なるほど、従来から、政治的意識を持つ人が左翼になるか右翼になるかは以外と生活体験や学校体験、もっといえば個人の性格によるところが多いんじゃないかと思ってたんですが、こういうのを読むと、決め付けはいけないけど成る程なあと思いますね。私の学校にいじめがなかったなんて奇麗事は言わないけど、ここまできついのはなかったなあ。家も下町では裕福な方だったし。ただ、こういう個人的略歴もいいのですが(逆によくこういうきつい体験書けるなと思う)今どういう運動に共感し、どういう思想家に注目しているか、なども書いてくださったほうが参考になります。そのあたりも順次。
はじめまして。 こういう言い方をすると非常に不愉快にお思いになるでしょうが、以前よりアムネスティの主張には些か偏りがあるのではないかと思っておりましたが(特に死刑廃止問題)、貴殿の自己紹介を拝読して納得できる部分がありました。 アムネスティが新左翼系だとかいう意味ではないのですが、例えば大道寺死刑囚等に対して多大の同情を寄せているところなどには率直に言って違和感を覚えます。いかにもっともらしい主義主張を唱えていようとも彼らのしたことは無差別大量殺戮に他ならない。 いまだに後遺症で苦しんでいる人もいると聞きます。そのような事実には余り触れずにただ「生命の尊厳」だとか「人の命は地球より重い」などと説くのは公正な態度とは思えません。
>70 DHF さま いえいえ、別に不愉快には思いませんよ。考え方は人それぞれです。ただ、やはり本文にありますように、私はアムネスティに賛同しておりますが、アムネスティの関係者がこのブログを読んでも、決して賛同はされないであろうということは、ご理解ください。アムネスティはどんな理由があろうとも、暴力を用いた政治活動に理解を表明することはありません。 実はもともと左翼の立場からすれば、アムネスティなんてのは、「よりよい資本主義」を求めるずぶずぶの改良主義者であって、むしろ粉砕の対象ですらありましたし、私もかつてはそう思っていました。 「偏っている」かどうかはその人の軸の取り方にによる非常にあいまいな言い方なので、その点について不毛な論争をするつもりはありません。たとえば活動家時代の私はアムネスティを「右派」と位置付けていましたが、現在では「中道」と思っています。察するにDHFさんは「左派」であるかのように受け止めておられるのでしょう。 私の受け止めるアムネスティのあり方は、いわば「人権の赤十字」です。赤十字が戦場で、敵味方の区別無く治療するように、アムネスティは人権の侵害があれば、その人の政治的・思想的・宗教的背景や過去に関係無く救済します。それがどんな凶悪な犯罪者でもです。よってアムネスティは、日本やアメリカではなんとなく「左翼」っぽく見え、対中国やチベット問題への取り組みでは、なんとなく「反共」であるかのように見えたりしますが、単に政治的に「中立」であるだけの話です。ただ、「中立」と言っても、それだけでは何も語っていないのと同じですから、そこは「世界人権宣言」を活動のよりどころ、判断基準とするという構造になっているわけです。最低限、「世界人権宣言」に賛同できない人は、アムネスティの活動はできませんし、その逆も真なりです。 最後に、私の経歴・主張・活動は、アムネスティの理念や理想とは、かなり抵触いたします。それは私としては大きな問題ではありませんが、私のあり方を通して、アムネスティを色眼鏡で見られたりして、迷惑をかけるのは本意ではありません。アムネスティ活動の紹介につきましては、「旗旗」とは別の独立したブログを立てており、そちらからは「旗旗」へのリンクも設置しておりません。よろしければ、アムネスティ関連の話題につきましては、サイトメニューの「アムネスティ紹介」からそちらの別ブログに飛んでいただき、そこでコメントいただければ幸いです。
丁寧な御返事をいただいて恐縮に存じます。 私は別段アムネスティを「左派」だとして否定するとか糾弾するといったような意図は持っておりません。私自身は特に左でも右でもない言わばノンポリ的な位置だと思っております。 ただ、死刑の存廃問題に関して「死刑は国家権力による犯罪であり、国際人権法に違反するものであるから絶対に容認できないが、犯罪行為そのもは単なる私人間の偶発的出来事に過ぎず、故に犯罪被害者の救済等には関知しない」という理念に疑問を持っているので「些か偏っている」のではと申し上げた次第です。 日本支部に問い合わせたりしたこともありますが、一度たりとも返答を頂いたことがありません。恐らく低次元の「あら探し、揚げ足取り」というふうにお受け取りになったのでしょう。残念に思いました。
私が唯一読んでいる左派系のブログがここです。非常にスッキリと左にウイングを伸ばし、しかも飾らない態度、率直な正義感を維持している態度が好きです。あいまいな自称市民派は大嫌いです。 始めはなんちゅーアナクロと思っていましたが(誰でもあの大時代的プロレタリア絵画にはたまげますが、一種のシャレだと思っていいんでしょうかね)。 私もとある党派にいました。当時私の属していた党派は一時、日向戦旗と共闘していましたから(絞られてきますねぇ)、菱田あたりや第4ゲートあたりでご一緒したかもしれません。私自身は心情的には自分の党派より、あなた方のほうが体質的に近いと思っていました、まぁどうでもいいことですが。 5・20に楯の水平打ちを一発くらった頭部の傷で、今でもときおりひどい頭痛がします。飲み過ぎのせいかもしれませんが、わ、はは。 なんせ1カ月入院だったもので、会社もやめて(労組の書記長を5年もやって大いににらまれておりましたバカです)、それまで縁あった沖縄に渡り百姓になりました。今は日本に帰ってきております。 さて、今はまったく思想を変えています。若い有機農業の仲間からはウヨクジジイという名誉ある称号を頂戴しています(苦笑)。というのは、彼らの言うなまくらな安保とか有事、人権などという議論をことごとくフンサイしてしまうからです。 イラク派兵で仲間が自衛隊の基地にデモに行くと言った時には「お前ら貧乏な農家の伜が任務で死地に行く自衛隊の基地にデモかけるなら死んでしまえ、敵を誤っている。どうしても行きたいのなら3人でも霞が関にいけ」とわめいたぼどで、それからは昇格してハンドーですよ。 したがって、イラク戦も有事立法も多分あなたとはまったく考えを180度逆にするでしょう。 私にとって国家という枠組みはもはや硬直的に打倒すべき対象ではなく、いかに私たちが作るモデルによって変わっていくかを支える大きな枠組みでしかありません。 また、民族ということについても、沖縄に暮らすことにより抽象的ではなくなりました。 そしてなにより「政治」などということで人間という存在が変わるとも(あなたやわたしは変わったとしても)どうしても思えなくなったからです。 政治的なアプローチによる変革は、それをしている人が自覚的であればいいのですが、えてしてそうではありません。自分のよく見える「眼」、自分のよく聞こえる「耳」、人一倍ひりひりする「皮膚」、自分のよく回る「脳味噌」の延長上にえてしてあります。少なくとも私が知るかつての「同志」の多くはそうでした。 政治は人の営みにとってきわめて限定的なものです。政治は何も変えない。まして今の衰退した左翼政治ではなにも変わらないと思います。 かつて政治的なラジカルが意味あったのは、「その先」がなんとなく見えたからでした。むろんそのようなものは夢想にすぎませんでしたが。 今の日本の左翼運動はまったくの防衛運動です。それはかつて私たちが「戦後民主主義批判」として声を枯らして批判したことだ。 個別課題反対闘争には限界があります。有事法制粉砕でもいいが、それに代わるモデルを提示できないなら、それは単なる防衛闘争です。吉本風に言えば「勝てないが、負けない闘争」でしかありません。 そしてそれを個別具体でやり出したら、対抗提案を用意できますか?対抗モデルを具体的に提示できますか?失礼だがたぶんできない。 つまりかつての社共よろしく反対のための反対だ。これではなにも変わらないのではないでしょうか。なぜなら「その先」が見えませんから。人間は一生反対闘争をしているわけにはいかないのです。
こんにちは。私は、いわれなき差別をするのも、されるのも大嫌いです。属性や噂だけで他人を評価したりせず、必ず本人と直接話して自分で判断します。私はこうした態度は、人間としての基本的な品位のカテゴリーに分類される問題だと信じています。よって、草加さんのような社会・共産系の方が、往々にして、これをなぜ「政治的な左翼」にしか存在しない思考のようにレッテル貼りするのか、まったく分かりません。 これは政治イデオロギーの左右の問題ではありません。左右どちらの体制の国でも、人権意識に覚醒した人々と、そうでない人々が存在するだけだと思います。 ここをゴッチャにしたことから起きた混乱。それは、左翼思想のある国に行けば、差別の無い「地上の楽園」があると誤解してしまったこと。共産国の軍拡や人権弾圧には抗議しない、という二重基準が出来あがってしまったこと。 またさらに、左翼国家から政治的に「右」とされる国(日本のような)の人々に対する差別発言や、拉致のような人権被害を、抗議どころか殆ど冷淡に放置してしまったことなどでしょう。 現在の日本を見ると、社会・共産系の人々は、彼らが「右翼」と呼んできた人々の体制から、思想や言論の自由を保証され、反抗する権利も与えてもらって、「右翼」を非難しているわけで、非常に説得力に欠ける、自己矛盾した存在だと思います。 結論を申しますと、世界の共産国での人権弾圧の酷さが明らかになり、政治イデオロギーで人間が向上しないことが判明してから相当に時間が経過した今の時点で、差別や人権問題を、政治イデオロギー的左翼と関係づけて話すことは、若者や社会に「誤解を引き継ぎ」、過去にその誤解に立脚して生まれた問題の、精算を遅らせてしまうことになります。 元活動家の方々には、まさに、「政治イデオロギーと人権擁護は別問題であった」とする切り離しこそ、「総括」としてやっていただきたいのです。
ホーボーさんの書き込みも、コラボレさんの書き込みも、実はさほど違和感を感じずに読めてしまう私は本当に「左派」なのかと少し不安になる今日この頃です(笑)。 このエントリーはまあ「張り紙」みたいなものなので、皆様もいろいろとご自分のスタンス、およびそこからみた私の駄文への感想など張り付けておいてくださればと思います。 コラボレさんに一言。たとえば同じ「左派」でもその内容やスタンスは千差万別であり、非常に多くの潮流があることはご理解いただきたいと思います。コラボレさんがおっしゃる「社会・共産系」という表現がどのような内容なのかわかりませんが、何となく「社民党系・共産党系」みたいで、こう呼ばれることには違和感があります。たとえば右派の人にとっても、田中角栄から三島由紀夫まで、そのすべてを「保守派」の一言ですまされたら心外もしくは違和感があるでしょう?このへんは「属性や噂だけで他人を評価したり」しないでほしいところです。 私達のような「反スタ左翼」の潮流を出自とする者は、元来、「共産国」での人民抑圧の実態を批判することを最大の歴史的使命として登場してきたものです。別の言い方をすれば、「マルクス主義の原点に戻れ」「共産主義の理想に立ち帰ろう」という「青臭い」集団であったわけです。さらに返す刀で日本共産党の官僚ぶりを、自分達の党派的利害を大衆の願いより上に置く、ただ「党勢拡大」しか考えていない、単なる「囲い込み運動」であると批判してきました。 こういう私達の激しいソ連批判、中国批判、日共批判に対して、当の日本共産党からは「裏切り者」「権力の手先」「ニセ『左』翼」「分裂主義者」「暴力集団」「反共主義者」(え~っと他にもあったかな)など、とにかく山のようなレッテルを頂戴いたしました。 そしてまた、こういう「反スタ左翼」の中でも、私達のようなブント系の他にも、「内ゲバ問題」で一般に評判の悪い中核や革マルのような革共同系、さらには第四インターのようなトロツキスト系、プロ青のような構造改革派系、解放派のようなローザ・ルクセンブルク主義系、ML同盟のような毛沢東主義系、はたまた毛沢東死後には「アルバニア系」なんてのもいたくらいで、やはり千差万別なのです。 よって、少なくとも ○左翼思想のある国に行けば差別の無い「地上の楽園」があると誤解してしていた ○共産国の軍拡や人権弾圧には抗議しなかった の2点については、事実に反します。このへんは社共両党に言ってください。ただし「右翼の反共主義を支持しなかった」という文脈で語っておられるのなら、その通りです。私達のソ連批判などは左からの批判(共産主義の原点からする批判)であって、反共主義とは全く違います。 なお、「社会・共産系」は「彼らが『右翼』と呼んできた人々の体制から思想や言論の自由を保証され」て反対しているんだからそれは「自己矛盾した存在」だという認識は持っておりません。 まず第一に、事実として憲法や法律に書いてある通りの「言論の自由」は反体制派には保障されていなかったという点が一つ。 第二に言論の自由、社会福祉、年金制度、労働基本権、8時間労働制、医療保険などの修正資本主義における諸制度は、世界的・歴史的に見て、おそらくコラボレさんなら「社会・共産系」と呼ぶであろう人々が命を賭けた闘争の中で、資本主義側の妥協と譲歩として実現してきたものだと考える点が一つ。よってこれらは、人民大衆の側が行使せずに油断していれば、いつでも後退・形骸化すると考えます。 第三に私達は「言論の自由」があるから反体制運動をするのではないということ、たとえ言論の自由がなくとも、政府を批判すれば逮捕・投獄されるような社会であっても、やはり私達は反体制運動をしていたのだということ、つまりそんなことは関係ないのだという点が一つです。 さらに当時の私ですら「差別に反対する思考」が「政治的な左翼にしか存在しない思考のようにレッテル貼り」なんぞしておりません。左翼でない一般の人々の中にも、「人権派」が存在しているなんぞは当たり前のことであります。そういう良心的な人々に左翼的なポジションから具体的な方針を呼びかけるのは、政治団体ならむしろ当たり前のことです。私には事態はむしろまったく逆のように思えます。つまり、純粋素朴に「反差別・人権擁護・戦争反対・人間としての価値の平等」などの観念を持っているにすぎない一般市民に、あたかもそれが「政治的な左翼」であるかのように、「人権屋」「反日分子」などの「レッテル貼り」がなされていると思います。 私達は「左翼にしか反差別思想は存在し得ない」と言っていたのではなく、「右翼思想は差別を温存助長する」と言っていたのであって、これは全く違います。これに右派の立場から反応するのであれば、「政治イデオロギーの左右の問題ではありません」などと言わずに、右派の政治的立場と反差別思想がストレートに結びつくことが可能であると実証すれば、それで左翼は沈黙するんではないですかね。 少なくとも当ブログにもたびたび登場される右翼の三浦小太郎さんなどは、そういう方向で立論されようとしておられるので、こちらも負けられないと思うわけです。三浦さんの態度から比べれば、「左右の問題ではありません」というのは(厳しい言い方になりますが)一種の「逃げ」のように思えます。 なお、ここは「自己紹介」なんで。。。 差別については(http://hatahata.mods.jp/archives/2005/03/post_161.html)あたりへ 三浦さんについては(http://hatahata.mods.jp/archives/2005/02/post_141.html)あたりへ 表現の自由については(http://hatahata.mods.jp/archives/cat48/cat50/)くらいに
私は若い頃はノンセクトの活動家で内ゲバ派以外の新左翼諸党派の多く、とくに日向戦旗とは結構親しくさせていただいていました。当時は戦後民主主義を批判し乗り越えたいと思っていましたが、現在は戦後民主主義を守るために必死で社民党員をしています。 私自身そうだったのですが、左翼は左翼であることが全てのよいものを独占することだと思いこんでいる場合が多いけど、それは根本的に誤りだと思うのです。経済政策が左か右かということと、手法が穏健か過激か、能力の多寡、人権意識の有無、国家主義的か否か、独裁的か民主主義的か、人間性が豊富か貧しいか、リーガルリテラシーの有無とか、全ては別の問題なんですよ。人権意識を欠いた左翼があれば、民主的な右翼だってあり得る。共産党や革マル派の政権より自民党の政権の方がたぶん民主的だし不当な権力弾圧も少ないんじゃないかな。 私としては同じ無能なら左の方がいいし、同じ国家主義者なら左の方がマシだと思いたいけどね。
PINKO様>すっかりお返事遅くなりましたが、こんな古いエントリーにありがとうございます。 そうですね。私にとって「左翼」とは、あれやこれやの主義主張ではなく、生き方の問題でしたね。このサイトでも常々、「左翼思想とは手段であって目的ではない」といい続けてきたのも、同じ趣旨からです。 手段を共有できても、肝心の目的が違ってしまったような人とは、一緒にはできないということなんではないでしょうか? では、目的は共有できるが、手段が違う人とは一緒にやれるのかと言えば、なかなかそうはいかない。まあ「切磋琢磨して競争する」ってことになるんかな?難しいところですが。
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なるほど、従来から、政治的意識を持つ人が左翼になるか右翼になるかは以外と生活体験や学校体験、もっといえば個人の性格によるところが多いんじゃないかと思ってたんですが、こういうのを読むと、決め付けはいけないけど成る程なあと思いますね。私の学校にいじめがなかったなんて奇麗事は言わないけど、ここまできついのはなかったなあ。家も下町では裕福な方だったし。ただ、こういう個人的略歴もいいのですが(逆によくこういうきつい体験書けるなと思う)今どういう運動に共感し、どういう思想家に注目しているか、なども書いてくださったほうが参考になります。そのあたりも順次。
はじめまして。
こういう言い方をすると非常に不愉快にお思いになるでしょうが、以前よりアムネスティの主張には些か偏りがあるのではないかと思っておりましたが(特に死刑廃止問題)、貴殿の自己紹介を拝読して納得できる部分がありました。
アムネスティが新左翼系だとかいう意味ではないのですが、例えば大道寺死刑囚等に対して多大の同情を寄せているところなどには率直に言って違和感を覚えます。いかにもっともらしい主義主張を唱えていようとも彼らのしたことは無差別大量殺戮に他ならない。
いまだに後遺症で苦しんでいる人もいると聞きます。そのような事実には余り触れずにただ「生命の尊厳」だとか「人の命は地球より重い」などと説くのは公正な態度とは思えません。
>70 DHF さま
いえいえ、別に不愉快には思いませんよ。考え方は人それぞれです。ただ、やはり本文にありますように、私はアムネスティに賛同しておりますが、アムネスティの関係者がこのブログを読んでも、決して賛同はされないであろうということは、ご理解ください。アムネスティはどんな理由があろうとも、暴力を用いた政治活動に理解を表明することはありません。
実はもともと左翼の立場からすれば、アムネスティなんてのは、「よりよい資本主義」を求めるずぶずぶの改良主義者であって、むしろ粉砕の対象ですらありましたし、私もかつてはそう思っていました。
「偏っている」かどうかはその人の軸の取り方にによる非常にあいまいな言い方なので、その点について不毛な論争をするつもりはありません。たとえば活動家時代の私はアムネスティを「右派」と位置付けていましたが、現在では「中道」と思っています。察するにDHFさんは「左派」であるかのように受け止めておられるのでしょう。
私の受け止めるアムネスティのあり方は、いわば「人権の赤十字」です。赤十字が戦場で、敵味方の区別無く治療するように、アムネスティは人権の侵害があれば、その人の政治的・思想的・宗教的背景や過去に関係無く救済します。それがどんな凶悪な犯罪者でもです。よってアムネスティは、日本やアメリカではなんとなく「左翼」っぽく見え、対中国やチベット問題への取り組みでは、なんとなく「反共」であるかのように見えたりしますが、単に政治的に「中立」であるだけの話です。ただ、「中立」と言っても、それだけでは何も語っていないのと同じですから、そこは「世界人権宣言」を活動のよりどころ、判断基準とするという構造になっているわけです。最低限、「世界人権宣言」に賛同できない人は、アムネスティの活動はできませんし、その逆も真なりです。
最後に、私の経歴・主張・活動は、アムネスティの理念や理想とは、かなり抵触いたします。それは私としては大きな問題ではありませんが、私のあり方を通して、アムネスティを色眼鏡で見られたりして、迷惑をかけるのは本意ではありません。アムネスティ活動の紹介につきましては、「旗旗」とは別の独立したブログを立てており、そちらからは「旗旗」へのリンクも設置しておりません。よろしければ、アムネスティ関連の話題につきましては、サイトメニューの「アムネスティ紹介」からそちらの別ブログに飛んでいただき、そこでコメントいただければ幸いです。
丁寧な御返事をいただいて恐縮に存じます。
私は別段アムネスティを「左派」だとして否定するとか糾弾するといったような意図は持っておりません。私自身は特に左でも右でもない言わばノンポリ的な位置だと思っております。
ただ、死刑の存廃問題に関して「死刑は国家権力による犯罪であり、国際人権法に違反するものであるから絶対に容認できないが、犯罪行為そのもは単なる私人間の偶発的出来事に過ぎず、故に犯罪被害者の救済等には関知しない」という理念に疑問を持っているので「些か偏っている」のではと申し上げた次第です。
日本支部に問い合わせたりしたこともありますが、一度たりとも返答を頂いたことがありません。恐らく低次元の「あら探し、揚げ足取り」というふうにお受け取りになったのでしょう。残念に思いました。
私が唯一読んでいる左派系のブログがここです。非常にスッキリと左にウイングを伸ばし、しかも飾らない態度、率直な正義感を維持している態度が好きです。あいまいな自称市民派は大嫌いです。
始めはなんちゅーアナクロと思っていましたが(誰でもあの大時代的プロレタリア絵画にはたまげますが、一種のシャレだと思っていいんでしょうかね)。
私もとある党派にいました。当時私の属していた党派は一時、日向戦旗と共闘していましたから(絞られてきますねぇ)、菱田あたりや第4ゲートあたりでご一緒したかもしれません。私自身は心情的には自分の党派より、あなた方のほうが体質的に近いと思っていました、まぁどうでもいいことですが。
5・20に楯の水平打ちを一発くらった頭部の傷で、今でもときおりひどい頭痛がします。飲み過ぎのせいかもしれませんが、わ、はは。
なんせ1カ月入院だったもので、会社もやめて(労組の書記長を5年もやって大いににらまれておりましたバカです)、それまで縁あった沖縄に渡り百姓になりました。今は日本に帰ってきております。
さて、今はまったく思想を変えています。若い有機農業の仲間からはウヨクジジイという名誉ある称号を頂戴しています(苦笑)。というのは、彼らの言うなまくらな安保とか有事、人権などという議論をことごとくフンサイしてしまうからです。
イラク派兵で仲間が自衛隊の基地にデモに行くと言った時には「お前ら貧乏な農家の伜が任務で死地に行く自衛隊の基地にデモかけるなら死んでしまえ、敵を誤っている。どうしても行きたいのなら3人でも霞が関にいけ」とわめいたぼどで、それからは昇格してハンドーですよ。
したがって、イラク戦も有事立法も多分あなたとはまったく考えを180度逆にするでしょう。
私にとって国家という枠組みはもはや硬直的に打倒すべき対象ではなく、いかに私たちが作るモデルによって変わっていくかを支える大きな枠組みでしかありません。
また、民族ということについても、沖縄に暮らすことにより抽象的ではなくなりました。
そしてなにより「政治」などということで人間という存在が変わるとも(あなたやわたしは変わったとしても)どうしても思えなくなったからです。
政治的なアプローチによる変革は、それをしている人が自覚的であればいいのですが、えてしてそうではありません。自分のよく見える「眼」、自分のよく聞こえる「耳」、人一倍ひりひりする「皮膚」、自分のよく回る「脳味噌」の延長上にえてしてあります。少なくとも私が知るかつての「同志」の多くはそうでした。
政治は人の営みにとってきわめて限定的なものです。政治は何も変えない。まして今の衰退した左翼政治ではなにも変わらないと思います。
かつて政治的なラジカルが意味あったのは、「その先」がなんとなく見えたからでした。むろんそのようなものは夢想にすぎませんでしたが。
今の日本の左翼運動はまったくの防衛運動です。それはかつて私たちが「戦後民主主義批判」として声を枯らして批判したことだ。
個別課題反対闘争には限界があります。有事法制粉砕でもいいが、それに代わるモデルを提示できないなら、それは単なる防衛闘争です。吉本風に言えば「勝てないが、負けない闘争」でしかありません。
そしてそれを個別具体でやり出したら、対抗提案を用意できますか?対抗モデルを具体的に提示できますか?失礼だがたぶんできない。
つまりかつての社共よろしく反対のための反対だ。これではなにも変わらないのではないでしょうか。なぜなら「その先」が見えませんから。人間は一生反対闘争をしているわけにはいかないのです。
こんにちは。私は、いわれなき差別をするのも、されるのも大嫌いです。属性や噂だけで他人を評価したりせず、必ず本人と直接話して自分で判断します。私はこうした態度は、人間としての基本的な品位のカテゴリーに分類される問題だと信じています。よって、草加さんのような社会・共産系の方が、往々にして、これをなぜ「政治的な左翼」にしか存在しない思考のようにレッテル貼りするのか、まったく分かりません。
これは政治イデオロギーの左右の問題ではありません。左右どちらの体制の国でも、人権意識に覚醒した人々と、そうでない人々が存在するだけだと思います。
ここをゴッチャにしたことから起きた混乱。それは、左翼思想のある国に行けば、差別の無い「地上の楽園」があると誤解してしまったこと。共産国の軍拡や人権弾圧には抗議しない、という二重基準が出来あがってしまったこと。
またさらに、左翼国家から政治的に「右」とされる国(日本のような)の人々に対する差別発言や、拉致のような人権被害を、抗議どころか殆ど冷淡に放置してしまったことなどでしょう。
現在の日本を見ると、社会・共産系の人々は、彼らが「右翼」と呼んできた人々の体制から、思想や言論の自由を保証され、反抗する権利も与えてもらって、「右翼」を非難しているわけで、非常に説得力に欠ける、自己矛盾した存在だと思います。
結論を申しますと、世界の共産国での人権弾圧の酷さが明らかになり、政治イデオロギーで人間が向上しないことが判明してから相当に時間が経過した今の時点で、差別や人権問題を、政治イデオロギー的左翼と関係づけて話すことは、若者や社会に「誤解を引き継ぎ」、過去にその誤解に立脚して生まれた問題の、精算を遅らせてしまうことになります。
元活動家の方々には、まさに、「政治イデオロギーと人権擁護は別問題であった」とする切り離しこそ、「総括」としてやっていただきたいのです。
ホーボーさんの書き込みも、コラボレさんの書き込みも、実はさほど違和感を感じずに読めてしまう私は本当に「左派」なのかと少し不安になる今日この頃です(笑)。
このエントリーはまあ「張り紙」みたいなものなので、皆様もいろいろとご自分のスタンス、およびそこからみた私の駄文への感想など張り付けておいてくださればと思います。
コラボレさんに一言。たとえば同じ「左派」でもその内容やスタンスは千差万別であり、非常に多くの潮流があることはご理解いただきたいと思います。コラボレさんがおっしゃる「社会・共産系」という表現がどのような内容なのかわかりませんが、何となく「社民党系・共産党系」みたいで、こう呼ばれることには違和感があります。たとえば右派の人にとっても、田中角栄から三島由紀夫まで、そのすべてを「保守派」の一言ですまされたら心外もしくは違和感があるでしょう?このへんは「属性や噂だけで他人を評価したり」しないでほしいところです。
私達のような「反スタ左翼」の潮流を出自とする者は、元来、「共産国」での人民抑圧の実態を批判することを最大の歴史的使命として登場してきたものです。別の言い方をすれば、「マルクス主義の原点に戻れ」「共産主義の理想に立ち帰ろう」という「青臭い」集団であったわけです。さらに返す刀で日本共産党の官僚ぶりを、自分達の党派的利害を大衆の願いより上に置く、ただ「党勢拡大」しか考えていない、単なる「囲い込み運動」であると批判してきました。
こういう私達の激しいソ連批判、中国批判、日共批判に対して、当の日本共産党からは「裏切り者」「権力の手先」「ニセ『左』翼」「分裂主義者」「暴力集団」「反共主義者」(え~っと他にもあったかな)など、とにかく山のようなレッテルを頂戴いたしました。
そしてまた、こういう「反スタ左翼」の中でも、私達のようなブント系の他にも、「内ゲバ問題」で一般に評判の悪い中核や革マルのような革共同系、さらには第四インターのようなトロツキスト系、プロ青のような構造改革派系、解放派のようなローザ・ルクセンブルク主義系、ML同盟のような毛沢東主義系、はたまた毛沢東死後には「アルバニア系」なんてのもいたくらいで、やはり千差万別なのです。
よって、少なくとも
○左翼思想のある国に行けば差別の無い「地上の楽園」があると誤解してしていた
○共産国の軍拡や人権弾圧には抗議しなかった
の2点については、事実に反します。このへんは社共両党に言ってください。ただし「右翼の反共主義を支持しなかった」という文脈で語っておられるのなら、その通りです。私達のソ連批判などは左からの批判(共産主義の原点からする批判)であって、反共主義とは全く違います。
なお、「社会・共産系」は「彼らが『右翼』と呼んできた人々の体制から思想や言論の自由を保証され」て反対しているんだからそれは「自己矛盾した存在」だという認識は持っておりません。
まず第一に、事実として憲法や法律に書いてある通りの「言論の自由」は反体制派には保障されていなかったという点が一つ。
第二に言論の自由、社会福祉、年金制度、労働基本権、8時間労働制、医療保険などの修正資本主義における諸制度は、世界的・歴史的に見て、おそらくコラボレさんなら「社会・共産系」と呼ぶであろう人々が命を賭けた闘争の中で、資本主義側の妥協と譲歩として実現してきたものだと考える点が一つ。よってこれらは、人民大衆の側が行使せずに油断していれば、いつでも後退・形骸化すると考えます。
第三に私達は「言論の自由」があるから反体制運動をするのではないということ、たとえ言論の自由がなくとも、政府を批判すれば逮捕・投獄されるような社会であっても、やはり私達は反体制運動をしていたのだということ、つまりそんなことは関係ないのだという点が一つです。
さらに当時の私ですら「差別に反対する思考」が「政治的な左翼にしか存在しない思考のようにレッテル貼り」なんぞしておりません。左翼でない一般の人々の中にも、「人権派」が存在しているなんぞは当たり前のことであります。そういう良心的な人々に左翼的なポジションから具体的な方針を呼びかけるのは、政治団体ならむしろ当たり前のことです。私には事態はむしろまったく逆のように思えます。つまり、純粋素朴に「反差別・人権擁護・戦争反対・人間としての価値の平等」などの観念を持っているにすぎない一般市民に、あたかもそれが「政治的な左翼」であるかのように、「人権屋」「反日分子」などの「レッテル貼り」がなされていると思います。
私達は「左翼にしか反差別思想は存在し得ない」と言っていたのではなく、「右翼思想は差別を温存助長する」と言っていたのであって、これは全く違います。これに右派の立場から反応するのであれば、「政治イデオロギーの左右の問題ではありません」などと言わずに、右派の政治的立場と反差別思想がストレートに結びつくことが可能であると実証すれば、それで左翼は沈黙するんではないですかね。
少なくとも当ブログにもたびたび登場される右翼の三浦小太郎さんなどは、そういう方向で立論されようとしておられるので、こちらも負けられないと思うわけです。三浦さんの態度から比べれば、「左右の問題ではありません」というのは(厳しい言い方になりますが)一種の「逃げ」のように思えます。
なお、ここは「自己紹介」なんで。。。
差別については(http://hatahata.mods.jp/archives/2005/03/post_161.html)あたりへ
三浦さんについては(http://hatahata.mods.jp/archives/2005/02/post_141.html)あたりへ
表現の自由については(http://hatahata.mods.jp/archives/cat48/cat50/)くらいに
私は若い頃はノンセクトの活動家で内ゲバ派以外の新左翼諸党派の多く、とくに日向戦旗とは結構親しくさせていただいていました。当時は戦後民主主義を批判し乗り越えたいと思っていましたが、現在は戦後民主主義を守るために必死で社民党員をしています。
私自身そうだったのですが、左翼は左翼であることが全てのよいものを独占することだと思いこんでいる場合が多いけど、それは根本的に誤りだと思うのです。経済政策が左か右かということと、手法が穏健か過激か、能力の多寡、人権意識の有無、国家主義的か否か、独裁的か民主主義的か、人間性が豊富か貧しいか、リーガルリテラシーの有無とか、全ては別の問題なんですよ。人権意識を欠いた左翼があれば、民主的な右翼だってあり得る。共産党や革マル派の政権より自民党の政権の方がたぶん民主的だし不当な権力弾圧も少ないんじゃないかな。
私としては同じ無能なら左の方がいいし、同じ国家主義者なら左の方がマシだと思いたいけどね。
PINKO様>すっかりお返事遅くなりましたが、こんな古いエントリーにありがとうございます。
そうですね。私にとって「左翼」とは、あれやこれやの主義主張ではなく、生き方の問題でしたね。このサイトでも常々、「左翼思想とは手段であって目的ではない」といい続けてきたのも、同じ趣旨からです。
手段を共有できても、肝心の目的が違ってしまったような人とは、一緒にはできないということなんではないでしょうか?
では、目的は共有できるが、手段が違う人とは一緒にやれるのかと言えば、なかなかそうはいかない。まあ「切磋琢磨して競争する」ってことになるんかな?難しいところですが。