そんな中で、日本語もカタコトの外国人(主に中国人)の労働者を現場でたまにみかけるようになりました。私の現場に限定すればですが、その中国人労働者たちは、すげーバイタリティありまくり。まかされた仕事(今のところ下っ端仕事なんだけど)は、人を掻き分けてでもガンガンやってしまう。他の業者さんが仕事しててもおかまいなし、親方に言われたことを何が何でも最優先。たまには面食らって思わず「ちっ!」とか「空気読めよ」とか邪魔に思ってしまう。
ところがですね、休憩場所とかでよく見ていると、その業者さんの中では、彼らはすんごく可愛がられていて、よく食べ物とかもらったりしてる。それで気がついたんですが、こういう彼らみたいな人たちって、ほんの数十年前の日本人にはよくいた、今は「現場の叩き上げ」になっているおっちゃんたちの、若いころの姿なんですよね。
そんなことを思っていたら、以下のような記事が目に付きました。
青森県内の市立中教諭が昨年、「愚か者一覧」などと名づけた生徒の実名リストを校内に掲示していたことが分かった。同時期に生徒たちとの交換ノートに「ダメ人間」「問題児」などと記入したこともあったという。市教委は教諭と校長を訓告処分とした。
(中略)教諭は「提出率が低いままだと生徒が3年になって(高校受験の)願書提出などで損をすると思った」と釈明したうえで「活を入れなければならないと考えたが、配慮に欠けていた」と話しているという。(毎日新聞12月20日)
別に教育委員会やPTAから見て「問題」おこすような先生がイコール「悪い先生」とは限らないとは思いますが、これはちょっとなんだかなあって感じです。私も昔は先生から、頭から湯気出して怒られながら、「バカチン!」とか「バカモン!」とか、さらには私の名前をもじったかなり酷いあだ名とかつけられたりしましたよ。今だったら問題になってたかも。けど、そういうのは笑って思い出せるんですよね。
対して、真顔で「愚か者」とか「ダメ人間」とか言われたり、まして廊下にリストを張り出すとか、そういう陰険で根暗なことはされたことないなあ。あくまでもその場限り、後で尾を引かないような形で、感情むき出しで怒ってくれた先生とは卒業してからも仲良くできたけど、こういう自分の人格や人間性自体を否定してくるような陰険なことされると、単なる「嫌な思い出」としてしか残らないでしょうね。
思えば日本人がみんな上を向いていた時代、バイタリティに溢れ、感情豊かで、多少の違法行為なんてみんなそんなに気にしてなかったような時代。庶民の行動原理は「人としてどうよ」みたいなことが行動基準で評価されていたように思う。人は金持ちになったり社会的な成功をおさめる以外に、いく通りでも人から評価され、認められ、自己実現できる道があったように思うんだ。これはまあ変なたとえでピントはずれかもだけど、欧米の著作物のパクリなんて、違法であるかもしれないが、悪いことだなんて思っていなかったな。そんな日本人はアメリカ人からはゴキブリ扱いされることもあったが、そんなの屁のカッパだったよね。
それが今は、昔のような「やんちゃ」は見なくなったけど、こういう陰険虫がはびこってきたような。違法か合法かには気を使うけど、「人としてどうよ」みたいな自分なりの信念が感じられず、人の足を引っ張ることや自己保身には長けている。冒険もしない。上の人間や強いものには逆らわず、何でも自分より弱い者のせいにするヘタレばかり増えてきた。バイタリティもすっかりなくなってしまったような気もするよ。だいたい「生徒のことを考えてやったが、配慮に欠けていた」とは、何という情けない釈明かと思う。
思うに、こういう陰険虫の正反対の先生って、決して「おとなしく真面目で問題をおこさない先生」ではないと思うよ。おそらく、いわゆる熱血先生みたいのが、正反対のタイプなんだろうね。でも、今や、先生に限らず、そういうタイプのはみだし人間は生きていけない国になっちゃったのかもね。
国家としての落日、社会の成熟と下り坂、そういうものを一定年代以上の人はみんなそこはかとなく感じている。団塊世代の「敗北」あたりからそれはもうはじまっていたのかもしれない。今求められいるのは、「改革」なんかじゃなくて、「破壊」かもしれないとさえ思います。最初からそういう世界で育った若者たちは、いったいどんなメンタリティを持っているのだろう?現象的には匿名社会、常に普通(=その他大勢)でいようとするなどが感じられるけど、そこには単なる世代の差以上に、明らかな隔絶があるのかもしれません。
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