・山の手教会 |
5.30 | 三里塚世直し集会 東京・日比谷公会堂。三里塚芝山空港反対同盟委員長の戸村一作さんの参院選出馬を支援する集会 |
7.7 | 共産同(戦旗派)政治集会。いわゆる「血債・猛省」集会で、戦旗派第2期建設の始まり。東京渋谷区・代々木八幡区民会館。 |
8.18 | 狭山現地調査。石川一雄さん宅を訪問、ご両親からお話をうかがい、「物証」とされる万年筆が発見されたという鴨居を見せていただき、石川さんの無実への確信を深める。 |
8.31 | 埼玉県狭山市内で狭山差別裁判糾弾のハンストに突入 |
10.31 | 狭山裁判高裁決戦。東京高等裁判所(寺尾裁判長)が石川一雄氏に有罪「無期懲役」判決 |
11.17 | 米大統領・フォード来日阻止集会 東京渋谷・宮下公園 |
11.18 | フォード来日阻止闘争 東京大田区・中蒲田公園 |
12.15 | 労共闘政治集会 東京渋谷区・代々木八幡区民会館 |
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2. 1974年 後半期