[スポンサーリンク]

自分の考え一色で世界を染めようとする発想が人々を不幸にする

 前のエントリーに続いて、「あ」さんへのレスの形で書いてみたいと思います。どうも「あ」さんのコメントが、私がこのブログを書き始めたテーマそのものに触れる点が多いので、それへのレスに便乗する形です。今晩か明日にもう一本あげます(三部作?)。それでしばらく「『あ』さんへのお返事シリーズ」はお休みにさせてください。3・28全国集会にむけて三里塚のことも書かないといけないし。

◆「おもしろい」ブログにするのは難しい

 ところで、他の人のブログとか読んでいましてね、「ためになった」とか「勉強になった」というのとは別に、「おもしろかった」と思うのは、まず文章のうまさや読ませ方というのが一番大きくて、最終的にはそこに還元されてしまうんですけど(だからこそ文章のプロというものが存在する)、それが同レベルだった場合、つまり素材の問題としてはまず、その人の個人的な経験とか人生、つまりその人だけが知っている事実というのが一等おもしろい。特に同じような体験を共有していると最高。私にとっては書評などもここに含まれるかも。次がマスコミとかで報道され誰もが知っていてかつ興味のある話題。そして一番おもしろくないのが、その人の個人的な観念や理屈が抽象的に書かれている文章です。こういう「お説教」はよほど面白くないと、途中で別のサイトに飛んじゃいますね。で、今回は基本的にそういう「おもしろくない」部類のエントリです(自爆)。できるだけ個人的な体験や具体例をまじえて退屈されないようにはしたつもりですが、さて、どうでしょう。

 しかし政治系のサイトで「おもしろさ」を追求するのは難しいんだろうな。基本は読む人が努力するのが当たり前の分野だから、ネットというかブログ文化にはなじまないんでしょう。政治系のブログランキングとかを見ても、上位にくるのはみんな特定の政治傾向を極端に強調して見せる芸風のみなさんか、同じ傾向を持つ人が喜ぶような情報だけをかき集めてコンパクトに提供するサイトばかり。つまり同じ傾向を持つ人が「読んでいて気持ちよくなる」麻薬的な効果を狙った短文系のサイトが多いですね。安易な結論に飛びつかず、読む人に「考えさせる」サイトは一般的に苦戦しています。つまりまだまだサブカルの世界が主流なわけで、これではいつまでたっても「ネット発」が現実政治に力を持てないはずだわ。

 あくまでも本や新聞などの活字は基本だけれども、それにネットやテレビなど、すべてに一長一短があるわけで、それらを使い分け、あるいはクロスさせて考えるのが当然と思います。けれど、「ネットにこそ真実がある」とか「ネットを見て本当のことを知りました!」とか言っている、「ネットこそわが世界」な人を客層にしないと、これからの政治系サイトって難しいのかなあ(参考⇒「曲がり角の保守系論壇誌、過激にあおる雑誌台頭」)。まあ、私には無理だわな(苦笑)。

◆言論市場の生態系

 ああそうそう、「あ」さんのコメント投稿についてでしたね。

> 「自分の考え一色で世界を染めることがよくない」。
> 私にはわかりません。みんなそれを目的として党派活動をするんじゃないんですか?
> 私には権力側の「分断」にしか思えません。
> バラバラにすれば、奴らの思い通りにできるじゃないですか。共産党に結集させない行動にしか思えないんです。

 正確に言うと「染めることがよくない」のではなくて、「染めようとする発想がよくない」つまり「我こそが正義なりというという発想がよくない」ということなんですが、うーん、なんて言うかな。まず抽象的なたとえ話からはじめると、思想とか言論というのにも生態系みたいなもんがあって、「正しい」草花一種類だけにして、それ以外を全部引っこ抜いちゃうと、虫とか動物とか(=人民と読むべし)は住み着かないというか、本人の意図とは裏腹に、かえって荒れ果ててしまうと思うんです。左翼森や右翼森の住人は、一生懸命にそんなことばかりやってきて、どの草花を残すかで喧嘩ばっかりしているもんだから、ものすごく魅力のない平板な森にしてしまったんじゃないかなあと思っています。まっ平らに整地された地面にロシア流マルクス主義の大木が一本だけ生えている光景だけじゃなくして、その周りにアナキズムのお花畑が広がってたって別にいいじゃんというか、それはそれでまた癒される光景で、人や虫も大木の下に集まってくるということもあるのではと。ファシズムみたいな毒草を抜くのはそういったことの中で考えていってもいいかなと。

 あと、もう一つは、前のエントリーで書きましたが、圧政を倒すための革命ではなく、革命後の政権が比較的安定した時代に、他ならぬその革命政権によって多くの人が殺されたなんて場合のことですね。それをなんかポルポトなりスターリンなりの個人的資質として、彼の正体は実は尻尾の生えた悪魔で、私利私欲を満たすためにその本心を隠し、地位をすて勉強して共産主義者になって命がけで革命をしたなんて言うと、なんか複雑怪奇な話なんであって、むしろ彼が理想に燃えて人々を救おうと考えたせいで、そのためにこそ多くの人が死んだのだという流れのほうが理解しやすいわけなんですよ。あと、「途中から変節した」というある意味一番わかりやすい別バージョンもありますが、それについては今までも何度か書いていますので、今回は置きますけれども、理想のためには、あるいはそれに敵対する「わる者」を倒すと考えた時にこそ、人はいくらでも残酷になれるというか。それは別にスターリン主義に限らないわけですけど、スターリン主義の場合はそういう側面がより強く出ているので、左翼としてはよく考えないといかんと思うのですね。それとやはり思想の左右にかかわらず、「我こそ正義なり」という発想からは脱却すべきかと。

◆党派の常識と個人の常識

 さて、たとえ話ではなくて具体的なことを書いていきますが、まず第一に、私は「党派活動」をしていません(笑
 だからそのあたりで、「あ」さんと感覚が違うのは仕方がないです。前のエントリーで「『あ』さんが嫌う『ニセ左翼』の党派の人間のほうが、私より『あ』さんの感覚に近いかもしれませんよ」と書いたのはそういうことです。自民党のような利権的保守政党ならともかく、共産党のような革新政党が、自分たちの理念で周囲を染めていこうとするのはむしろ当然だし、そこで「いやー、わが党の主張もひとつの考えにすぎないし、違う考えでも別にいいんだけどね(へらへら)」とか自信のないことを言われたらずっこけますよね。まあ、そのほうが外部の人間にはおつきあいはしやすいですが(笑)、そんな党派性がないことをもって党派性にしようとするようなとこに人生かけようとは絶対に思わない。

 つまりね、私もかつては小なりと言えども「党」に属していた人間ですから、「あ」さんのおっしゃる疑問はとてもよくわかるのですが、現在的には個人である私に「よし、おまえの言うことはわかった。全面的に同意する。具体的にどうしたらいいか教えろ」とか言われても困るわけですよ。そんなん自分で考えなはれというか。レーニンが著書の中で「もはやいかに生きるべきかを教えるだけでは足りない。いかに死すべきかを我に教えよ」という労働者の言葉を引用して、党の負うべき責任を説いていて、当時の私は戦慄したもんですが、今の私には到底そんな責任は負いきれないのです。当然ですけど。

◆「正義」とは相対的に存在する不安定なもの

 第二に、「真理や正義という概念は相対的にしか存在しない」ということ、そして「人間の考えは常に間違っている可能性がある」ということは常に心にとめておく必要があると思います。「相手よりは自分のほうが相対的に正しい」という主張は当然にあります。けど、自分が絶対的とか「科学的に」正しいとか真理だとか正義だとか「歴史の進歩」だとかいうのは、神ならぬ人間の考えとしては思い上がりだし、かえって無責任です。そういう宗教的なことを言っている人に限って、あとから「あれは真理ではありませんでした」と今初めて悟ったような顔で開き直ってしまうのはよくある話ですが、そうではなくて、最初から「主観」であることを認め、党を名乗るんだったら間違っているかもしれないその主観に責任を持てということです。だいたい、そんな宗教的なレベルで「正義」を語るから、内ゲバだっておこるし、「在特会」のような人間がでてくるし、「あ」さんが大学で経験したような嫌な思いをする人が出てくるんではないでしょうか。

 その「あ」さんの体験談で言えば、今は多少は嫌な思いをする人がいても、いつか自分たちの革命が成就して、みんなが幸福になった暁には、「あの時は反発したけれども、今となっては彼らが正しかった」といずれはわかる日がくる。そんな感覚になっちゃうんじゃないでしょうかね。もちろんそれは共産党の人にだって言えることで、自分と考えの違う他の左翼の主張が、自分の主観と並立する別の主観ではなく、「ニセ」だったり「人民の敵」とか「権力の手先」に見えちゃうことになるんじゃないですか。「自分が一番正しい」。政党がそう主張するのは当然です。けれども、それが「他とくらべて」を超えた「絶対的な真理」だとか、そういう発想は捨てるべきだと思いますね。このことは共産党に限らず、「党」とか政治的な団体の方々には是非忘れないでいてほしい。

ひと休みしてクリックどぞ! ⇒

◆「正しい党」が複数存在することの必要性

 第三に、左翼運動に特化して考えた場合の問題ですが、私の現役時代の議論の中でですね、「自分たちが(一党だけで)権力をとるという発想の否定」ということが提起されていたんですよね。これは「権力をとる」ということが当面の現実的な事態ではないので、やや軽いめにスルーされていたように思うのですが、実はわりと重要な提起だったんではないかと。

 左翼党派というのは、よく「自分たちが権力をとる」とか、それがイコール革命の成就だという発想になりがちなんですが、それじゃ別にクーデターでもいいわけで、そうじゃないでしょうと。「わが党が権力をとる」ことが革命なんじゃなくて、ブルジョア階級からプロレタリア階級に主権が移行することが革命なわけじゃないですか。どうもイメージとしてしか語れなくてもどかしいけれども、党というのは労働者大衆が主人公となる社会を作って発展させていく上で、人民を守り、みんなの意見を代表して、その利害を代表する護民官の役割を果たすものですよね。だったらその党が一つとは限らないというか、むしろ3~5党くらいあって、競いあいながらも、プロレタリア革命という大きな方向性については共に協力して存在しているほうがごく自然なんじゃないでしょうか。そうなっていない、ましてや一党しかないという事態は、そこに何かしら人為的なものがあったとしか思えない。

 そしてそういった党というのは、その役割を実質において果たしている限りにおいてのみ「前衛」と呼ばれうるわけであって、そういう意味では前衛とか左翼という呼び名は、その時点の連なりにおいてのみ呼ばれうる「永遠の今」でしかないのです。なのに何かしら制度やシェーマにおいて、「階級=党(=指導者)」みたいに公式化されてしまうから、党や指導者に逆らうものが、労働者の敵だったり、人民の敵ということになってしまうのではないか。ソ連や中国みたいな他国の問題だけではなく、現に日本共産党だって、自分たちを批判する他の左翼の行動や主張を批判して論争するのは当然でかまわない(というかむしろ歓迎)としても、それも「ニセ左翼」だとか、あるいは共産党に文句を言う市民運動を「反共市民運動」とか、まるで敵の手先みたいに言ってしまう。これはどうよと思います。

◆左翼運動の多様性と自由な雰囲気を取り戻せ

 もともとスターリン以前の国際共産主義運動というものは、実にいろんな主張がいりみだれて常に論争しているような、多様性のある運動だったのであって、「共産主義運動」といえば何かしら息のつまるような「一枚岩」で会議は全部シャンシャン大会なイメージになってしまったのはスターリン以降のことです。そこで「一国一党」が定式化され、日本においては共産党が「唯一の前衛」であって、左翼はみんな共産党に結集しなければいけない、共産党に逆らうものは左翼ではなくて裏切り者の「トロツキスト」であるということになった。

 新左翼の功績(肯定的側面)の一つとして、「唯一前衛党神話の破壊」が言われています。つまり左翼がソ連や共産党を批判してもいいのだ、それでも左翼なのだということを証明したということです。共産党に言わせれば「そんなのとんでもない!やつらは『ニセ』だ」ということになって、左翼文化が多様化したのではなく、「ニセVS本物」という図式にもっていきたいんでしょうが、後には共産党だってソ連を批判するようになるんですから、そういう風通しのよい土壌を先に左翼文化の中に作ったわけで、私はこれは数少ない歴史的功績として、断固として擁護したいです。むしろそのおかげで70年代以降も左翼文化は生き残れたとさえ言える。

 レーニンとローザ・ルクセンブルグは、お互いにとって手ごわい論敵でした。ローザはロシア革命が成功した後でさえ、レーニンのやり方を批判的に論及し、将来のスターリン独裁を予言するようなことを言ったことはよく知られています。しかしそのレーニンとローザは連絡をとりあい、共闘もした。第二インターが第一次大戦に際して愛国主義に転向し、互いの労働者に銃を渡して殺しあえという立場に立った時も、同じようにこれに反対し、ローザはドイツ軍部や反動派から「売国奴」呼ばわりされようと、断固として国際主義の旗を守って闘った。要するに多様性があって論争しながらも、同じ方向性のもとでは共に手をたずさえて闘うという文化があったのです。

 それが何ですか、今の共産主義運動は!一枚岩がいいことで、内部で意見を言えば分裂主義者だの何だの。かつてのように「違うけれども共に闘う」どころではない。「わずかの違いで喧嘩して追いだす」、敵の中に味方を作るのではなく、味方の中に敵を作ることに一生懸命。そのあげくの果てに「一党独裁」だったり「唯一の前衛党」があるんですよ。かつての共産主義運動の多様性や豊かさとは全く逆ではないですか。こういう世界に喜んで入ってくる人なんて、今の世の中ではそうはいないと気がつくべきではないでしょうか。もちろん新左翼業界だって人のことは言えないわけで、すぐに味方の中に敵を作り、ちょっと意見が違うと分裂したり喧嘩したりは同じですが、それでも全体として見る限りにおいては、非常に多様性があって「何でもあり」というのが魅力の一つだったんですよ。それだけに暴走や「やりすぎ」の事例も多いわけだけれども(自爆パート2)。

 これでもまだ私の感性が、賛成とか反対ではなくて、そもそも「わからない」ということでしたら、ちょうどその反対を考えてみたらどうでしょうか?そうすると、自分の考えが絶対に正しいと信じて疑わない、自分の「正しい主張」を世の中に広めるために一生懸命。意見の違う人にはボロクソに言ったり論争したり、場合によっては相手のサイトを荒らしにいく。まあ、こう書いても、私が単なる一ブロガーですから、ただ多少ウザい奴くらいなもんで、大した問題ではないですよね。でも、そんな私がどっかの前衛党の指導者だったら?ましてやその党が政権を奪取して権力を握ったら?たとえ制度的に言論の自由が保障されていたとしても、行政機関を運営するのがそんな人間だったら、これはかなりヤバイですよね。つか、まあ、それが自民党時代の日本の姿だったわけですけどね。

◆いわゆる「民主集中制」がどーたら言う話

 あと、よく言われる「民主集中制(=レーニン主義組織論)」がどーたらいう話ですが、これは組織の内部問題でもあるんで、私が外からあれこれ言うのは不適切だと思うんですが、まず一般論として言いますとね、あれは革命を前提にした場合には組織の防衛と党内民主主義を両立させる唯一にして非常に優れたシステムで、絶対に必要不可欠だと思います。けど、あらゆる場合に普遍的に優れたシステムとまでは思わないな。あれは革命の理想の元に、弾圧に耐えながらも強い同志愛と信頼感、そういう「民主主義以上の何か」(レーニン)で結びあっている同志たちの間でしか理想的には機能しない。もっとぶっちゃけて言ってしまうと、民主集中制は「執行部性善説」なんですよ。実際、党や革命の最良の時期には、別に規約なんていらない(正確には意識する必要すらない)くらいなんです。だけど革命が成就するなり、それを放棄して議会主義路線に転向するなりして合法化した後には、党中央の権力を守って統制する欠点ばかりが目立ってしまう。まして権力政党化した暁には、すぐに「執行部性悪説」にたった規約の変更が必要だと思う。

 確かレーニンだって民主集中制が「両刃の剣」であることは自覚して注意を促していたはずです。だからロシア共産党は本当なら革命後に率先して規約を変更し模範を示すべきだったと思うし、日本共産党も、もう革命運動なんてできるような政党ではなくなっているんだから、今さら必要ないんじゃないかなあ。だって、「あ」さんもご自分で書いておられますけど、今の世の中じゃあ「党中央は神」な人以外は、何となく息がつまる制度なんじゃないすかね?だからそういう人しか入党できなくなっちゃう。結果として党員の平均的な質は下がる。党勢も伸びない。世間一般には共産党より遥かにゴリゴリと思われている「過激派」のほうが(組織にもよるけど)、現在の共産党よりよっぽど自由闊達な雰囲気がありましたよ。そのかわりすぐ分裂しちゃうのが欠点なんだけどね(笑)。それとも共産党は、将来、日本の反動化が進んで共産党や左翼運動が非合法化されるような事態を想定しているのかな?そういう前提なら民主集中制の維持は正しいけれども、現在的にはできるだけ運用面で柔軟にしたほうがいいとも思います。まあ、私が言っても余計なお世話ですね。

◆共産党への要望「主流派政治」を

 さて、最後にちょっと要望を書いておきます。共産党は日本の左翼運動の主流派なんですよ。だから左翼内部では全体をまとめあげて同意をとりつけつつ、多少の批判派は軽くいなして横綱相撲、そしてみんなを引っ張っていくような、余裕のある「主流派政治」を打ってほしい。そうしてこそ共産党に文句を言っている人は逆に孤立していくだろうし、ぶつぶつ言いながらもついていかざるを得なくなる。55年体制時代の自民党は、一定そういう側面を見せていたから強かったんではないかな。これは前のエントリーでは中核派批判として書いたことだけれども、現状はまさにその逆で、自分たちよりも少数の相手に対してさえ、常に「共産党がヘゲって出張って制圧して意見を通す」みたいに、どんな場所でもあたりかまわず少数派根性の「反主流派政治」一辺倒だから、結構いろんな現場で共産党の体質に対する批判とか中核政治に対する批判って、説得力を持ってしまうんですよね。TPOをわきまえてほしい。

 かつて私の政治的な師である笠置華一郎さんという人は、「少数派の時は堂々と麦のように、多数派になればなるほど稲穂のように謙虚になれ」って言ってましたけどね。そういうことではないでしょうか。実際には少数派の時には弱者ぶって被害者みたいに自分を弱く見せて、多数派になったとたんに尊大にふるまう人が多いように思います。少数多数は時と場所によって変わるもので、共産党は社会全体では少数派意識しか持ってないんでしょうが、左翼業界の中では絶対的な多数派としてその言動を判断されているんですよ。私もそういう目で(絶対多数派としての共産党)を見ていると言えば、感覚がわかってもらえるかな。私みたいなちっぽけな存在が、圧倒的に多数の組織を左翼内部で少々批判したからってそれくらいが何?おいおいそんなことも許せないの?っていうか。

 だから少数派内部を数の力で「制圧」して染め上げようとばかりするんではなくむしろまとめあげ、その力で多数派に切り込んでいくような政治はうてないものかと。京都の共産党は自覚的にではないんで中途半端だけれども、多少はそういうところがあるけどね。だってそうでないと、「いつまでたっても少数派」どころか、ますますもっと少数になっていくよ。私が「過去は許して共産党とも共に闘う」というのは、こういうことを口先で言うだけではなくて、個人は個人なりにでもその精神を実践しているつもりでもあるんです。後は共産党が(に限らず中核派などその他の勢力もですが)私みたいな人間を、条件をつけずに受け入れてくれる度量があるかどうかだし、私はそれに応えたいと思っていますよ。

コメントを見る

  • 本当に申し訳ないです!私の手前勝手な書き込みであなたの書き込みたいことを書けないで。本当に申し訳ない。
    確かに、一人一人の人間。思想が知うのが当たり前。政治思想からとんかつにソースをかけるのか醤油をかけるのかはたまたポン酢をかけるのかでも大違いなわけです。わかっちゃいるけど、やめられない(故・植木ひとし)
    分かりました。といっても正気に言えば以前の発言からでもあなたはそういう立場にないということが分かりますが、あなたは「元」「ニセ左翼」なのですねw
    >今は多少は嫌な思いをする人がいても、いつか自分たちの革命が成就して、みんなが幸福になった暁には、「あの時は反発したけれども、今となっては彼らが正しかった」といずれはわかる日がくる

    その通りですね。そういう考えで行動しています。「いつか分かる日がくる!」ってね。やってます。

    しかし、私自身だって絶対真理なんて無いと思ってますよ。党にだって色々な人がいる色々な意見がある、しかしそれが全党にいきわたらないという歯がゆさがあります。
    しかしながら、自分の考えが通らない(多数決によって)からといって党に失望することはありません。「ある程度の我慢」ですよね。枝葉末節は違うがある程度は受け入れよう。党内での多数派なのだから。といったところです。しかし、ニセ「左翼」に対してはそのように思えないというのが正直な気持ちですかねぇ。

    確かに、一つの党とは限らない。
    我が党だって「民主連合政権」って言ってますよ。
    んじゃ、実際に今の日本の現状で手をとる相手がいるか?
    社民党は右転落。
    9条の会、新社会党の手先、綱領に我が党を批判する記述あり。

    これじゃあねぇ、って気もします。我が党を批判しないのなら、手を組みますよ党は。
    しかし面と向かってうちの党に喧嘩売ってたり、ことあるたびに右転落する党を見ると・・・

    そして民主集中制ですが。
    私はあなたの言うことに賛同しつつも反対します。
    確かに私の意見が中央に届いていないのではないか?という疑問がありますが、だからといって党を出て行こうとも思いません。自分自身が共産党を変えたいという気持ちがあるからです。
    それから革命運動ができるような政党ではない。と言いまがそれはちがいます。まずは民主主義の枠内から・・・といってもあなたなら分かるでしょうね。省略します。革命を目指していますよ日本共産党は。しかしそれには段階がいるんだと一足先に革命はならないと。あなたの言う日本共産党の公式見解の羅列になってしまいすが、私はそう思います。

    確かに日本共産党は左翼界の主流派ですね。確かに。
    私たちは少数派だが、多数派でもあるわけですね、

    あなたを受け入れる度量がある組織あるんですかね。私が組織の長だったら、避けて通りたいですねw

    メアドのっけました。一度お会いしたいです。

  • ご存知かも知れませんが、土佐高知さんが非常に面白いブログ記事を作られました。
    政治議論について、久々に ぱあっ と目の前が明るくなる思いがしました。
    http://jcphata.blog26.fc2.com/blog-entry-1820.html#comment-top

    「宮本修正主義」とか色々言いますが、心の底の底では共産党に期待しているんですよね。

  • 土佐高知さんとこのエントリーはまさにシンクロニシティですなあ。
    ほぼ同じ時間に同じテーマを書いていたんですからねえ。しかも結論までほぼいっしょという。まあ、みんな考えていることは同じなんだなあ。

    でもあそこに居座っている人たちが、そのまんまこっちに来るのは嫌だなあ(笑

  • 「あ」さん>

    「共産主義前衛党」が一国に複数存在し得る、存在してもかまわない、その場合は共闘相手だということを認めていただけるなら、それだけで充分ですよ。

    それと、私が言っている「革命」というのは文字通りのイメージでの革命ですよ。民衆の意思を受けた多かれ少なかれ超法規的な手段によって政権が崩壊し、新政権が樹立される事態のこと。共産党用語で言えば「強力革命」ですな。「あ」さんが語っておられる「革命」は、議会(選挙)を通じて内閣を奪取し、政権の本体である従来の官僚・警察・軍隊などの政府機構は廃止せずにそのまま受け継ぐという内容ですから、そのあたりでちょっと話がかみ合っていないかな。

    民主集中制については、本文で書いた以上には何も言うことはありません。

    ただ、「党と党員の関係」というものが、そのまま「党と大衆との関係」に反映され、政権党になったら「政府と国民との関係」に反映されるものであることは肝に銘じてくださいね。

    そういう目で見て、「あ」さんはご自分と党のあいだにどういう関係を築いておられますか?また、ご自分たちと周辺の大衆との間にはどんな関係を築いておられるでしょうか?それがそのまま共産党が実現するであろう社会の雛形です。それは「あ」さんからみてどうですか?魅力的で豊かなものでしょうか?

    あとはそうですねえ、党員と非党員の間で接する態度に差別があってはいけないと思います。

    >あなたを受け入れる度量がある組織あるんですかね。私が組織の長だったら、避けて通りたいですねw

    「受け入れる」ってのは一致できる範囲や課題で協力して共に闘うってくらいの意味です。私は個人ですから、ほとんどの場合はその組織が提起した運動に参加させていただり、集会に行ったり、いろいろ協力したりということになるでしょうね。

    常識はわきまえていますので、相手が「さけて通りたい」と思っているような状態で、その組織に参加させろとは言いませんよ。
    でも、いざその組織に結集すると決意したら、私はものすごく熱心な党員になると思う。根が組織人間だから。

    >とんかつにソースをかけるのか醤油をかけるのかはたまたポン酢をかけるのか

    いや、塩でしょう。七味と醤油というのも捨てがたいですが。

    ====

    そろそろお願いしてもいいかなと思うので、おそるおそる書きますが・・・
    あのぅ。「ニセ左翼」はやめてもらえませんか?(笑

    いや、なんかね、こっちも気を使って「私のような『ニセ左翼』はね」っぽく書いてまいりましたが、やはりちょっと抵抗感がありますわ。もともとそれって、共産党の内部だけで流通している独自用語なわけでしょ。それに私だってかつて使っていた「日共」という「差別用語」をこのブログからは追放しているわけですから、そのあたりは相互にということで。今では罵倒専用の呼び名である「日共」も、太古にまでさかのぼれば罵倒用語ではありませんでしたし、自称さえしていた時代もあるみたいですが、さすがに「ニセ左翼」は言葉自体がどう考えても罵倒ですし。

    このあたり、呼び方はいろいろなものを頂戴してきたわけですが

     自称:革命的左翼潮流
     警察:過激派→極左暴力集団
     共産党:トロツキスト→ニセ左翼
     マスコミ:反代々木系→新左翼→過激派

    ってことで、わりと価値中立的で一般的に使われている「新左翼」で統一していただければと思う今日この頃ですが、いかがおすごしですか。
    まあ、「あ」さんが日常とか他の場所で「ニセ左翼」って言うぶんにはかまいません。またそういう人がこのブログを訪問されることについても問題はありません。それは「あ」さんの自由です。ただ*このブログ内だけでは*「新左翼」でお願いします。
    じゃないと、こっちも「日共」って呼んじゃうぞ(笑

    どんなに中国が大嫌いで中国人相手に激しく論争している時であろうとも、常識のある大人なら、相手に向かって「シナ人」とは言いませんよね。それと同じことですよ。

  • 新左翼でいきましょう!日共や民青同はいやですからね(しかし、実は今は冗談めかした感じで自虐的に「日共」とか「代々木」とか内部でも言ったりしてるんです。当然、支部会やら班会のレベルの雑談ですがね)

    民主集中制なんですがねぇ。よくわからないんですよ。これ以外の良い方法があればそれを提案したいのですが、勉強不足なもんで知らないんです。
    とはいえ、大会で執行部批判的な発言が一切ない。これが疑問ですね。普段支部会レベルでさんざん言ってるでしょうが。それを発言なさいよ。
    ところがやらない。私は機会が恵まれないだけで発言できないわけですが、発言の機会が与えられたら大いにやりたいんです。
    「執行部に疑問は無いの?」と聞きます。「ある」と答える。「じゃあ大会で発言したら?」「いやぁそれはちょっと・・・」となりますね。
    民主集中制の抱える問題なんでしょうか?私は党員一人一人の自覚なんだと思います。

    党が政権党になり国民と党の関係がこういう状態になる。
    問題ですね。大いに問題です。しかしイコール民主集中制の否定にはならないのですよ。一人ひとりがもっと「自覚的」になれば解決する問題じゃないかなと。

    避けて通りたいですね。と言いましたが。
    今の党はあなたを避けるんでしょうかね。ちょっと分からないです。

    >いや、塩でしょう。七味と醤油というのも捨てがたいですが。

    塩ニストですね。てんぷらも「塩がいちばん」と言ってしまうタイプですね。そういう人に会うたびに私は「通ぶりたいだけだろお前」という言葉をなげかけたくなる衝動にかられます。

  • はじめてコメントします。
    ほんとに同じ時期に似たようなテーマやっていたんですね。
    驚きました。

    そして
    >共産党は日本の左翼運動の主流派なんですよ。だから左翼内部では全体をまとめあげて同意をとりつけつつ、多少の批判派は軽くいなして横綱相撲、そしてみんなを引っ張っていくような、余裕のある「主流派政治」を打ってほしい。
    は耳が痛いですね。

    そうした主流派になりたいのですが、
    まだ道遠しという部分もありますし、
    できるところからがんばりたいと思います。

    これからもよろしくお願いします。