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カテゴリ: 運動組織論

若干の補足

 先ふたつのエントリ(「反対する会」と6・11主催の間における確執)について、メールや口頭でのご指摘、はてブのコメントなどで、いくつか面白いものをいただきました。そのうちで、私が書いておきたいと思ったいくつかのものについて取り上げておきます。一応この問題についてはこれで終わりにし、さらにどうしても書きたいことがあった場合はコメント欄などに追記していくつもりです。

大衆や民衆という言葉の使い方について。

 これは普通の人とか一般の人という言い方とも共通することだけど、政治的な文章において、ことさらに「自分は大衆や普通の人であると強調しながら特定の意見を書く」という行為には、概ね二つの動機が存在します。まず、自分と違う意見を「普通の人」から排除して、そんな意見は検討する必要がない、反論なしに否定してもかまわないという印象操作のため。これはネトウヨさんがよくやる手口。ただし政権交代や震災以降、自分のほうがよほど「特殊」な存在であることに気が付いたので、最近はあまり見ない。もう一つは自分が表明したことを「単なる一大衆の意見」として、一見「へりくだる」ことで、自分の責任を軽減して気が楽になるため、同時に反論に対して、「てめえ、大衆(国民)の素朴な意見に、お前のような特殊な立場からの罵詈雑言はないだろうな!」という予防線をはる効果もある。例として某党派が左翼から「パラダイムチェンジ」し、その機関紙に『ただの庶民だが言わせてほしい』という気色悪い題名のコーナーを作ったことがあげられる。これはネトウヨさんもやるけど、それ以外でもわりと無意識にやっちゃっている人が多い。政治的な文章以外でも「17歳の普通の女子高生で~す」とか(君たちそんなに「普通」がいいのかね?)。

 でもまあ、考えてもみましょう。自己の外部に向かって意見を表明した場合、ましてや政治的な「会」を作って不特定多数に意見を表明した場合、いったいそれは誰に向かって意見を表明し、同意を求め、共に行動することを期待しているというのか?その呼びかけている不特定多数の対象を「民衆」とか「大衆」と表現して何の不思議があるというのでしょう?まったくの「つぶやき」で、特に他者への影響や同意を期待せず、単に思ったことを書いただけというのはもちろん「あり」です。でも、この場合はそうではないし、自分の意見を通すために実力行使までしています。呼びかけられた対象(大衆!)としては、その「意見(理論)」と「行動(実践)」の両方について、意見を言う権利があると思います。どうしてそれが「大衆蔑視」になるのかわかりません。もちろん「会」に所属する人間も大衆の一人ですし、その関係性は可変および互換性があるものです。しかしだからどうだと言うのでしょう。「私もまた大衆だ」という当たり前のことを言われても、上の一つ目の動機に対する反論にはなりえても、自分が大衆に向かって呼びかけ、行動を求めたことについて、運動におよばす影響への責任逃れにはなんらなりません。

「ヘイトスピーチに反対する会」は北朝鮮の人権侵害に無関心であるという指摘について

 同会の主張について詳しく知っているわけではないので、急いでそのブログをほんの一部ですがざっと読んでみました。まあ、日本の報道だけを見慣れている人には、それなりに刺激的で頑なに見えることもあるでしょうが、別に決定的に間違ったことが書いてあるとは思いませんでした。むしろ、現在の吹き上がるナショナリズムの中で、少人数で勇気ある行動をしておられるように感じました。また、次のようにも書かれています。

念のためつけくわえれば、あくまでわたしたちが主張しているのは、中国政府や中国ナショナリズムの「擁護」ではありません(そのただしい「理解」ではありますが)。中国政府や中国ナショナリズムにいかなる問題があろうと(あるいはあるからこそ)、日本の中国人への敵意と蔑視を、つまりはレイシズムと植民地主義をなくす責任が、日本人にはあるということです。また釣魚台/尖閣についても、ことの本質は、領有権がどちらの国民国家にあると正当化されるかということではなく、どの国が先に近代世界における力ずくの領土拡張(帝国主義、植民地主義)をはじめたのかこそが、この件にかんしてもっとも重要なのです。

 この文章の考え方についても特に異議はありません。気になる点があるとすれば、見た範囲で、まだ北朝鮮や中国政府に対する言及、その評価についてのエントリが、過去一年分以上について見つからないことです。ただひたすら日米(とりわけ日本政府)の差別排外主義への批判や、それとの闘いがつづられています。もちらん、これらが日本に住む日本人である私たちにとって、まず第一に考えなくてはならないことです。ですがそこにおいて、北朝鮮や中国政府による、自国民への人権侵害や迫害などが、まるで無いもののように触れられていません。見落としているのかもしれませんが、少なくともそのことについて考察したエントリはないようです。また、上に引用した文章でも、「問題がある」のは中国政府の「ナショナリズム」、いわば「思想」であって「現実」としての人権侵害については指摘されていませんし、それへの中国人民による不満や抵抗などには触れられていません。この点は気になります。強制収容所などという存在は、それが日本にあろうが北朝鮮にあろうがグアンタナモにあろうが許せないと私は思います。

 これは70年代の言葉を借りて言えば(あまり左翼全般で流通した言葉ではないかもしれませんが)、「反帝純化主義」というものです。たとえば、荒岱介氏の著書によるならば、70年安保闘争の「イケイケドンドン」な情勢の中、二次ブント指導部の一人であった塩見孝也氏は、「スターリン主義なんて無いものとして考える」とか言っていたそうです。当時の情勢の中で、運動的にはとりあえずそのほうが都合がよかったのでしょうが、やはりそれではいけません。運動も思想も薄っぺらなものになってしまう。

 もちろん当時から、ソ連や中国や北朝鮮などのスターリン主義の人民抑圧は知られていましたし、それは人民を解放するものではありえず、はっきりと敵の一つであることは、新左翼の間では自明のこととして認識されていました。しかし塩見さんにとってスターリン主義との闘いや批判は、運動の中でいわば「とりあえず後回しにする余計な不純物」に見えたのかもしれません。このように運動の高揚しか頭に無かった塩見さんは、後に子供じみた前段階武装蜂起(即時の武装蜂起)を掲げて赤軍派を結成して分派を強行し、党内を大混乱に落とし入れて二次ブント崩壊の引き金を引いたあげく、みんながあずかり知らぬところでいつの間にか権力に轟沈されて壊滅してしまいます。その残党の一部が北朝鮮に亡命した「よど号グループ」ですが、まるで北朝鮮を説得(オルグ)して味方にできると考えたその浅はかさが塩見さん譲りと言ったら言いすぎでしょうか。さらに赤軍残党の別の一部は、今度はいきなり中共派に転向してソ連を「社会帝国主義」とか言いはじめ、それに対抗するためには日米安保も容認すべきとか、わけのわからない主張になります。一方でブントに対抗した革共同(現在の中核・カクマル・第4インターの各派)は、まがりなりにもスターリン主義批判の理論をもっていましたから、その一点だけでも革共同に対するブントの敗北は自明であったと思います。

 ひるがえって「反対する会」の態度を見る時、これらははたして「笑い話」だろうかと思います。いえ、「反対する会」ばかりではなく、最近でも北朝鮮のもはやスターリン主義とさえ言えない、あまりに無原則な「金王朝」の姿に接して観察・批判しているうちに、真摯に悩んだ結果というよりは、まったくご都合主義的かつ無原則に、ズルズルと右翼側にのりうつり的に転向してしまう人も見てきました。ですが、彼らが本物の左翼であり、頭でっかちの理論だけのそれではなく、真実に人間解放を希求する思想として左翼性を身につけていたというのならば、左翼の言葉でもってスターリン主義への本質的な批判をなしえたはずではないでしょうか。

 日本政府が北朝鮮に関する一連の事態をもって、それを戦争策動や差別抑圧に利用しているというなら、むしろなおさらのこと、そのような排外主義や国家主義によらない、左翼としての国際主義的な立場によるスターリン主義批判、北朝鮮批判をなさなくてはなりません。それも徹底的に!まさか日本国内の差別抑圧とは闘うけれども、国境を越えた「外国」にいる朝鮮人民や中国人民への、スターリン主義国家による差別抑圧はどうでもいいとは(左翼ならば)誰も言いますまい。また、日本国内における、北朝鮮問題を利用した差別抑圧・戦争政策と闘う際にも、スターリン主義批判においてどれくらい左翼独自の豊富な内容を持ちうるか、それは極めて重要な試金石となることを肝に銘じないといけません。

 私は一応、それを「人を自分の願望や目的の道具のごとく観念する資本主義(ブルジョア)イデオロギーはそのままに、その上に左翼の理屈(理論)を接木した変異体」と考えています。現象的には人民への説得(政治動員)を目指すのではなく、利益誘導や暴力的な強制・恫喝でもって目的を達しようとします。その意味で、「反対する会」の6・11主催者に対するあり方もまた、スターリン主義の一変種ということになります。それ以上の私の考察については、さしあたって全文検索で「スターリン主義」や「北朝鮮」や「中国」というキーワードで検索してみてください。ほんとうはざっと書くつもりでしたが、もう時間が遅いのでズルさせてもらいます。

「何でもあり」な主催者について

 別にそれがいいとか、そうでなくてはいけないとは思いません。ですがまあ、別に特殊な考えというよりは、普通に誰でも思いつくことでしょ。すなわち one of them だと思っています。主催者がそうしたいのならすればいいと思う。まあその程度です。一方で、今や「天地がひっくり返る」ようなことがおこったのです。ここで路線闘争や内ゲバしている場合かと思います。ここでもう一度「天地をひっくり返し返す」ことが求められています。まずは左翼と反(脱)原発派の大同団結。それも抑圧的でなく、乗れない人は乗らなくてもいい、ダイナミックでスピード感あふれるものが必要だと思っています。「素人の乱」系はとりえず「人を集めて情勢を流動化させる」に特化しているわけですが、その意味ではものすごくセンスがある。「反対する会」への対応も含めてね。

 あと、「セクト主義」というと、文字通りセクト(党派)の十八番と思われていますが、本当は市民主義者やノンセクトがセクト主義化した場合が、一番頑なで話がまったく通じないし、極めて暴力的な対応すらするというのが、私の経験による結論です。ある方から聞きましたが、80年代後半から90年代にかけて、現在と比すべき、あるいは現在以上に反原発闘争が盛り上がった時期がありました。その時期に、党派を全部排除して、市民運動だけで統一行動の会議をもった。そしたらもう、「反原発か脱原発か」の大論争になり、あげくに各団体の主張や主導権争いで、掴みかからんばかりの大喧嘩になったそうです。本当は「普通の人」のほうが、いったんそういうことになったら、セクトなんかより遥かに恐ろしいのです。

 今から考えれば、「反」だろうが「脱」だろうが、そんなんいっしょにやったらええやんという話です。闘争や運動が崩壊、終息していく過程というのは、必ずしも弾圧とかデマ宣伝とか、そういう敵側の攻撃「だけ」で崩壊してしまうという例はよっぽどのことで、それが引き金であるにせよ、多かれ少なかれ、むしろこういう内部崩壊によって壊滅していくという、運動側の未熟さを要因としている例のほうが多い。かつての反原発闘争も、こういう過程を経る中で、一時は数万人のデモが、最終的に10人とか50人くらいにまで激減(というか壊滅)していきました。そうやって原発を林立させ、フクシマの人々に塗炭の苦しみを与えた責任は、当時の私や党派を含むすべての人にある。そして私たちはまさにその繰り返された歴史を、まさに今リアルタイムで見ているのかもしれない。そうならないことを祈りますが。

 「素人の乱」系の「なんでもあり」路線は、なんにも考えていないようにみえて、こういう内部崩壊を、すっとぼけた大義名分によってあらかじめ回避しているともいえます。一方で、私のように「三里塚」の旗を掲げて参加している者や中核派などの隊列、はては労組の隊列までも、原発に関係ないとか(そんなことはない!)、「過激派」や三里塚勢力は排除すべきだとか言っている人もいます。もし「何でもあり」の大義名分をはずしたら、それを主張している人の主観とは裏腹に、こういうことを言う人たちの思惑が先行した「反原発闘争」ばかりになってしまうか、「何でもあり」路線の集会は右翼主導のものばかりになって、そこに左翼は細々と参加させてもらう存在に成り下がってしまうでしょう。

「何でもあり」路線は強要であるという指摘について

 共闘や統一行動といっても、そこには原則があると思います。まず、「課題の一致」、次に「行動の統一」、そして「批判の自由」です。決して「集会破壊の権利」は含まれません。その場合は統一行動を離脱するべきであると思います。「何でもあり」は上に書いたように、過去の教訓などを考えれば、当然に誰でも思いつく戦略の一つです。そのこと自体を批判するのもまた自由ですが、だからいって(事実上)集会を潰すことでもって、大衆運動の路線変更を強要するのはスターリン主義であり、セクト主義であり、内ゲバ主義であり、それこそ大衆蔑視の思い上がりです。はっきりいって、それではせいぜいポルポトかロベスピエールのミニチュアにしかなれないでしょうね。繰り返しますが、主張(理論)の正しさは行動の正当性を証明しません。それはこの二人の名前を出すだけで十分でしょう。

 なお、本当に「何でもあり」というのなら、一番に大切なのは「批判の自由」だと思います。「課題の一致」と「行動の統一」さえ守られるならば、参加団体同士の、あるいは主催者への批判さえ絶対的に自由であり、集会そのものを妨害しない範囲においては、無制限に容認されるべきだと思います。多少の野次もご愛嬌です。マイクを使用するのはやりすぎとは思いますけどね。共産党などの既成左翼や労組の主催する集会にはそれがありません。あまりにガチガチで団体の旗も出すなとか、「おまわりさんありがとう」なデモもありますが、そういうのがいいとか言っているわけではありません。むしろ逆です。

本当にどんなにひどい奴でも発言させるのかという指摘について

 そんなこと一言もいっていませんよ。最初のエントリで「人権に対抗できるのは人権だけ」というパラグラフで説明したとおりですがね。人の人権を暴力で傷つけるような行為を、「表現の自由」だと言い張ってはばからない人間の屑は屑以上の何者でもありません。多くの民主国家で人権侵害のヘイトスピーチは侮辱罪や名誉毀損と同じく犯罪化されています。これらを取り締まることは民主主義とも言論の自由とも抵触しません。ヘイトスピーチは「言論」ではなく、人を傷つけ、時には死にも追いやることができる暴力的な犯罪「行為」です。もっとも国家に必要以上の権限を与えることのないよう慎重に考えなくてはいけませんが。とりわけ言論関係については。

 それとはまったく正反対の意見で、屑のような人間を屑と書いたことに対する苦情もありましたが、屑を屑と言って何が悪いと思います。もちろん10人を惨殺した死刑囚にも人権はありますし、ヤクザにも人権はあります。そんなこと当たり前のことです。むしろだからこそ「人だからこそ人として絶対に許せない」のではありませんか。「在特会」は人間じゃないとかそういう議論ではなく、人間だから許せないのだということです。野生の熊が人間を襲ったとしても、そこに善悪の問題はありません。人間がやった行為だからこそ、そして相手を対等な立場の人間と認めているからこそ、そこに善悪や価値判断が生じるのです。そして熊に責任能力はありませんが、人間がやったことには責任をとってもらわなくてはなりません。

行為と思想の関係について

 思想や理論は「手段」であって「目的」ではありません。これは譲れません。理論の正しさをもって、その理論を共有しない人々に対して向けられてきた、反人民的な所業の数々を見てきた身としては。ではあなたは、理論的に完璧で非の打ち所のない高潔なロベスピエールやポルポトと、理論的には突っ込み所満載なブルジョア民主主義者と、そのどちらの支配する世界に住みたいですか。本当の地獄は理想主義者によって作られるのです。

 さらに私は「人権」という言葉を使います。資本主義国家内において「民主主義」という言葉を一見無批判に使っています。これらは長らく左翼では日和見主義のブルジョア民主主義者、中間主義者とか言われて批判されてきたあり方です。そんなものは「階級支配」を覆い隠すためのイチジクの葉であると。実際には少数のブルジョア階級が、多数のプロレタリア階級を資本主義(経済的くびき)によって支配抑圧差別しているではないかと。

 もちろんそれは真実です。いわば資本主義(市民社会)の「本音」の部分です。そんなことは別に左翼でなくても知っています。民法や商法をちょっと読めば誰でもわかることです。ですがそれを否定して、市民社会の「建前」である自由人権を軽視し、「抑圧者を抑圧する」ための政府であり、「本当の多数派」の政府であるはずのプロ独国家の実情はどうだったでしょうか。結局はそこでも本音と建前の世界だったではありませんか。むしろなんの「建前」もない「本音」そのものが人民のためとされている権力の恐ろしさ。私は人権とか権力分立という「建前」はとても大切であると思うようになりました。天賦人権、人賦国権、それが今の私の考えです。たとえブルジョア民主主義者と言われても。

 極端な世界や社会に対して、逆方向に極端なものを投げつけることによっては決して変革はされないどころか、さらに悪い社会や世界が待っているだけなのは自明です。そのことを私たちは十分に学んできたはずですが。

コメントを見る

  • この件については、主催者たちの方が問題の本質をきちんと
    とらえていると思います。

    他所の国まで脱原発しろといっているわけじゃなく、
    国民主権を建前でももっているわが国において、
    国民として「やだ」ということは党派性はまったく関係ありません。
    金持ちなら放射線はよけてくれるのでしょうか?
    (シェルターで生き延びるっていう人はそもそもシェルターのいらない
    ところへ移住しちゃうでしょう?)

    そうではなく、国民(この国の未来を決定する権利を有するもの)として
    脱原発を望むことは右とか左とか関係ないはずです。

    それにミギの論理である郷土主義(パトリオティズム)の考えからいえば
    もともと彼らは脱原発(彼らの愛する郷土の自然や経済を破壊してしまう
    から。)の立場のはずです。開発よりもひっそりと過疎を選んでも故郷を
    守るのが彼らの立場のはずですから。

    某ま○○○が赤旗持参でも日の丸持参でもいいのか…という例を出しま
    したが、まったくのナンセンスです。赤旗の前の国民じゃないんでしょう
    か?国民の前に人間だ。という立場なら赤旗は必要ありません。

    党派的に脱原発に反対ってどんな立場かというと
    経団連だと思います。(というか、きちんとしたエネルギー政策を
    示してもらわなきゃ。先のことがわかんねえよ。って立場ですね。
    二十万人の失業者へ脱原発を叫ぶ人たちは政策としてどう何を要求するのかという時点でミギヒダリが分岐すると思いますが…・

    今回の質問状を出した人たちは、
    別のデモを計画すればいい。というのが民衆の発想だと思います。

    (レーニンよりもカウツキーの方が理論家としは上だと思いますよ。)

    戯言失礼しました。