こんなことなら最初からノンセクトでいれば良かったかな?とも思う今日この頃なわけですが
投稿者:草加耕助@出勤直前で時間がない 投稿日:12月16日(木)16時34分52秒
鍋山先輩>
私も黒目さんの
>「言うだけ」やったらイラク人民と連帯し、朝鮮人民と連帯し、てナンボでも言え
>ますが、そんなんは自分の立場を「正しい立場」に置くためにだけ言うてるんとちゃ
>うんけ、と。
には「グサッツ!」ときました。酷だ酷だ酷すぎるー(T△T)
あーそうですよ、あたしゃネットでつぶやいているだけの中年男ですよ(開きなおり!)
そのことには自分でもすごくジレンマがあって悩んでおる最中なんです。
左翼をやめたかあるいは自分の党派がぶっ潰れたかして、活動を一時は離れながら、今は自分なりに歩んでいる「元党派活動家」の方も多くいます。そういう方に聞きますと、やはり私みたいに悩んだ時期があるそうで、アドバイスとしては「焦るな、飛ばすな、落ち着け、足元固めろ」みたいに言われるんですよねー。ああ、でもじれったい。何とかしたい!!
黒目さん>
>反スタやスタ克や社会帝国主義規定やら、そういう事を言ってきた潮流の人々が、
>ソ連崩壊によってダメージ受けてるという事実に、私たちは驚いた。
うん、私も凄い驚いたくちです。
私も「やっと潰れたか」みたいに思ったし、むしろ自分達の主張の正しさが証明されたと感じた。やっと自分達の出番だとさえ思った。甘かった。。。
私は「スタ克派」だったから、もっとソ連の崩壊を「自分達の問題」として内在的に考えることができる回路を持っている「はず」だったのにと思いますが、それがかえって反スタ派や、「ソ連の崩壊を歓迎します」の共産党らに対し、心のどこかで「理論的優越感」を持ってしまったのかなと思います。んで、「もう左翼は終わりだ」という文脈で串刺し的に批判されることに感情的に反発していたような。
って、駄目駄目!ここは2chの「想い出を語ろうスレ」ではないっちゅーに!
まあ、ともかく「二度目の喜劇」だけは演じたくないと思うわけです。
>正直言うと、「なんで俺がこんなおっさんどもに喧嘩売って
>まわらんとあかんねん」という気持ちはあります
事情はわかんないし、きっと喧嘩を売らないといけないような、やんごとなき必然があって売っておられるんだと思うのですが、かかわらなくてすむもんなら、わたし的にはかかわりたくない。「ほっとけ」と思います。
それこそ「福本イズム」ではないですが、喧嘩売らなくてもすむような人達が、早く潮流的にまとまるのが先かなと、漠然と思います。そういうものが見えてくれば、そこに参加したいと思っている私みたいな人は多いと思うのですが。。。今は何にも見えない。それが深刻かと。
革命的祖国敗北主義
投稿者:反『革命』久我山支部 投稿日:12月16日(木)22時05分49秒
私「ソ連なんてさ~、シベリア流刑とかやって、ナチスドイツと一緒じゃんか」
(注:当時の私はクロンシュタットなんぞ、知るよしも無し)
某トロツキスト氏:何を言っているんだ。何だかんだ言ってもソ連は労働者国家なんだ。打倒すべきはソ連国家ではなく、官僚制だ。
私:自由のない、投獄のある社会主義なんてゴメンだね。
某トロツキスト:君はそもそも勉強不足なんだ。レーニンは革命的祖国敗北主義を掲げ。。(以下略)
私:それがどったの?いったい。ソ連なんて関係ねぇよ。日本が戦争に荷担せず、原発をやめ、三里塚空港を廃港にし、石川さんを奪還し、大学当局の横暴をやめさせればいいんじゃないの?難しいことはワカンナイけど。
某トロツキスト:君は大体。。(以下略)
☆「大韓航空機爆破」の頃の話です。考えてみると、私はあの頃からあんまり変わっていない気もする(苦笑)。
つーか私自身、
投稿者:黒目 投稿日:12月16日(木)22時53分19秒
いろいろ投げ出して逃げた人間なんですけどね(W
なんかね、左翼って居心地悪いんですよ(W
ああ、そうですね。
投稿者:草加耕助@懐かしの80年代左翼 投稿日:12月17日(金)07時16分28秒
居心地悪いですね。確かに。
それで「投げ出して逃げた」私としては、その居心地悪いところに理屈じゃなくて一種の倫理観から踏みとどまっている人には、なんとなく申し訳無いというか、もう自分が左翼だと「僭称」するのは片腹痛いことやなあと思ってしまう。
左翼というのは私にとっては「生き方」ですから。ミュージシャンにとっての「ロック」と同じ。菊地桃子がラ・ムーで「私、今日からロックです!」と叫んで失笑を買ったように、マルクス読んで反戦を口先で語れば左翼でもなかろうと。逆にマルクスなんて読んだけどわからんという「労働者活動家」の中にも、左翼の鑑みたいな人は多くいるやろと。
そのへん黒目さんと逆の認識にいったのかなあ。どっちにせよ「自衛隊合憲」なんて言う人は、なんぼ左翼的言辞を弄そうとも、生き方として左翼とは認めがたいです。
なんか話が変な方向に。。(笑
誰か元に戻してくださいな。
追記:久我山支部さんの問答は、私がトロツキストに抱いていた違和感をよく示してくれてます。なんというか「悩み」とか「泥臭さ」がないちゅうか、いつも「正しい答え」が返ってくるんやけど、なんか「すっきり」しすぎてるんですよね。お友達としてはすごくいい人ばかりだけど、自分がその中に入るかとなると、なんかちょっと違うと感じていました。
カッチョイー!カッチョイー! カッチョ、イー!!!
投稿者:ふむふむ@3分間待ってる最中 投稿日:12月17日(金)11時47分37秒
『左翼というのは私にとっては「生き方」ですからね。ミュージシャンにとっての「ロック」と同じよ。』
だから死ぬまで止められ~ん、のね。私。
Re:いつも「正しい答え」が返ってくる
投稿者:まっぴょん 投稿日:12月17日(金)17時47分50秒
わははは(^◇^)。。。
70年代当時、まだ小さかった組織が徐々に拡大し、政治的影響力を及ぼし始めた頃、どこかに結集した時、指導部の誰かが「いい事を言う四トロからいい事をする四トロになろう」と言ったのを覚えてますね。その当時「我が派がいっちゃん正しい!」という自負(まぁ、どの党派にも同じような自負はあったと思うけど)はあったと思います。
だけどなぁ・・・・。三里塚で最も信頼されていた現闘活動家の女性差別行為、そこから発覚していった指導部の官僚的引き回し的態度は、実は四トロ組織(少なくともその指導部)が欺瞞であった事を証明していったわけです。「何が正しいか」を考える時には「理論は理論」として正しいかどうか考える事と、「その理論を体現している組織」を「正しい」かどうか考える事とは区別しておく必要がある、というのは僕にとって強烈な教訓になりましたね。
上の発言は
投稿者:反『革命』久我山支部 投稿日:12月19日(日)14時06分4秒
確か「まるでアウシュッビッツかシベリアのようだ」という発言だったか、あるいはビラの文言だったか何かを記した「我々大衆」に対する、トロツキスト氏の発言(統制?)だったと思います。
ヒトラーもスターリンもどこが違うねん、というと、「ヤハリ違う」というんですな。
そのトロツキスト氏が「官僚」だったかどうかは知りませんが、大衆運動『担当』で酒とかも飲んでた仲でしたから、そんなに遠い場所にいる人でもなかったんですけど。
というか、労働者国家防衛論につながる全党派(もちろん、共産党も協会派も)は、やはりアウシュビッツとシベリアを並列に掲げる書き方には、介入してきたんだろうな~。
「キューバ防衛」をタテにしてソ連を正当化する話もあったな。これは協会派だったっけ。
反スタ派はどうだったんだろう?あんまり興味ないけど。
僕らにとって「労働者国家のソ連」などクソでしかなかったけど、内ゲバで派手に殺し合いやってるのが反スタ派だったから、殺さないだけ労働者国家防衛派の方がつき合うにはマシか、という話であったでしょうか。
ま~、よく考えてみると、何というおはなしなんでしょうか(苦笑)。
あえて「トロツキスト」的「正しいこたえ」
投稿者:まっぴょん 投稿日:12月22日(水)14時29分41秒
ぼくはそれでもなお、その当時の「正しい答え」については若干の修正(例えば中ソの核兵器保有を防衛した事実は間違いだった)はあるとしてもこだわりたいと思います。
トロツキーが最後にはスターリニストの手先に暗殺されるまでスターリン主義と闘い続けて守ろうとしたのは「スターリン防衛」とは何の関係もない。その区別ははっきりさせておくべきです。例えば「社共に投票せよ」と言ったからといって、社共に期待しているわけではないし「イラク戦争反対」と言ったからといってフセインを防衛しているわけでもない。「経済制裁反対」はキムジョンイルの味方である事を意味しない。同じ意味で、「ソ連邦防衛」スローガンはスターリンの犯罪を一切免罪するものではありません。
「スターリンとヒットラーとどちらが残酷か」などという比較によってソ連を防衛しようとするのはトロツキストがとるべき態度とは言えない。その反対に「スターリンもヒットラーも同じ」だからと言ってソ連防衛スローガンを否定するのにも反対。
ベトナム戦争当時、極めて日和見的な形ではあれ中ソはベトナムへ経済的・軍事的支援を送っていました。日本共産党は非常に精力的に物資の支援を組織していました。資本主義諸国の中では最大の支援でした。当時の我々は弱体ながら共産党と支援を競っていました。また支援のために共産党系の学生達と共闘もした。そのベトナム人民の闘いはアメリカ帝国主義を追いつめていった。帝国主義と闘う手段として「スターリニスト」ベトナムを支援したからといって、帝国主義者が弱体化したらスターリニストが強化されただろうか? ぼくは当時の段階での「労働者国家防衛」スローガンは正しかったと思っています。
カテキズム的・教条的
投稿者:黒目 投稿日:12月22日(水)18時46分35秒
別にこれは第4インターやあるいはトロツキズムに限った話ではなく、非常に広範に見られた様式であるわけですが、
まあ大体において、「これこれの問題についてこういう態度をとった」とか「なんとか闘争でこれこれの動きをした」とか、そおゆう態度や行動によって、その集団の党派性なりポジションなりというものが、運動全体の中に位置付いてくる、と、大衆運動で動いている立場のものからは見えているわけです。しかし、それぞれの集団において、その行動や態度を決定する要因は、それぞれの集団において異なる。
で、第4インターの場合は、「トロツキズムの立場」というものが設定され、「トロツキズムの立場からしてどのようにするのが正しいのか?」という問いの立てられ方がするわけです。その結果、採択された方針が、端から見て(あるいは後から見て)正しかったり間違っていたりするわけですが、しかし、第4インター派の行動や態度が「正しい」という事は、トロツキズムという体系が「正しい」事を別に指し示しているわけではない。
で、なにが問題になってくるか、ちゅーと、こういうあり方って、どこまでいっても究極的には「トロツキズムの立場に整合するかどうか」という総括しかなされ得ないのではないのか?
もちろん、トロツキーの部分は、諸党派の党派性に応じて、マルクスなりレーニンなり毛沢東なりグラムシなり広松なりに入れ替えれば、いちいち各々の当て嵌まる党派のあり方が発見できるわけであって、第4インター派に特徴的に見られる問題でもなんでもないんですが。
思想と行動
投稿者:まっぴょん 投稿日:12月22日(水)21時04分34秒
なんか、論旨がずれてきたみたいですが、取りあえず。
「○○主義の立場からは××のように行動するのが正しい」というためには、その前にある程度の経験的蓄積があって、それをもとにした「○○的行動様式」というものが確立され(=○○主義的戦略とか○○主義的戦術)、現在的問題の解明ならびに解決方法を、そうした行動様式を基準にして提示する、という事が必要なわけです。トロツキズムでは「永続革命論」とか「統一戦線戦術」がこれにあたるかな? こうした「様式の確立」は全ての「○○主義」思想に共通するものと言えるでしょう。
共産主義者にとって「マルクス主義」はまずそれにあたるわけで、マルクスの経験とそこから導き出された革命の概念は今でも多くの「共産主義者」(自称・他称)にとって「バイブル」であり続けるわけです。しかし、それはどう扱われるべきなのか?「マルクスの言葉」を聖書の「××の福音書第○節」みたいに教条的に当てはめるだけではその思想は生きては来ない。「マルクス主義」とは方法論である事を踏まえて考えなければ、社会の発展にしたがって人類が出会ってきた様々な事象に対してマルクス主義者は柔軟な対応はできないでしょう。事実、柔軟に対応できない××主義者は多くいた。トロツキストも含めて。
過去の社会的経験をどのように総括するのか。トロツキズムや様々な思想は歴史的事件に能動的に介入し実践した経験の中から生まれてきましたが、その中の「どれが正しいか」の最終的な選択は、現在的課題に照らして最も有効な効力を保持している(と思われる)思想の中から選択されていくでしょう。それぞれの思想がその候補として残り続けるためには、その思想の担い手は最低限、その行動様式の連続的で弁証法的な運用を保持していなければならない。そのために未来へ向けての「方針」の提示とともに、過去に提示してきた「方針」が正しかったのか、あるいはどう間違っていたのかといった総括をしていかなければならない。より正しい方針を提示するためにも、過去の戦略・戦術についての総括は重要です。また、その総括と方針とはその思想(とその運動)を外部から計る手がかりとなる。
「労働者国家防衛」論は、スターリンによってソ連が決定的に変貌した(1930年代)時代、トロツキーによって提示された論であるわけですが、それが生み出された背景には「ソ連スターリニスト国家打倒」論(反スタ主義)の登場が指摘されます。「ソ連の打倒」か「「ソ連防衛・官僚打倒」か。当時の(スターリンに屈服しない)共産主義者はこの両者の立場に分裂していった。したがってトロツキストにとっては、91年に崩壊するまでの間生き続けたソ連についてどう総括するのかの問題は、言い換えれば、世界革命戦略の観点に立って、ソ連を「どの時点まで防衛するべきだったか」という総括であったとも言いうるわけで、その総括内容は今後の展望にも関わるものじゃないかと思うわけです。
つーかさ、そおゆう総括をしてるのは、まっぺんさんだからなんであってさ(w
投稿者:黒目 投稿日:12月22日(水)22時47分13秒
少なくとも新時代社の人はそういう発想していませんよ(苦笑
で、
>その中の「どれが正しいか」の最終的な選択は、現在的課題に照らして最も有効な
>効力を保持している(と思われる)思想の中から選択されていくでしょう。
社会的にはそうなんですが、実際の運動現場においては、トロツキズムを信仰する人は墓に入るまでトロツキズムだし、毛沢東を信仰する人は(以下繰り返し)なわけであって、多数の党派が存在しているという状況は、「思想の選択」を意味していないのです。単にタコツボがたくさんあるだけであって。
で、カテキズム問題ですが、その「自己の思想の体系」というもんがあって、その体系から見て、物事を判断するという、これは構造というか、ほとんど身体的な問題のように思うんですが。
なんでこんな話してるかといいますと。
この間の「キチガイ集団」話以降、2ちゃんの戦旗すれを興味深く読んだんですが(W、で、戦旗共産同の転向問題というのについてちょっと考えているのであります。
パラチェン以前の戦旗共産同は、まさに「レーニン主義」という教義をうち立てて、レーニン主義的立場から見て、正しいか、間違っているか、という論法を組んできたところだったと記憶していますが、そこが「マルクス主義は間違っていた」という方向へと転回を遂げる。あの転回は私にとっては非常に謎だったんですが、これは、「別の教義の体系へと乗り換える」という事である、という説明が可能なんじゃないかと思ったわけです。
ソ連崩壊以降、様々な党派や集団が路線変更したわけですが、基本的にはマルクス主義の体系の「見直し」という形で路線変更は起こった。マルクス主義を対称化するとか、そのなかで使えるものを拾い出すとか、そういう作業であった。「階級闘争史観というものがそもそも間違いだった」てな事を言い出すところはあんま無かったわけです。
で、戦旗共産同におこった事態は、「改宗」であった。
さらに言えば、殴られた佐藤君の思想的転回って、まさに「改宗」的なわけであります。別の教義の体系への乗り移りを行ったわけです。
で、終焉したのは「○○主義」ではなく、こういったカテキズムの体系なのではないのか、という事、教義を打ち固めていくような形の運動が、決定的に終わったんだ、という事を言っていかなければならないのではないか、と。
この2,3日、考えているわけです(W
もちろん「党派」批判にしてはいかんわけです
投稿者:草加耕助@懐かしの80年代左翼 投稿日:12月24日(金)05時25分22秒
>もちろん、これはセクトに限った話ではない事は前提ですが。
↑これは強調したいです。私の現役時代に活動していた地域はやたらノンセクトが強くてね。ノンセクトも50人とか100人とかの集団になってくると、セクトとそんなに変わらない。つーかセクトよりもたちが悪い。
活動をはじめる前の私のノンセクトに対するイメージは「内部にいろんな考えの人がいて、各自が(上からの指令でなく)自由な立場で行動している緩やかな連合体」だった。もちろんそういうノンセクト団体もあったし、彼らとは思想や行動を離れても通用するような友情も芽生えた。
でも、上記のような「一枚岩で大集団のノンセクト」達は(詳細や個別名の開示は遠慮させてもらいたいが)はっきしいって「!?」な人たちだった。
「カテキズム解体」も「反内ゲバ主義」もいいんですが、それを「党派VSノンセクト(あるいは大衆)」という文脈で語るのではいかん!と思うわけです。これはそんなわかりやすい、底の浅いもんではないよと。
なんというか、「普通の会話」が成立するノンセクト団体というのは、実態が個人だったり、あるいは学内では右翼や共産党に苛めぬかれて悲哀を味わっている少数派の人、つまり権力を持たない、ある意味で虐げられた人達ばかりだったわけです。
ところがアクティブな活動家が50人クラスで、自治会などの地域権力を持っているノンセクトとは、ほとんど会話が成立しない。党派の立場からの色眼鏡もあるんでしょうが、彼らの言動には、黒目さんの「カテキズム批判」や、まっぺんさんの「内ゲバ主義批判」がどんぴしゃ当てはまるものも多かったと思う。
だからこそね、私はこの界隈の問題についてはすご~く深刻に捉えているわけです。
「党派」だとか「レーニン主義」だとか、いろいろな論者が原因としてあげるものがこの世からなくなれば、カテキズムなり、それをストレートに他者に強制していく内ゲバ主義なんてもんもなくなるのかと言えば、非常に悲観的に考えざるを得ない。
そうゆう団体なり運動を個別的に解体しても、モグラ叩きかイタチごっこか知りませんが、やはりしかたない。問題の解決にはならないのかなあと思うわけです。
なんで「権力」を持つとこうなるのか?左翼的思想に問題があるのか?それとも所詮ホモサピエンスとは、大は「国家」から小は「セクト」まで、何らかの共同体という「群れ」と「縄張り」を形成して他の群れと争う習性をもった「進化した猿」にすぎないのか・・・。
2CHの戦旗スレでも書いたことですが、インターの「わかりやすくて正しい方針」の一つである「反内ゲバ主義」に対しての一番の不満は「じゃあ、あんたらが将来スターリン主義や内ゲバ主義にならない保障はどこにあんのよ」ということです。
ノンセクトでさえ「守るべき利害」の前では内ゲバ主義化する。ましてやインターはれっきとした全国組織。「そうなりません」とか「気をつけます」では信用できない。
自分達の「外」に「内ゲバ主義者」という悪者を設定して、それを非難するのも必要でしょうが、運動や左翼の内部問題として、自分達の問題として、このことについて悩んでいないんじゃないかということがあります。
>自分のところだけが唯一正しくて、それは自分の信仰の体系の正しさによるものだ、みたいな
でもねー、80年代初頭の政治集会での基調報告だったと思うんだけど、「我々は多くの過ちも犯してきた」まではいいとして「現在の方針も過ちかもしれないが」とか「これからも多くの過ちを犯すかもしれない」とか言い出しちゃって。。。
空気入らないんだよね(笑
「間違っているかもしれませんが、イラク戦争に反対しています」とか?(爆)
旧戦旗派で活動をはじめる前に言われたことの一つに、「『正しさ』とは相対的にしか存在し得ない」というのがあってね。まあ当たり前でもあるんだけど、「左翼のくせに」そんなことを言うところが気に入ったわけです。上のインターへの不満でもお察しの通り、だから私の党派への結集軸は「スタ克」だったわけです。
こういうマルクスやレーニンも含めて「正しさ」を相対的にみる発想が、パラチェンをスムーズになさしめたことの遠因の一つかなと思います。
いやだから
投稿者:久我山無政府道場(笑) 投稿日:12月24日(金)10時15分55秒
>なんで「権力」を持つとこうなるのか?
人間も組織も何でもそうなんだってば。
。。と、『アナキスト』らしくたまには言ってみたりする(笑)。
なので、突然「経営学」(経営組織論)が登場したりするわけです(ひたすら概出)。
完全無欠で誤謬なき人間、という見方でいえば、新古典派経済学のいうホモ・エコノミクスも、古典的サヨク(新旧問わず)の人間観もカワランのかと。
要はそういう「決定論的」な見方自体からの離脱なのかと。実態からの出発というのはそういうものなのかと。
>アクティブな活動家が50人クラス
↑まさに「こういう輩」に苦悩した経験のアル私としては、そんな感じですかね~。
七人の侍+実行委員会組織論
投稿者:久我山無政府道場(笑) 投稿日:12月24日(金)12時47分35秒
人は目的を以て集まり組織を形成するが、目的を達成した段階で解散し、また別の目的が出てきた段階で別な組織をつくっていく。限りなき離合集散。そして組織単位は、常に大きくしない(スモールイズビューティフル?)
個人も組織も放っておけば必ず腐敗し官僚化する。「民主的」にチェックするったって限界がある。官僚化を防ぐ対策の極北ともいうべきか。
要するに、農民を解放した七人の侍は、「農民解放実行委員会」を恒常化することなく、ましてやそこの官僚(「専従」とか:笑)になることなく、さっさと「後はあんたらで勝手にやってね」と去っていく。これですな。
すべからくいうと、「全ての法人組織・政党・党派等々は、実行委員会に改装せよ!」(実行委員会という名のノンセクトセクトがどっかにあった、とかいう突っ込みはこの際やめといてください(苦笑)
とはいえ、実際、そんなことばかりやってられるわけもないから、どうしましょうか、なるべく、ネットワーク型の組織にでもしちまうか、とかいう話なんでしょうけども。
しかし、それでテイコクシュギとどうやって闘うのか、キューバをどう防衛するんだ!という突っ込みも大いに出てきそうですな~。ぐるぐる。
イマイチ、論点の軸をうまく提示できないのですが
投稿者:黒目 投稿日:12月25日(土)23時30分34秒
話の根もとはとゆいますと、最近考えている事なのですが、ひとつには、現在の日本の支配の様式をどのように考えるのかとゆー事、つまり「日本型ファシズムリターンズ」はどういうもんとして行われれようとしているのか、とゆー事をちゃんと言語化していかなければなるまいと思っているのです。
キーワード的な事を考えているのですが、ひとつはスターリン主義型支配との類似。もうひとつは丸山真男なんですよね(w
で、そのスターリン主義型支配との類似のところなのですが、おれらなんかは、そおゆうのんを既に経験したりしているわけで。学校やなんかのセクトの支配であるとか、あるいはもっと薄い形でのサヨ業界政治とかやなんかでさ。
んで、もうひとつの、俺がここでしようとしていた話なんですが、このなんとゆーかさ、サヨ業界の薄気味の悪いぬらぬらした、これはなに?というのを、ちゃんと言語化したいなあ、と。
確かに、「セクトヴギ」の昔から、こういうのって「セクト問題」に切り縮められてきたというところはありますね。それがもう一つの袋小路をつくってしまったのではないか、というのは、確かにそのとおりかもしれません。
姿なき司祭
投稿者:黒目 投稿日:12月26日(日)00時28分48秒
すげー印象での話とゆーか、人の論点の切り張り的な話なんですが、
例えば、現在の日本では、自衛隊の派兵に反対しちゃいけません、という法律はないわけです。三権分立のナニにより、そんなアホな法律を国会は立法できないし、裁判所はそれが有罪だと判決を下せない。しかし行政である警察は戦争に反対する奴を逮捕し、裁こうとするわけですな。
それとものすごく同様に、たとえば「知っている状況」で言えば、某大学には「○○派のやる事に反対してはいけません」という規定など、どこをどうさがしても無く、かつ、それを行うと死んじゃう、というような状況があったりした。そこでは「法の改定」は行われておらず、かつ、支配者は自らの意図を貫徹する事ができる。
そういうのって、スターリン主義的な問題なのか、あるいは「日本的問題」なのか?
例えば丸山真男なんてひとは、東京裁判の証言なんかがある中で、
「然るに我が国の場合はこれだけの大戦争を起こしながら、我こそが戦争を起こしたという意識が、これまでのところどこにも見あたらないのである。何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの事態は何を意味するか。」
というような事を書いています。
その辺の話をちゃんとしやなあかんかなあというアレなんですけどね。
別に、新しいファシズムの新方式が発明されたわけでもなんでもなく、古いもんがまた引っ張り出されてきているだけなんだから、こっちも古いもんをひっくりかえしてみる価値はあるんじゃないかしらん、と。
ていうか、なんでエヴァゲリオン世代が頭脳警察知ってるねん(w
追記
つーか、サヨクの世間の狭さっちゅーか(w、なんかおれらの「世間」というとサヨクの世間やったりするんですが(w、というか仕事とか近所づきあいとかそおゆうのんはそもそも日本的にぬらぬらして気色悪いもんだという前提でおるからかもしれませんが、なんかサヨ的な世間も、実に日本的でぬらぬらして、まわりがどんな事を言っているか顔色をみて、敬語を使い分けたりして(w、そおいう状況が支配しているのって、心の底から不愉快なんですよね(W
つーか、それが我が国のサヨクがまともに反撃を組めない理由の根もとなのではないかと考える次第であります。
わはは
投稿者:黒目 投稿日:12月26日(日)00時59分34秒
http://www.falgitanos.com/の人が三上寛と最近一緒にやったとかで。
「斜めに動くダルマ」みたいな感じでものすごい事になっとったとかゆう噂話をこの間聞いたな
「なうなヤングに迎合」というかさー。なんかどこにも存在してない「ナウなヤング」の像を仮定して、その架空の「ナウなヤング」に、超主観主義的に迎合してみせる、てな感じがおぞましいんじゃないの?
世間の「ナウなヤング」って、もうちょっとフツーやで(w
せやし、世間にはぐれてサヨクになるタイプと、学級委員とかやっててその延長の良い子の道を究めた形態としてのサヨクになるタイプの2つに分かれるやん?その辺の問題が根元にあるような気がするのことよ。
いろいろ問題の核心の周辺をぐるぐるしているわけですが
投稿者:草加耕助@懐かしの80年代左翼 投稿日:12月27日(月)05時00分15秒
で、結局どうすりゃいいんだー!という。安易な結論を他人に求めてみる(テスト。
なんというか、わたし的には思考を進めれば進めるほど、今のSENKI派の「権力奪取を目指さない運動」とか「左翼以外の様々な思想の人達との対話」とかオルタナティブとしての「環境革命」とかに近くなっていってしまう。
ま、こういうのは「いろいろやってみる」中でしか答えは見えてこないのかなと思っているわけですが、いずれ「現場復帰」した時にSENKIと接触するんが、自分のスタンスが決まっていない今は気が重い。理屈部門でちゃんと反論できひんのが癪にさわるというか。Giyaさんみたく「理屈は良かったが現実は違った」なら、それはそれですっきりするんだが。。
空気乱した張本人は私ですヾ(^o^;)
投稿者:まっぴょん@乱鬼龍ファン 投稿日:12月27日(月)11時44分22秒
すんませんねー、黒目さん。
まぁ、管理人がツリー式掲示板を管理する余力と自信がないためでもありますが、
ときどき「茶々」が入るのも(程度の問題ではあるけれど)ご愛嬌という事でご勘弁。
●で、茶々の方から
三浦小太郎さん、あなたもカザルスふぁんでしたか~!同志よ!\(^o^)/
演奏技術とか純粋な音楽解釈の問題(いわゆる抽象的な「芸術性」というヤツ)で考えれば、ロストロポーヴィッチとかビルスマーとか昨今流行りのヨーヨーマとかいろいろいるわけですけど、やはり精神の深みを音楽を通して汲み取る事では、あの時代を背負ってきたカザルスに勝さる人はいません。彼の弾くバッハには打たれますね。それから、村治佳織さんってそんな人でしたか~!情報どうもありがとうございました。\(^o^)
●「正しい党」のおはなし
次に本論ですが。結局「口できれい事言ってても、いざ権力を握った時にほんとに大衆のためにちゃんとやれるんかい?」というのが、論点だろうと思います。「我が党がいっちゃん正しい」論を中心にシンパを増やし、党勢を拡大して運動発展させ、ゆくゆくは革命に持ち込もうという路線は、戦後の共産主義運動全体としてすでに破産した、と位置づけていいと思いますね。共産党の官僚主義的ひきまわしに比べれば「四トロの組織内民主主義は遙かにマシだぞ」という自負はありましたが、それでも左翼運動全体の中で見れば、同じ「党中心主義」路線を歩んでいたと思います。
ぼくは大衆運動発展のためには「党」は必要だと思っています。過去にも、その理由を書いてきたと思う。しかし、「今ある党派の中のどれかが発展して大衆的党派ができる」とは思っていません。識字率がほぼ100パーセントに近く情報も発達している現代日本の社会状況において100年前のロシアをモデルに「外部注入論」的に党組織を造るという組織論では、また官僚主義が生まれてくるだろう。大衆の党であるためには大衆運動の中から生まれてくる必要がある。したがって、例えばここに「党」というものがあったとして、それに対して大衆が疑念を持って近づけないのであれば、その「党」は大衆と共に進む党にはなれないわけです。大衆が自由に出入りし屈託なく批判し文句をいい、党の決定に対して外部から影響を与える事ができるのでなければ「党」として必要性を感じない。
というわけで四トロ系の人々には、まぁ「将来出来る党」を構成するカケラの一部になるように努力してくれれば・・・というのが一ファンの気持ちです。
つーか、ナニが核心であるのかという事をうまく取り出せないのですが(W
投稿者:黒目 投稿日:12月27日(月)22時25分19秒
草加さんの
>「我々は多くの過ちも犯してきた」まではいいとして「現在の方針も過ちかもしれないが」とか「これからも多くの過ちを犯すかもしれない」とか言い出しちゃって。。。
ってのはオモロイですね。
俺、いしいひさいちの安下宿共闘会議の
「我々は~なるべく闘うぞ!」「なるべく闘うぞ!」っていうの、大好きなんですが。
なんかさ、やっている事の「正しさ」を担保するものとして用意される「世界観」みてえなさ、そおゆうアホな構造を相対化したいなというアレなのです。
印象で語ってしまうのですが、党から指導がくるタイプの運動の人にとって、どこからも指導がこないで、勝手に動いているような運動ってのがブキミなもんに見えているんじゃないだろうか、という事を考えているんですが。
俺らに常に示される、異様な嫌悪感とかの正体を、ちと分析してみたいなという話なんですが。まあ、「空気問題」なんですが、その「空気」はなんに由来するもんなのであろうか、と
ひとつ考えていること
投稿者:伊達 純 投稿日:12月27日(月)23時26分38秒
黒目さんの言うところの「異様な嫌悪感」の原因として考えられるのが、左翼党派の人間(=前衛)は真理の所有者であり、「どこからも指導がこないで、勝手に動いている」(「自然発生的」「即自的」とも言う)人間たちは、真理の所有者である自分たち前衛から指導されるべきであると考えているんじゃないかなあということ。この間、広島で運動に関わっていて、それをつよく感じた。会議で、自分たちの思い通りにならない人間の言うことは、一応聞くけれども、「はい、聞きましたよ」と「アリバイ」的に聞くだけ。会議以外のところで、予め方向性が決められているような気がする。逆に、自分たちの思い通りにならない人間がイニシアティブを握ったりすると、排除さえしようとする。
私は、自分のことを左翼だと思っていたけれども、最近、左翼をやめたくなったのは、そういう訳。
う~む
投稿者:黒目 投稿日:12月27日(月)23時43分44秒
それはそれで「きれいな結論」なんだけど(w、チャンスの奴らとかの示す嫌悪感とかどーよ?というさ。
あの辺のんと党派連中のんとの間の、俺らみたいなんに対する嫌悪を共有することによって生まれる結託が、wpn問題なんじゃないか、てな事を考えてんです。
追記
あるいは「市民運動の」ね。
某高名な市民運動家が・・まあおよそとんでもねー事を言ってまわっていたのを俺は知っているんですが・・・・弾圧絡みで・・・まあ、時期がきたら書きますが。
ひとつ考えていること(補足)
投稿者:伊達 純 投稿日:12月28日(火)01時06分13秒
> それはそれで「きれいな結論」なんだけど(w、チャンスの奴ら
> とかの示す嫌悪感とかどーよ?というさ。
うん、だから、ああいった人たちも「官僚」であると黒目さん言っていなかったっけ? つまり同類だということ。
それから過剰に自分たちは「フツー」であると思っているから、そうではない人たちに対する差別意識があるのではないか、その差別意識という点で左翼党派の人たちと結託しているのではないか、と。
あるいは東一邦さんが書いておられたことだけれども、「原発を原子力発電所のこととは知らなかった」という人のことを「こういう『普通の主婦』が立ちあがることが、原発を止める」「市民運動のニューウェイブ」などと持ち上げる。そして、そういった人たちを「囲い込」んで、それを背景に、自分たちの思う通りにことを運ぼうとする。そういう場面も見ましたね。
『論座』3月号の小論と関連ある議論について(4)
「連帯とネットワーク」 東 一邦
さらには、「思い通りになる人間」ではないけれども、運動の中で、それなりに権威となっている人、実績のある人に対しては別の訳でね。
例えば、伊達 純という人間がいて、性格的に問題のあるヤツである、と。排除されるのも「ま、しゃーないやな」と自分でも思う訳。ところが私に対してだけではなくて、他の人に対してもやっているということになると、さすがにちょっとおかしいということになるじゃない。ひとりやふたりに対してだけじゃないんだよな。
それから攻撃の仕方が異常。ウソを言って、自分の責任を逃れ、他人に責任をなすりつけ、攻撃するということまでやっている。いちおう運動を一緒に担っているということで、外在的に論ずることは避けたいし、個人名や党派名は書かないけれども、かなり頭にきています。こんな連中の言うところの「平和」「民主主義」「革命」「共産主義」っていったい何なんだ、と。
私は、自分が無謬であるとは思わないけれども、自分たちが真理の所有者で、指導する側であると思っている連中の方が明らかに間違っていたりすると、何だかなあとは思いますね