一応、前回のエントリからの続きです。すぐに書くつもりでいましたが、私生活でピヨっていて、すっかり遅くなってしまいました。情勢はどんどん進んでいきますし、いくらなんでも参院選までには書き終わらないといけませんね。
前回は団結街道の(文字とおりの意味での)闇討ち封鎖のことを中心に書きましたが、その日の昼間には三里塚全国結集集会が開催されました。この数ヶ月、現地の決戦状況を反映して、ほぼ毎月のように全国集会が呼びかけられ、その間に緊急現地闘争が入るというハードな状況が続いています。
当日、私たち「三里塚勝手連」の面々は、いつもは成田駅からタクシーに分乗していくところ、今回はコミュニティバスを使って会場に向かいました。集会はだいたい正午開会のことが多いのですが、便数の少ないコミュニティバスだと最寄りのバス停の到着時刻が正午になってしまい、開会に間に合いません。
それで従来はタクシーを使っていたわけですが、さすがに度重なる集会参加でお金も心細く、今回はちょっと全体的に節約させていただきました。反対同盟の皆様には、できればバス参加の人(個人と小団体の参加者)のことも考慮していただきまして、開会を12時半くらいにしていただけますと非常に助かります。
さて、そういうこともありまして、私たちが到着した時には、すでに開会の挨拶や、先ごろ亡くなられた鈴木幸司さんへの黙祷なども済んでおり、主催者を代表しての反対同盟事務局長の北原さんの挨拶も半ばでした。
続いて市東孝雄さんと萩原富夫さんが登壇しました。この間、現地の公安警察は、農民に対して何やかやの理由をこじつけては連続して逮捕を行い、反対運動全体に圧力をかけるという手法をとっていますが、お二人はその直接の被害者です。闘いの決意や支援への感謝の言葉と共に、かなりざっくばらんに逮捕の経過やその後の取調べの様子なども話されたところもあり、こう言っては語弊があるかもしれませんが面白かったです。
たとえば市東さんが逮捕されたのは、市東さん宅の門前に独断で、違法な「通行禁止」の道路標識を、その権限もないのに立てていた空港株式会社の社員に抗議したことであり、道義的にも法的にもまったく正当な市東さんの方を逮捕すること自体が不当きわまりないわけです。
ただ、市東さんは口頭で注意しようと空港会社の職員に歩み寄ったら、なんとたった一人の市東さんに対し、大勢で、しかも機動隊に守られている職員の方が、市東さんが何も言わないうちから逃げ出したのだそうです。そのことだけでも、現象的には「優勢」に見える空港会社のほうが、政治的・道義的・精神的には追い詰められてコソコソしている現地の状況がわかっていただけると思います。
それはともかく、それでは抗議どころか話もできないので、市東さんが近寄るとまた逃げる。その繰り返しで逃げ回る職員を追いかけているうちに、持っていた看板を蹴っ飛ばしたところで機動隊が「はい逮捕」となったそうです。意図的なものだったのかもしれませんが、「最初に職員が逃げたりしなかったら、あんなことにはならなかったとは思いますけど、まあ、そういうふうには取調べでは言ってませんからね」と市東さんがおっしゃったところで会場から笑いがもれました。
逮捕後の取調べに対して、市東さんが黙秘していると、担当の公安刑事が、「完黙というのは活動家がやるもので、農民がやっちゃいかん」とか、あげくに「男らしくない」とまで言ったそうです。別に「活動家」でなくても、黙秘権は法的にさえも認められた人権の一つです。それを警察が「やっちゃいかん」と断言するとは、まったくどういう感覚なんでしょうか。
さらに「男らしくない」とか「女々しい」なんて、いまどき一般の会話でも使わない差別表現です。人間としての底の浅さが透けて見えます。この分ではそのうち弁護士も「呼んじゃいかん」「男らしくないぞ」とか言い出しそうですね。それに対して市東さんは、ご自身も参加された4・25沖縄県民大会にふれ、「9万人の勇気があんなことに繋がった。三里塚も沖縄と一緒に闘いたい」と沖縄への連帯を訴え、「2度目の逮捕も恐れず、やるときはやります」と決意を表明されました。
続いて「誘導路公聴会粉砕デモ」で逮捕された萩原富夫さんも、自分が市東さんへの不当逮捕や、公聴会当日の理不尽な「警備」のあり方(→動画)への怒りで抗議したところ、逮捕されてしまった経緯を述べられると共に、そのような不当な強弾圧の中でも全国の人たちが支えてくれた経験を感謝と共に語られました。そしてこれからもいざとなったら現地に駆けつけてほしいと元気に訴えられました。
まさに、人間の底の浅い公安刑事たちが、運動を恫喝し、闘争を牽制するためだけの目的で二人を逮捕してみたものの、結果はまさに逆になっています。「市東さんの農地取り上げに反対する会」の発言では、信頼できる筋からの内部情報として、空港株式会社の幹部が「市東さんの逮捕で反対運動がヒートアップしてしまい、手がつけられない」と言っているそうですが、まさに暴力的で理不尽な弾圧をすればするほど運動は燃え上がり、闘いの輪は大きくなり、支援者は広がっていくものなのです。
それが筋の通った人間なら誰でも理解できる道理というものです。三里塚闘争の一番最初から、彼ら公安警察はそのことを何度も何度も経験してきたはずなのに、いまだもってその心理が理解できないんでしょうね。「三里塚闘争なんてもっと弾圧して潰してしまえ」なんて言っている一部のネトウヨも、全く同じで何もわかっていないのです。
基調報告に立った反対同盟の萩原進事務局次長は、この「全国結集集会」というのは、通常の全国集会とは少し意味合いが違って、いわば急に全国結集を呼びかけても、どれくらいの人々が現地に馳せ参じるかということを敵に示す、いわば全国集会と緊急現地闘争の中間的な意味合いがあったということです。それは「我々が闘う意志をいかに強く持っているかを示す」ものだということでした。
当日の参加者は485名でした。つまり反対同盟が一声かければ、次の週には400~500名くらいの人々が現地に結集するということです。そしてこの500名はただの500ではない。準備期間抜きで、しかも凶暴な機動隊が山盛りでうごめく場所に、恐れもせず、ためらいもせず、ただちに集まってくる500人なのです。
私の個人的な経験から言いますと、こういう極めて高いハードルをクリアしてくる先端部分の人々の背後には、だいたいその10倍から数十倍の支持者がすそ野として存在していました。この「すそ野」を含めた人々が、今の実態的な三里塚勢力ということになろうかと思います。
また、萩原進さんは、住民運動を恫喝し、妥協や屈服を強いるフレーズとして「成田のようになってしまうよ」という脅しが使われてきたこと、それに対して「三里塚のように闘おう」ということが、屈服ではなく勝利を求める人々によって語られてきた歴史をふまえつつ、「三里塚のようにではなく、三里塚と共に闘おうということを訴えたい」と述べられました。
これはとりわけ沖縄の人々の闘いに三里塚が積極的に支持、連帯していかなくてはならないということです。三里塚のようにとか、三里塚を闘えというのではなく、自分たち以外の民衆の闘いに、自分たち三里塚が連帯して合流していかなくてはならないということでした。
さらに、現在の三里塚現地は決戦状況の真っ只中にあることを強調され、「何度も全国から結集してもらっていて忍びないが、この決戦状況で勝利しなければならないので、今後もお願いする。今年の前半は勝利してきた。後半も勝ち続けていきたい」と提起されました。
思うに、この「成田のようになってはいけない」という恫喝も、かつては住民運動内部でとりわけ共産党などの政党政派が、運動の高揚期にそれを自分の考える枠内に押しとどめておくためのフレーズとして多用されてきました。ところが近年、これを政府側が違う意味で使用しているのを見て、驚くと共に感慨無量になりました。
それは沖縄の辺野古基地建設に関して、鳩山政権時代の政府高官の談話として新聞に載っていたものです。もし、このままどうしても辺野古への米軍新基地建設を実行すれば、現状では成田闘争のようになってしまう。それは悲劇だし、そんなことは実際もできないという趣旨でした。
この「政府高官」は、考えの足りない公安刑事や一部のネトウヨさんたちよりは「成田の教訓」を理解しているようですが、それはともかく、これが「三里塚のように闘う」ことの実力であり、今もって続く三里塚闘争の権威です。そして何よりも沖縄の人々の闘いが、政府をしてそこまで恐怖させているということです。
つまり、オバマと鳩山や菅が何を話して何を決めようが、書類や会談で基地ができるわけでは全くない。基地建設は今もって何一つも進んでおらず、一粒の砂さえ埋め立てられていません。同じく三里塚も、およそ半世紀近くかけても未だに空港を完成させることはできず、暫定開港のままです。
今や三里塚と共に闘うこと、三里塚のように闘う覚悟を示すことは、運動にとって少しも「困ったこと」ではなく、むしろそれをも辞さず、その覚悟をもって闘うことが、私たち民衆の立場から見た場合の勝利の道であり、政府の立場から見た場合の脅威となったのです。それが証拠に今や住民運動を「成田のようにしてはいけない!それは困る!」と語るのは政府側なのであり、民衆側ではありません。
たしか関西新空港建設の時も、「成田のようにするな」と政府側は言っていましたが、それは三里塚闘争への恐怖心と共に、いわば政府側の主導による、警備や住民切り崩しの方針のレベルでの話でした。ところが沖縄では、それは単なる「上手にやろうね」という方針のレベルではなく、文字とおり本当に「成田のようになってしまう」という悲鳴になっています。
世の中は行きつ戻りつしながらでも、ほんのちょっとずつ良い方向に変わり続けている、「三歩進んで二歩下がる」です。たとえそれが牛歩の歩みであろうとも、決して悲観する必要はないと思いますし、それは私がささやかながらも三里塚を支援してきたことも、多少なりともその役にたっているという実感をしみじみと持った瞬間でもあり、あらためて農民のみなさんに心からの敬意を感じた瞬間でもありました。
「第二、第三、そして無数の三里塚を!」……と言ってみるテスト(笑
また長くなってしまいましたので、こちらに続きます。