2000年に出版、公表された吉村和江さん(日本赤軍メンバー)の談話(インタビュー)です。歴史的な資料、当事者による貴重な証言として掲載しています。内容についての質問には私ごときでは一切お答えできません。
現在の日本人にとって一番のポイントは、ここで語られているリッダ闘争(テルアビブ空港事件)の経緯(その他の日本赤軍に対するイメージも含め)は、当時のアラブ社会の一般民衆の間では真実として認識されてきたのだということです。中東地域が底抜けの親日になっていった原点でもあります。
そのアラブ、とりわけパレスチナの心情は、上の「ライラのバラード」を聞いていただければより理解できると思います。そのことをよく念頭において、以下のインタビューを読んで考えてみたいと思います。
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日本赤軍は何をしたのか
吉村和江(談、2000年12月3日)
文藝別冊【総特集】赤軍(現在絶版)より
重信さんが逮捕された後のアラブ世界の反応は「戦士・重信」と新聞やマスコミ全てが流しているという事です。その意味をもう少し日本側が考える必要があるのではないかと。
だってイスラエルの侵略戦争に対するアラブの抵抗戦争に従軍していたのですよ。例えは悪いですが、真珠湾攻撃で捕虜になった日本海軍の潜水艇長や、神風特攻隊員を、米国が「テロリスト」として逮捕したら、どう感じますか。
PFLPが指揮したといわれるリッダ闘争ですが、獄中にいる丸岡修さんが『公安警察なんぼのもんじゃ』(新泉社)で、また『日本赤軍20年の軌跡』(話の特集)の中でも、岡本公三さんがはっきり言っているのですが、彼らのやった闘いは、空港の警備兵に向けて攻撃を開始したことです。それに対して泡を食った警備兵が反撃をして、それによって多数の空港内にいた人たちが殺されたのです。
そのとき死んだ日本赤軍の二人のうち一人、安田安之さんは、誰かが投げた手榴弾が壁に当たって遠くに行かずに、撥ね返ってしまった。それで周辺にいた人たちに傷を負わせないために、自ら手榴弾の上に自分の体をかぶせて、そして亡くなったわけです。それから奥平剛士さんも人がいない所で自爆しています。彼らが空港にいた人に無差別射撃をしたような報道をされていますが、それは全く違う。ただし、彼らは、自分たちが行った戦闘によって、無関係な人たちが巻き添えになったことに関しては謝罪しているんです。その辺の彼らの気持ちを伝えて欲しいと思います。
いわゆる「ハーグ事件」ですが、これもこの時に奪還された元メンバーのΥさんが「PFLPの指示」を検察当局に明言しています。Υさんがパリで逮捕された時にメモを押収されたんですが、そこに書かれてあった連絡先の人が、数カ月後にイスラエルに爆殺されたんですよ。この人は戦中から反ナチレジスタンスのヨーロッパのリーダーでした。ヨーロッパは当時、中東戦争の第二戦線だったのです。でも各国はモサドの「テロ」は非難しませんね。
パレスチナ問題に対する報道も、非常にでたらめ、単に土地を巡る民族争い宗教対立という図式で、新聞にしても本にしても書かれている。パレスチナ問題は、ユダヤ人の問題といってもいいんです。ヨーロッパ世界が生み出した矛盾、それを旧植民地に丸投げしてきたのです。
それはアメリカ建国の歴史を見れば一目瞭然です。ヨーロッパで迫害された人が別の大陸に流れて行き、先住民を殺して土地を奪っていく、という構造の延長であると思います。ですから単純に宗教対立ということではなくて、宗教対立があおられたのはその後ではないかと。しかも本来の土地だといってヨーロッパからイスラエルに来ている人たちは、ハザール人という、コーカサスか中央アジアの方にいた、パレスチナの土地とは全く無関係の人たちの子孫です。
私達はその反侵略抵抗戦争に従軍していたのです。
レバノン南部の激戦地では両軍の夜襲がひんぱんにありました。私達の仲間が襲撃隊に参加した時、戻ってきたら居残り組が全員殺害されている事がありました。「革命支援」でやってきたある国の大学生が見張りをしていたのですが、敵に怯えて発砲しなかったために、寝ているところを襲われたのです。
ベイルート近郊の前後では、ファランジスト民兵(カタエブ)の狙撃兵が、ベイルート街道から市内に入る車輛を無差別に銃撃し、何人もの市民が殺されていました。そこで私達の仲間が、深夜に狙撃地点に侵入して、仕掛け爆弾を設置しました。翌朝、爆音と悲鳴が聞こえたようです。それ以来、カタエブは怖がって狙撃地点に来なくなりました。この作戦を一緒に担ったアラブの兵士は日本赤軍と共に闘えたことを大変誇りに感じたようでした。
日本人ジャーナリストのために、サイダ南郊の防空部隊のガイドをした仲間もいました。彼が撮った写真がPFLPの機関誌の表紙に採用されましたが、その直後、部隊の位置をわり出したイスラエル軍は猛烈な空襲をして、その防空部隊は全滅してしまいました。このような事があるので私達はどこで何をしているのかを曖昧にせざるを得なかったのです。
私達の仲間の中には、一発目の銃弾の穴に残り全弾を命中させる銃の名手や、対戦車ロケット砲の名手がいました。パレスチナ軍の軍事教官もしていたのですよ。訓練生が今、パレスチナ政府の中堅になっているんですよ。PLOを「テロリスト」呼ばわりしたイスラエルは、そのPLOと交渉の席についているではありませんか。そしてPLOは独立政府として各国から承認されだしています。日本赤軍を裁くという事は、PLO、つまりパレスチナ政府を裁くという事なんです。それともテロ、ゲリラで英国から独立した米国の初代大統領を「テロリストの最高幹部」と教科書に記しますか。
「新左翼」からの脱皮と克服
よく言われていることなんですが、日本赤軍と連合赤軍をごっちゃにして、リッダの場面と粛清の絵というのがダブらされること。出身母体は同じですが、その一部は北朝鮮に渡り、一部がパレスチナに渡り、残った軍の本体が革命左派と合流し、そこで同志の粛清という事態に至るんです。ですから日本赤軍が連合赤軍と同じ団体であると言われるのは間違いです。
ただし、日本の新左翼から産まれた人たちですから、「強力なる個人を準備せよ」というスローガンに見られるような自分を鍛える事が「革命的」という考え方が染み込んでいました。その意味では同じような問題は持っていたと思います。
どうして克服できたかといいますと、共産同赤軍派が持っていた世界同時革命とか、そういう理論が、現地で解体されてしまったのです。北に行った人たちは、北の地で解体される、パレスチナに行った人たちはパレスチナの戦場で、アラブの文化、そこに集まってきているヨーロッパや世界中の革命組織の人たちと交流する中で解体されていく。それもきわめて早く解体されました。
その中で学んだことが、私たちが書いたものの中に現れているんですが、それがわかりづらいといいますか、理解されない部分が大分あると思うんです。その一つは、使っていた言葉が、日本とちょっと意味合いが違っているのではないかということ。
例えば「人民」という言葉一つとっても、日本で人民といった場合には、没階級的だという批判を受けたりするんです。これは革命の本体論というものがありまして、労働者階級、しかも基幹産業のプロレタリアート以外は小ブルと組むからどうだとか、ブルジョワジーは敵だとか、図式的な階級闘争論があるのです。それに対して私たちは、味方を選別するのではなくて、味方をいかに増やすかというところで、問題を立てていたのです。私たちが言う人民という言葉は、日本語に訳せば、「民衆」という意味ではないかと思います。
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自己批判からはじめる
自己批判と総括という言葉も連合赤軍と同じで新左翼も使っている言葉ですが、欧米に行かれた方ならよくご存知だと思うのですが、自分が間違ってもまず人のせいにする、失敗を認めて対策を立てないために繰り返す、そういう土壌の中で、まず自分の側の原因を認めようではないかと。そういうところの自己批判なんです。
総括も同じです。イスラエルとの戦闘に負ける場面を見ている、そこで、失敗の原因がどこか探ろうではないか、そしてやり方を攻防の中で変えようではないかと。そのためにはあいつらが悪いんだとか、自分は一生懸命やったとかいう主観ではなくて、客観的に、自分たちが戦闘に負けた事実から見ようではないかと。そういう問題の立て方がされたと思います。
それは痛烈なショックを受けた連合赤軍の敗北の原因となった「総括」とは対極にあったと思います。連合赤軍とは違う総括の方法を作ってきたと思います。しかも、連赤後の再建赤軍派も「自己批判-団結」という言葉を使いながら「総括」をめぐって分裂してしまうんですから、これでは何のための総括か、という根本的な疑問がありました。
その痛恨の思いから自分たちの総括の仕方を日本ヘ伝えたんです。それが『大地に耳をつければ日本の音がする』(亜紀書房)という本の中で総括の五つの定式として紹介されています。これは「何故、物事がうまくいかないのか」と皆で議論して必要な項目を五つにしぼったものです。私達自身が現場から考えつくって来たものです。
現実を見すえて考える
本当に一からつくっていったという面が強いんです。例えば綱領は、従来の左翼、少なくとも日本の新左翼は、ロシア共産党(ボリシェビキ)の綱領なり規約なりを下敷きにして、ちょっと手を加えてつくる。それに対して、私達は、自分たちが実際にやってきたこと、実際に間違った事の対策など具体的なことでそれを作ってきたんです。ですから世界認識にしても、いくらでも論争はしますが、ちょっと認識が違ったからといって、じゃあ分裂するといった発想は持っていません。
現実の世界としてアメリカの一国支配が拡大している、グローバリズムによって各国の民衆の生活がだんだん逼迫してきている、その民衆の側の反撃も今始まっているのではないか、今はそういう時代認識をしているのであって、細かい位置付けとか、日本の旧新左翼がやっているような路線論争とかとはかなり違います。
私達は世界の各国を回っているんですが、そのときに、同じようにマルクスの本を勉強し学び、なぜこんなに変質してしまうのか。という実感からの疑問や、頭デッカチの批判とは別の印象を持ったと思います。既成の「社会主義国」の歪みは制度・政策の問題だけではなくて、根にある文化が逆にイデオロギーを色づけるのではないか、そういう認識に立っています。
足立正生さんに象徴される、映画芸術のグループも日本赤軍に合流していますが、その傾向は「ダダイズム」なんです。「創造のための破壊」といいますか、社会主義リアリズムとは全く違う文化を私達は持っていました。それプラス現地のラテン的な明るく楽しくアバウトな文化。さらに現実の戦場は、普通の生活者がPLOなどの組織に人ってくるわけですね。そこで給料をもらい家族を支えている。戦場の兵士たちも生活者である、そういう文化、その辺がミックスされているのではないでしょうか。
歓送会や誕生会、それにリッダ闘争の祝い会など色々と楽しんできました。休暇時には配給された軍用缶詰をサカナにガス灯の明かりで朝まで飲み会をやったり。節約はしますが、禁欲主義とは縁が切れました。その意味で、「根なし草」が世界各地をめぐり、新種として独自に「開花」したと、自画自賛しておきましょう(笑)。
私達が望んでいる社会主義は、何か先に鋳型を作って当てはめるということではなくて、本来の姿は自由と民主主義ではないか、それがまだ実現されていない。それを追及していく過程こそ社会主義に近づく過程ではないか、と考えています。社会主義革命と改良主義闘争を単純に分けてはいません。
戦場では銃を、国内では政治を
重信さんには現地の戦闘で勝っても日本の社会変革につながらない、自分たちがやっている闘いを日本に返したいという思いが非常にあったと思うんです。
麻薬にからんだマネロン、大学の教授と学生数十人殺害の指示者、疑惑の追及から海外逃亡し、日本へ亡命を希望しているペルーの独裁者フジモリを匿った曾野綾子は堂々としているのに、アラブの英雄を助けた人が逃亡幇助罪で逮捕される日本って変ですよね。これで日本はアラブとペルーの民衆を敵にまわしてしまったのです。
こんな日本を変えるために重信さんはやって来たんでしょうね。私達は戦場では銃を取りましたが、日本では政治主張を通じて闘っていきたいと思います。
吉村和江(談、2000年12月3日)
※段落と見出しは旗旗でつけました
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