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◆共闘関係の原則について

確かに、一つの党とは限らない。我が党だって「民主連合政権」って言ってますよ。んじゃ、実際に今の日本の現状で手をとる相手がいるか?
社民党は右転落。9条の会、新社会党の手先、綱領に我が党を批判する記述あり。これじゃあねぇ、って気もします。
我が党を批判しないのなら、手を組みますよ党は。しかし面と向かってうちの党に喧嘩売ってたり、ことあるたびに右転落する党を見ると・・・

 こういう文章を普通に書く「あ」さんの感覚からは、「え?!」と思われるんでしょうが、「わが党を批判している?だから何?なんで一緒にやれへんの?」と思います。

 私は大衆運動の目線で見ていますから、政党同士の合従連衡などについては、あんまり言うことはありません。それぞれの党の判断ですからね。基本は口出ししませんが、感想として言うならば、共産党は共闘実現の責任を、ちょっと相手にばっかり押し付けているような気がします。「共産党に対する批判を降ろせ、さもなくば一緒にやれない」って、どういうことよと思います。

 もう少し詳しく書いておきます。たとえば新左翼同士の共闘なんかだと、まあこれは昔の極端な例なんで一般化はできませんが、集会場ではお互いの発言に拍手と怒号が交差し、会場の周辺では、集会参加者同士があちこちで相手を批判する激しい討論を大声でしてたりとか。それでもいざデモに出る時にはお互いにスクラムを組んで、権力の前ではかばいあいながら共に闘う。そんなもんでしたけどね。私らに言わせれば「そういうのっていいよね」ってな感覚でしたね。ロシア革命とか、いろんな勝利した革命の高揚期には、それこそ国中がそういう討論の坩堝だったと思いますよ。「民衆がこぞってわが党を支持しはじめる」的な革命イメージを持っているんなら、それはちょっと違うと思う。

 そもそも「課題の一致」、「行動の統一」、「相互批判の自由の保障」、この3つが共闘の大原則でしょう。党内で執行部批判ができないとか、そんなのは内部の問題ですが、共産党は共闘相手にまで自党に対する批判を許さないんですけど、それっておかしくないですか?方法が打撃的な場合は「空気読め」って言うかその点を非難してもいいけれども、基本は共闘現場での批判に対しては、共闘現場でそれに反論すればいいことです。「けれども、この点では一致できるからそこでは共に闘おうよ」と言えばいい。それが共闘ってもんでしょ?それを否定して「わが党を批判しているから共闘できない」ってんなら、ありとあらゆる共闘なんでただの一つも成立しません。なんにも批判することがないなら党を統一するか、共産党に入党してしまえばいいだけの話ですよ。

 要するに本音の部分では、共産党の運動の作り方として、「思想信条は関係ありません。諸要求貫徹です」という路線で大衆を緩く包摂し、コツコツと自前の勢力を作ってきたから、自分がかかわるテリトリーの中で、自分に対する批判が普通に語られたりすることを許容できるような構造になっていないという理由につきる。つまりそういう相互に風通しよく議論が交わされるような場所に出たくないし、まして自分のテリトリーにそういう奴らを入れたくない。そういうことじゃないですか。けどもうそろそろ、そういう囲いの中の「共産党系」を増やすことばかりじゃなくて、自派系列の温かい部屋の中から、風に吹かれて打って出ればいいのにとも思います。排除と囲い込みと純化の「孤高」ばかりでは、もうこの先は頭打ちなんじゃないかなあ。

◆悪政をストップさせることが第一

 私はね、四面楚歌まではいかなくても、周りから冷たい目で見られるような関係の中でも、そこに自分たちから飛び込んだり、そこで自分たちなりに共闘の成功のために努力し、説得に努めたたなんて経験はいくらでもありますよ。そういう私から見たら、共産党の言い方はずいぶんと甘えた勝手なものに見えますね。

 つまり共産党が言っていることはね、「お前の党の路線や主張を変更せよ、さもなくば協力はできない」ということです。共闘集会の発言や実行委の会合で、新社会党が共産党の路線とか政策を攻撃しはじめたんなら、そりゃあさすがの私だって怒りますけれども、「あ」さんの説明だと、むしろそういうことをしているのは、共産党のほうに見えるんですけどね。まあ、まだ政党同士なら口を出すことではないかもしれませんが、たとえば市民運動家とかから見ればどうでしょう。自分が同じことをですね、自分の1万倍くらい大きな組織から言われたら、相手にどういう印象をもちますか?そういう「圧倒的な大組織」である共産党の態度が、ずっと小さな少数派から見てどんなふうに見えているか、それを考えたことがあるのでしょうか。あげくの果てに「反共勢力」呼ばわりとかされちゃうわけで、「共産党」という名前はそのレッテル貼りのためにだけ残しているのかと。

 何より言いたいのは、そういう大組織や政党の思惑とか都合の中で、地域の市民運動や大衆運動の人は翻弄されっぱなしになるということです。もう、「そんなことはどうでもいいいいいい!!!自民党と闘う気があるのかないのか!!」と机ひっくり返したくなりますよ。共産党と末永いおつきあいをするためには、現状では、結局はマスコミが言うところの「共産党系の市民団体」になるしかないんです。前のエントリーで「主流派政治」「横綱相撲」をお願いすると言ったのはそういうことなんですよ。

 京都では確か城陽市だったかな、保守系の反主流派と共闘して、市政を奪取したことがあったじゃないですか。それははっきり言ってあんまり評価できなかったけど、要は市民が第一、国民が第一、悪性をストップさせることが第一でしょ?それが回りまわって結果として共産党の評価につながっていくんですよ。だいたい常々共産党をさんざん批判している地方の保守派とさえ共闘できるのに、左翼内部では「わが党を批判しているから」共闘ができないなんてそんな馬鹿なことがあるものか!と思います。共産党を批判することと、共に闘うことは両立すると思うんですよね。そのあたりをちゃんと見定めてほしいなと。

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◆「在特会」へのカウンター行動について

> そして私が一番聞いてみたいと思ったことが一つあります。「在特会」に対抗するデモなんです。
> あれではたして在特会が人種差別をやめると思いますか?
> 党はあのことに関して黙殺してますね。赤旗毎日読んでますから分かります。私はその態度が正しいと思うんですよ。
> 連中にたいして何らかの行動を起こせば、それこそが「在特会」を利する行動なんですよ。
> それよりも一人ひとりと対話することが重点だと思うんですね。

 確かに共産党は全く沈黙してみごとに何もしていないですね(笑)。でも、それは共産党だけでなく、当初的には新左翼系も含めて党派の人間はどこも沈黙して目だった動きは何もなかったですよ。昨年の京都で初めてのカウンターデモがあったわけですが、あれはもうほとんど個人と、個人に近いちっちゃな市民・学生団体だけで組織したものでした。もちろん個人的に参加した組織所属の人もいたとは思いますが、基本的には保守派の人も含め、自覚のある個人が自主的に参加したものです。それだけであの人数はなかなかすごいと思いました。

 でも、朝鮮学校への襲撃事件以降、少し風向きが変わってきて、党派ではないけれども、その系列で運動していた人や団体も徐々に合流し、関西などでは「反ファシズム共同戦線」ができつつあります。今まですごく仲が悪くて絶対に同席しなかった人々まで、反ファッショの一点でひさびさに(または初めて)、各種の集会や催しで顔をあわせちゃうような場面もあったようです。こんな大衆的な課題は他にはないわけで、今のところそれが何かの形になるやらならないやら、全くわかりませんが、そういう意味ではまさに「在特会」様様です(笑)。ですが、それだって、それまでほとんど個人で声をあげ、努力してきた良心的な市民・労働者の努力があったればこそ実現したものであって、そういう方々にはほんとうに頭が下がります。私もこういう結びつきを実現するためにできることが何かあれば協力したい。共産党さんや他の大きな労組の皆さんもくればいいのにと思う。

◆自然な感情(正義感)を出発点に

 さて、そういうカウンター行動で「在特会が人種差別をやめると思いますか?」と問われれば、思いませんということになりますね。あれは「在特会を改心させる」とか「対話する」ための行動ではなくて、抗議行動ですからね。私も初めのうちは、どうせネットでの勘違いをそのまんまに街頭に飛び出してしまったネトウヨ集団くらいに思っていましてね(今でも基本的にはそう思っていますが)、もうそんなのそっとしておいてやれくらいに思っていましたよ。「民主党が政権をとったら数ヶ月以内に中国と韓国が攻めてくる」なんてネタではなく本気で言ってる奴らは、そのうち勘違いに気がついて、自然に下火になっていくだろくらいにね。

 でもまあ、実際に被害が出ているわけでしょ。それも弱いものイジメばかりで。自分のクラスで陰惨なイジメが行われているのを目撃した生徒がですね、「やめろよ!」って勇気を出して言うのがそんなに理解できないことですかね?共産党さんや他の政治団体の人たちが、「やめろよ!」と声をあげた生徒に対して、「あーあ、あんなのほっとけばいいのに、馬鹿だね」と…まあ思うくらいならいいですけどね。こっちだってそんなもんかよと思うだけですから。でもわざわざ「あんなのほっとけよ」と口に出していうのはどんなもんですか。前衛だというなら先生みたいなもんですよね。声をあげた生徒に、「黙殺するのが正しいんだよ」と指導するんですか。

 この場合、誰の立場を一番に考えて行動するべきですか?私はイジメを受けた生徒の立場だと思うんですよね。失礼だけれども、「あ」さんは党派の政治的な態度にばかり気をとられて、人として一番に考えてあげなくてはならない弱者の心情に対する想像力が欠けているのではないでしょうか。

 「在特会」が京都集会で、「(京都)市は朝鮮人を追い出せ!」みたいなプラカードを掲げて市役所前で集会を開いている時、通りかかった女性が泣いていたそうです。声をかけてみると在日市民の女性だった。毎日普通に暮らしているだけなのに、生まれや国籍でこんな酷い差別を受けて罵倒される。どんなに悔しくて心細かったでしょうか。だけどそれに抗議している日本人も大勢いるのを見た時に、どれだけ励まされて安心したことでしょう。それがなんでダメなんですか?朝鮮・韓国籍の人ばかりじゃない。国際都市京都には、それこそいろんな「在日」市民がいて、長年共存してきたのです。抗議の声が出るのはごく自然な感情です。それをどうして不自然な理屈で否定するのでしょう?

 ここが一番大切なところなのですが、その自然な正義感で動いている人たちを、「あ」さんはまるで対立する党派や政治勢力同士の主張の違いみたいに理解して発言するから、どうしても主張がかみ合わないし、互いにとって理解不能になるのです。そういうところが「ネトウヨっぽい」ということなんです。ネトウヨって世間の人が人間としての自然な感情でごく普通に当然と思うことを否定するために、ネット上で不思議な理屈を発明・開発して広めることに意義を見出しているわけじゃないですか。私たちはそういう「理屈」を出発点にしているわけではないのですから。

◆「思想の違い」ですませてはいけない

 ファシストや差別主義者が朝鮮小学校の子供たちを襲撃した。こんなの「思想の違い」の問題ですませてはいけない。許せないものは許せない。それこそ「思想の違い」なんて乗り越えて「許せない」と言った。ゆえにその中には保守派もいるだろうし、「あ」さんの嫌いな「ニセ左翼」もいるだろうし、右翼さえいるかもしれない。けど、それがどうしたと思います。特定の誰それがいるから参加できないとか、ましてやそれをもって、「そういう奴らがやっている運動なんだ」みたいなことを言うのはそれこそネトウヨのデマ宣伝と全く同じではないですか。むしろ、普段はそれぞれ自分なりの「正義」を掲げている人たちが、自然な市民感覚で嫌悪感を抱くものに否定的な反応を表明するのは当然でしょう。もちろんそれぞれの思想によって批判の内容は違ってくるでしょうが、まず「許せない」の一点で思想を乗り越えて一致し、共同することが健全な民主主義社会を共有するものとしては大切なのではないでしょうか。

 そういう意味では、「北朝鮮の人権侵害は許せない」も「在特会は許せない」も「暴力団は許せない」も同じです。そりゃあ、できれば共産党にも共産党なりのスタンスで「在特会」を批判してほしいけれども、別に共産党に私(たち)の立場や運動を支持・支援しろなんて言ってないでしょ?たとえば、共産党が自分の考える「正義」を支持してくれない、ゆえに「共産党は北朝鮮と同じだ」とか「共産党は在特会と同じだ」とか、そういう子供みたいな屁理屈、つまり、自分の政治主張を自然な市民感情とすりかえ、被害者の苦しみを反共産党運動の道具に貶めるような汚い策略を私たちがとった時、その時にはじめて「あ」さんは激怒すればいいのではないですか。その時には私も「あ」さんを全面擁護することをお約束します。

 ただし、何もしないだけならいいですが、人の主張や運動を高いところからあれこれ批判するのであれば、それは「おまえらは活動家でも政治家でも前衛でもなく、ただの評論家だ」と言わせていただきます。さらに自然な市民感情として「許せない」と声をあげることにさえ反対や敵対するのなら、それははっきりと批判させていただきますし、程度によっては参加している市民から「共産党も在特会と同じだ」という声があがっても、私にはかばうことができません。

◆大人の事情?

 共産党が現象的に沈黙しているのは、「あ」さんが思っているような「深い考え」というより、単に他の小さな市民団体みたいな小回りがきかないだけの話だと思いますよ。今のところ新聞に大きく載るような話題になってないし。それに、ネトウヨ系の「運動」って、それだけを単体でみれば現状では思想界ではニッチ産業なのに、こういう粘着な奴らとかかわるとかなりのエネルギーがいる。ネットでも騒がれて叩かれる。そのくせ全く票にならないときてる。同じエネルギーを使うなら派遣労働者の組織化とかに使ったほうがいいとか、そういうレベルの政党としての優先順位の判断だと思います。私が現役活動家時代に、右翼からの集中攻撃を受けて難儀していた時、中核派は全く沈黙していましたが、それと同種の判断かなと。

 それと、(ネトウヨが思っているのとは正反対に)共産党は大昔から北朝鮮のことを自民党以上に批判していたわけですよね。もう批判を超えてほとんど嫌悪しているというか、普段の喧嘩相手の自民や民主との間みたいな熱い関係ではなく、本当に冷え切った関係に思える。そのへんのメンタリティから言えば、この問題に早い段階から深くかかわって、総連だの「ニセ左翼」だの「反共市民」がいるような場所に同席するなんて、正直な話としてしたくないのが本音じゃないですかね。かといって独自の運動で取り組むのもなあという。そういう「大人の事情」に基づく判断が大きいと思いますよ。

◆過去の事例ではどうだったんでしょうか

 それに、必ずしも過去の事例で、こういう時に共産党が常に沈黙していたわけではないでしょう?拉致問題発覚のはるか以前にも、少し北朝鮮との関係が悪くなると、すぐに朝鮮学校の高校生が(しかも女子高生ばかりを狙って!)白昼堂々と襲われるという事件が多発しました。報道された手口はだいたい制服のチマチョゴリをカッターで切り裂くという卑劣なもので、やむなく朝鮮学校は女生徒を私服通学に切り替えた。事件の多発は日本社会に大きな衝撃を与えたし、新聞の論調はすべて犯人の差別行為を批判することで足並みをそろえた。いわゆる「チマチョゴリ事件」ですが、数次にわたって問題化したはず。この時に、他の新聞がそろって非難しているこの行為を、「赤旗」だけは黙殺していたんでしょうか?そうだったらちょっと軽蔑しますが、まさかそんなことはないでしょう?

 事件当時は投稿欄にも怒りの投書が多数寄せられ、私が読んだものでは、「電車のあいた席に座ろうとした女生徒の太ももを、前にいた中年の男性が持っていた傘でぴしゃりと叩きつけ、傘で女生徒を横にどけると無言のまま自分が座った」という目撃談がありました。「事件」として報告されていない、こういう差別事件が他にもたくさんあったと思うし、私がその場にいたら絶対に頭に血がのぼって、このクソオヤジに鉄拳が出ていたと思う。そういう許せない気持ちになるのは、そしてその気持ちを「許せん!」と声に出していうのは、そんなにいけないことですか?それとも「在特会」が、マスコミが大々的にとりあげるような大きな暴力事件を引き起こしてから、はじめてそれに便乗する形でしか言ってはいけないでしょうか?普通は「そうなってからでは遅い」と思うもんじゃないですか?

 だいたいこういう時に、抗議デモの一つもおきないなら、左翼以前に同じ日本人として恥ずかしいじゃないですか!ドイツでネオナチの若者が外国人アパートに放火(子供二人が死亡)したときには、2万人の市民が怒りの抗議デモに立ち上がったけれど、そんな事態になってからでは遅い!です。フランスで極右のルペンが大統領選の決選投票に残った時には、その選挙結果に対する抗議デモが何回もおこった。選挙の結果にだって抗議しちゃうわけだけれど、それで圧倒的に多数のフランス国民はファシストを拒否していることを、世界中に示すことができたわけじゃないですか。オーストリアの与党が多数派工作で、極右政党の人間を連立与党に加えた時には、これはもうオーストリアだけではなくして、周辺諸国でも大規模な抗議デモが頻発した。他国の選挙結果にまで抗議しちゃう(笑)。その甲斐もあって、EC諸国では、今後オーストリアを国際会議に参加させるかさせないかという話にまで発展しました。

 それから、具体的な年度や場所は忘れちゃったんですが、80年代には(今もですが)右翼が街宣車で日教組の大会に押しかけることが社会問題化していましたよね。右翼の脅迫に屈してどこも会場を貸してくれなかったり、直前にキャンセルというような事態が相次ぎました。でもまあ私も含め、最初はみんな、「なんで日教組ばっかり目の仇にすんだろ?変なの」くらいで眺めていました。単なる一組合と右翼の揉め事だと。

 ところがある年に、勘違いして調子にのった右翼の妨害がエスカレートし、とうとう組合の大会が開けないかもしれないくらいに深刻な事態になりました。その時にはとうとう「おい!もういいかげんにしろ!」という風潮になって、大勢の他の組合員や、市民団体、政党、政治団体の人が、右翼からの防衛隊をボランティアで買って出たのです。「言論の自由を守れ!」をスローガンに、抗議大会や、事態について考える催しもたくさん開かれたし、世論も味方した。その批判とマスコミの監視を受けて、警察もやっとこさ重い腰をあげ、宿泊の旅館を含めた警備にのりだしたし、右翼の脅迫を口実に会場をキャンセルすることもできなくなった。

 はっきりとは覚えていないので確かではないけれど、この時はちゃんと共産党も抗議の声をあげたし、系列の人が防衛隊のボランティアを引き受けたりしてたんではなかったですかね。ついでに言いますと、この時は中核派の人も、自分たちの団体の宣伝とかはしないで、黒子的に5人くらいの人がボランティアに参加していたそうです。その噂を聞いた時に、自派からは一人も派遣できなかった私は「中核もなかなかやるやん!いいとこあるやん!今回は負けたわ」と単純に思いましたけどね。これもダメですか?これでもまだ右翼は放置しておくのが効果的なんですか。

 こういう経緯を見ていけば、私の言っていることは変でもなんでもなく、むしろ世界と日本のこれまでの趨勢であり、それを引き継いでいると思うのですけどね。申し訳ないけれど、当たり前に「やめろよ!」と言う私の感覚のほうが普通で、「あ」さんの感覚のほうが不自然だと思うのですよ。そんなに無理して自分の正義感や素直な怒りに理屈をつけて押さえつける必要があるのかと。

◆その他いろいろ

> デモに参加しなければサークル部室召し上げ

 幸運にもそこまでキツイのは私もあんまり聞いたことがないなあ。W大のカクマル自治会は、70年代には文化サークルの研究内容にまで口をだしてきたとかいう話は聞いたことがあるけど。カクマルって私らの間でも総スカンで、「新左翼の仲間」とは認められていませんでしたからねえ。

 ちなみに共産党の場合はその反対で、学費値上げ反対デモとかに(個人として)参加しようとしたら罵倒されて追い返された、自治会が主催の集会やデモに、公認サークルとして参加を申し出たら、理由も不明確なまま却下されたという話を聞きました。つまり「無理に参加させる」ではなくして、逆に「新左翼っぽい奴には一切の活動をさせない」という発想にいくみたいですわ。「○○はカクマル派だ」というビラを自治会でまいて、名誉毀損で訴えられ、あげくに損害賠償を命じられたりしてたなあ(って、ここまで書くと大学名を特定されてしまうかな?)。本人たちはそれでも民主主義は守ってやってるつもりでいたみたいですけど。うーん、どっちもよくないが、どっちがより悪質なんでしょうね(笑

> 私はあなたが嘘をついているとは到底思えない。しかしながら私は党の言っていることも嘘とは思えない。
> しかしこれは、両立しえることだと思うんです。

 そうです。両立しえます。私はこれを、過去の(悪しき)左翼文化総体の問題だと思うのです。私の考えについては、かなり前に書いたものですが、下記をお読みくださると幸いです。(⇒「蔵田さんの回答書への読書感想文」)

 左翼は数が減ったぶん、おかしな付和雷同分子がそぎ落とされてだいぶマシになってきましたが、こういう層が現在的にはそっくりそのまんま右翼にいっていると思います。ネトウヨってのはつまりそういう層なんだと思いますわ。できればそのまんま、未来永劫右派で抱えていてほしいんですが、「左翼復活」を目指したら、こういうのもまたこっちに帰ってくるんだろうなあと・・・。流行のほうに流れますからね。こういう層は。だからこそ今のうちに考えておかないとね。

> 党内での私の立場が下がるのが嫌だし、私自信いわゆる「民主団体」で働いていることもある。浮く
> 過去に除名された人たちのこともある。私自信は「そいつらは悪い奴らだったんだ」ということで私自身とは違うものと区別して考えることもある。
> しかしながら、私はあなたみたいな「ニセ「左翼」」と対話したいという気持ちもある。

 まず、今でも「除名」って、そんなに普通にあるんだと、そのことに驚きました。いろいろ書いてあげたい(ってエラソーな言い方ですが)ところだけれど、書き出すと「あ」さんに対する共産党からの「コケオルグ」になりかねないので、自粛いたします。ただね、私のかつての同志だった人が自殺していてね、「あ」さんには無縁な話だろうとは思うのですが、よかったら読んですぐに忘れてもらって結構なので、それを知った時に書いたエントリ(⇒「千の風になって」)にちらっとでも目を通しておいてくださったら嬉しいです。

 「対話したいという気持ち」については、まあ、別にそんな悩むほどのことではないんじゃないかと。私は現役活動家の学生時代でも、民青の友達とは普通につきあっていたし、下宿に遊びにいったりとかしてましたよ。現在的には、私の同級生に自民党の市会議員がいるんですが、道であったら普通に談笑しますし、頭数をそろえるのに頼みこまれて後援会の集会に顔を出したことすらありますよ。まあ選挙の時は共産党の人に投票しましたけど(笑)。そんな友達つきあいでいちいち「自民党の味方」だの「裏切り者」だの言われちゃたまりませんよ。