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2月10日がらの上州武尊山行は、日本列島全体が例年にない豪雪に見舞われたことから、大雪の中での登攀になることが予想された。事前の調査でも、登り口のスキー場の積雪は3メートルということであった。
昨年末の乗鞍山行が、小春日和といっても過言ではないくらいの穏やかな天候にめぐまれ、歩行時間も短く、全体として楽な山行だっただけに、今回は厳冬期、豪雪の山に挑むということで、各パーティは強固な意志統一をなしていった。装備は、ワカン・アイゼン・ピッケルなど冬山必携用品をはじめ、20メートルテープの携帯、予備食料を多めに用意すると同時に軽量化を徹底するようにした。また今回は特に、地区ごとに女性隊を編成し、誰か強い人にたよっていくのではなく、全行程を自力でやりきることをめざしていったのである。
2月10日深夜、バスで東京をあとにした総勢xx名の部隊は仮眠をとりながら、一路、雪と氷の附界にむかった。
10日朝、窓の外が明るくなり、道も家々の屋根もスッポリ雪におおわれた白一色の景色が見える。時計が8時をさし、やがて9時をまわっても、まだ目的地に着かない。スキー客で都会のラッシュなみの混雑となり、そのうえ路面が凍結していてノロノロ運転でしか進めないのだ。
登山口まであと4、5キロというところで、全員バスを降りて歩いてゆくことにした。10時間ぶっつづけでハンドルを握ってくれた運転手さんにお礼を述べ、用意のできたパーティから出発していく。後続のバスが遅れたので、最後のパーティが歩き始めたのは午前11時であった。
スキー客とすれちがいながら山ノ家を過ぎ、上ノ原山荘からいよいよ登りとなった。今日の目的地は避難小屋である。
雪の斜面に踏み込み、先頭部隊がラッセルしていく。ワカンをつけてもヒザ上ぐらいまで埋まる雪をかきわけ、方角を確かめながらグングン高度を増していった。風がほとんどないため、思い思いに休憩をとりながら5時間ほど急登を登りつめると須原尾根に出、少しばかり傾斜がゆるやかになってきたのを感じる。目的地である避難小屋はまだ見えないが、陽が傾き始め、やがてヘッドランプなしには一歩も歩けなくなった午後6時、これ以上の行動は無理と判断し、尾根上の比較的木の多い場所でビバークすることにした。
翌朝6時出発。日の出をおがみながら登り坂を踏んでいくと、雪に埋もれてしまったのか、避難小屋を確認できないまま武尊山頂上(2158メートル)に出た。頂上には「日本武尊(やまとたけるのみこと)」の銅像があるはずなのだが、完全に雪の下で影も形もない。
初日の出発が遅れたのと雪が深いため、当初の.予定である。一泊二日で帰ることはかなり難しくなってきた。そこで隊をふたつに分ける方針をとり、どうしても帰る必要のあるメンバーは武尊山から来た道をひき返して下山することとし、行けるメンバーは日にちが延びることを覚悟で、計画どおりのコースを踏破することにしたのである。この時点で××名が下山し、残り××名が登りつづけることになった。
武尊山を越えると登り降りが交互につづき、やがて稜線は岩場に変わってきた。切れたった岩場には鎖がついているが、懸垂下降できるようにテープをはり、順次岩場にとりついていく。
しかし人数が多いため、ここで予想以上の時間がかかり、結局先頭が通過してから最後がとりつくまで5時間を費してしまった。稜線で待っている人達は冷えきったが、前日につづき無風状態で天候が良かったので、長時間の待機もしのぐことができた。
午後4時、先頭が、白いおわんをかぶせたような前武尊頂上(2040メートル)に到着。後続部隊が全員岩場を通過してたどり着くまであと2時間はかかるだろうと判断し、ここでのビバークを決定した。
3日目の行程については、この日の岩場越えがかなり大変だったことから考えると、翌日はそれ以上の岩場があるので、このまま直下のオリンピアスキー場に下山することも、方針として検討された。夜半から雪が降り始め、天候の心配もあったのである。しかし最終的には翌朝まで様子をみながら、予定どおりのコースを下山することに決めた。それは、(1)オリンピアスキー場への下山はバスの待っている場所と全く関係ない方向に出てしまうこと、(2)出発時の天候が荒れておらず、高気圧がはり出してきたことから天候の回復が見込まれること、(3)全員が欠勤等を覚悟で登りつづけてきたことなどから判断したことであった。
ラッセルで下り始めると、すぐに大きな岩にぶつかった。数人が調査すると、むこう側は切れたっていて何もないという。ここが不動岳の岩場で「力二の横ばい」といわれる所なのだが、雪がついていて通れる所が判別できないのである。
すぐさまルート工作隊をくり出して道をつくることになった。他にここを越える方途はないのだ。工作隊は一時間にわたって、雪の絶壁を削って足場をつくり、テープをはりめぐらし、部隊が通過できるようなルートを懸命になって開拓した。この同志たちの奮闘によって全員がアイゼンの歯をきかせて岩をよじ登り、テープをつたってトラバースし、いくつかの岩場を越えることができるようになった。
さあ、あとは下山路だ、天候はすっかり回復して、歩いていると暑くて仕方がない。急下降をつづけると避難小屋にたどりつき、ここからはなだらかな道である。
旭小屋を過ぎると、カーブ用ミラーの頭が雪面に出ているのを見つけて、ここが林道であるということを知る。なだらかとはいえ、これだけ積雪があるとラッセル隊は死力を尽さなければならない。
ようやく大きな車道に出て、埋もれるような雪から解放された。さらに1時間ほど歩いて木賊(とくさ)部落に着くとバスがすでに待っていた。
午後3時、全員が無事下山したところで、全体で今回の山行の勝利を確認し、バスに乗りこんだ。
今回の上州武尊山行で確認できることは、ます何よりも、組織の訓練山行として厳冬期中級山岳縦走を貫徹しきったということである。
塩見岳から始まった冬山組織山行はこれで6回目となったが、今回はベースキャンプ方式をとらず、重い荷物を背負いつづけての縦走で、レベルとしては中級クラスの冬季山行といってよい、それを初心者をも含めた××―××名の大部隊で貫徹しきったことは、山行を革命党―革命勢力をうち鍛える行軍としてとらえ、一個の戦争として闘い抜いてきたこのかんの鍛練の成果であると同時に、それを踏み台としてさらなるレベルアップをかちとったのだということを確認することができる。
では、この勝利の要因とは何か。それは第一に、天候にめぐまれたことである。特に岩場越えでは待機時間が長く、これで吹雪がれていれば、確実にこごえてしまい、ますます登攀が難しくなり、滑落者が出る可能性も大であった。その意味で、連日無風状態の好天にめぐまれたことは勝利の大きな要因であったことを率直に見ていくのでなければならない。
第二は、ラッセル部隊の活躍である。ラッセル部隊は、全行程を通じて進路を定め、多大な労力をさいて足場を踏み固めて前進していった。後続部隊は、このラッセル隊によって切り拓かれたトレースをたどっていくことで、無事に登頂から下山までを歩ききることができたのである。ラッセル隊の活躍は、初日600地区、二日目A君、三日目300・700地区などの牽引を特にあげておきたい。
さらに勝利の要因の第三に、女性隊が奮闘したことを確認することができる。各地区で編成された女性隊は、アイゼンがはずれたり、バテた人が出たり、という状況に対しても、パーティ内で解決し困難をのりこえ、全部隊が自力で踏破しきるという大きな成果をかちとった。とりわけ各パーティの隊長が終始全体に気をくばり、激励し、部隊を牽引して進んでいったところが多かった。この成果と自信をうち固め、さらに大いなる力を発揮していこうではないか。
第四にあげられることは、岩場のルート工作者B君、C君の活躍である。確保されているとはいえ危険がつきまとう岩場で、長時間にわたり雪と氷と闘った彼らの奮闘なくして、部隊が「カニの横ばい」を通過できなかったことは明らかである。この工作隊の献身的な奮闘を是非とも確認していきたい。
そして最後にあげられるのは、中央指揮の安定性である。予定より大幅に遅れた出発となった今回の山行において、進路決定、ビバークの指示や下山部隊の分割、さらに天候と部隊の力量等をてらし合わせ、ギリギリまで粘って規定コースをやりきる方針を決定していったことなど、総じて中央指揮が適確で安定していたことを確認していくことができる。
以上の5点にわたる勝利の要囚を見ていくならば、今回は、個人では不可能だった様々な局面を組織の力で克服し、全体の登攀を可能にしていったことを見てとることができる。
すなわち、xx名という大部隊で一人の遭難者も滑落者も出さずに縦走しきるためには、個々の力を有効に組み合わせて組織の力へと高めあげることが必要とされたのであり、それを中央指揮が的確に保証していったことによって全体の縦走を可能にしたということである。
その点で、各パーティ単位が冬山中級クラスの縦走をクリアーする力を平均してもっていたわけではないということもしっかりと見すえたうえで、本山行を貫徹しきった組織力の勝利を確認していきたい。
全ての同志諸君!
この上州武尊山行の勝利をふまえ、個々人のもつ力をフルに生かし、地区の総力を発揮して3・25闘争へと進撃していこうではないか。
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