by 味岡 修
テントひろばの代表だった正清太一さんが亡くなられていた知らせを受け取った。正清さんとは諸事情もあって昨年から連絡が取れない状況にあった。彼のことは元気でいることを願っていたのだが、こういう報を手にして無念の思いがする。
僕が正清さんにはじめて会ったのは「9条改憲阻止」を目指す集まりにおいてであり、十何年も前のことだった。1960年代の全学連や全共闘運動に関わった人たちが安倍晋三の改憲の動きに抗して集まった会だった。淵上さんとも一緒だった。あれから、僕らは多くの行動を共にしてきた。改憲の動きに抗しての国会前での座り込みを皮切りにしてだ。
多くのことが、思い浮かぶのであるが。「3・11」の後、僕らは福島に水や果物などを届ける活動をしていた。彼は車を運転し、この支援活動の先頭に立って何度も福島に通った。箱根に名水があるというので車を連ねてもらいに行った。また、福島に届ける甘夏を伊豆まで頂に行った。車の中で彼とは若かったころの話などを何度もした。彼は熊本出身だったのだが、故郷のことに愛着もあったように思う。「3・11」の後に僕らが、脱原発の闘争に取り組み、とりわけ、経産省の一角にテントを張っての闘いで彼は中心にあった。
彼は経産省前テントひろばの代表となった。淵上太郎とともにテントを代表し、その闘いの先頭にあった。彼はテントに集まってくるメンバー、また、たずねてくる多くの人によく話し、対応をしてくれていた。対外的な交渉というか、スポークスマンの役割を果たしてくれていたのではないだろうか。あまり、そういうことの好きなというか、役割を担える人が少なく、彼に自然にフわれたのかもしれない。彼の人柄とあいまってこの役割をよく果たしてくれていたと思う。
また、彼はテントひろばの代表として経産省から淵上さんと一緒に当事者として訴えられたのだが、その裁判においてよく闘った。
訴追され、膨大な金が課せられことは、実は大変なことだったと思う。この大変さは当事者以外にはなかなかわからないものだったに違いないのだが、淵上さんともども、正清さんはよく対応してくれた。彼等はさりげなく振舞ったのだが、これはなかなかできないことだったのだ。僕はあらためてそれを思う。
テントは強制撤去されたが、経産省前テントひろばの闘いは今も続いている。もう8年を超すことになるのだが、僕らは多くの人を野辺送りしてきた。テントの初期にいた吉岡さん、大胆な行動で僕らを驚かした蔵屋敷さん(彼女は福島へ正清さんと支援の車で出掛けたこともある)など、多くの人が記憶に刻まれている。最近は第二テントを担っていた寺崎あき子さんや馬場千恵子さんを送ったばかりだ。高齢者の域に入った人たちが多いのだから、これはもう宿命のようなものだが、それでもやはりつらい。
彼等や彼女らは記憶として生きているし。何かの折に思い出し、自然と会話をしている。そういう事がおおくなることは彼らが生きてあること、そのものなのだろう。僕らは彼等、彼女らの記憶が僕らの生を豊かにしてくれることを知っている。出会えたことを感謝して、原発再稼働阻止実現に一歩でも近づくように闘っていきたい。(三上治)