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 いやはや、また大恥をかいてしまった。まあ、もう恥はかきなれているというか、恥かくのを嫌がっておったら、私のごとき無知蒙昧な輩は、最初からブログなんてやっておれないわけでありますが、今回は他人様のブログに出張してまで恥かいてしまったという、大変に迷惑なことをしてしまいました。

 いえね、黒目さんとこの「ですぺら」で、反WTO報告集会に関する案内があったわけですが、そのコメント欄に、当サイトやアッテンボローさんとこにもたまに登場されるhiroさんが、「本当に新自由主義は悪なのか?今も冷戦思考を引きずっている左翼諸氏のチュチェ思想こそ悪ではないのか」という、「従属論批判」のコメントを残されました。

 で、私はこのhiroさんのコメントを完全に誤読してしまいまして、要するに「左翼陣営は改革に反対する抵抗勢力である」「今こそ構造改革の痛みに耐えて頑張ろう!その先に幸せがある」みたいな、小泉さん的レトリックに類するものと誤解してしまいました。それでまあ、「左翼諸氏のチュチェ思想」のような下品な揶揄は、かえって説得力を下げるからやめたほうがいいよという忠告と共に、「私達が問題にしておるのは、社会主義と新自由主義(グローバル化)のどちらの経済モデルがより発展するかという『冷戦思考』ではないし、西欧的に発展しなきゃいけないという強迫観念こそが問題である。そうではなくて、私らは『痛み』を固定的にしわよせされて、切り捨てられるような人々に連帯しておるのだ」てな趣旨のことを(しかも非常にわかりにくく)書いたわけであります。

 しかしこれは完全にピンボケでありまして、その後の黒目さんとhiroさんのやりとりを見てはじめて気がついたのでありますが、hiroさんは、小泉さん的な比喩で申しますと「構造改革の痛みに耐えて頑張ろう」ではなくて、そもそも「痛みなんて存在しないのだ」もしくは「痛みの原因は構造改革ではなく、痛みを感じるような奴の自己責任である」というような論旨だったわけであります。まあ、これはわかりやすく書けない私の比喩ですから、hiroさんの主張に興味のある方は、「ですぺら」の原文をお読みください。

 いや、しかしまったく恥ずかしい限りですが、幸いにも(?)優しいお二人からは無慈悲な突込みをいれられることもなく、放置・無視していただいたので、なんとか恥ずかしさのあまりに自決することもなく、こうして生きながらえておるような次第です(苦笑)。まあ、すでに80年代の段階で「マルクス主義は産業(発展万能)主義ではないのか」みたいな主張がほかならぬ左翼内部から現れて、さんざんすったもんだの議論をしてきた経緯などほとんどご存じないhiroさんの、左翼に対する平板な理解という点は間違ってなかったとは思いますが、この問題についても、黒目さんがその後のエントリーで遥かにわかりやすく展開しておられます。

 まあ、しかし一般人にそこまでの理解を前提条件として求めるのは酷なのも事実でしょう。そこは「左翼と一口に言っても、大変に幅広い思想があるんだ」ということが一般認識になるほど、豊穣で幅広い選択肢を大衆に与えてこなかったという主体的問題として考えていきましょう。ただし、この問題で「左翼批判」をするなら、この程度の認識はもっておいてほしかったとも思いますが。

 それでまあ、せっかく両氏が優しく放置してくれた私の恥を、わざわざこうして公開する気になりましたのは、hiroさんの紹介される「新理論」に、「ついにここまできたか」という感慨をもったからであります。

 今までも私達の眼前には、日本帝国主義のアジア侵略など「なかった」という主張がありました。しかしこれはまだ私が活動していた80年代でも、街宣右翼が主張していたし、自民党内の極右派の方も主張していた内容であり、その頃と主張の中身(根拠)はさほど変わっていない。欧米でもナチスのユダヤ人虐殺は「なかった」という主張が昔からありますし、最初に小林よしのりさんあたりがこれを「新しい大発見」みたいに若い人達にわかりやすく広め、これに対して歴史学者が面倒くさいもんだから無視を決め込むうちに、なんだか手のつけられないことになったわけです。けれども、そういう意味では「主張の存在」そのものには、さほどの驚きはなかった。

 次には、実は地球温暖化なんて「なかった」という「新理論」が出てきて、これには少し驚いた。だから環境保護なんて考えずに、どんどん石油を燃やして経済発展すればよいのだ、経済発展に罪悪感を持つ必要などないのだという結論になるわけですが、最初のうち少し極右的な人が採用していたけど、今では絶滅に向かっているのかなと思ってますが、どうなんですかね?ただ、いくら世の中で絶滅に向かう考えだとしても、世界一の経済大国の大統領が、内心ではこんな考えを採用していることが明白な状況では、いかんともしがたいですね。さすがにはっきりとは口に出せないみたいですけど。

 これとセットみたいに、エネルギー危機なんて「なかった」という主張もありましたね。まだまだ石油はある。エコロジーなんかで企業の足を引っ張るなみたいな。温暖化防止京都会議で、日本が提案して各国から呆れられ、あわててすぐに引っ込めた「温暖化防止と綺麗な地球のために原発を推進しよう」みたいな主張もあります。

 そうこうしているうちに、なんだか政治がらみ以外でも、昔に流行った、実はアポロの月着陸は「なかった」、あの映像は地球のスタジオで撮影したもんだなんていう、トンデモ話がまた息を吹き返して流行っているし、こりゃ世の中「なかったブーム」かと思っていたら、右翼陣営だけでなく、反戦運動の側からも、9・11テロなんて実は「なかった」、あれは戦争をするためのブッシュ政権による自作自演であった、なんて話がでてきた。

 非常に残念ながら、世の中そんなに複雑怪奇でもないと思うのだが、だいたいこういう「なかった話」を信奉されている方々は、こちらが「はあっ?」という態度をとると、「ほーら、これだから無知な大衆はこんな明白で疑いようのない100%の嘘に騙されているのだ!」って態度をとられ、非常に熱く(つーか、信用してないこちらに腹を立てつつ)、とうとうと熱弁をふるわれるのが常であります。ですから、本当はそれではいかんのでしょうが、正直なところを言いますと、この手の方とはあんまりかかわりたくないのが本音であります。

 んで、WTOやグローバル化の問題でも、これまでは、「アメリカやヨーロッパがたどった近代化の道を、他の諸国家がたどる事で、『近代化』して人々は自由で幸せになるのだ」つー(実は伝統的左翼陣営をも含めて蔓延する)ほとんど宗教的な信仰のもとに、各国の伝統的な共同体や、自国産業保護のための「規制」は撤廃され、自然の中で一次産業に従事していた人々は、いきなり「悲惨な貧乏人」にされたわけです。もちろん、ごく一部の人はその恩恵に預かり、金持ちになり、つまり貧富の差というものが拡大する。

 今までは「そういうことは初期の段階では必要でやむを得ず、そのうち経済発展が進めば解決する」という要するに解決可能な内部矛盾であるという人々と、「犠牲は固定された層に集中しており、いわれない犠牲を押し付けられる『持たざる者』の国際連帯でWTO体制と闘う」みたいな、要するに制度矛盾であるという人々との間で、わりとそれなりの議論があったと思うのです。それがここにきて、そんな犠牲や痛みなんて、実は「なかった」という「理論」が出てきたということなんでしょう。これはある意味真面目な「解決可能な内部矛盾」の主張ですらない。解決可能どころか、そもそも解決すべき現実が存在しないというわけですから。資本の移動や投資に罪悪感を持つ必要はないという結論を導くために使われるんでしょうが、つまりは目の前の現実を無いものとして扱おうとしているわけです。まあ、非常に「ユニーク」で「新しい」ことは確かですね。

 どこまで「なかった話」が進むのかと思っていたら、上に書いた「9・11はなかった」という主張を広めようとする動きに反対して論陣をはっているとほほさんが、自身の運営されている掲示板で、「地下鉄サリン事件はなかった」ということを論証してみるという思考実験をされておられました。つまり「嘘」はいっさい書かず、しっかりとしたソースを示せるような「信頼できる資料と証言」だけを使って、「サリン事件など本当はなかった。あれは歴史の捏造である」ということを「証明」する文章を作ろうということです。以下にとほほさんの掲示板から、その試作品部分を引用してみます。

///引用ここから////////////////

—地下鉄サリン事件はなかった—

1995年3月、東京霞ヶ関地下鉄構内で猛毒ガスであるサリンがばら撒かれ3800人にものぼる死者や負傷者をだしまだ後遺症に悩む人がいる、と言う事件を皆さんはご記憶であろう。この事件はその首魁が逮捕され東京地裁で死刑判決を受け、現在控訴中である。私もこの事件を報道のまま受入れ、世の中にはひどい奴もいるものだと信じ込んでいたが最近ある一冊の資料を発見した。私はそれを読んで愕然とした「我々は報道にだまされている」その確信を持った。

まずアンダーグランドの取材経過を記した序章部分からその虚構性を匂わせる記述を私は発見していた。考えてみれば報道された事件の矛盾点が次々と浮かび上がってくる、例えば報道によるとサリンを入れたビニール袋を新聞紙にくるみ先を尖らせた傘で袋をやぶりサリンをばら撒いたとある。考えてみよう、事件のあったと言われる3月20日は快晴である、そのような日にこれから凶悪犯罪を犯そうとする犯人が傍目に目立ちやすい、傘を持ち歩く、という愚挙を犯すものだろうか?
大体あなたが犯人であればどうだろう?そんな事をするよりも降車間際にカッターナイフで袋を破りばら撒いたほうが確実ではなかろうか?

とにかくこの事件は疑い出せばきりがない、私の主観を避けるためにここに資料から重要点だけを抜き出し判断を読者に仰ぎたいと思う。
まず3800人と言う被害者数についてであるが実際にはそのような数の被害者は存在しない。


○正直なところ、これは予想した以上に困難を伴う作業であった。この東京近郊にあれだけの数の事件被害者が存在しているのだから、事件についての証言を集めるのはとくに難しいことではあるまい、と最初の段階ではかなり簡単に考えていたのだが、話はそんなに生やさしくはなかった。

○とりあえず名前が判明している七〇〇人のリストを作成し、そこから作業を始めたのだが、「身元」が判明したのは二〇%程度だった。

○60人近くの「証言をしてくれる事件被害者」を見つけ出すのは、公式の発表によれば3800人もの被害者が存在しているにもかかわらず、実に時間と手間のかかる作業だった。
—アンダーグラウンド、村上春樹、講談社文庫、21P~23P—

おわかりであろうか、確かに我々は報道で3800人と言う被害数を知っているし、700名近くの名前が報道されている、が80%の名前は架空であったことが判明したのだ。しかも判明した20%のほとんどが証言を拒否しておりわずかに60人の人間が証言をしているのであるがその証言内容は矛盾点ばかりである。


○140人余りの方になんとか連絡を取ることができたものの、多くの場合

様々な理由で取材を拒否された。

○出版社の名前を告げただけで電話をがしゃんと切られるというようなことは、日常茶飯事だった。
—22P—

つまり身元がわかったうちのほとんどが証言しなかった事に読者は注目していただきたい。読者の中には「いや私は確かにテレビで報道映像を見た、多くの人が倒れていたし警察や消防の人が大勢現場にいたのを見ている」と言う方も多いであろう、確かに私も見た、しかし今回発見された資料の中に以下のような証言がある。


○それなのに道路のあっち側半分は、何事もなくいつも通りに職場に通勤している人の世界なのです。
○道を行く人々は「いったい何があったのかな?」っていうちょっと怪訝な顔をして見ているんですが、その人たちはこっちに入って来ようとはしない。そこはまったく別の世界なんです。足も止めず、我関せずという感じで。
○通産省の門番みたいな人がすぐ目の前に立っています。こっちには3人の方が倒れて、地面に横になって、来ない救急車をじっと待っているんです。すごい長い時間です。でも通産省の人は誰も助けを呼んでくれもしない。車を呼んでくれるでもない。

上記の証言を検証してわかるとおり、実際の目撃者の証言では駅周辺は大変静かであった事がわかる、特に通産省が何もしていない、これは考えられない事である、地下鉄は通産省の管轄下にあり、もし「言われているような」事件があったのであれば通産省が何もせずにいるはずがない。またこの証言者が目撃している被害者は3人だけである事にも注目せねばなるまい。

誤解を避けるために書いておくが私は何も「地下鉄サリン事件はなかった」と主張しているわけではない、確かにそう言う事件はあったのであろうが報道された内容を鵜呑みにしてはならないと主張しているのである。皆さんはテレビやドラマのロケーション現場を見たことがあるだろうか?
地方であればロケともなれば野次馬で大騒ぎになるが実は都内では珍しくもない光景なのだ、私の住む新宿西口の通りはすぐ前が都庁であるに関わらず車の少ない通りで実際テレビドラマのロケがしょっちゅう行われているが通行人は大方無関心である。私は上記の証言内容とこのドラマのロケ現場の様子が酷似している事を指摘せずにはおれない。

実際4000人近い被害者を出したのであれば付近は大騒ぎをしているはずである。そうなのだ我々が見せられたあのニュース映像は「捏造」であったのだ。

思考錯誤」掲示板より)

///引用ここまで///////////////

これは一種類の資料(「アンダーグラウンド」村上春樹著・講談社)だけを使用して作成された文章です。もしこれが、10種類や20種類の資料を使って作成され、しかも50年後に読まれたとしたら・・・。とほほさんによると、このような論証技術は基本的に「トリミング」と言われるようですが、これを使えばどんな歴史的事実でも「なかった」と証明するのは簡単であるということです。

こんな手法がすっかり流行ってしまっているわけですよね。あー、恐ろしい。願わくば左翼陣営では、こんな手法の誘惑に負ける人が現れませんように。

で、まあ、アポロや9・11の「なかった」はこの「トリミング」で、どうとでも「論証」できる話ではありますが、「近代経済学理論」なんてものは、半分は占いみたいなもんであることは昔から言われてきました。持って行きたい結論が先にあって、後から理論を組み立てるだの、注目されそうな「理論」をあれこれ思いついてから、現実をこれで説明できるかを後から検証して取捨選択してみるだの、経済学者(特に欧米の)思考パターンが揶揄まじりに批判されることがままあります。

最近で一番驚いたのは、「カッシーニの昼食」さんで紹介されていた、「利息制限法を撤廃して金利を自由にすれば、利息は下がって闇金融問題は解決する」という、まさしく「はあ~っ?」って「理論」ですかね。「自由市場・既成撤廃・自己責任」への「信仰」も、まさにここまでいくと、「おまじない」レベルですな。

こう考えると、「なかった」論で一番不利なのは、温暖化問題などの自然科学の分野だということだったんですね。まあ、ここでも「トリミング」は使えそうですけれども、あんまり無茶しすぎると、さすがにちゃんとした学者からは相手にされないということになるでしょうから。するってえと、やはり経済学や法学ちゅう人文科学は、やっぱり「科学」ではないと、あらためて思いますね。

以上、当然にまた恥かくことを前提に、駄文をつらねてみました。
やっぱり私は、良くも悪くも「目の前にある現実」からしか発想が出発できない人(=活動家)なんだと痛感しました。

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  • いやいやいやいや。
    俺も最初は、80年代末期によく流行した近代化理論のが、こんなところに生き残っていたよ、やれやれと手順通りにテキパキ片付けようとしましたさ。そしたら、なんと、全くhiroさんオリジナルの新発明の新思想だという事がやっと解って・・・「フゴォッ」ってなりましたよ(w
    「想定外」のものには誰も対処できんのです。

    サヨクゆうもんは、世の中の事どもに文句を付けていく過程から成るもんである、という出自の問題で、トンデモ理論と親和性の高いのは、むしろサヨクの方なんじゃないのかなあと思ったりもします。
    というか、はっきりゆうて、ほっといたら「社会が発展して」、社会主義の世の中に至る、なんてのはトンデモとどう区別されるのかというあたりが、なんかしかとはゆえんのではないかとゆう。
    原発の広瀬隆なんて人も、元々は「人類はもうすぐ滅びるんだー」つって「自分の本」を売ってまわっていたという、「危険な領域の人」であった時期が結構長いのだそうで。
    もちろん、その中で論理的にまともな話とアレな話はキッパリとわける事ができるのはゆうまでもない事ですが。

    「アポロは月に行っていない」というのは、「と学会」によると、いつだったかの大晦日の特番で、ビートたけしが「世界のインチキ理論を紹介する」というようなお笑い番組で取り上げて以来、日本でもビリーバーがすごく増えたのだそうで。なんか、「これはインチキですよ」と念押しされて、まだその上で真に受ける人がこれだけいるというのがなかなか恐ろしいですね。
    元々は「地球平面協会」とかゆう、キリスト教原理主義の、「ルターとガレリオの間で止まっている人たち」の主張なのだそうですが。

  •  草加さん今晩は。どうも黒目さんのブログに書き込んでいるhiroなる人は私のブログに一時書き込んでいた人とは別人のように思えます。文体が前者は結構乱暴な口調であるのが根拠なのですが。断言は出来ませんが。後者の方は今日の資本主義を肯定はしていましたが、一応それなりに礼節を持って書き込みしていましたので。

  • 草加さんはじめまして。アッテンボローさんごぶさたしています。最近忙しくて書き込みはしていませんが、ブログは読ませていただいています。黒田さんのブログに書き込んでいるのは私ではありません。そのうちこちらにもお邪魔するかもしれません。あまり意見が一致することはないのですが怒らないでくださいね(笑)

  • おや、そうですか。まあ、ありがちなハンドルですからね。
    hiro@アッテンボローさん(って、なんかアッテンボローさんの関係者みたいですがw)>
    単に「意見が違う」だけで怒っていたら、左翼なんてまともな社会生活がおくれなくなってしまうと思われ(笑)。
    ここには右派系の方々も多く訪問されています。相手の反応は「自分の態度の鏡」でもあるわけですから、お互いに自分の意見を絶対化せずにうまく交流できればいいと思っています。それができない方にはご退場願うしかありませんが。