「だいたい、そんなところだろう」と予測していた事態になってきた。自民党の裏金作りの結末である。安倍派の主要メンバーで岸田政権でも要職を占めていた、松野博一(前官房長官)、高木毅(前国会対策委員長)、世耕弘成(前党参議院幹事長)、萩生田光一(前党政調会長)、西村康稔(前経済産業相)などの安倍派5人衆ついては立件を見送ることにしたという。
つまり安倍派の幹部以外の2人を起訴して、幕を引くということだ。安倍・岸田派や二階派も派として立件するというが、これは中枢にいる政治家の責任は問わない形である。検察はこの事件を立件する証拠が乏しいとして、政治資金法への記載ミスという形で、この件を収拾するのだという。裏金作りという政治的な犯罪を追及するのでもなければ、派閥の幹部連中の政治責任も追及するつもりはないのである。
岸田派も安倍派も二階派も派閥を解散することで、この事件に対するとしている。この「派閥の解散」は論点ずらしであり、この事件を曖昧にしてしまうことである。政治改革という名の問題のすり替えと同じである。
だがこの事件は裏金という政治的な金づくりの問題である。これは政治的な資金の取得における違反行為であり、犯罪的行為である、具体的には政治資金規正法に反する行為であるが、本質的には不法な政治資金の取得という政治的な犯罪行為である。俗にいう贈収賄とは違うにしても、政治的な犯罪である。
この事件が、裏金つくりという違法な政治資金取得行為であり、その責任者は、それを進めた派閥の幹部連中であることは明瞭である。ここは、押さえておかなければいけない。その上で、こういう政治的行為がなぜ生まれるのか、その構造も含めて、追及しなければならないし、その構造を含めた政治改革を提起しなければならない。
問題を曖昧にしてはならないし、曖昧であれば、この問題の本当の解決は提起されることはないだろうと思う。
裏金つくりというのは、連綿として昔から続く政治的行為であるが、それは近代の保守政治の根を形成したものである。
この「政治にはカネが必要だ」という理油で推進されてきた政治的なカネづくり(裏金作り)は、批判され禁じられてきた。というよりは、政治資金の取得、その使用(支出)は、制限されてきた。公的に政党助成金が出るようになり、政治資金取得に規制が課されてもきた。その意味では、裏金作りは、タブーとなって地下化してきた。
この裏金作りは選挙における票の獲得、その政治活動に根がある。選挙における票の買収や、それにつながる地盤づくりがそれである。かつては公然と行われていたこの政治的行為(裏金作り)は、表向き禁じられ、様々の規制が加えられてが、闇に潜って地下化し、存続してきたのであり、依然として保守政治の根の部分を形成してきたのである。今回の事件は、それを露呈させたのである。
よく言われてきた「政治とカネ」の問題の、現在的な姿を顕在化させたのだが、僕らはこの構造化された実体をよく認識しなければならない。そうでないと、この問題を解決する方向も明瞭にはできない。「派閥の解消」や「政治改革」なんてことで、胡麻化されてはいけないし、こういう論点ずらしや、すり替えには注意が必要である。
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今回の政治資金規制法違反に関する捜査は、警察の安倍政治(強引な検察人事への介入や「桜を見る会」事件や「森加計」事件捜査の抑制)ヘの反撃であったと推察できたが、安倍派の中枢にいる政治家を訴追するつもりはないのだろうと憶測できた。トカゲのしっぽ切りではないが、2人程の末端の議員を起訴して、終わらせるのだと思う。
出来レースとはいわないが、彼等は安倍派にお灸をすえること以上は、考えてはいなかったと思える。だがこの捜査は検察の意図とは別に、自民党の、いや、現在の政治における「カネと政治」の問題を露呈させた。タブーになっている「政治とカネ」の問題を明るみにだしたのだ。「カネによる政治支配」という問題と言い換えてもよい。
「安倍政治は国家主義政治であり、復古政治であった」と言ってもいい。安倍は「戦後体制からの脱却」といって戦後の政治が持っていた国家主義に対する批判的要素(民主主義的要素)を排除し、強権的で専制的な政治を進めた。戦争のできる国家への国家編成がその中心にあったが、その安倍政治を支えたのは、統一教会や日本会議という宗教団体の支援であり、伝統的な「カネ」による政治支配だった。「森喜朗がはじめた」といわれる裏金づくりがその基盤をなしたという。
つまり伝統的な保守政治の踏襲である。これは裏政治でもあった。(安倍派の河井法相事件は、それが表沙汰になったものである)。「桜を見る会」もそういう事件である。安倍は「戦後体制から脱却」という理念をかかげた政治家であったが、彼の長期政権をさえたのは、伝統的な保守政治であり、カネの力だったのだ。このことはよく見ておくべきことだと思う。
裏金による政治的支配、裏金が政治的力になる構造は、理念や政策に基づく政治に替えられることだ。選挙が、理念や政策の選択になるというのが、誰もが思いつく、そして、語ることだと思う。
このことがなぜ困難なのか。世界の政治は、歴史的にそういう方向を目指して来たのだが、そうならないできた歴史も、僕らは、知っている。けれども、僕らは、あらためて、ここのところに立ち止まって考えを進めるべきだと思う。そのための政治的構想を提起しなければならないが、そこに立ち止まって自問自答するしかない。
さしあたって、政治資金の取得においては、献金を個人献金に限定し、団体献金を禁じることが重要ではないか。政治資金規正法の改正など取沙汰されているが、この献金を限定づけることこそ、この問題の解決になると思う。これだって抜け道を作るかもしれないが、最低限のこととして、これは大事ではないか。
野党は、これを政治改革の「差し当たってのこと」としてやれるか。団体からの献金の禁止は、企業の献金や労働組合から献金を禁じることになり、野党も踏み込めないのかもしれないが、ここを徹底すれば、さしあたっての解決としては前進すると思う。
味岡 修(三上治)
(見出しは旗旗でつけました)