非正規の私はお金がないのでw めったに映画館などに行かないのですが、直感的になんか気になって、映評でも多くの人が「絶対に映画館で観るべき」と力説してたりするので、迷った末、本当に久しぶりに足を運び、あまつさえ二回も観てしまいました。そういえば私「ごく普通の弱き者がトラウマなりなんなり、何かを克服して(勝てなくとも立ち向かって)ちょっと賢くなる」系のお話は好物でしたわ。
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全般的にサイエンス・ファンタジーの良作(「傑作」と言えるほど他の作品に詳しくないので)だと思います。あり得ないことをいかにも現実にあるかのように描いたおとぎ話(誉め言葉)です。ストーリーはネット上の仮想空間(ほぼ「マトリックス」な世界)である「U」と高知の美しい自然豊かな田舎の高校生活を交互に描きながら、それが互いに交差して進みます(公式サイトあらずじ)。
実は一回目に観た時、感受性の摩耗したおっさんの私は、竜が登場するまでの冒頭30分くらいまで(通常の映画でも登場人物の紹介や背景など語られる部分)ちょっと退屈で「あれ?」とか思っていました。後半からラストシーンでは感動したのですが、それは映像の素晴らしさや、観客をぶん殴ってくるような歌の迫力が大きいのかなと。
でも二回目に観た時は、最初から登場人物たちの心情がよくわかり、のめりこんでしまいました。一回目から泣けた人の素直な感受性はうらやましいです。二回目はクライマックスの光の波をクジラで進むシーンや、恵と知の父親と対峙するシーンなどでは泣いてしまって困りました。一人でアニメ観に来たおっさんが泣いている姿を客観視してしまい(笑)、なんとか明るくなるまでに気持ちを落ち着けなくては的な。
この映画は夏休みの目玉として大ヒットし、2位以下を大きく引き離して興行成績1位の大成功をおさめ、さらには世界3大映画祭の一つカンヌ国際映画祭で公式上映され、会場に詰めかけた1000人以上の観客から上映後になんと14分間に及ぶスタンディングオベーションが起こりました。海外ではまだ上映されてないようですが、批評家や映画誌の評価は軒並み高いそうです。
ただ日本の(というか国内ネット上の)評価はわりと「賛否両論」らしく、わざわざまとめた方によると、感動したが4割、批判が3割、その他3割という感じだったそうです。確かに文芸的、抒情的なところがあって、細かい設定などをあまり説明しないので好き嫌いは分かれるかもしれません。私も今作を観て、コアなオタク層や、アニメ評論の理屈っぽい人には受けが悪いだろうなという予想はしました。
どうも本作の監督である細田守さんの作品は、海外では映画として絶賛されるのに、国内ではアニメとして評価が割れる傾向があるようで、前作の「未来のミライ」も、国内での評価は分かれたものの、海外ではカンヌ映画祭でアニメ作品として唯一の招待映画となった他、「アニメのアカデミー賞」と言われるアニー賞を受賞し、さらにアカデミー賞にまでノミネートされる快挙を果たしました。
最近のアニメやラノベは複雑な「世界観」で引っ張るタイプが多いのですが、それに対して「ストーリーの矛盾」「登場人物の行動がおかしい」みたいのを細かく指摘する論評が目立ちます。そういうタイプの人にとって、登場人物の行動や気持ちは合理的に「説明されるべきもの」なんだろうなと。でも今作はあまり理屈で解釈や説明をすると無粋です。そのへんを文芸作品みたいに「深いな」と思えればハマるかな。まあ普通に楽しむのが正解なんでしょうけど。
この映画はそういう「出オチ」とは対極(?)で、細かいところは観客のほうでわかれ的なところがありますし、私もそんな細かい解釈ははどうでもいいと思っています。あといかにもオタク男性に受けるような女性キャラがでてきません。今季は同じ歌声感動系で「アイの歌声を聴かせて」がありますので、日本的なアニメオタク度が高い人はそちらのほうが適性が高いかもしれません。
それでも資本主義市場社会では興行成績がものを言うわけで、国内でも文句なしの大ヒット、おそらくこれから海外でもそこそこヒットするでしょうから、国内のネットで3割やそこらの酷評なんざ踏みしだいて無視できるだけのパワーがあるわけです。ゆえに監督・脚本の細田守さんも、そのへんはあんまり気にしてない(する必要がない)と思うので、今後もこの路線で突っ走ってほしい。なんにしろみんな同じようなものばかりでは面白くないですから。
ひとつ言うなら、映画内で監督がネットの反応について弘香に言わせている「肯定的な評価しかないなんて、コアな支持者だけで固まっている証拠じゃん!(そんな人たち気にする必要なし)」というセリフにクスリと笑ってしまいました。まあ肯定にしろ否定にしろそうですよね。それが悪いとはまったく思いませんが。
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ここまで長々書いたのは、アニメ系の事情には疎いだろう本サイトの読者様に、本題に入る前の基礎知識的な配慮です。次にこのサイトの読者にも楽しんで(?)いただけるような表現と考察で感想を書いてみたいと思います。
まずこの物語の主人公の鈴とそのAs(アズ=ネット世界でのアバター)であるベルは秩序を「守る」タイプではなく、現状を「変革」しようとするタイプの主人公です。これは私の思い込みや解釈ではなく、細田監督自身が常田大希さんとの対談で、「なんでクジラを使ったの」という視聴者からの質問に次のように語っています。
「この映画の冒頭でベルがクジラの上に乗っているのは、ベルはマジョリティ(多数派)じゃなくて、世界を変えていく側の存在であるってことを表すためにクジラに乗っているんですよね」。
世界が賞賛!『竜とそばかすの姫』細田守・常田大希が見ていたその先
思うにアニメやSFなどのヒーロー・ヒロインには二種類あって、秩序と平和を「守る」タイプと、現状を破壊・変革して人々を助けようとするタイプがそうなんですが、ベルは後者。と言っても作品そのものに政治性やイデオロギー性はありません。
鈴の生きづらさの原点は、幼いころに他人の子供を救うため、止める自分を振り切って勇敢な行動をした母の死を目撃したことが発端です。あげくに救助を待たずにした母の行動がネットで「(自分の)子供がいるのに無責任」などと叩く投稿があふれるのを見てしまう。以来、幼くして音楽(シンガーソングライター)の才能があり、母と歌うのが大好きだった鈴は全く歌えなくなり、何をするにも自信を持てなくなってしまいます。
そんな鈴もベルの姿を借りた時だけ歌えるようになるのですが、さらに仮想世界では「本人の特性や才能を強制的に引き出す」という設定があり、ベルの歌声を聴いた仮想世界住民は、ベルがまるで自分のために、一人一人に寄り添って歌ってくれているように感じます。これは心の傷を抱えた鈴(ベル)の特性の表現でしょうし、同時に伏線としてクライマックスに生かされているように思います。そんなベルの歌声に反感を感じる人もいる一方、仮想世界50億人の中で一番人気の歌姫となります。
鈴の個人的な生きづらさは同じような他者への直感的な共感と優しさとなって、嫌われ者の竜(ビースト)の痛みを感じとり、逆に「正義と秩序」を標榜するジャスティンたちの権力と反目することになります。やがて勇気をもってネットを通じた奇跡をおこした鈴が、それこそがまさに母がしようとしたことであると気づいた時、自分もトラウマを克服して成長、周りにも現状に立ち向かう勇気を与える「対象変革と自己変革」の物語です 。
これに対して、作品に否定的な意見の多くに「単純につまらなかった」的な通常の感想以外に、「秩序派」ともいうべき立ち位置からのものが多かったということを指摘しておきたいと思います。「変革」タイプの主人公が気に入らない、もしくは違和感をもつ感性です。
いろいろ読んでみますと、「物語の中に社会システムへの根本的な不信や、大人は助けてくれない的なメッセージ性があって、この映画を中高生の子供に見せるのは危険」とまで断じていてびっくりです。なんか本作をテロリストが主人公の暴力的な映画や、深夜のグロいアニメにまでたとえて「腸が煮えくり返った」そうで(笑)。
社会システムが…とか高尚っぽいけど、要するに「教育に悪い」「子供に悪影響」っていう、太古の昔からアニメや音楽に対してPTAとかのお偉い人が言っていたこと、サザエさんの「ングクク」をやめさせたアレだよね。今のネットのアニメ評は、すでにそのレベルになっているということなのかな。なんかつまらないな。
じゃあ鈴はどうすればよかったのかと言えば「しかるべき機関にまかせればよい」という結論です。ええ!ファンタジーなのにそんな映画って誰が見るの?
↓ つまり、こういうことです
なぜ日本では、若者に投票を呼びかける一方で、社会運動に参加すると叩かれるのだろうか?その矛盾した行為の根底にある考え方を考察したい。 若者に投票を呼びかける一方で、社会運動への参加は叩く日本の風潮(室橋祐貴) - ... - Yahoo!ニュース |
だいたい本作で彼女とその理解者に「秩序」を求めるのはないものねだりなんです。それはジャスティンの立場です。それがいいとか悪いじゃなく、だってそういう物語なんですもん。それを「危険」とか言われても、別に尾崎豊が歌ったことが原因で「盗んだバイクで走り出す」若者が続出したという話は寡聞にして聞きません(笑)。
私が一番「何を言ってるんだ?」と思ったのが、物語最後の集大成として、鈴がネット世界に続いて、現実でも恵と知のために高知から東京へと飛び出していくシーンを「納得できない」「なんの解決にもならない」としている意見でした。「こんな危ないこと、なんで周りの大人が止めないんだ」ということらしい。
そこにいた鈴の母親の友人たちが、ただの傍観者ではく、もはや母親がわりのような気持でいること、さらにみんなで写った鈴の幼いころの写真が何度も出てくるなどの演出まであるのに、またネット空間での「奇跡」に大人たちを同席までさせているのに、なんでそんな意見になるのか不思議でした。
だいたいネットで誰もが知る超有名人であったベルが、しかもその実績を全部捨てる覚悟で、さらにジャスティンと敵対した上で、全世界の50憶人に自分からアンベイル(身バレ)し、ただの無力な女子高生として素顔で歌うんですよ。その危険性なんて今のネットを見れば、たかが「高校生が一人で東京まで行く」ことの千倍万倍ですよ!しかも本人はトラウマで素顔では歌えないのにぶっつけ本番。そしてそこまでする理由がたった二人の赤の他人の子供に呼びかけるためです。「あなたを助けさせて」と。
このネット世界で鈴がおこした「奇跡」の展開をうけ、物語のラストシーンまでの疾走感の中で、絶対に鈴は一人で行かなくてはならないでしょうに。それを「危ないことはやめなさい」って止めんの?!しかもこの5人が?!物語としては台無しじゃん!
あるいは「保護者同伴」でないとダメって?それじゃ母親のトラウマを乗り越えて、殻を破った鈴の心理の前に、ただの陳腐な「若者の前に立ちはだかる大人」になっちゃいますよ。私は「行け!鈴!」とか手を握って爽快でしたけどね。鈴の気持ちと体験をみんなが共有し、心を一つに全力で背中を押すという感動のシーンなのに。もちろん監督もそのつもりでしょうし、私は見事にその熱に飲まれました。
感動するのは鈴の一人で飛び出した行動が、同じく母親の単独行動と二重写しになっていることです。同時にここからの現実における鈴と恵たちの描写が、ネット世界での「美女と野獣」をモチーフにしたベルと竜たちのストーリーとも二重写しになっているという形で、物語が三重構造になっているところが重厚さと感動を増しています。ベルが竜を抱きしめた時と全く同じ反応を、鈴に抱きしめられた恵がするシーンは胸に迫ります。驚いたように目を見開き、何かの気づきを得たように。
ここで母の死からギクシャクしていた父親と列車の中でラインのやり取りをするのですが、やはり父親も鈴の背中を押します。「君は母さんの娘だね。その人に優しくしてあげなさい」と。鈴は涙で一言「ありがとう」と返信して父と和解し、同時に母親の勇敢な行動も肯定できるようになって、気持ちはさらに固まります。先の5人も父親に事情を伝えフォローしています。ここも感動のシーンですが、やはり「父親は無責任」と非難するのでしょうか(するんだろうなぁ)。
こういう論評の心理を知りたいと、いろいろ意見を読みました。大人たち5人が危険なことを後押しするのは「あまりにも無責任」だと言っている人もいた。この方は5人は鈴の母親の死の現場にいて止めなかった「傍観者」と同じだ(つまりそもそも母親の行動は間違っている)と言うのですが、私にはこの意見こそが、鈴の母親の勇敢な行動に対して「自分の子供がいるのに無責任」で、死んだのも自業自得(=自己責任)だと書き込んで、鈴に消えないトラウマを植え付けたネット上の誹謗中傷と同じ感性だと感じましたし、それは間違いではないでしょう。なんかイラクで国際ボランティアをしていた高遠菜穂子さんへの誹謗中傷を思い出しますね。
余談になるかもしれませんが、この手の書き込みをする人って、何か大きな事件があるたびに「遺族の気持ち」を持ち出して、犯人を殺せ、さっさと死刑にしろと叫ぶ人と同じ感性なんですよね。こういう人は別に「遺族の気持ち」とか「残された子供」なんてさほど親身になって考えてない。自分本位で二束三文の「俺様正義感」を満足させたいだけで、その言い訳に持ち出しているだけです。
ジャスティンに対するベルの判定も「自分の思うように人を従わせたいだけ。それは正義なんかじゃない」というもの。ネット上の心無い書き込みやネトウヨと同じだということです。ジャスティンはネット世界の正義を守る警察を気取っていますが、セキュリティシステムがあるので、個人の行動を取り締まることは認められず(憲法の制約のようなものですね)、劇中ではあくまで非公式な自警団という建前です。実際には自分の判断で「秩序を守護」していますが、そこを権力とか警察とかいうとややこしくなるしね。
複数の方の意見(感性)をまとめると、つまり若者は大人と今の社会システムを信じ、自分では闘わずにしかるべき機関にゆだねるべきである、自分で解決しようと考えてはいけない。「正義のヒーロー」ものだとそうだもんね。この物語ではそれがジャスティンや恵の父親、あるいはネットで鈴の母親の勇気ある行動を叩いた連中の考え方であって、ベル(鈴)はそれよりも自分の感性を信じて行動したわけだけれど。
こういう「大人も安心」な発想って、かつて年寄りの大人は言わずもがなでしたが、今はむしろ若い人ほどそうで、大人が用意してくれた色々なレールの中から選ぶこと(サービスの選択)が「自由」だと勘違いしており、レールを用意してくれる人そのものを困らせるような創造的な発想や思想を持ってはいけない、よくて新しいレールを提示するくらいで、それ以上にレールが乗っている土台そのものに疑義を提示するのは「周りに迷惑」みたいに言う学生さんが多いらしい。
私には考えられないことですが、「教育改革」で子供の頃からそういう教育を受けてきた世代だと、この手の物語には違和感があるのも仕方ないのかも。日本だけでなく中国でもそういう若者が増えているというニュースを見たなあ。日本では保守化、中国では共産党支持、合言葉はどちらも「愛国(国益)」で両者は同じもの。正直どちらの味方もしたくないし、私から言わせれば、ヤクザの縄張り争いと何が違うと思いますがね。
こういう書き込みをされる方は、どうも勘違いしておられるらしいのですが、恵と知の父親は、子供に痣ができるような身体的な虐待よりも、自分の「正義」や「意見」を高圧的に押し付ける、いわゆるモラハラをしています。つまりジャスティン(ついでにネットで他人を罵倒して悦にひたっている輩)と同じです。そのことはちゃんと作品の中で描写されています。
モラハラの特徴でもあるのですが、当人は自分は正しいことをして子供(家族)を導き守っていると本気で思っています。また、対外的には「仲良し家族」や「良き父親(夫)」であることを強調して外聞をすごく気にします。そのことは映画前半に伏線として出てきますし、自分が子供を「しつけ」している場面がネットに流れたことに異様に激高したこと、そして鈴に対して「私たち家族の絆を引き裂きに来た」というセリフにつながっています。
彼をチェック! 「モラハラ男」の特徴と対処法~見分け方と別れ方~ - 「マイナビウーマン」 |
身体的な暴力ではないので、鈴より以前に介入した大人たち(学校や児童相談所などでしょう)が、父親との面談や説得という常識的な対応を行い、それが何の役にも立たなかったことも恵の態度で示されています。モラハラの当事者は、むしろ「相手のために自分は身を粉にしてまで愛している」とか思っているので「常識的な対応」ではそうなりがちだろうと推察します。私の世代だと、同級生の家でこんなふうに一日中ガミガミ怒っているお父さんやお母さんもいました。従来はそれが虐待だという意識ってほとんどなかった。
夫がモラハラなら逃げ出して離婚すればいい。その場合でも夫は妻側の弁護士のところに押しかけて、「俺は妻を愛して尽くしている」「おまえたちが夫婦の絆を引き裂こうとしているだけ」とか言うそうです。実際、本気でそう思い込んでいるので、第三者が介入しようとしてもやっかいな問題があるだろうなと思います。そこで妻なり子供がはっきりと「嫌だ」と意思表示して抵抗や反抗や逃亡なりをして闘ってくれないと事態が動かないのでしょうね。
細かいことを言うようですが一つだけ、いわゆる児童相談所の「48時間ルール」というのを、以上のような描写をふまえてわかりやすく簡単に事態を説明するため、鈴たちの通報から48時間以内で暴力がふるわれたら介入するというふうに簡略して説明されています(鈴たちはそう理解する)。ストーリ上はそれで間違いはないのですが、正確には虐待の通報があった場合は48時間以内に介入するというのが48時間ルールで、ここは誤解を招くかもしれませんね。
裏をかえせばこれは児童相談所に身体的な虐待の通報があったのに助けにならず、小さい子供を救えず親に殺されてしまったという事件が続き、その批判への対応として打ち出されたという経緯があるわけですが。
でもまあうん、昔からいたよ、ここまでみてきたような文句をつける人たち。PTAをはじめどこにでもいたし、たとえば全共闘みたいな学生運動の時代でさえ、日本共産党とかそうだったし、近くは反原発闘争の中にもいたよね。運動の中では一般的に「秩序派」と呼ばれていたよ。で、秩序派って、ほぼ例外なく「中立」ではなくて、運動が進むと最後はゴリゴリの右翼とくっついて左派を襲撃するだよね。不思議なことに。
良心的な秩序派は別にいてもいいというか、少しはいないと困ることもある(?)のかもしれませんが、でも社会発展のためには若者が大人を困らせなくてどうするんだという。
かつての高度成長時代、日本人はみんな貧しくても上を向いていました。今日より明日は良くなると信じ、思想信条や立場にかかわらず「今」を変えていく気概をもっていた。そんな中で若者たちも、大人が作ったものに異議を申し立て、自分たちでよりよい社会を作り出すことができるんだと信じて行動していました。
このサイトらしい例をあげるなら、佐世保のエンタープライズ阻止闘争(1968年)は、現地でも多くの市民が自発的に合流参加した大闘争でしたが、都内の女子高校生の数人が居ても立っても居られない思いから、クラスでカンパを募って、片道分だけの汽車賃で佐世保に駆け付けたというエピソードがあります。佐世保の集会場で司会がそのことを報告すると、一人がヘルメットを脱いでカンパを募り、会場を一周するうちにヘルメットに溢れかえるカンパが集まり、余裕で帰りの汽車賃が集まったそうです。
また、三里塚(成田闘争)では、農民の反対運動が報道されると、どこの党派にも属さない10代の学生や若者たちが、大きなリュックサックを担いでアポなしで農家を訪問し、農作業を手伝わせてくださいと頼みこむ姿が毎日のように見られたとか。運動の実際を自分の目で確かめたいという趣旨でした。中には闘争に敵対していた共産党系の女子学生が、学内で闘争を支援している学生から罵倒されたのに腹をたてて、逆に確かめてやるとやってきた末に、運動に感動してやがて農家の若者と結婚してしまったという実話もありました。
まあ、今は良くも悪くもそういう「困った」高校生や学生はいませんよね。ネットでちゃらっと検索して終わりですよね。それも「教育改革」の成果なんでしょうけどねえ。そういう時代に若者だった人たちが必死で作ってきた日本を「世界に誇り」ながら、徐々にバイタリティが失われていったのが今の日本の姿でしょう。
あと最後に雨の中で、二人の父親に対峙する鈴が本当にカッコよくて!
「本当に来てくれたんだ…」と半ば茫然とする二人をただ抱きしめて、やってきた父親に対しても抵抗はしない。わざとではないですが、父親に顔を傷つけられてもただ「非暴力不服従」。最後にカッとして拳をふりあげて脅す父親の目をただじっとみて両手を広げる。
しびれた。「戦車闘争」とか三里塚闘争を思い出してしまった。あるいはガンジーか。父親が去った後で、再度抱き合う3人。鈴のそんな行動を見て目を見開いて驚き、心を開き、「僕も立ち向かわなきゃいけないって思った。だから、闘うよ」という恵の姿は、ちょうどネット世界での竜とベルの姿。それがリアルでも実現させた美しいシーンです。
ここも違和感ある方がおられるんですね。まず、ここは鈴に振り向きざま一発殴ってほしかったというもの。ありがちな展開かもしれませんが、やっぱりそれまでの行動からみたら台無しだと思うんですよね。私はね。
次に、なんであれで父親が腰抜かして逃げるんだという。これは私は二つほど解釈してます。まず本当に「解釈」になってしまって嫌なんですが、ジャスティンの正体が父親だった、またはジャスティンメンバーの一人だったというもの。鈴はアンベイルさせた素顔で、歌だけで、ジャスティンを圧倒してしまいました。拳を振り上げて顔をみたら!あああああああ、あいつだぁ!という解釈。
二つ目は普通に圧倒した。実は父親が直接に暴力をふるう(殴る)描写ってないんですよね。モラハラを中心に暴力的に脅しつける虐待。今までは子供はそれだけでひれ伏し、自分の思う通りに言うことをきかせて世間体を保ってきたわけですが、実はちっぽけな小心者であるという。
1978年の管制塔占拠闘争で戦旗派の水野さんは、仲間を先に進めるために廊下で一人残って機動隊一名と対峙しました。相手は拳銃を構えて「おとなしくしろ、手をあげろ」という。顔はこれで言うことをきくだろうと勝ち誇っていたそうです。そこで水野さんは映画の鈴みたいに両手を広げて拳銃の前に立ちはだかって「撃てるもんなら撃ってみろ!お前たちには大義がない!」と一喝しました。こっちは本当に打たれてもいいと思っているので堂々としています。すると機動隊員は急に真っ青になって、手がガタガタと震えだしたそうです。
こういう話を知っていますので、映画の描写にもさほど違和感はなかったです。殴るぞと脅せば言いなりになると思っている、殴って逮捕されるような度胸もない、そんな相手なら静かに決意をもって闘えば対峙はできるものです。大義はこちらにあるのですから。
そして何よりも、当事者である恵が「これからは闘う」という決意を本当に固めた。だって「もうひとりじゃない」から。経験上、この二つは本当に大切です。当事者がちゃんと自尊心をもって抗うことがなければ、なかなか周囲も助けられないものです(天は自ら助くる者を助く)。「哀れな私は何もしたくないですが助けてください」という人をサポートするのは本当に難しい。殴って痣だらけとかなら別ですが、劇中の描写を見るに今までは「虐待」とするには微妙な事例だったんでしょう。でももうこれからは良い方向にいくことが強く示唆されたと思いました。
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また「監督はネットに悪意を持っている」という解釈を、少なからぬ不満と共に表明する人も多かったです。あるがままのネットの現状を悪いものみたいに言われることに抵抗があるみたい。でも現在の誹謗中傷、ヘイトスピーチ、フェイクニュースの氾濫などの状況は否定しがたいでしょう。私は別にことさら「ネットを」悪く描いているとは感じませんでした。ネット上の心無い人の存在なんて、一般の人はすでに所与のものとして認識しています。それを描いたにすぎません。
でも実際のストーリーでのネットの扱いは、こういう「ネット民」の評価とは全く逆なんです。繰り返しますと、主人公の鈴はネット上のAs(アズ=アバター)であるベルを通じトラウマで失っていた「歌声」を取り戻し、同じような心の傷を抱えているように見えた竜(ビースト)と出会い、やがては自分を取り戻し、世界中の人々とつながる奇跡を生み、現実の世界でも殻を破って新しい自分を再構築し、恵と拓の心を救って現実に立ち向かう勇気を与える。そんな物語です。つまりネット賛歌でもあるわけです。ネットへの向き合い方としてこちらのほうが健全でしょう。
実際、監督は映画パンフの中で、「子供たちにとってネットは自由を得られるものであってほしい」ネットが良い悪いという二元論でなく「目の前の世界を肯定的にとらえてほしい」 「みんなの気持ちを解放してあげる役割を果たしたい」としています。
私は以前からネットはどんなに革新的であろうと究極には「便利な道具」であって、「現実の一部」にすぎないし、そこに過剰な意味付与は無用と言ってきました。つまりそこにあるのは一人一人の人間であって「自分」なのだというメッセージだと思います。ヘイトみたいに嫌な人間性もさらけだされてしまうけど、そんな人ばかりじゃないよ、自由になろうよと。
かつて宮崎駿は「千と千尋の神隠し」に込めた子供たちへのメッセージとして「大丈夫、きみも ちゃんとやれるよ」ということを伝えたかったと語っていました。本作のメッセージもそれと全く同じものだと思います。
考えてみれば千尋の両親って、本当は鈴の両親にくらべてはるかに「無責任」ですよね(笑)。千尋が止めるのも聞かずに異世界の料理を無断で食べて、千尋を窮地に立たせたあげく、子供たちの背中を押すどころか、子供たちの奮闘に助けられるわけですから。現実なら考えられないのですが、宮崎駿は最後までファンタジーなので、そのへんあまり目立たない。対して細田守は特に家族の描写がリアルなので、ファンタジーであることを忘れた感情移入の仕方をしてしまう面があるのでしょう。
今作の映画パンフの中でも氷川竜介氏は「みんなの背中を押す映画」と評しています。私もそう思いました。それが成功しているかどうかは別にして、素直に観れば作品のテーマとしてそちらの感想のほうが自然と思います。私も子供たちへのメッセージとして同じことを伝えたいと思います。
本作のネット空間での描写は「美女と野獣」をモチーフにしています。竜は作品内での英語表記が「Beast」ですし、ベルは文字通りBelle ですしね。それをもってして、なんか「パクリ」と評している方もいて、おそらくディズニーを念頭に置いているのだろうと思いましたが、「美女と野獣」は18世紀フランス発祥の物語で、それをモチーフにしていくつもの翻案が繰り返されています。別にパクリではありません。
ただ、私でも、ベルのキャラデザインやライブ以外での普段着(?)、それに何より顔アップの時の表情の変化がすごくディズニーっぽいと思いました。そしたらなんと仮想世界のアニメーターに「塔の上のラプンツェル」や「アナと雪の女王」などを手がけたジン・キムさんを起用しているのだとか。似ているのではなくて本物だったのですね。力強くて優しげなのに、どこか影があって寂しさを抱えたようにもみえる、ちょっと八の字眉毛なベルのデザインは、キャラと物語の設定にあっていてお気に入りです。
キャラ以外の仮想世界の背景描写はイギリスの建築家であるエリック・ウォンさんが担当し、服装はデザイナーの伊賀大介さん、森永邦彦さん、フラワークリエイターの篠崎恵美さんらによって、仮想世界「U」のパートが作られています。
高知の自然豊かな高校生活を描いた日本的なアニメの描写と仮想世界の対比が絵柄でもなされていていい感じです。最近のディズニーは3Dアニメばかりですから、こういうのもいいですね。
上に書いたような「シナリオ不自然派」の方々(私は別にそうは思わないんだけど)によれば、舞台を高知ではなく、東京の渋谷とかにすれば不自然ではなかったし、それでもストーリー上は全く支障ないとか書いておられる方もおられました。
「まじか~」と思いました。別に高知でなくてもいいけど、東京近郊ではダメだと思うし、すくなくとも都会では絶対にダメだと思いますけどねー。私は「すずが一人で夜行に飛び乗り、みんなでその背中を押す」という展開が大切と思いますし、すずとその高校生活のバックボーンとして、自然豊かで人間関係が都会よりも濃密なところじゃないと成立しずらいと思います。
>>細田守インタビュー Vol.3 なぜ舞台は高知県だったのか(Switch online)
>>『竜とそばかすの姫』物語の舞台となった高知(キネマ旬報 web)
こいつは私の目指す良い男の典型ですw
主人公すずの幼馴染です。6歳の時に母をなくした鈴に近寄り、うずくまる顔をのぞきこんで「俺が守るから」と言います。鈴は子供心に「プロポーズだ」と思ったのですが、大きくなってから、いくらなんでもそれはないよね、子供の頃の話だと思いながら、でも淡い恋心は抱き続けています。
鈴はクラスでも孤立しがちな引っ込み思案なのに対して、成長した忍くんは背が高くスポーツ万能で女子人気も高く、そのこともあって両者は疎遠なのですが、鈴が困ってそうな時は「なんかあるだろ?」と他人の目も気にせずぶっきらぼうに声をかけて、鈴を焦らせます。
実は6歳の「俺が守る」は正しくプロポーズで、それからずっと17歳になった今も遠くから見守っている。でも余計なことはしない、言わない。わたし的にはそこがカッコいい!
弘香が「(鈴は)素顔でなんて歌える子じゃない!」と止めた時も、当然のにように「歌えるよ」と音源のスイッチを入れ、「すず、歌って」と背中を押します。東京から帰ってくる鈴を駅で迎え、並んで歩きながら、「これからはもう見守らない」みたいなセリフを言います。すずへの最高の誉め言葉じゃん!と思いました
6歳の「守る」ではじまり、17歳の「守らない」で終わる。これ、どっちも意味はプロポーズじゃないですか!いいなあ、これを聞いた鈴が、合唱団5人組から「歌え!」と言われ、リアルでは歌えなかったはずの鈴が大声で歌いだそうとするところでエンディングです。
これさあ、なまじな関係だと「言ってくれなきゃわかんないよ!」みたいな話になるんだよな。二人のキャラのせいもあるんでしょうが、なんか最高だなと思いました。てへっw
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更新お疲れ様です。久しぶりに草加さんのアニメのレビューを見られた気がします。
「竜とそばかすの姫」は見ていないので評価できる立場ではないのですが、ここまで深く掘り下げたレビューはやはり感服いたします。
最近あまり頭を使ってアニメを観ることができず、大したレビューが書けていないのが悩みではあります。今期だと「86」の2期とかが掘り下げ甲斐がありそうなのですが…
今夜はこれにて失礼いたします。