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定番記事

「おいコラ!在日!」と言われた時

 昔々あるところに部落差別問題に非常に熱心な、あるお坊様がおったそうな。この坊様は常日頃から「差別はいかん」と熱心に説き、部落にも入ってボランティアのようなこともするし、解放同盟にも協力的、辻説法に立っては口角泡を飛ばしては熱心に差別を糾弾しておりましたとさ。

 さてある日のこと、とある解放同盟の地区幹部の人が、試しにこのお坊様にこう問いかけて見たそうな。
「お坊様、あなたがあまりに熱心に差別反対の説法をしているので、きっとあの坊様も部落だと噂している人がいましたよ」と。。。

 するとこの坊様、怒ったような激しい口調で「誰がそんなことを言うとりますか!」と、とっさに叫んでしまったそうな。その後の気まずい沈黙。坊様も自分の言うたことに「はっ」と気づいたが、口に出したことは戻せない。非常にばつの悪い顔で帰っていったそうな。

 これは活動家時代に解放同盟の関係者からいただいた冊子に、年輩の幹部の方が「昔の想い出」として書かれていた実話です。口先で「差別はもちろんいけない」と言っている人は、一度自分がこの坊様と同じ立場だったら、とっさにどう答えていたか考えてみるといいです。「へーっ、君って部落(在日)だったんだ」と真顔で言われ、周囲からもそう思われそうになったとしたらあなたは?

 私は2chの掲示板などではよく「おいコラ!在日!」などと呼ばれますが、実生活でもたまに韓国人と間違われることがあります。それどころかフィリピン人と間違われたことも数回もあります。

 本当にフィリピン人ならそう名乗るのですが、残念ながら私は日本人で、男性で、障害者でも被差別部落出身でもなく、金持ちでもなければ極端に貧乏でもないし、ついでに同性愛者でもないという、まったくもって平凡な人間ですので、仕方なく「いいえ、私は日本人です」と答えます。だって嘘はつけませんから。そしたら「隠さんでもええやん」とか言われたりするんで、それ以上は笑って済まします。

 では、こういう他愛もない会話ではなく、韓国人と間違われて差別を受けたらどうしますか?ヨーロッパ方面を旅行してきた複数の友人からは、向こうにたくさんいる華僑と間違われた上で差別を受けたとか、あまつさえ、地下鉄の駅の構内で、すれ違いざまにレイシストから「この中国人め!」みたいなことを言われて服に唾を吐きかけられたという女性の話も聞きました。

 こういう時にどう答えるべきか。かつて私の学校の先生は、アジアを旅行中に、やはり自分のことを「中国人」と言って遠くから大声で罵っている現地の若者がいたそうです。その先生は立派なことに泣き寝入りしなかった。すぐにその若者を追いかけた。若者もびっくりして逃げたけれども、体育の先生で日頃から鍛えていることもあり、やがてその若者に追いついて捕まえることができた。
で、何を言ったかというと・・・。

「I’m Japanese ! 」 (わしは日本人じゃ!) だってさ。┐(-。ー;)┌

 でも、私もこの先生のことをどうこう言う資格はない。きっと10代の頃の私なら、同じ反応をしていたと思うから。「私は日本人です」とか、「在日(なんか)ではありません」あるいは「部落(なんか)ではありません」とね。

 もちろんカッコ内の「なんか」は発音しない。けど意味は結局はおなじです。私は子供の頃まで遡っても、在日や被差別部落の人を具体的に差別したことはない。だから自分は「差別者」ではない「差別に反対する側の人」だと勝手に思い込んでいました。

 でも、よ~く考えてみたら、10代の私は確かに「差別したこと」はないかもしれないけれど、「差別に反対したこと」なんて一度もなかったのです。そして自分の中の「被差別者とかかわりあいになりたくない」という明確で言い訳無用の明らかな差別意識が、ふとした時に顔を出したりします。つまり私は疑いようもなく「差別主義者」だったわけです。

 たとえばまだ半分以上の車にクーラーなんてついていない頃、夏場に窓をあけて走っていても、在日朝鮮人街にさしかかると「キムチ臭いのがうつる」なんて笑いながら、車の窓を閉める大人なんてのがごく普通にいました。被差別部落への暴言も凄かったが、在日へはそれを数段上回る酷さがあった。そんな時も私はちょっと眉をひそめて(あるいは曖昧な引きつった笑顔で)黙って聞いているだけだった。

 目の前で差別が行なわれている時、それを知っていながら黙認する傍観者というのは差別者の仲間です。決して反差別主義者ではありえません。

 このことをテーマにした映画がアカデミー賞作品の「紳士協定」です。人気コラムニストである主人公(グレゴリー・ペック)が、ユダヤ人差別の実態についての記事を新聞に書くことになりますが、そのために自分がユダヤ人になりすまして調査を進めるというお話です。

 すると、途端に回りの人間がよそよそしくなり、ついには先妻との間にできた自分の息子が、学校で「ユダヤ人!」といじめを受けて顔にあざを作り、泣きはらして帰ってきます。彼は自分が差別を受けて、いままでのような客観的な理解から、徐々に差別者に対する激しい人間的な怒りに目覚めていきます。ここまでは予想の範囲だったかもしれません。

 ところが今まで「差別になんか反対だ」と言い、実際にユダヤ人とも分け隔てなくつきあってきたはずの自分の周囲の人間達までが、差別に怒りを燃やす彼から離れていきます。ついには記事の発案者である恋人(ドロシー・マクガイア)まで彼を拒絶します。彼女は泣きながら「僕ってユダヤ人なの?」と言う彼の息子を抱きしめて、ついに「おお、大丈夫よ、あなたはユダヤ人なんかじゃない!」と言ってしまい、彼と決定的に対立してしまうのです。

 つまりは「差別になんか反対だ」と言っていた彼の友人達は、結局はただの傍観者であったわけです。差別者を軽蔑したとしても、差別を糾弾したり、やめさせるために何かしようとすることは決してない。それはどういうことかと言うと、自分が差別者側の人間であることを止めようとしないということです。

 あちらの側からこちらを見下して同情しているだけ、自分がユダヤ人(部落・在日)でなくて良かったと、心のどこかで思っているのです。かつての私もそうでした。でも、現在の私だってきっと差別者です。ただ、それに気がついているだけいくらかましだと思っています。

 日本人の大半はおそらく差別者です。そのうちの半数は自覚的な差別者で、残りは傍観者的な差別者です。こう書くと反発する人が多いかもしれません。自分の心の醜い部分を覗くのは誰でも不快です。私だってそういうことができはじめたのは30代を過ぎてからです(その頃はもう活動家ではありません)。ましてや10代や20代の前半の方には難しいかなと、生意気ながら思ってしまいます。

 映画では、自分が差別者のように主人公から扱われて傷ついた恋人が、共通の友人であるユダヤ人の男性に切々と訴えるシーンがあります。「私は差別者なんかではない!」と。友人のユダヤ人はその話を聞きながらも、彼女の心にある差別を容認してしまいかねない思想を、決して主人公がしたように「糾弾」するのではなく、逆に優しく導いていきます。「彼が君に何を求めていたのか考えてごらん」と。映画では、そのことに気がついた恋人が彼と和解して抱き合う所で終わっています(実際はそんな簡単に気づけるもんではないよなー)。

 差別する側は多数派です。しかもその半数は自分が差別者だとさえ気がついていない。この多数派に反するのはとても勇気のいることです。しかし、他人がした差別に沈黙し、適当に同調することは、自分が差別をすることと何ら変わりがありません。差別を認めないという明確な意思を表し行動や発言をすることが大切なのです。ただしそれは、自分が今までの差別者の側というぬくぬくとした多数派から、被差別者という冷たい風にさらされる少数派になることも覚悟しなくてはなりません。

 さて、そんなエラソーなことを言っている自分はどうなのでしょう?10代の頃の私は、映画に出てくる主人公の恋人と同じく、自分が差別者だと気がついていない差別者でした。20代でそのことに気がついた。その頃は活動家でもあったので、差別に対する怒りが燃えていました。でも、やはりそれは、理論的なものを全部のけてしまえば、結局は「同情」でありました。要するに冒頭で紹介した反差別を説法していた坊様と同じ、若い左翼活動家にありがちなレベルであったと思います。

 活動をやめ、30代に入って多くの在日の人たちとも知りあい、部落やあるいは同性愛者とも知り合い、さらには「不法滞在」の外国人の多くが、とても優しい人々であることも知りました。そうした人間的な付き合いの中で、20代の頃の「差別に対する怒り」とはまた違う、「なんや、みんな同じ人間やんか。何人やろうと、どこで生まれようと何の問題もあらへん」という、不思議な達観したそして静かな境地が(やっと!)見えてきたと思います。

 そうすると、外国人や在日、部落などを差別する人々が、怒りの対象というよりは、別世界に住む不思議なケダモノのようにも見えてきます。だからどちらかと言えば、差別せずにはおられない人は可哀想に思えます。これも「差別」なのかなと思うこともありますが、少なくとも人間的な幅や世界を見る目が狭くなってしまうことは事実です。ましてや自分が差別者だとさえ気がついていない人には、私から何かしてあげられることは無いだろうかとさえ考えます。そしてこれはあるいは活動を続けていたら見えてなかった境地かもと思えるのです。

 今の私ならこの坊さんの立場で「あなたが部落(在日)だと噂している人がいましたよ」と言われても、「まあ、そういう人も当然いるでしょうね。でも、どっちでもよろしいがな、そんなこと」と普通に答えられると思います。自分が部落だろうが在日だろうがユダヤ人だろうが、そんなことどっちでもよろしい。私という人間の評価や人生になんの違いもありまへん。どうぞ思いたいように思おておくれやす。。。静かにそう言えます。

 さて、ところがです。年をとって達観できてきたのはいいのですが、今度はいろいろと背負うものが出てきたせいで、多数派から少数派に転落するのが恐くなってきました。

 たとえば、仕事の上司や、取引先の上得意様が差別的な言動をした時を考えてみて下さい。20代の頃のとんがった私なら、首になろうが路頭に迷おうが、平気で糾弾できたかもしれません。ところが年を経て丸くなってくるにつれ、今度は逆にそういうことが出来るか自信がなくなってきます。映画の主人公のようにカッコ良く怒れるかどうか。家族の顔も思い浮かぶのです。

 目標は人間的には翁のように丸く、そして怒る時には若者のようにとんがって、かつ怒ることはあっても憎むことはなく、すべての人間を愛して許せるような私。いやはや死ぬまでにそこまで行けるかどうか(嘆息)。

でもこの頃ねー、歳をとるほど恐いものがなくなっていくのも感じるのんよ。
(o ̄ー ̄o) ムフフ

●サイト内リンク

”人権擁護法案”討論場
人権擁護法案その2-差別被害者の救済とは
人権擁護法案その3-コメントへの反応

●参考リンク(トラックバック先など)

差別の構造(Мышкин княжество)
選別と差別の境界線(コリアン・ザ・サード)
DVの原因、男女差別について(花粉症とアレルギー生活+心の病気)
同居問題と男女同権(怒りの矛先)
人種差別って何?(たかまさの元気が出る日記)
批判にお答え(NWatch)
「3月14日のエントリー:掲げられた同じ看板の下で」について(成城トランスカレッジ!)
弱者救済と差別?(日々徒然)

☆おそらく反対意見の方にも聞いてみよう・学んでみよう

日弁連 出入国管理及び難民認定法違反は人権侵害だって(Birth of Blues)
悪いことなのかなぁ(見たこと聞いたこと)
行き過ぎた正義が人を殺す(226TRAX)
同和問題というものについて語ってみる(桜日和)

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  • ぼくと様、桜さま

    在日などは、在日という属性が差別されています。
    したがって、属性でなく個人をみれば、差別する理由がなくなります。
    それ対して、障害者などは、個人の持つ特徴や状態を差別されているわけです。
    ですから、個人を見ても、差別する理由は残ってしまいます。
    大雑把に言えば、在日などは集団が差別されており、障害者などは個人が差別されています。
    って説明ではだめでしょうか?

  • suzu様
    こんばんは。長くなってしまいました。申し訳ありません。
    >それ対して、障害者などは、個人の持つ特徴や状態を差別されているわけです。
    >ですから、個人を見ても、差別する理由は残ってしまいます。
    >大雑把に言えば、在日などは集団が差別されており、障害者などは個人が差別されています。
    たしかに、障害者への差別として、個別の様態を指して揶揄することはありますね。いわゆる放送禁止用語や「言葉狩り」の対象となる言葉などがそうです。けれども、やはり私は障害者や同性愛者は、まずそのような存在であることをもって、色眼鏡で見られる(そしてその視点が顕在化すると差別になる)と思うのです。そして貴方も指摘されていらっしゃいますが、その根底には差別者による優越感と嫌悪があると思います。

    たとえば障害者の場合、「めくら」「かたわ」「びっこ」等々の様態を示す言葉で揶揄する人は、不自由な目や肢体といった、障害を抱えた方の個別の様態から触発されてそのような行為をするのでしょうか。私はそれには関係なく、(言葉は悪いですが)「五体満足で完品状態の人間」という枠から逸脱した「障害者」であること自体が、揶揄の対象になっていると思います。「めくら」云々の呼称はあくまでもそのための道具です(ちなみに精神的疾患の場合は「精神病」という言葉そのものが、揶揄の対象となっているのではと感じます)。
    いっぽう同性愛者が置かれる状況も大差ありません。たとえば同性愛者といっても、同性であれば誰でもよいわけではなく、対象として見る相手の好みは人それぞれであり、その意味ではヘテロセクシュアルの嗜好の多様性と変わりありません。また、行為そのものが好きな人も、そうではなく心の触れ合いを求める人もいます。しかし、いずれにしても同性愛者は常軌を逸した異常性愛者と看做され、広義の属性を示す「ホモ!」「レズ!」という一言を侮蔑する意味で投げつけられて終わりです。

    どちらの場合も、個人のパーソナリティに「障害者」や「同性愛者」という属性が構成要件のひとつとして存在しているという点では「在日」(「部落」も)と変わりありません。ですから、たとえば不当な利益を要求したり、権利を侵害したりする人(や集団)がいるなら、その人(たち)の行為そのものや、その人(たち)の意図を批判すればよいのです。その人(たち)の存在そのものではありません。

    尤も、ひとつの運動体や組織の目的として考えるなら、このスタンスはもっと大まかにならざるをえないでしょう。つまり、個々の属性をカテゴライズして一般化することです。これは三浦小太郎様がコメント(さすがに読み応えがありました)で「低劣な差別を肯定するものではないけれども、民族、文化、歴史から離れて「個人」として人間を捉えることも否定する」とおっしゃったことに関わると思いますが、小異を捨てて大同を取る組織的運動の場合、たとえば「あの集団の中にだっていい人はいる」という視点にとらわれていては運動にならないからです。
    しかし、それでも目的が、批判すべき意図や行為を糾弾することなのか、それとも糾弾対象とするものの存在を否定したいだけなのかは、その運動を観察していると判断できます。当然ながら後者のごとき運動は、三浦様おっしゃる奇矯なデマゴーグに終始し、様々な意見を内包できる深みがないため、一般的には大きな支持を得られないでしょう。

    ところで前述したように、Suzu様は、障害者を例に挙げられ、
    >障害者が差別されるとき、差別者が抱く感情は優越感、嫌悪、憎悪ではないかと思います。
    とおっしゃいましたが、このような感情はどの差別でも言えることです。
    (※「憎悪」と「嫌悪」は同様のものだと思いますが・・介護者が障害者に抱く憎悪の例の場合、究極的には障害そのものよりも、そのような状況に陥ることによって感じる「人生の不平等さ」や「ままならなさ」のようなものに気持ちが向かうのではないでしょうか。私も、自分がそのような形で愛する人を憎んでしまいかねない状況になってしまったら・・と想像すると怖いです。)
    そして、これら差別者が抱く感情は、つまるところ無知や「自分の常識」を背景にした自己満足によるものだと思います。

    知らないから怖い→排除
    勝手に思い込んでいる(=偏見)→自分はマトモ。自分のほうが優位。

    前者は防衛本能に関わりますが、井の中の蛙を思わせる後者は脱力するくらい程度が低いです。とは言っても、集団形成の視点から考えると、後者も「(自分たちはマトモだと思い込む)多数派を形成することによって、自分たちの優位性を互いに確認しあい、保身を図る防衛本能」と見ることもできるでしょう。
    このような感情の存在は、ある意味自然なものであり、否定できません。「そう感じてしまう」「そう思ってしまう」。そのような感情の発露は否定できないのです。問題は「自分が優位を得るために、その感情を対外的に発動すること」なのです。
    *            *            *
    黒人が怖くて避けてしまうのは、彼らの存在が身近ではないエイリアンだから、という理由も大きいのではないでしょうか。けれどもそのようなご自身を冷静に見つめ、自省されていらっしゃる貴方の姿勢は真摯に思えます。もし、私ならば、いつかそのような感情を越えるような、黒人の方との良い出会いがあるといいな・・と思います。きっと世界観がそこで拡がるでしょうから。

    >ところで・・・めがねでいぢめられたことってないですか?(´・ω・`)
    そういえば「いじめ」の精神も差別に通底しますね。結局、差別もいじめもネタは何だっていいのかもしれません。差別者やいじめる側にとって気に食わなかったらそれでいいのですから。ちなみに私の周囲の場合、幸いなことに、眼鏡でいじめられた例はなかったと思います。眼鏡をかけた素敵な人はいましたが(・・いま頃どうしているやら)。

    余談:
    >たぶん、私が臆病なのと、左派の活動家=昔暴れた怖い人たちという偏見のせいだと思いますが・・・
    少なくとも草加様については昔暴れた(笑)性根の優しい人なのだろうと、私はこのサイトの印象から勝手に想像しています。

    >私の場合は、他にも苦しんでいる人、保護や補償を必要としている人がいるのに、なんでいつも在日ばっか取り上げられるんだ!って取り乱してしまうのですよ。
    そう、確かに在日以外でも、保護や補償を必要としている人が世の中には沢山いますよね。Suzu様もやはり性根が優しく、また細やかな視点を忘れない方ではないかと思いました。同様にぼくと様にも人への優しさ(とそれに基づくアツさ)を感じます。他にも此方に集う皆様のおかげで、私じしん考えを深めることができています。
    ありがたいことです。長文たいへん失礼いたしました。

  • 何度も失礼します。
    桜様
    桜様がおっしゃられていることは、大筋あっていると思います。
    しかし、それがすべてではないのです。

    今度は、部落の元になった穢多を例にしてみます。
    この穢多と呼ばれる人たちが差別された理由は、仏教の思想が原因らしいのです。
    仏教は殺生を嫌うため、牛や馬の死体を処理したりするのを「穢れ多い」ことと考えていたようです。
    そして、仏教が伝来した奈良時代には穢多という属性が形成されていたようです。
    つまり、仏教倫理をもとに殺生を穢れとして嫌悪し、やがてその嫌悪を人にまで向け、そして穢多という属性を作り出したのです。
    戦国時代に入ると、色々な理由からこの属性への嫌悪が薄まっていったようなのです。
    理由は、動物の皮革が重宝されたことと、仏教徒自身が殺生(一向一揆)をしていたからではないかと。
    しかし、江戸時代前後に再び属性が強固に形成されます。
    その時に、仏教倫理が使われたようなのです。

    このように、差別が行われるにはかならず理由があります。
    この理由が残っている限り、差別や属性をなくしても、また形成されてしまうでしょう。
    穢多に関しては、江戸時代後期から明治時代に神仏分離がが行われて仏教倫理が普遍のものではなくなったたことと、身分制度が廃止されたため、差別する理由そのものはなくなりました。
    しかし、属性と差別だけはその後も残り続けてきました。
    ですから、草加さんの言われる個人をみることによって、属性と差別がなくなり、差別される理由がないため再び形成されることはありません。

    しかし、現在でも差別される理由がのこっている問題、穢多でいうところの仏教倫理が残っている場合、属性を取り払ったとしても「牛や馬の死体を処理したりするのを「穢れ多い」ことと」として嫌悪することはなくなりません。
    当時、殺生を穢れと嫌悪することは仏教倫理にかなったことで、私達が人殺しを犯罪と見たり、差別を悪と考えることと変わらなかったのかもしれません。

    >不自由な目や肢体といった、障害を抱えた方の個別の様態から触発されてそのような行為をするのでしょうか。
    差別とは、自分と他者との違いを受け入れればおきません。
    逆に受け入れなければ、どんなものでも差別とされます。
    差別の原因は、属性ではなく差なのです。
    >まずそのような存在であることをもって、色眼鏡で見られる
    ことを否定しているのではありません。
    この属性がなぜ差別されるか、その理由が残る限り差別はなくならないのではと思います。

    >(※「憎悪」と「嫌悪」は同様のものだと思いますが・・介護者が障害者に抱く憎悪の例の場合、究極的には障害そのものよりも、そのような状況に陥ることによって感じる「人生の不平等さ」や「ままならなさ」のようなものに気持ちが向かうのではないでしょうか。私も、自分がそのような形で愛する人を憎んでしまいかねない状況になってしまったら・・と想像すると怖いです。)
    いえ、この2つは性質の違うものです。私の表現の仕方が悪かったぽいですね・・・(´・ω・`)
    嫌悪は、桜様が考えておられることと同じです。
    障害を嫌い、自分が障害を持つことを嫌う、つまり、障害を拒否しているとお考えください。
    憎悪としたものは、障害や障害者を理解し、受け入れた人が抱く可能性があるものです。
    そして、障害の問題の中でもっとも難しい問題なのです。
    そのため、ご理解いただけますようお願いします。

    私は障害と言っていますが、これは子育てからアルツハイマーなども含まれます。
    人はいろんな人に負担をかけてますよね。そして支えあってます。
    しかし、保護者や介護者に負担が集中しており、その人たちへの支えが不十分なのが現状なのです。
    子育てを例にするとわかりやすいかもしれませんね。
    昔は地域で、もしくは家族で育てていたと聞きます。
    現在では、その負担が母親1人にかかる場合もあるようです。
    育児という労働的な負担に加え、育児費という経済的負担があります。そのため、
    >障害がもたらす負担に耐え切れなくなって、その不満を障害者へぶつけてしまう
    ということがおきてしまうのです。

  • 差別も何も、人の内心には入らないのが自由主義社会の原則です。その人が差別心を抱いているとしても、それはその人の自由です。そういう人間が嫌なら付き合わなければいいだけの話です。公権力やメディア、教育を使って差別心から「自由」にしてやるという積極的自由主義思想が、共産主義やファシズムのような全体主義を生み出すのです。
    大体、あなた方だって「差別主義者」には差別心を抱いているでしょう?
    差別撤廃のためにできることは、せいぜい公民権や法の下での平等を保証することぐらいで、それなら日本は戦前からできています。
    朝鮮人や中国人に対する蔑視が存在するのは事実ですが、それならば朝鮮人や中国人が努力して尊敬されるマイノリティになればいいのです。日系アメリカ人のようにね。
    まあ、現在の在日朝鮮人を見る限り、彼らが日本社会で尊敬を得られる日は遠いと思いますが。
    日本の自称リベラルの皆さんはどうも内心の自由を軽視する傾向が強いようですね。英米系の自由主義ではなく大陸の左翼思想の信奉者だからなのかもしれませんが。

  • Suzu様
    こんばんは。いつも丁寧なレスをいただき、ありがとうございます。穢多の件は勉強になりました。

    >差別が行われるにはかならず理由があります。
    >この理由が残っている限り、差別や属性をなくしても、また形成されてしまうでしょう。
    そうですね。私たちはその差別を乗り越えなければならないのですが、貴方のおっしゃるとおりだと思います。

    >属性を取り払ったとしても「牛や馬の死体を処理したりするのを「穢れ多い」ことと」として嫌悪することはなくなりません。
    自分を振り返りますと、例えば食品売場で畜肉を見ても、屠殺のことは考えません。いや、考えたくないのかもしれません。正直申せば、私は屠殺の現場は見たくないのです。理由は目的がどうあれ生物の殺傷行為を見たくないから。それにしても実際、こう書くと命あるもののリスペクトすら欠けるような傲慢さで恥ずかしいですね。恩恵を存分に浴しておきながら、思い上がりも甚だしい。不快になられましたら、ご容赦ください。
    「現実に存在するのだが見たくないこと」あるいは「自分なりに受けとめて考えるのを先送りしたいこと」のようなものが、そのような感情に関係してくるのかもしれませんが・・。なかなかうまく考えをまとめられません。申し訳ありません。少なくとも「自分は嫌だから」という理由では、自分も差別者の一員です。その意味では、やはり差別者と看做した人を単にレッテル貼りして排除するのではなく、「嫌う原因が不当であること」または逆に「嫌う感情を抱いてしまう根拠」を互いに冷静さを保持しつつ話し合う姿勢が大切なのだと思います。

    障害者における嫌悪と憎悪の件は理解したように思います。私の解釈が性急すぎました。
    障害そのものを忌避する感情を「嫌悪」、障害者を受容した人が、その状況に起因する負担などから抱きかねない感情を「憎悪」ということですよね。そういえば私の意見では前者の「障害そのものを忌避する感情」のことには触れていませんでした。
    さしずめ、優越感以外の理由で障害者を揶揄する人は前者かもしれませんね。障害そのものも嫌だし、障害者と関わることで、自分が彼らと同じ世界の人間に分類されることを怖れる狭量な感情がそれに当たるのではないかと思いました。
    いっぽう後者は、社会政策によって乗り越えられるものが多いのではないかと思います。たとえば介護問題は社会保障のことですね。これは福祉政策の問題や、少子・高齢化の問題がありますが、つまるところ国にカネがない(もともと社会保障はカネが掛かるものですが、一番の原因は経済政策と保険/年金事業の失敗だと思います)ため、福祉に割く予算が減ってきていることが問題です。
    育児問題は、核家族化や個人の多様性といった面もありますが、やはり社会的インフラ整備や、育児・教育にかける予算が減少の一途を辿り、(国際比較で額面だけは高いですが)消費者物価に比して高いとはいえない賃金で、性別を問わず長時間労働をしなければならない状況に問題があると思います。結局、それらのツケは私たち末端の一般人、とりわけ保護者や介護者への負担集中として表れてしまうのですね。ハンデのある人を皆で支えあう。そういう人間としては当たり前のことが(そして古来日本の美徳であった、人への眼差しが)社会的にも維持できなくなっているのでしょうか。

    >障害がもたらす負担に耐え切れなくなって、その不満を障害者へぶつけてしまう
    という痛ましい事件は、そんな過酷な現状が、家族や福祉施設の従業員(医療/福祉施設の従業員は馬車馬のように働かざるを得ず、良心的に経営すればするほど赤字になっていくのが現状です)に歪んだ形で現れる現象ではないかと思います。差別問題から発展してきましたが、

    >保護者や介護者に負担が集中しており、その人たちへの支えが不十分なのが現状なのです。
    という貴方の思いに大いに共感しますし、とても大事な視点だと思います。

  • いつもご迷惑をかけてしまって申し訳ありません。
    ちょっと無責任なことを言ってたかもしれません・・・

    平成16年2月19日(木) 基本的人権の保障に関する調査小委員会(第1回) の内野正幸参考人の意見陳述の概要から引用させていただきます。
    >憲法による差別禁止は、絶対的なものではなく合理的区別を許すものである。また、14条が原則的に禁止する「差別」は、差別意識や差別的表現ではなく、差別的取扱いの意味である。
    とのことなので、私、ちょっと突っ込みすぎたのかも(´・ω・`)

    桜様の
    >やはり差別者と看做した人を単にレッテル貼りして排除するのではなく、「嫌う原因が不当であること」または逆に「嫌う感情を抱いてしまう根拠」を互いに冷静さを保持しつつ話し合う姿勢が大切なのだと思います。
    という言葉がバランスが取れているかと思います。
    暴走気味なコメントの数々、お許しください・・・

    生物の殺傷行為は私もダメです・・・
    人が生きると言うことは、多くの犠牲によってなりたっている。それを業と言ったのは仏教でしたっけ。
    上で引用しました意見陳述によると、差別意識や差別的表現は憲法の規定する差別ではないようなので、差別者の一員と見るのは性急なのかもしれません。
    しかし、私の中にも差別の原因となるものがあると言ったらいのでしょうか。
    私も考えがまとまっていなくて申し訳ありません。

    嫌悪と憎悪について、ご理解いただきましてありがとうございます。
    わかりにくい説明で申し訳ありません。
    この問題に関してですが、障害者虐待防止についての話し合いがうまく言ってないらしいのです。
    私自身もどこか距離を置いていたところがあるのですが、そうやってみんなが距離を置いているため、ネガティブな意見ばかりが出て前に進まないようなのです。
    私もいつ障害を持つことになるかわかりませんし、決して他人事ではないんですよね。
    ただ、エントリーに合わない内容でしたね(´・ω・`)
    暴走をちょっと反省してます・・・

  •  はじめまして。
     私は差別者です。
     まず、このサイトに辿り着いた経緯から説明いたします。
     先日、私のblogにトラックバックを送って来た方がいらっしゃいます。それで送って来た方のblogを見たのですが、正直言って、「別世界に住む不思議なケダモノ」のように思えたのです。
     中国や韓国のことを盛んに非難されていました。中国というのはインターネットのトラフィック数が日本より多い国です。韓国というのはインターネットの普及率が日本より高い国です。そういう国の人たちが何を考えているかくらいは、ネットを使えば簡単にわかるわけです。
     日本にもネットウヨというのがいるわけですから、かの国にも同じような層がいても不思議ではないのですし、それぞれの国で行われている「国民の反応」というショーをテレビで流している。だととしても、こういうところが、ある程度の情報と判断力を持った韓国人の意見だろうと私は思っています。
    http://japanese.joins.com/html/2005/0318/20050318201802100.html
     それは、ともかく、私自身は、政治的な問題にあまり興味がありません。歌舞伎や文楽が好きで、日本の文化的伝統というものに興味を持っています。国内の文化的多様性を認識し、国外の諸地域の文化と相対化して見るくらいの判断力はあるつもりです。
     伝統文化に興味のない人は、それはそれで趣味の違いですからいいんですが、伝統について考えている私にとって、日本の近代における文化的伝統の歪曲を無視したり、判断停止のために伝統ということを使っている人というのは、嫌悪感を感じてしまうわけです。
     簡単に得られる情報を得ようともせずに、テレビのショーに踊らされてる人、自分に情報のない分野について語る人、私はこういう人を軽蔑してしまいます。
     おそらく、自分自身もそのような傾向があるからだと思います。でも、この人よりはマシだからと、軽蔑することで安心したいのだと思います。日本の中世以前の差別の理由が職業によるものだったのに対し、近世の差別の理由はこのようなまだましという安心感を農民に持たせるためのものだったと聞いたことがありますが、詳しくは存じません。
     と、私も、自分に情報のない分野について語っていますが、断定を避けている。まだ、ましだと思いたいからです。つまり、自分は違うと思いたい、ということで差別意識が現れてくるのです。
     意見が違うから嫌悪するということはしないように心がけていますが、トラックバックを送って来た人に対し、理解力についての偏見、つまり差別意識が生じてしまいました。そうなると、きちんと礼儀をわきまえた人で、本人も意見の違う人とコミュニケーションを取ることを望んでらっしゃるようなのですが、理解しあう努力もしようという気がなくなりました。
     ひょっとしたら、俺より「下」がいるとせっかく安心してるのに、コミュニケーションを取って、その知性を認めざるを得ない人だったら、自分の相対的位置が下がるようで、嫌なのかも知れません。それで、宣伝用トラックバックかうっとうしい、で終わりです。
     さて、その方のサイトを見ると、草加さんもその方からトラックバックを送られたようです。でも、ちゃんとトラックバックを行った意図を聞こうとなされていましたし、相手にわかるようなアドバイスもされている。
     それで、興味を持ってこちらに来たわけです。
     さて、本題なのですが、やはり差別というのは、まだましだと思いたい、安心感を得たいからじゃないのかなと思います。
     在日朝鮮人は就職差別があるために、手に職を付けようとする傾向が高いわけです。その結果、私の知人の在日の方というのは少数なのですが、ほとんどが医師なのです。ですから、私にとってリアリティのある在日朝鮮人のほとんどは医師であり、病気になった時の安心感は与えてくれても、自分の劣等感を癒す安心感には役だってはくれません。ですから「おいコラ在日」と言われても、私は、言った相手を差別するだけです。
     私は、差別意識を克服できるほど強くはないのです。でも、本人の意志によらない帰属集団による差別や、少数グループであることで差別するということは、情報量や理解力の乏しい人のすることだと考えており、そういう人は、私にとって差別の対象なのです。
     こういう考えが傲慢であり、差別の解消には役には立たないことも理解はしています。でも、私としては、まだ「ましな差別者」でいるのがせいいっぱいなのです。

  • toアホネンさん

    確かに、憲法では内心の自由が保障されています。
    ところで、この憲法の規定というのは、第一義的には、国対個人の関係を規程したものです。
    過去にこんなことがありました。ある大企業から内定を得た学生がいたが、内定後にその学生が学生運動をしていたことを企業が知り、それを理由に内定を取り消した。
    それに対して学生は、「政治理念によって採用の可否を決めるのは、思想・信条の自由を規程した憲法に反する。」と裁判所に訴え出ました。裁判所が下した判決は、「憲法の規定は国と個人の間の関係を定めたものであり、私人間においての関係(契約等)を直接制限するものではない。」というものでした。
    ですから、ある人がある人に対して、内心を変えるように要求したとしても、憲法違反にはならないわけです。(もっとも、その憲法の理念を具現化すべく法律を整備すれば、その法律に基づいて制限されますが。)
    ですからアホネンさんが主張されているであろう、差別を糾弾することは内心の自由を犯すものであり憲法違反だ、というのは、法解釈的には異論の多いところです。
    (それと同様に、私人間で差別をすることも、直接に憲法の条文(平等の原則)によっては制限されないわけです。)
    もっとも、これは法解釈の話であり、私はこれには賛同していません。
    憲法とは理想を掲げたものであり、国民一人一人もこれを守るべき義務を負い、そこまではいかなくても目標とすべきだと思っています。

    と、ここまでは法解釈の話。ここからは法解釈とは別の話です。

    確かに、アホネンさんの言うとおり、内心の自由は完全に保証されるべきです。
    ある人が、内心で・・・つまり心の中だけで、どんな差別的な事を考えていても、それを他者から強制的に制限される事はあるべきでないし、そもそも他者の心の中を無理矢理どうこうする事は不可能ですしね。
    しかし、内心で考えていたことを表に出すと、それは「内心の自由」を過ぎて「表現の自由」の問題になります。
    さて、内心の自由が絶対に保証されるべきでありますが、表現の自由となるとちょっと違ってきます。
    心の中でどう思おうが心の中に留めている限り、それは他人に影響を及ぼしようがありません。
    一方、それを言動という形で表現すると、他人に迷惑をかけたりします。ですから憲法においては「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」とありながら実際には、他人をバカにすれば名誉毀損で罰を受け、デモは公安条例や静穏保持法で事前に規制され、メガホンで大声出せば拡声機規制条例で罰せられ、エロ本は青少年保護育成条例で販売・配布を規制されています。
    表に現すと他者に迷惑をかける事もあるからと、何の留保もなく完全に保証されるのではなく、公権力によって制限されるところがでてくるわけです。

    さて、差別はどうでしょう。これを心の中だけに留めず、他者に対して差別的な言動をした場合、これも他人に迷惑をかけるのですから、無制限に許されるべきではないと私は思います。政治デモやエロが規制されているのに、差別が許される理由があるでしょうか?

  • 今時間がないので一言だけ
    憲法における「内心の自由」と「私人間適用」の問題で、差別も許されるみたいな話ですが、これはたとえば創価学会の八百屋さんがアルバイト店員を雇う時、「できれば同じ創価学会の学生さんを雇いたいなー」と思ったとしても、それを国家が「思想に基づく差別だ!」として介入することはできない。そういうことです。
    一方で、いったん雇ってそれによって生計を立てている人を、思想が違うからという理由で解雇することはできません。これは国家の介入が許されています。
    このへんは「常識」で判断できることではないでしょうか。へんに法令を粘土のようにこねくりまわして、「差別してもいいんだ」みたいな一般の常識や良心に反するような結論をだしても結果妥当性が確保されず、単なる屁理屈だと思います。

  • こんにちは。
    【日本人の大半はおそらく差別者です。そのうちの半数は自覚的な差別者で、残りは傍観者的な差別者です。】←全く同じ内容をアメリカ人が言ってました。彼曰く、日本人は差別していることに気付いていない人が多い、しかし、これも差別なんだと言ってました。これを言われたときは、なんだかとても悔しかったです。しかし、納得してしまいました。私は「自分が差別した記憶」も「自分が差別者」だとも感じていませんでしたが、「中国人と日本人は同じ」などと言われた時に、何かもやもやしてしまいました。この感情こそ、りっぱな差別ですね。もっと眼と心を大きく開いて、日本人というか世界人にならなくてはいけないと思います。