by 味岡 修
霞が関一帯の街路樹は紅葉がはじまっている。テレビに映し出される地方の山々の紅葉に感嘆しながら、コロナ禍ではなかなかでかけられないねと連れ合いとうなずきあっているのだけれど、どうしてどうして霞が関一帯の紅葉も見どころがあると思う。霞が関一帯は街路樹が整っているが、各省庁の構内には結講樹木もあり、緑が豊かだ。役人たちは樹木をいつも丸裸にして無残な光景にして平気だが…。
少し、行けば日比谷公園もあり、国会は銀杏に取り囲まれている。そういえば、銀杏が異臭を放つ季節だ。大分前だが、国会前で座り込みをやっていたとき、拾ってきた銀杏でパァーテイをやったことがある。銀杏をあぶり、ビールで乾杯した。懐かしいひと刻だ。この霞が関一帯で紅葉がはじまっている。紅葉をめでに山に出掛けるのもいいが、ここ経産省前に座り込みを兼ねてやってくるのもいいと思う。推奨ものである。コロナ感染の波はこれから寒くなるつれ拡大して行くだろうから警戒が必要だが、それでも少しは足を延ばすことも大事だ。僕は読者のみなさんにお勧めしたい。
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先週は国会を取り囲んでの「イットクフェス」があったし、11月3日には久しぶりの大掛かりな集会もあった。その国会だが安倍から政権を受け継いだ菅首相のもと開かれている。例の「日本学術会議」会員の任命問題の審議が続いている。これについては多くのところで見解が披瀝されているし、僕がここであらためていう事もない、と思う。
菅の行為は法令違反であり、憲法違反であり、学問の自由の侵犯である。これほど単純で明白なことが、なぜこんなにくだらない議論でひきまわされるのか、このことを考える。アホらしくてテレビの国会中継など見てはおれないし、すぐにチャンネルを切り替えたくなる。中継を見続けるには我慢がいる。そんなことを政府筋は考えてもいないのだろうが、日本の政治のあり方ということを僕らはここで考えてみるべきではないか、と思う。
今も続いているが毎月3の日に「アベ政治を許さない」というポスターを一斉に掲げる行動がある。国会正門前でも行われているが、安倍政治に人々はうんざりしてきた。これは何故か、ということを時々、考えたのだが、その一つは、彼がまともに議論をしなかったことがある。できなかった、と言うべきか。
国会は議論の場であるといわれるが、それは「近代政治」が「慣習による統治」から「議論による統治」に変わったことを示すことでもある。最低限のことと言っていいが、「議論による統治」ということが議会を重視させてきた由縁でもある。これについては色々の考えはあるだろうが、議論によって政治を進めることは最低限の基準だった。民主主義というのはそういうことだった、と言ってもいい。
安倍は議論を議論として成立させない、そういう能力を欠く政治家だった。質問をはぐらかす、別の答えを出す、平気で欺瞞的なことをいう。故意に、無意識に、議論を壊す。議論を成立させないというところに安倍の政治の実態があったのではないか。政治的モラルとか倫理をかくということよりも、近代政治家としての最低条件をすら欠いたところに安倍はあったにちがいないが、彼は自民党をもこの色に染めてしまったのではないか。
いつも強行採決が用意されていて、議論などはみせかけのものだという政治、それが安倍政治だった。それならば菅はどうだというのだろうか。この辺を見て行きたい。
11月8日記す 味岡修(三上治)
※見出しは旗旗でつけました。
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なぜ「あの石破」がすごくまともな政治家に見えてしまうのか、おかげですごく理解できたわ(笑