by 味岡 修
「年たけてまた越すべしと思いきや命なりけり小夜の中山」。よく知られた、また僕の好きな西行の歌だが、今年はいつもと違った思いがする。身近な人から、よく知られて人が次々と亡くなったからだ。僕も脳梗塞で1カ月入院するはめになった。その病院に電話をよくくれた古くからの友人が2人もなくなった。
一人は高校時代から友人でジャーナリストだった。かつて1960年安保闘争時には共に闘った。それよりも高校時代に僕らはお互いの家に泊まり歩き深夜までいろいろと議論をしていた。僕はそのころ夢中だった太宰治について語り、彼は白樺派の作家について語った。僕らが彼等についてどれだけのことを知っていたのかはともかく、自我(意識)は沸騰し揺れていた、希望と不安のいじり混じったこころをぶつけあっていた。恋の仲立ちというか、ラブレターのわたし役などもやった。
最近は、彼は僕の出している『流砂』という雑誌に寄稿をしてくれていたのだが、次に予定していた号にも寄稿してくれるはずだった。電話で「俺たちの青春時代でも書くか」ということを話していた。回想する、僕らは過去のこと、あるいは過ぎしことども想起することの大事さを実感していて楽しみにしていた。今を、生きることが人の生なのかも知れないが、その今は累積された(記憶された過去)からなっているともいえる。今は回想や想起した過去で構成されてもいる。今という生にはその要素が強くある。歳を重ねることはこの重要さに気がつくことである。
友は僕の心の中に生きては行くだろうが、生で語り合うことで回想し合う事の愉みが出来なくなったのは辛い。コロナ禍の前は高校時代の友人の集まりを持っていて、あれこれ話をする楽しみを満喫していた。彼はその一人だったのだが、彼がいないのは残念である。友人の死に遭遇する度に、もう少し会っておけばよかったとか、話をしておけばよかったという悔いに似た思いがする。いつものことだが彼にはそんな思いがひとしである。
もう一人の友人は1960年安保闘争を現場で共に闘った。1960年の4月に僕は大学に入り、安保闘争に没入して行った。当時、入学したばかりの1年生はいつもデモの先頭にあった。当時は素手で警官隊と激突するのがデモだったが、そのデモの度にどこか怪我していた。それは小さな誇りだった。
学生服などを着てのデモだったが、そのデモの先頭にいた一年組の一人がその友人だった。あの6月15日に国家構内占拠の闘争では彼は捕まった。1960年安保の後しばらく共に活動もしていた。三年ほどである。彼は後に石井紘基(民主党議員でテロで殺された)と一緒に僕とは分かれて活動をするようになったが、後には労働運動の活動者となり、僕らは生涯の友だった。少し距離をとってはいたが、色々と気にかけてくれた得難い友だった。
かつてデモの先頭でいた一年組の多くは鬼籍に入っている面々も多いが、ほとんどが連絡など取れなくなっている、その中で彼は連絡を取り合ってきた一人だった。最近は小沢一郎裁判闘争を支援する運動を一緒にやった。このときの会の世話人は5人いたのだが、その中にテントの代表だった正清太一もいた。だから、テントの闘争も支援し、気をかけてくれていた。歯が欠けるようにというが、だんだんと友人のいなくなる寂しさを感じている。
かつて僕等が経産省前にテントを張っていたころに駆け付けてくれた瀬戸内寂聴さんが亡くなった。彼女のことは以前にも少し書いたが、僕は入院している時に偶然に彼女のベストセラーであった『夏の終わり』をあらためて読んだ。病院の売店で津島佑子の『狩りの時代』や俵万智の『若山牧水の恋』等と一緒に買った。
以前は単行本で読んだ気がするが、「性と自由」についてあれこれ考えた。僕も若いころ三角関係で苦しんだから、彼女のこの小説は痛みを持って甦るとことがあった。以前はなかなか読み進めなかった気がするが、今は割とすらすら読めた。これは彼女の出家とも関係していたのだと想像するが、その所を彼女はどう考えていたのか、あらためて思いめぐらした。
僕の好きな女性作家は大庭みな子だが彼女についてもこのことがついて回っていた。瀬戸内さんは闘いの場にはいつも駆け付け激励してくれた。ここには戦争体験があるのだろうが、男の作家等には見られないことで稀有なことだった。僕は瀬戸内さんのそうした行動に励まされてきた。瀬戸内さんは大往生なのだろうが、少しでも生きていて欲しかった。かつて母親について思っていた感情にどこか似ている。
経産省前では毎月「月例祈祷会、死者の裁き」というのがある。JKS47士と呼ばれる人たちが開いているものである。愉しく、かつ迫力のある集会で僕はいつも愉しく参加させてもらっている。身近な人、よく知られた人の訃報に接する度にあらためてこの集会のことを思う。死者の側に多くの人が移って行く度に彼らが僕のこころのうちに生きていることの確認だけではなく、かつて村上春樹が「死は生の対極にあるのではない」と言ったことを想起する。
死者とどうつながっているかは生きている人を豊かにするものであり、「死者の裁き」にはそれが含まれてあることを確認する。悲惨さ喜びの全部につながることが死者につながることであり、それが死者の声を聴くことに他ならない。僕らが現在や今という生を豊かにすることは死者という財産を取り込むことであり、簒奪し続ける人を糾弾するのはそのためである。
福島原発事故から十年、多くの人たちが死の側に移った。その声を僕らはちゃんと聞いているだろうか。彼らとつながっているだろうか。こんな自問を僕らは続けなければならない。原発事故などなかったかのように振る舞う連中は死者の存在を踏みにじるものたちだ。
総理大臣に就くと福島原発の事故の現場に出掛けるが、これは儀式に過ぎない。本当に死者の声など聞こうとはしていない。聞く気があれば「汚染水を海にながす」なんてことはしないだろう。脱原発闘争が細くなって行くことを防ぐ道は死者の声を聞くことにもあるだろうと思う。
※中見出しは「旗旗」でつけたものです