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カテゴリ: エッセイ・随想録

「エホバの証人(ものみの塔)」の人たち

 都知事選の総括めいた文章を書く書くといいながら、毎日の忙しさにかまけているうちに日がたってしまいました。先日の文章だけだと、問題の半分にもならないし、いらない誤解を(特に共産党系の方から)受けかねませんので急がねばとは思っていますが、なかなかまとまった文章を書けません。

 そこで今日はちょっと箸休めとして、先日に某SNSサイトに掲載した日記を転載しておきます。これもまとまった文章が書けない間に、日常の雑文として書いたものですが、意外とたくさんのコメントをいただいたものです。

 で、ここからその転載になるわけなんですが、先日「 ものみの塔(エホバの証人)」の人達が家に訪問してこられたわけですよ。このあたりにも定期的に巡回しておられます。私は彼らについて語るべき何らの知識をもっていませんが、私の周囲でも彼らをよく見かけます。おおむね底抜けに善良な印象なので、私は彼らのことが嫌いではありません。よく、アムネスティの救援者リストに名前をみかけたりもするのですが、特に政治的な意見を表明してるわけではなく、徹底的な非暴力主義であり、なおかつ既存の大宗教がしてきたような、教義を政府の方針と妥協させるということをいっさいしないので、軍事的な独裁政権下では、信者がしばしば弾圧の対象になってしまうわけです。

 こういう善良な人々と会話することは、ギスギスした住みにくい世の中で暮らしている自分には、むしろほっとするひと時なのであります。「自分だけは損をしないぞ」と思って身構えて暮らしている人々や、揚げ足とられないように先の先まで読んでからでないと書き込めないようなネット上の掲示板などになれていますと、こういう無防備な普通の人々が本当に貴重に思えてしまいます。私自身が結構無防備なんで、同じオーラを感じてしまうのかもしれません。おそらく、こういう集団に参加してその雰囲気に染まってしまいますと、ものすごく居心地がよくて、もうそこから抜け出して外で暮らすことなんてできなくなるだろうなというのは私にも容易に想像がつきます。

 彼らは新興宗教によく見られるような、しつこい勧誘をしません。どこにでも出てきて、家庭にも訪問してきますが、ただ自分たちの自己紹介をし、「読んでいただけますか?」とたずねて、同意があった場合にのみ刊行物を置いて立ち去ります。それ以外に何の要求も要請もしませんので、ほぼ1分とかかりません。特に迷惑というわけでもなく、私はいつも笑顔で応対して、刊行物も受け取っています。

 彼らと同じ生活をする気はなくとも、その「善良なオーラ」に接し、何もきがまえる必要なく会話できるというのは、現代社会においては悲しいことにそれだけで癒されるひと時なのです。そんな時には自分が近所の人や職場の同僚と会話する時でさえ、心のどこかで多少はきがまえて会話していることに気がつきます。本当に悲しいことです

 ところが、せっかくもらったのだから、一応は読んであげようと思っていつも手に取るのですが、だいたい途中で挫折してしまいます。一言で言って「つまらない」のです。お世辞にも、次が読みたいからまた来てくれないかなとは思えません。インターネットの現状や若者の風俗、さらには愛知万博など、テーマ自体はそれなりに興味のある話題をとりあげていて、これについてどういう見解を示しているのかなと思って読むんですが、最後まで読むのが苦痛になるのです。

 なんでこんなにつまらないのかと思うのですが、要するに論証というか、理由付けが全くないのですね。いくら宗教といえども、そのへんは「なぜ自分たちが正しいか」とか「なにゆえに今この信仰が必要なのか」ということが多少は書かれているものです。そういうのが全然なくて、ただ「聖書にはこう書かれている」ということしかないのです。

 おそらく、宗教に興味のある方なら、いろいろと突っ込みどころというか、「それは違うぞ」みたいに興味をもって考察できる点もあるのでしょうが、私のような無宗教(というよりは単にいい加減な不信心者ですね。無宗教も一つの宗教ですから)にとっては、「ああそうなんですか」以外に何も言いようがありません。文字通り信じるか信じないかの「宗教的」な世界なのです。

 私は宗教についてはむしろ好意的にみています。一つくらいは自分の信じる宗教があってもいいかなとさえ思います。だけど申し訳ないが、興味がひかれなかったり、心が動かないものは仕方がないと思います。きっとその宗教と自分には縁がないのだと思います。無理に信者の集まりに勧誘されて、天上ではなく地上の人間の集まりに心引かれて参加し、そこに染まっていくのは、宗教への帰依とはちょっと違う気がするのですよ。新興宗教の組織的な勧誘に対する疑問はそこにありますね。

しかし考えてみたのですが

○一人一人は動機において善良で献身的な良い人ばかりである
○刊行物の内容がおそろしくつまらない
○おつきあいするのは楽しいが、その仲間になろうとは思えない
○存在してくれるのはいいけど、増えすぎるのも困る

これって左翼組織の人々と同じかも(笑

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  • 草加さん、お久しぶりです。

    「エホバの証人」の勧誘は、そんなに穏やかなのですか。
    かつてですが数回わが家にも来たことがあると記憶していますけれど、パンフは草加さんが言うように「つまらない」。
    みんな神様から天下られるので、私のような凡俗の中で生きている人間にとっては、とてもその高尚な態度と論理にはついて行けませんし、理解できなかったことを覚えているような。

    仏教も少し読んでみましたが(親鸞など)、「なるほどね」というくらいで、救われることはなかった。(笑)

    それにしても、4つの指摘の最後には、笑ってしまうのと同時に、何とも言いようのない皮肉を覚えました。
    ひょっとすると「左翼組織」は、もうその歴史的使命を終えているのかもしれないとういう。

  • エホバの証人ねー、私の家にも来たことありますよ
    聖書の内容を、象徴ではなく、一言一言現実の生きかたとして信じてるんですよね。だから、詳しい説明はしないけど輸血も拒否(と、聖書にあるそうだ)、確か信者の子供が自動車事故にあった時も、輸血を親が拒否して亡くなった事件があった。
    酷い話だ、という意見が多かったし、私ももしその場で医師だったらどうしたかわからない。でも、信仰というものは、そういう一面があることは確か。彼らは先の大戦の時も反戦を貫いて世界的に迫害された。これは一定評価されますよね。そして、今彼らは同じ先進で、例えば君が代、日の丸にも多分反対している(偶像崇拝だから)そして同時に、体育の授業、特に武道のような授業は拒否するし、先に述べたように輸血も拒否して死を選ぶ。

    この例が極端に行けば、アメリカの一部のように、堕胎は殺人だと言って堕胎反対運動が起きることもあり、極端な一派は産婦人科医を暴力的に攻撃する・・

    ま、私個人は、信仰を肯定する、積極的に選ぶタイプの人間です。
    だから、こういう人たちの強さも美しさも分かるし
    同時に本当に怖いとも思うな・・

  • 土岐さん>

    >「エホバの証人」の勧誘は、そんなに穏やかなのですか

    なんかエホバの人に言わせるとね、最後の審判の後にやってくる神の王国に入るであろう人々の人口は、ちゃんと聖書に書かれているんだそうですよ。何人だか忘れたけど、そんなに多くはなかったな。だから彼らは「神の王国は近い」と、ただ告げ知らせているだけなのです。神の王国に入るであろう人は、その知らせを聞いて自然にエホバに入信するから、別にひつこく「勧誘」する必要はないのですね。その点、新興宗教によくある、「うちに入信すれば救われますよ」というのとは、ちょっと精神構造が違うようなのです。

    >理解できなかったことを覚えているような

    エホバは「理解」しようとしちゃダメでしょ。あれは信じるか信じないかの世界です。進化論を否定する活動にも熱心ですから、まあ聖書原理主義と言ってもいいのかな?とにかく信者の人の話や生き方に感銘を受けなかったら、その時点で縁がなかったということでしょう。最後の審判の後は、諦めていっしょに地獄にいきましょう(笑

    >仏教も少し読んでみましたが(親鸞など)、「なるほどね」というくらいで、救われることはなかった。(笑)

    仏教は宗教としての側面と、哲学としての側面がありますからね。その哲学としての側面に感銘を受けなかったら、土岐さんのようなタイプの人は救われないと思いますよ。逆に哲学的な内容に感銘を受ければ、特に信仰や神様の存在を必要とすることなく、人生の支えや糧にもできると思います。左派系の僧侶は親鸞が多いようですが、僕は読んだことがないですね。
    高校が仏教系でしたので、道徳の代わりに宗教の時間がありました。そのテキストは仏教入門みたいなものではなく、今から考えますと新約聖書の影響を受けたもので、釈迦の一生を、その言葉やエピソードを交えながら時系列で記述したものでした。面白かったですけどね。仏教の本は、小難しい理屈をこねくり回すところが面白いんですよね(笑

  • 三浦さん>

    三浦さんも以前にモルモン教徒による殺人事件の例をあげておられたと思うのですが、「本当に怖い」のは、世俗的な欲や煩悩にまみれた人以上に、動機において純粋な人々の自己犠牲的な行動だというのは確かだと思います。利害を超越して自己を滅ぼすことさえ恐れませんから予測がつきません。なおかつ本人は正義をなしていると信じているわけですから。「思想の恐ろしさ」と言いかえることもできるかな。一番恐ろしいのはやはり思想(イデオロギー)であって、それは鋭利な刃物にも似て、使い方しだいで有用にも害悪にもなるというか、少なくとも使い方をしらない小さなお子様に持たせてはいけないというか、子供に持たせる時は大人がそばについていないといけないというかですね。

    しかしちゃんとした本物の思想というのは、それをいくら突き詰めても、ヒューマニズムを無視したような、そんなにおかしな結論にはならないはずだとも思います。非人道的な結論を要求してしまうような結果になったら、それはどこかで間違っている思想だと思います。もともとが間違っていたのか、単に解釈が間違っているのか、それとも弟子たちに継承されていくうちに変質したのかはともかくとして。

    輸血拒否事件はちょうど法律家の間で「自己決定権」が流行していた時でしたので、このテーマでは必ずとりあげられていた記憶があります。その記憶ではエホバの人々は、「死を選ぶ」のではなく、治療方法の選択であると。あくまでも生きたいし、全力で治療していただくことを望むが、その治療の方法を選ぶ権利もあるはずだと。インフォームドコンセントということが言われ始めた時代だったから、そう言われるとそうかなとも思ってしまいます。まあ、大人の場合は自己決定による不利益を受容する覚悟があるならという気もしますが、子供の場合に親が親権で治療法(輸血)に同意しないのはどう考えるべきかと悩みます。まあ宗教ですからね。

    確か一度、医師が独断で患者の命を救いたい一心から、本人の同意を得ることなく輸血してしまったことがありました。この場合、エホバ本部の公式見解で「本人は最後まで拒否しており、その意思に反して輸血されたわけだから、バプテスマ(だっけ?)は取り消されない」と発表されました。法学者は「だったら今後はこれでいけば問題はすべて解決」と考えたのですが、医者たちにとっては、本人や家族の同意なく手術や輸血に踏み切ることに勇気がいりすぎて、その後は同様の事例がなかったと思います。まあ、このへんは三浦さんのほうがお詳しいかな。

    輸血について聖書に書いてあるというのは、カトリックの人に言わせると、「血をさけよ」という文言の明らかな誤読だということです。ただ、そのへんは宗教論争になりますので、私としては何も判断することはできませんし、するべきではないと思いますが。

  • むかしむかし社防隊で某蕨市の某党派本部ビルの前で立ってたとき、エホバの証人の人に声をかけられました。
    「あなたは神を信じますか?」
    そのときの僕のいでたちはご存知のとおりのスタイルで、顔はサングラスとタオルで覆面をし、手には旗ざおというスタイリッシュな物騒モード。
    「信じるように見えますか?」
    本当にその信者さんたちは善良な笑顔で、
    「どんな人も神が守ってくださってます」
    僕は、それはありがとうございます、と丁重にお礼を言いました。
    神様に守ってもらうの代わってもらって少しも眠りたいんですが・・とは言いませんでした。

  • ニャンケ君>

    ぶはははは(≧∇≦)ノ彡 バンバン!
    久しぶりに笑わせてもろた。まあ、あのいでたちで防衛に立っていたら、エホバさんとしても、ちょっと聞いてみたかったのかもしれませんよ。それがニャンケ君の返答が思いのほか穏やかでユーモラスだったので、あちらさんとしても破顔一笑というとこだったんじゃないですかね。しかし本当に怖いもの知らずというか、やはり基本的には善良な人達なんだねー。

    つまり、結論としては、「どちらも同じ人間だったって」ことなんじゃないのかな?信じてるものが少し違うだけでさ。
    案外、あちらさん達のあいだでは、昔あった「ちょっといい話」として伝わっているかもよ(笑

  •  今晩は。「物見の塔」「エホバの証人」も実はキリスト教系の三大カルトと呼ばれていて統一協会・モルモン教と一緒くたにして「あれは本当のキリスト教ではありません」と言われています。我が家にも二月に一度くらいご近所の人が持ってくるのですが、確かに人柄はよいですね。貧困の問題や労働の問題・戦争の問題などについても書かれているので読むこともあるのですが、途中から観念論が満展開され出して具体的な方針が無くなるのが辛いです。やはり宗教に救いを求めることは間違っていると個人的には思います。
     戦前の日本では「灯台社」と名乗って活動をしていたのですが、徴兵を拒否して獄死した人も居たはずです。処がアメリカの本部が第二次世界大戦に米政府に協力して徴兵を受け入れしたことから灯台社とエホバの証人は絶縁しています。今のエホバの証人・物見の塔は戦後アメリカから宣教師がやってきて再建した組織です。
     同じキリスト教徒でもクエーカー教徒が徹底した不殺生の戒律のために徴兵を免除されているのに比べ不徹底なところがあるようです。

  • はじめまして。
    いつも「旗旗」、興味深く拝見させていただいております。

    いつもはいわゆる「ロム専」なのですが、
    以前、
    大学時代の下宿先にエホバの証人の人が「巡回」に回ってきて、
    1年ほど雑誌を受け取っていたことがありましたので、
    そのことを思い出して、
    少しコメントを書き込んでみることにいたしました。

    >一言で言って「つまらない」
    >要するに論証というか、理由付けが全くないのですね。いくら宗教といえども、そのへんは「なぜ自分たちが正しいか」とか「なにゆえに今この信仰が必要なのか」ということが多少は書かれているものです。そういうのが全然なくて、ただ「聖書にはこう書かれている」ということしかないのです。
    >おそらく、宗教に興味のある方なら、いろいろと突っ込みどころというか、「それは違うぞ」みたいに興味をもって考察できる点もあるのでしょうが……

    僕もあの雑誌を以前定期的に読んできた人間の一人として、
    草加さんの感想、非常によくわかります。
    要するに、「聖書にはこう書いてあります」の一言で、
    全て「証明終了」ということになるらしいんですよね。
    彼らの信仰では。

    草加さんも仰るとおり彼らは「聖書原理主義」者ですから、
    「聖書にそう書いてある」となったらもう その通りなので、
    それ以上の理屈付けをする必要性を見出さないのです。
    でも、
    『そもそも聖書を文字通り信じているわけではない』こちらがそれを読んでも、
    「おいおい、それはないやろう」となってしまい、
    それ以上ついていけなくなってしまいます。

    ま、
    おとなしく訪ねてきておとなしく雑誌を置いていってくれますので、
    「いつもご苦労さんです」というような感じで応対してましたが。

    ただ僕の場合は、
    いわゆるミッション系の大学に通っていましたので、
    聖書に関する論議なんかには結構興味があり、
    草加さんの仰るところの「突っ込み」を入れつつ、
    時々巡回に来る人に議論を吹っかけたりして、
    信仰することは全くなくとも結構興味深く読んでおりました。

    で、当時のことを思い出して、
    草加さんやコメントを付けてらっしゃる皆様にも少々突っ込みを。

    >エホバの人に言わせるとね、最後の審判の後にやってくる神の王国に入るであろう人々の人口は、ちゃんと聖書に書かれているんだそうですよ。何人だか忘れたけど、そんなに多くはなかったな。だから彼らは「神の王国は近い」と、ただ告げ知らせているだけなのです。

    えっとこれ、
    おおむね正しいんですが、重要な点が抜けています。
    エホバの証人の教義では、
    「最後の審判の後にやってくる神の王国に入るであろう人々の人口」は
    14万4千人とされています(「ヨハネの黙示録」14:1が根拠)。
    これ、当然「そんなに多くはな」い訳でありまして、
    現役のエホバの証人でも全員が入れるというわけではありません。
    (というか、ほとんど9割9分の人は入れない。
     もう死んじゃった過去の信者さんも「最後の審判」の時には「復活」するし、
     まさかペトロやパウロが「神の王国」に入れないなんてことはないだろうし……)。
    じゃぁ、入れなかった人は地獄行きなのかというとそうではなくて、
    最後の審判のときに神の王国とともにやってくる「新しい地」(地上の楽園)で、
    その他の(良い)人々は暮らすことになっております(「ペトロの手紙 二」3:13や「イザヤ書」65:17、「ヨハネの黙示録」21:1などが根拠)。

    「神の王国」に入る14万4000人は、
    「地上の楽園」で暮らす一般ピープルのお世話係として
    天国政府に就職するスーパーエリートですから、
    大半の人間にはあまり関係がありません。
    草加さんのところに巡回に来た信者さんも、
    僕のところに巡回に来た信者さんも、
    おそらく「神の王国」には入れない方の人だと思います。
    (余談として。
     エホバの証人が年に一回行なう「記念式」で、
     「キリストの体・キリストの血」とされるパンとぶどう酒を食べることが許されるのは、
     この「神の王国」に就職できるスーパーエリートだけとされています。
     一般のキリスト教諸宗派では
     この日は全員でパンを食べ、ぶどう酒を飲むので、
     新参者の信者が間違ってパンとぶどう酒に手を出して、
     大騒ぎ……というようなことがしばしばあるそうです。
     大半のエホバの証人は、隣から回ってきたパンとぶどう酒を
     さらに隣の人に回すだけ。
     食べてはダメです)。

    >最後の審判の後は、諦めていっしょに地獄にいきましょう(笑

    あと、先ほど僕も「地獄」という言葉を使ってしまいましたが、
    エホバの証人は地獄の実在を断じて信じない宗派としても有名です。
    イエス=キリストの寓話に出てくる
    「地獄の業火に投げ込まれる」などという話はあくまで寓話として解釈し、
    「善人は『神の王国』や『地上の楽園』で永遠の命を得るが、
     悪人は最後の審判のあと永遠の滅びに付される=もう復活することができない」
    と教えられます。
    ですから、エホバの証人の教えを信じなかったからといって、
    「おまえは地獄行きだ!」などということを
    彼らが言うことはありません。
    不信心者を待ち受ける運命はあくまで「永遠の滅び」であり、
    「地獄の業火」はその象徴に過ぎません。
    (エホバの証人では「死者に意識はない」、
     「『陰府』とは『仕事も企ても、知恵も知識も』なにも『ない』世界だ」と教えています。
     「コヘレトの言葉」9:5~6・10などが根拠)。

    >輸血について聖書に書いてあるというのは、カトリックの人に言わせると、「血をさけよ」という文言の明らかな誤読だということです。

    この件でうちに来たエホバの証人に論争を吹っかけたことがあります。
    彼は「血をさけよ」の文句(正確には「絞め殺した動物の肉と、血とを避けるように」。「使徒言行録」15:20)と共に、
    「創世記」9章4節にある『血を食べてはならない』を根拠にしていたように思います。
    で、僕が
    「血を食べるのと輸血するのとは違うだろう」というと、
    彼は、
    「ではあなたは、
     医者に酒を飲まないようにと言われた場合、
     注射針で血管にアルコールを打ち込むのならかまわないと思いますか」
    と反論してきたことを覚えています。
    (そういう問題か?)

    アッテンボローさんへ
    こんにちは。

    >貧困の問題や労働の問題・戦争の問題などについても書かれているので読むこともあるのですが、途中から観念論が満展開され出して具体的な方針が無くなるのが辛いです。

    ええ。
    彼らにとっては現代の貧困・疎外・戦争も、
    全て「人間が世界を統治してもうまくいかない証拠」でしかありません。
    で、最終的には
    「やはり世界の統治者は神様であるべきなのです。
     まもなく神の王国がやってきてそれが実現するでしょう」で
    全ての問題が「解決」してしまうんですよね。

    >戦前の日本では「灯台社」と名乗って活動をしていたのですが、徴兵を拒否して獄死した人も居たはずです。処がアメリカの本部が第二次世界大戦に米政府に協力して徴兵を受け入れしたことから灯台社とエホバの証人は絶縁しています。

    これ、エホバの証人が聞いたらちょっと怒るかも。
    灯台社がエホバの証人と絶縁したのは
    「アメリカの本部が第二次世界大戦に米政府に協力して徴兵を受け入れした」
    からではありません。
    (いくらなんでもそれをやっちゃーおしまいでしょう)。
    灯台社が怒ったのは、
    「自分たちが日本において日の丸への敬礼を拒否して獄中非転向を闘っていた中、
     アメリカで開かれた世界大会の会場に星条旗が掲揚してあったのは何事か」
    ということでした。
    (戦後、獄中から出てきた信者さんたちが
     戦時中読めなかったエホバの証人の雑誌を読んでいると、
     世界大会の記事の写真にアメリカの国旗が写っているのを発見し激怒!)。

    エホバの証人側の言い訳は、
    「別に自分たちが掲揚したんじゃない。
     もともと会場に星条旗が備え付けてあって、
     自分たちの独断で勝手に取り外すことはできなかったんだ」というものだったらしいのですが、
    国旗への敬礼を断固拒否して獄中非転向を闘い抜いた灯台社メンバーにしてみれば、
    到底納得いかなかったということのようですね。

    ちなみに戦時中、
    「同じキリスト教徒でもクエーカー教徒が徹底した不殺生の戒律のために徴兵を免除されているのに」
    エホバの証人が徴兵免除をされなかったのは、
    別に彼らに「不徹底なところがあ」ったからではありません。
    その逆です。

    クエーカー教徒は戦時中、
    「良心的兵役拒否」として、
    徴兵を免れる代わりに一定の社会奉仕に従事しました。
    しかしエホバの証人は、
    兵役の「代わり」に国家のために一定の貢献をすることは、
    結局は兵役とは別の手段で戦争に奉仕することに他ならない、
    「神の王国」のみに忠誠を誓うわれわれは、
    「地上の王国」に奉仕することはできない、として、
    「徴兵」はおろか「社会奉仕への従事」すら拒否したのです。

    兵役は拒否する。
    さりとて「社会的奉仕」にも従事しない。
    これでは「良心的兵役拒否」が認められるはずがありません。

    結局彼らは、
    クエーカー教徒のように「社会的労役に服する」ことによってではなく、
    「官憲に逮捕され、投獄に服する」ことによって
    徴兵を拒否する道を選んだのです。
    (現在のものみの塔=エホバの証人は、
     「良心的兵役拒否」を認める方向に転換したようですが)。

  • 酒井さん>
    詳しい解説をありがとうございます。アッテンボローさんの言うとおり、観念の中の世界なんでしょうが、このへんの論理的整合性というか、文字の通りの「神学論争」も興味深く読みました。あまり私の立場から「教義に照らせばどちらが正しい」とかは言えませんけれど。でも、「注射器でお酒」のたとえはなんかちょっと違うように感じました。どう違うかはうまく言えないけれど。赤軍派のリッダ闘争と、9・11のアルカイダは絶対に違う、けどその違いを形式論理的にはすっきりと説明できない、それと似た感覚かな?かなりぶっとんだたとえですが(笑
    また、私の断片的な知識を補足していただいたのは、たいへんにあり難かったです。偶像崇拝の拒否に日の丸なんかも入るというのは、恥ずかしながら思いつきませんでした。そうか、やはりあれは「崇拝」なのか。
    なお、酒井さんのブログのRSSを表示するようにしておきました。最新記事を書いていただければ、旗旗のトップページに表示されますので、よろしくお願いします。