by 味岡 修
少し前に連れ合いと郊外に出掛けた時はちょうど紅葉の盛りで、都心ではまだだけど、と話していたが、いつの間にか霞が関周辺の街路樹なども紅葉している。紅葉した銀杏はやはり綺麗だ。この周辺を歩くのは楽しいし、こころが和む。
そんな季節の移り変わりのなかで国会では相変わらずの光景が見られる。一言でいえば、「桜を見る会」の攻防である。
この光景に日本の政治を嘆く声も聞こえないではない。「桜を見る会」に誰を招待したなんてことは、どうでもいいことで、もっと大事なことがあるではないかということだ。韓国に対する政府の対応、自衛隊の中近東派遣などちょっと考えただけどでも議論すべきことはあるではないかと思う。
確かにそうであると思う。しかし、こういう声はわかるのだけれども、やはり「桜を見る会」の問題は重要な事であるとも思う。それは「桜を見る会」のあり方が、安倍(自民党や与党)の政治に対する態度というのが象徴されているところがあるからだ。
過日、一連の新天皇の即位の儀式を見ながら、その儀式の様式もさることながら、そこに国民の主権というか、民意などは何処にもみられないではないかと思った。上から降りてくることをただ有難く(?)拝受でもするだけであるということではないかと思った。
天皇統治(天皇主権)時代ではそれが当然のことだったのだろうが、天皇が国民主権下の象徴になっての行為としてはおかしいのだと思う。天皇統治というのは難しいことにみえるが、上からの考えや意思に従うということである。逆に言えば、自分の意見や考え、つまり意思を述べることや展開することは禁じられるか、抑圧することである。言ってみれば自由に自己の考えをいうことはできないのだ。国家権力で禁じられるか、自己抑制するか、いろいろの形はあるが、自己の意思を表現することはできない。
国民主権は国家統治(国家の事柄)が国民の自由な主張(意思)によるということであり、お上の考え(意思)が支配的であることの対極にある考えだ。天皇統治(天皇主権)の対極に国民主権という考え(理念)はあるが、それは政治においての決定権は国民の自由な意志にあるということだ。天皇の即位の儀式がどうあってもいいが、それは国民の意思によるものでなければならない。天皇は憲法の規定はともかく、そんな風には存在していないことを垣間みせたのだと思う。
日本の政治は憲法の規定からいえば、国民の主権によるのであり、これは民意によるということだ。そこには国民の自由な意志が政治を形成しているという事である。だが、現実の政治は国民の意志とは関係がなく、国家を支配するものの意思においてなされている。沖縄の辺野古基地建設での民意の無視、原発再稼働の動きなど挙げたらきりはないが、「安倍セイジ」は国民の意思を無視している。その典型の様相を持っている。
かつて日本の支配者は天皇統治(天皇主権)という形態で自己の意思を国民の意思としてふるまった。これは国民の意思の発現を抑圧し、その発現を許さなかった。戦前までは国民の主権とか、民意などというものは存在の余地はなかった。しかし、安倍は戦後の政治家である。彼は憲法に国民主権の明記された時代の政治家である。彼の国民の意思や民意の否定ぶりは保守政治家の中でも際立っているが、それは彼が天皇統治を密かに信奉しているからだろうか?
安倍は天皇制が遺風としてあることを利用していることは間違いないが、彼は保守派の一部にあるような天皇信奉者ではないと思う。彼は祖父の岸信介がそうであったような、国家主権論に立つ政治家だと思う。
国家主権説は天皇統治(天皇主権)の絶対性を制限するものとして戦前にはあり、天皇機関説のような考えになったが、戦後は国民主権論に抵抗する考えとして保守派だけでなく続いてきた考えである。国家や民族共同体に主権があり、国民の主権という考えに抵抗する考えだった。安倍は戦後の保守の中で国家主権論に立つ政治家であり、彼の国家主義者としての振舞いはそこに理念を持っているのだと思う。
「桜を見る会」はそのこと自体はどうこういうほどのことではないのかもしれないが、国民の主権(民意)とかけ離れているだけではなく、それと対立する「安倍セイジ」を象徴している。権力者が公私混同するふるまいをするという典型的な政治の形であるが、そのことに彼はなんの自覚もないのだろう。国家(その代表者)である自分(安倍)が主権者であると思っているのだ。
本当は彼の韓国に対する対応や中近東への自衛隊派遣に目をやり、それを批判し、やめさせなければならない。同時に「桜を見る会」のことも「安倍セイジ」の批判として徹底してやる必要はある。つまらないことにも突き合わさせられるのだが、それはやらねばならないことなのだと思う。
味岡修(三上治)