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懐古的資料

連載】戦旗・共産同写真集/1977年-岩山大鉄塔撤去阻止、東山薫さん虐殺さる: 連載】戦旗・共産同写真集

東山君虐殺抗議・三里塚空港を廃港へ!6.19大集会 日比谷野音
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歴史上のニュースの記録として掲載しています。転載はご自由にどうぞ。
※写真の説明は原資料に準拠、【メモ】は個人の体験に基づく私見であり、いずれも正確性を保証する趣旨ではありません詳しくは こちら

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1977年の主な出来事
・ニュース

米でカーター大統領就任、中国が文化大革命終結宣言、ロッキード事件公判はじまる、横浜の住宅密集地に米軍機墜落、エジプトのサダト大統領がイスラエル訪問、初の国民栄誉賞に王貞治、カラオケブーム、白黒放送終了
・ヒット曲
渚のシンドバット(ピンクレディー)、青春時代(森田公一とトップギャラン)、勝手にしやがれ(沢田研二)、昔の名前で出ています(小林旭)、雨やどり(さだまさし)、失恋レストラン(清水健太郎)

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三里塚・岩山大鉄塔破壊道路建設とのたたかい

1977年11月9日 三里塚岩山大鉄塔前
機動隊を前面に立てた鉄塔破壊道路の建設(77年3月頃)
工事現場にて機動隊の妨害と対峙して抗議・監視行動(3月)
時系列:1977年の三里塚闘争
1月福田首相、年頭会見で「年内開港を内政の最重要課題とする」と発言。
岩山鉄塔破壊道路工事が再開、現地攻防続く。
3月千葉で「ジェット燃料貨車輸送反対」集会
4月17日現地集会に三里塚闘争としては過去最大の2万3千人結集
5月4日千葉地裁が鉄塔撤去の仮処分申請を認める。
異例の現地見分なし申請書のみの拙速審査。
反対同盟はただちに抗告して裁判へ
5月6日抗告中に「家宅捜索」で立ち入り「押収」と称して鉄塔を破壊
あとから仮処分執行と強弁する無法、岩山鉄塔破壊さる
家宅捜索と言いながら法で決められた当事者の立会もさせなかった
5月8日千代田農協前広場で抗議集会。
機動隊のガス銃により救護員の東山薫さんが殺される
反対同盟と支援の憤激は頂点に達する
5月29日「東山君虐殺糾弾」現地大集会
7月~8月ジャンボ飛行阻止闘争。三里塚と全国を結ぶ大行進
10月現地総決起集会
12月激しい抵抗で「年内開港」破綻。3月30日の年度内開港に延期
横堀要塞の建設はじまる

当事者の証言
1977.5.8岩山大鉄塔破壊抗議(俺たち、タワー・アタッカー!!)
開港阻止決戦って何だったのよ、ドキュメント その1(野次馬雑記)
小説 三里塚(戸村一作著)岩山大鉄塔の建設が描かれている

【メモ:東山さん虐殺事件】
 殺された東山薫さんは、集会場でケガ人や体調不良の人を救護するボランティア(無党派)で、そのことが混乱時にも機動隊員ら周囲の人に一目でわかるようにするため、現場では赤十字を模したゼッケンをつけ、ほかになんの装備もつけない丸腰だった。

 当然に機動隊や公安らも以前から東山さんらのことは知りながらあえて治療中の救護所を攻撃した。乱入しようとする機動隊からケガ人をかばって東山さんが座りこんだところ、無抵抗の東山さんに、機動隊は5mの至近距離からプラスチック弾タイプのガス銃を側頭部に打ち込み射殺した

ガス弾は長さ約20センチ、直径約4センチ、プラスチックの弾体の先端に木部と長さ約1センチの鉄パイプがついている。重さが約150グラムあり、20メートル離れてベニヤ板を打ち抜くほどの威力。

朝日1969年1月19日より引用

 東山さんのご両親は、同年6月に福田政府と千葉県の責任を問うべく、総額9380万円の損害賠償を求めて提訴した。国は殺害の事実を否認し、第一審は原告の訴えを退けたが、1990年の控訴審では、射殺が明白な死亡鑑定が提出されたことで、東山さんの死因を機動隊のガス銃による射殺と「推認」し、県に3940万円の賠償を命じた

「推認」という表現に見られるように、かなり嫌々ながらの判決だったのだろう。さらに実質的な責任者である国を除外し、千葉県に責任を押し付けて波及を最小限にとどめる政治的な判決であり、それを96年に最高裁が県の上告を棄却して確定させた。だがいずれにせよ、実に19年もの長い歳月をかけて、ご両親や東山さんの無念をかけた裁判は、ようやく不当な射殺の事実を認めさせたのである。

1977.3.19福田首相訪米阻止羽田現地闘争 仲蒲田公園

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6.19 東山君虐殺抗議・三里塚空港を廃港へ! 日比谷野音

発言する戸村一作反対同盟委員長
三里塚農民を先頭に怒りのデモ行進
戦旗派のデモ隊列

【メモ】 よく言われるのは、これまで建前にすぎないとしても一応は「法律」を盾に反対運動を取り締まってきたはずの政府が、福田政権になってからは「無法の連続」となった。三木おろしとロッキード事件で不人気だった福田首相の意地とメンツをかけた「どんなことをしても年内開港」という、なりふり構わぬ姿勢であり、つまり政府の対応が「内戦」の論理になっていったということである。

福田武夫(1905-1995)

 これは以前からあったことだが「検問」と称して支援者とみなされた人を集団で袋叩きにしたり、車両をボコボコに破壊してミラーをへし折るなどの行為が、さも当然のように白昼公然と横行。抗議したり写真を撮ろうとすると公務執行妨害で逮捕された。ついにはケガ人の救護をしていただけの非戦闘員の東山薫さんが、無抵抗のまま問答無用で射殺されるという事態にまで発展した。

 実はそれまで、鉄塔決戦に向かう反対同盟農民は、支援学生らの実力闘争にストップをかけ続けてきた。世間の三里塚に対する印象からは意外に思われるかもしれないが、鉄塔の法的な共有化や所有地内の座り込みなど、相手の暴力には屈せず断固抵抗するが、自分たちからは攻撃しない、いわば不服従路線を闘争初期から一貫してとっていたと言える。実際、強制収容時の抵抗から以降、それまで6年以上も現地で機動隊との目立った衝突はなかったのだ。そこに自分のメンツを人命や法律より優先する福田からの傲慢な攻撃である。これでは堪忍袋の緒も切れようというものだ。

 鉄塔の無法な破壊と東山薫さんの銃殺は転換点となり、反対同盟の戸村一作委員長は「国や警察が法律を守らない。もはや我々も何をしてもいい」と述べるなど、農民らの憤激は頂点に達した。その後の回顧や報道などでは政府・警察は反対運動を過小評価し、「開港阻止」と言っても実態は鉄塔撤去や空港周辺での散発的な抵抗であり、「過激な闘争」に支持は集まらず孤立すると考えていたらしい。同じような発想の空港支持派の評論には、政府の傲慢な法律無視を「無血開城」などともてはやす厚顔無恥(無知)な声さえあった。現地の人にしてみれば実際はちっとも「無血」ではなかったのに。

 ところが政府の思惑とは全く逆に、鉄塔破壊と東山さん殺害で反対運動は鎮静化するどころかむしろ激化し、警察の無法ぶりに反対運動への全国からの有形無形の支持はむしろ増大した。機動隊への抵抗も常態化して、怒りで士気の高い支援部隊に機動隊がたびたび敗北。激しい抵抗でついに福田の「年内開港」路線は破綻する。福田政権は一万人の機動隊(!)を現地に常駐させて今度は翌年3月末までの「年度内開港」を宣言。だが「周辺で散発的」という政府の予想を覆しての空港本体への反対派の突入と管制塔占拠(3.26戦闘)でそれも木っ端微塵となった。

 この3.26戦闘では警察は威嚇を含めて拳銃を多用し、突入部隊の新山幸男さんは流れ弾で引火したドラム缶の炎で死亡した。これらの事態を一部のマスコミは「もはや地域的な内戦」と評した。政府の強硬路線はまたしてもとことん裏目にでた。この直後から財界首脳部が政府と農民らとの「休戦協定」締結にむけて乗り出し、超強硬路線をひた走ってきた福田は、一時期、成田空港問題の主導権を失いかけることになる。

例によってマスコミによる一方的な「警察発表」の垂れ流し

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8.9 狭山裁判上告棄却弾劾

8.23 狭山裁判上告棄却弾劾闘争 明治公園

12.7 三里塚・岩山要塞(棟上げ式の頃)

 岩山大鉄塔の跡地に建てられた100%合法的な建造物。だが、成田治安立法によって一方的に封鎖されることに。現在は「岩山闘争記念館」として建物が残っている。