今、ここに、一塊の写真がある。手に取れば「懐かしい」写真たち。「はて、あの写真はどうしたのだろう?」「そういえば、あれも無い」。……なるほど、考えてみれば、これはある種の残骸。見あたらない写真は、すでに誰か(然るべき当事者?)の手に渡っているのだろうか。ならば、このまま朽ちさせていけば良い……、と見棄てられない心のうずきが、苦い思いを抱きながらも、WEB上の公開を思い立たせた。
朽ちる時間がほんのちょっと伸びるだけ──その通りだけれど、戦旗派の歴史の一齣をWEB上に保管するという試みもなかなか魅力的だ。願わくば、私蔵の運命をたどりつつある写真たちが「戦旗派コレクション」に加わらんことを!
【2010年8月25日】
「戦旗派コレクション」開設時のトップページより引用
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「戦旗派コレクション」とは、1970~80年代を駆けぬけた新左翼の一党派「戦旗派」のさまざまな闘いの写真をWeb上に保存する試みの一環として2010年8月に開設されたWebサイトです。2021年春頃にリンク切れ(消滅?)となり、現在は閲覧できなくなりました。
当サイト「旗旗」の管理人である草加は「戦旗派コレクション」管理人の皆様と面識があり、口頭で写真の転載許可をいただいていました。とりわけ同サイトのリンク切れを確認し、その内容を「旗旗」版として保存・延命したいという思いにかられ、本サイトでの掲載にいたった次第です。
なお、このページの文章などの解説は旧「戦旗派コレクション」の複数のページから、左翼体験のない方にも比較的わかりやすいように大幅に加筆再構成したものであり、文責は草加にあります(ご指摘、情報提供などのご連絡はこちら)。
【ご注意】 「戦旗派コレクション」および「旗旗」の管理人たちは、かつて戦旗派に所属したことがありますが、その後、離脱。その後継団体や活動とは一切関わりがありません。本サイトでの記述は個人の体験に基づく私的見解であり、かつての戦旗派の見解との一致・不一致を考慮しておりません。また事実関係など内容の正確さを完全に保証する趣旨でもありません。歴史的に検証したい方は原資料にあたって下さい。転載・引用などは自由ですが、それによって生じた事態は引用者の責に帰します。
開設の経緯は、上に記したとおりです。「総括はどうした?」という声も聞こえてくるでしょう。が、ここでは、当面の運営について述べるにとどめます。
旧「戦旗派コレクション」の管理人の手元には、戦旗派20年間の歴史の一コマを切り撮った一群の写真がありました(その後、一塊のフィルム類が加わった)。それは年代順に整理されたものもあれば、塊のままのものもあり、前者の多くは写真集『北西風が党を鍛える』(1984年:戦旗社刊)第1部・第2部に掲載されたものと重なっています。
「戦旗派コレクション」では、前者の整理されているものを中心に年代順に掲載され、1971年に始まり1990年まで年単位でまとめられていました。そこで当サイトでもとりあえず「戦旗派コレクション」の1990年までの内容を転載・保存した後に(または適時)、所蔵・ネット・印刷物などに散在する写真をそこに追加していくことにします(ネットでの資料元については下記「お世話になったサイト様」を参照ください)。
また、旧「戦旗派コレクション」に番外編として収録されていた、獄中新聞や山行の写真、その他も掲載していく予定ですが、残念ながら、山行の写真をこちら(旗旗)では欠片程度にしか保存していませんでした。
とりわけ山行は元戦旗派メンバーの思い出の半分を占めているといっても過言ではありません(?)。元「戦旗派コレクション」管理人様、あるいは 山の写真、個人所蔵物、『戦旗』や『闘労』のバックナンバーなどを持っていて、ここのような形でなら公開してもよいと思われる方、プライバシーには配慮いたしますので、是非ともお知らせください。
ここでいう「戦旗派」とは、1970年代から1990年代にかけて「共産主義者同盟(戦旗派)」および「戦旗・共産主義者同盟」という呼称で活動した新左翼の一団体をさします。他称や蔑称では「日向派」や「荒派」というのもありました。関与した者の多くは現在40歳代から70代半ば、さまざまな思いを抱えながら市井の一隅で生きています。
歴史的に言えば他に小林多喜二の「蟹工船」で有名な1920年代のプロレタリア文学運動における『戦旗』派や、1960年安保闘争をたたかった第一次ブント分裂時の戦旗派など、いくつかの「戦旗派」がありますが、それらとは関係ありません。
戦旗派の淵源は、1966年に再建された共産主義者同盟(第二次ブント)と社会主義学生同盟全国委員会に発します。それが1970年安保・沖縄闘争前後のブント分裂の過程で形成された党派であり、共産主義者同盟の一分派という意味で「共産主義者同盟(戦旗派)」を名のりました(社学同全国委の理論機関誌名から「理論戦線派」と他称されたこともあります)。
上記のごとく、本写真集はあくまで 戦旗(日向)派の目線(主観)で綴られたものです。そのことにとやかく言われる筋合いはないと思っています。だって膨大な資料の学術研究にする気はありませんもん。もし他派出身者で、当方の記述に納得できないという方は、ぜひご自身の主観で「〇〇派コレクション」を立ち上げてください。それらを第三者が比較閲覧できるようになればよいのではと思います。
上述のごとく、戦旗派という呼称は、それだけでは対象を特定しにくい煩らわしさ・紛らわしさを伴っています。これは1958年のブント結成時からの正式な中央機関紙の名称が『戦旗』であるため、分派に対して機関紙発行権を握る「党中央派」ないし「書記局派」の仮称ともなってきたことも一因です。
たとえば1970年前後の第二次ブントの分裂過程では、分派を強行した「赤軍派」に対して党に残った部分を「戦旗派」とか、その後の叛旗・情況派の分裂に際しても、残ったブント本体のことを「戦旗派」ということもありました。さらに1973年の戦旗派分裂に伴い、複数の「戦旗派」が並存したことも、煩わしさに拍車をかけます。
同じ名称で二つの「戦旗派」が両立したことから、トップのペンネームをとって「日向派」と他称されたのが、ここにいう戦旗派です。もう一方は他称「西田派」(=現在の共産同(統一委)派)。この分裂時の分派は他に「プロレタリア戦旗」派、「国際主義」派がありました。1980年には、呼称の紛らわしさを避けて、戦旗・共産主義者同盟へと名称を変更しています。
その間、狭山差別裁判糾弾闘争や、三里塚現闘団の再建を経て1978年3.26管制塔占拠闘争を第4インター、プロ青同など「赤ヘル3派」あるいは「三里塚闘争に連帯する会」の一翼として担い、さらに戦旗・共産同への名称変更後の1980年代には三里塚や反天皇制闘争でのゲリラ・パルチザン戦闘などさまざまな戦いを展開しました。
余談ですが三里塚闘争で現地の農民は、それぞれが所有する団結小屋の所在地をとって、ここでいう戦旗派(=戦旗・共産同)を「横堀戦旗」、もう一方の西田戦旗を「岩山戦旗」などと呼称して区別していましたっけ。
やがて戦旗派は1990年代に入り分派的呼称を廃して「共産主義者同盟」を名乗った後、共産主義革命を目指さない「ブント」へ、さらに「えこ&ぴーすをめざす 一般社団法人 アクティオ」へと変貌するに至り、ここに新左翼組織としての「戦旗派」は解消(消滅)したのでした。
ともあれ、呼称問題はこの程度にして、以下では1970年~1990年のいくつかの結節点に絞って、写真では表現しえない戦旗派の歴史を注記していきましょう(人名:敬称略、主に筆名。派名は自称・俗称混淆)。
もともと第二次ブントは強力な主流派を欠いていたこともあって、69年に武装蜂起を強硬に主張する一向健(塩見孝也)らのグループが「赤軍派」として分派を強行すると党内は百家争鳴に陥り、党内諸グループの独自化や地方組織の自立化、その合従連衡のような状態がいっそう進みました。
日本共産党もそうですが、70年安保後も生き残った革共同中核派や革マル派、社青同解放派などは、比較的強力な主流派が存在していたということでしょう。ML派や構造改革派系など、強力な主流派が不在の場合は分裂・消滅の道を歩みました。
ともあれ主力の学生運動をみるに、首都圏では1969年1月の東大安田講堂攻防戦や4.28以降の安保・沖縄闘争で学対・社学同中枢部が相次いで投獄されて指導部が不在の中、残る学生の半数ほどが赤軍派にいき、まさに学生・高校生組織は混乱の極致となりました。
そんな中で、さほどの動揺もなく、図らずも首都圏での主流派的位置に付いてしまったのが中大ブント系の叛旗派でしょう。さらに逼塞していた明大独立社学同系の情況派も、明大の左派部分が大方いなくなってしまったので生気復活します。
関西では、関西上京組を中心とした赤軍派以外の残留学生は赤ヘルノンセクト化してしまい、大阪中電などの労働者組織を中心とした第二次ブント結成前の地方独立勢力である「関西ブント」へと回帰しつつありました。
佐々木書記長やそのほかの東京に残存した学対などの努力にもかかわらず、1969年秋期安保決戦は不完全燃焼におわり、出獄した藤本敏夫(反帝全学連委員長)なども離脱していくといった苦境のなかで、1970年を迎えることになります。
中央機関紙の『戦旗』とは別に、地方・府県・地区委員会などの機関紙誌が独自に(勝手に)数多く発行され、これが各グループ(党内諸派)の結集軸となっていきました。少々煩瑣になりますが、ブント分解後の行方も含めて大雑把にまとめておきます。
■『戦旗』『共産主義』 発行:共産主義者同盟(第一次ブントの機関紙誌名を継承)。1969-70年頃の『戦旗』編集発行人は佐々木和雄・野田晋らで、中央の書記局・編集局が諸派を調整。総武線水道橋駅近く(千代田区三崎町2-7-6)滝沢ビル地下1階にあった事務所(戦旗社)が各派の争奪対象になったことも。
■ 『理論戦線』 発行:社会主義学生同盟→共産主義青年同盟理論機関誌。野田晋(「戦旗」編集局長)、日向翔(社学同委員長)、伊勢洋(学対)、城山徹(同)、村中泰、赤井文人、西田輝ら、のちの戦旗派を形成する主要メンバーが執筆。「理論戦線派」という他称はこの機関誌名から。
→1980年から戦旗・共産主義者同盟の理論機関誌。
■ 『叛旗』 発行:東京・三多摩地区委員会(1968/11創刊)。三上治・神津陽(中大ブント)ら→1970年6月、叛旗派結成。青山学院大学初め首都圏や全国の学生の中にシンパ層は多かった 。6月11日、東京池袋の豊島公会堂で開かれた共産同政治集会のさなか、叛旗・情況連合が戦旗派連合にゲバルトを仕掛け、分裂確定。→1975年三上治が脱退→1976年末に自主解散。
9.16東峰十字路戦被告らの救援などを目的として発足したと思われる「旧叛旗派互助会」は、神津陽らを中心に今も存続。
■ 『鉄の戦線』 発行:東京・南部地区委員会。同盟8回大会の議長・仏徳二(さらぎ・とくじ)ら。南部地区や専修大社学同、医学連の学生など→1970.12.18「蜂起戦争派」→「鉄の戦線」派
→蜂起派(他称:さらぎ派、機関紙『蜂起』、共産主義者同盟発行)と蜂起左派(佐藤秋雄ら→共産同「プロレタリア通信」編集委員会)などに分岐。
→その後、1998年頃、仏徳二離脱、機関紙を『赤星』に変更
→2009年3月、槙渡&赤井隆樹(共産同蜂起派)らが、畑中文治(情況派系流の共産同首都圏委)、旭凡太郎(神奈川左派→共産同プロレタリア通信編集委員会)らとともに「共産主義者協議会」(機関紙『赤いプロレタリア』略称:赤プロ)を結成。「赤星」は赤プロに合流して休刊へ。
→ 2016年1月に名称を『The Red Stars』に変更して再刊 。協議会は解体した模様。
■ 『左派』 発行:神奈川県委員会(1970/1創刊)。旭凡太郎(関西上京組・7回大会政治局員)ら→1970.12.18「蜂起戦争派」→(神奈川)「左派」派。
→その後、共産同プロレタリア通信編集委員会(他称「豊島グループ」。消息通によれば、蜂起左派と赤報派少数派が合流)→2009年、上記「共産主義者協議会」へ。
■ 『烽火(のろし)』 発行:関西地方委員会(1970/8再刊1)→1970.12.18「蜂起戦争派」→「烽火」派→共産主義者同盟全国委員会(烽火派)と、榎原均ら「赤報」派=共産主義者同盟(RG)などに分岐。
→その後、2004年、全国委派は戦旗西田派と組織合同、共産主義者同盟(統一委員会)を名乗る。機関紙は『戦旗』に統合。
※注1)RGとはドイツ語Rote Gewalt(ローテ・ゲヴァルト。直訳「赤い威力」「赤い暴力」。意訳「共産主義突撃隊」)の略でエルゲーと読む。もともとは、一向健(=塩見孝也:関西上京組・7回大会政治局員、後に赤軍派議長)らの発案。1969.4.28沖縄闘争で前夜から御茶の水のMD(東京医科歯科大)を武装占拠し、機動隊の壁を破って秋葉原駅→首都中枢へ突撃した社学同ほかの部隊に名付けられた。その後、一向健らはより軍事色の強い「赤軍」建設へと向かい、他方、赤軍派分裂後のブントでは1969年秋期安保・沖縄決戦にむけて、叛旗・情況系をのぞく各派が少数精鋭軍の意味合いを持たせて「RG」を組織した。のち、榎原均らが烽火=関西派からの分裂にさいして、自派名に利用。
※注2)蜂起戦争派とは、1971.4.28沖縄デーのさい、東京・清水谷公園で共同集会を持った12.18連合ブント(神奈川左派・関西地方委派・仏(さらぎ)派の三派)、共産同赤軍派、京浜安保共闘や、赤ヘル系ノンセクトの同志社大学全学闘・京都大学C戦線などの共同戦線の自称で、必ずしも分派の名称ではない[さらぎ派は集会参加せずデモのみ合流?]。日比谷公園西幸門口で戦旗派と激突(→1971年参照)したのは、組織としては12.18連合ブントのみだった。当時の戦旗派内では「野合右派」と蔑称。
なお、情況派(明大独立社学同→6回大会議長・松本礼二、同学対・古賀暹ら)は1970年6月にブントから分裂した後に、機関紙『ローテ』(発行:共産主義者同盟再建準備委員会)の発行をはじめます。
→のち、松本礼二は『遠方から』を発行。古賀暹は1990年、廣松渉と共に第2期『情況』創刊。情況派系は遊撃派→革命の旗派→赫旗派などの変遷を経て、系流の一派=首都圏委員会が2009年、上記「共産主義者協議会」を結成。
上記以外にも、B4サイズの藁半紙にガリ版刷り・ホチキス綴じの「機関誌紙」も数多く出されており、そのなかで、のちの戦旗派の結集軸となったのが、
■『赤きテキサス』 発行:東京・西部地区反帝戦線。これは、1969年秋「安保・沖縄決戦」後の首都圏の学生・高校生組織の一部と東大闘争保釈組などとが結合した「妖雲亭」フラクションによる発行で、主要論文はのちに『理論戦線』に収録されました。
ここに前項のような中央・関西の諸グループとは距離を置く、九州・北海道・愛知などの地方組織も連携し、全共闘以降の方向性を求めていた無党派ノンセクト学生の一部も合流。中央機関紙『戦旗』編集発行人の野田晋も参加します。
こうして、ある意味自由だけれども無責任な「各派の連合党」から、現場や地方に責任を持つ「単一の中央集権党」への脱皮を中央各派に強力に要求する潮流が形成され、新たに作られた党機関である「青学組織委員会」を足場に、この潮流は短期間に党中央への進出を果たします。
やがて前項のように1970年6月叛旗・情況派が分裂した後、12月18日には残ったブント本体(「戦旗派」と他称されていました)から、蜂起戦争派系三派(関西地方委派・鉄の戦線派・神奈川「左派」派)が、単独での「共産主義者同盟政治集会」の開催を強行(=12.18連合ブント)、三派の共同で独自の『戦旗』を発行するなど、戦旗(中央)派との絶縁を宣言して分裂が確定します。
戦旗(中央)派は当日の沖縄集会での大衆的な登場をかけ1971年4.28日比谷公園でこれら反戦旗派連合と会戦し、これに圧勝。12.18連合ブントはこの惨敗の余波で紛糾、内部崩壊。連合ブント版の『戦旗』発行も停止(250号~264号の通算14号分が中央の『戦旗』と並存していた)するなど、各分派ごとにバラバラとなり、連合ブントは解消します。
その後、戦旗派は「分派闘争の止揚と対権力闘争への転換」を宣言して、自分たちもまたブントの一分派であるという意味で、共産主義者同盟(戦旗派)と自らを称したのでした(1971年を参照)。その後も前項で述べたような各派の離合集散は続きますが、これをもって第二次ブントの分派闘争は一応の決着となりました。
【草加メモ】 共産主義者同盟(=ブント)の分派闘争の初期には、お互いに自分たちこそが正統な無印のブント(正式な党中央)であり、他は反党分子‐分派であるという主張で、大衆に自派の正当性を主張することがありました。ですが日本共産党や中核派のような「強力な主流派」をもたなかったブントは、どこが正統かなんて、他人にはあまり意味のない(どうでもいい)主張です。
ただ、いったんそう主張した限り、あとでそれを撤回するようなことは言いにくいわけですけれど、内輪の分派闘争に区切りをつけ、本来の対権力闘争に戻るためには、そういう現状を認めることが必要だったということでしょう。この当時にそれを行った判断は戦旗派的には評価されてきたと思います。
ただ、これによって分派間や諸派との武力衝突(ゲバルト)が完全に解消したかといえば、否。そう簡単に「恩讐の彼方に」とはいきません。
これ以降、沖縄返還をめぐる数々の対権力闘争を展開していくその一方で、1970年前半の赤軍派やML派(=ブントの流れを汲む毛沢東派「マルクス・レーニン主義者同盟」、1970年6月以降分裂・消滅)、同年後半~71年4.28までの叛旗派、4.28以降の蜂起戦争派系諸派や情況派、さらにノンセクト(明治大学新聞会=MUP共闘など)とのゲバルトが1973年初頭まで断続的に発生します(MUP共闘襲撃および「破防法裁判闘争を支える会」K氏への襲撃は後に『戦旗』紙上で自己批判)。その過程で、戦旗派には内部分裂の芽も生まれていたのでした。
【草加メモ】 分派同士の内部争いは一線を越えない範囲なら勝っても負けても自己責任(自業自得)だと思いますが、MUP共闘のような外部のノンセクトにまで同じ感覚で手を出すのは、党派のモラルとして明らかにやりすぎ。中核派のことを笑えません。自己批判はして当然でした。まあ中核派は未だにそういう過去に自己批判もしてないわけですから、はるかにマシではありますが。
1973年6月、神奈川県下▽▽ランドで開催された第12回中央委員会で共産主義者同盟(戦旗派)は事実上分裂します(10月に分裂確定)。1970年初頭、「妖雲亭」フラクション以来の戦旗派第一期建設はここに頓挫し、再出発を迫られたのです。
組織の在り方や武装闘争・路線問題を巡る対立点や、分裂した経緯の説明や弁明は、その後の各派から各種の表明がなされました。その内容はきわめて煩瑣な上、当時の中央委員らの動きのいちいちを知る由もなく、加えてここは正統を云々する場でもないので、外形的に俯瞰しておくことにします。
時系列的にふり返ると、1972年末には渋谷グループ(→国際主義派)が、1973年3月には「足立商会」グループ(西田・大下・城山→西田・大下派と城山派に分岐。足立商会はこのグループが構えた事務所の仮名)が形成されます。西田らによれば、これは1972年夏以降の「日向中央派による分派的組織運営への対抗」とされていますが、日向らによれば「西田らがそれぞれの担当地区・地方を囲い込み、Nの官僚的運営に対する反発をも利用して分派を形成した」ということになります。
ちなみに言うと、この時期の組織は、大会─(拡大)中央委員会─(常任)中央委員会のもとに、各地方・地区委員会が運営されており、「第○回」と付される(拡大)中央委員会は、常任の中央委員と地方・地区の代表によって構成され、同盟員大会が開かれていない当時は最高の決定機関となっていました。
また、各分派の勢力概要を図式化すると、以下の通り(地区などは多数派を分類、少数は不記。重複はほぼ二分の場合。★は概数比。各派名称は発行機関紙誌名に「派」を付けた)。
1973年の「戦旗派分裂」で特記すべきことは、内ゲバ(武力衝突)へと至らなかったことでしょう。その後、殴り合いなどが皆無だったとは言えませんが、互いに他派の物理的解体を目的化することはしませんでした。
1970年前後から激烈化・常態化していた新左翼内部の内ゲバへののめり込みを回避すべく舵を切ったこと──、このことは戦旗派的にはMUP共闘襲撃への自己批判など、独断的セクト主義・内ゲバ主義的偏向への反省の具体化として、その後の経緯のなかでも積極的に評価されています。ま、それはその通りだが、ちょっと格好良すぎるか? 喪った仲間、そして苦楽を共にした仲間が、分裂に至る過程やその前後に相次いで戦旗派を去っていった……。
【草加メモ】命がけでやってきたのに、一夜にして半減どころか3分の1の動員に。辛かったろうなあ…。離脱者だけでなく自殺者も出たそうです。
もともとベトナム反戦や安保・沖縄問題、学園闘争などを契機にブントに結集した戦旗派活動家の精神は、諸派・ノンセクトとの内ゲバや、あいつぐ分派闘争で消耗・疲弊しきっており、もはや権力とたたかう以外の気力も部隊も残ってはいなかったし、内ゲバ無しなら活動を続けようと考えた者も多かったはずです(それによって傷が癒えることはないとしても)。
そして、1974年7.7「血債・猛省」をかかげた政治集会で戦旗派は再出発を決意します(第二期建設)。以降は分派闘争や正統派争いの消耗から解き放たれた単一党として、狭山差別裁判糾弾闘争、反天皇闘争、三里塚現闘団の再建など、多くの人々に学び・支えられ、一から鍛え直しながらの戦いに向かっていったのでした。
なお、この過程で、戦旗派は機関紙『戦旗』の自力印刷発行体制を整備していきます。当初は和文タイプ、やがて写真植字機を導入し、印刷機を備え、B4判のホチキス綴じという時代がしばらく続きます。それがようやく新聞の体裁(タブロイド判)となるのは、戦旗・共産主義者同盟への名称変更後の1980年暮れもおしつまった頃でした(1981年新年号)。
73年戦旗派分裂で別れた諸派のその後を、簡単に記しておきます。
【草加メモ 日向派・西田派以外の戦旗2派】
北海道共産主義者同盟(=城山派)は、関西ではもちろん、東京でもほとんど見たことがありません(闘争分裂前の三里塚で数人を見かけたことがあるような無いような、勘違いかもしれないし記憶が定かではない)が、86年の天皇在位60年式典粉砕闘争の宮下公園にて、若い赤ヘルの女性(学生?)が戦旗派の大部隊の中にまでわけいって、「こんにちは!」といちいち微笑んで挨拶しながら、本当にせっせという感じで一人でビラをまいてるのを見ました。
丸顔のおぼこい感じ(失礼!)の方で、北海道から来たのかあ、分派のプロ戦だよなあと、痛々しくもほっこり見てたら、当時の社学同指導部の某君が、「何はいってきてんだ!」「え~いけないんですかぁ」「当たり前だろ!」的に詰め寄っていて、私は引きつった彼女の顔を遠目に「あちゃ~」とか思って見てました。普通は入ってこないで穏便にすみわけるんでしょうが、そんなのわからなかったんだよ、北海道からビラ持って来たんだよ!大目にみてやれよと(笑)。あのビラ残ってたらレアだったよな。
国際主義派は、本当に一度も見たことがない(断言)。ネットでもどこでも、日共(行動派)になっちゃったという結末以外は何も伝わっていません。元々中央委員が一人もいない一般メンバーだけのグループで、他分派を批判した戦旗派の文献類にすら、ほとんど名前が出てこなかった。一般には4分派中の極少数派にして最左派(というか極左)とされているそうですが、特に目立った活動の形跡もなく、今日の行動派の機関紙や文献を読む限り、おそらく「極左」というよりは教条主義者といったほうが近かったのではないか(第四インター系の「スパルタシスト」と同じ匂いの)と想像しています(想像ですよ)。「国際主義派」という名前からもなんとなくそう思える。おそらく4派の中では、一番私とあわないタイプの人たちだったと思われますw。
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名前って重要だなぁ。現在のアクティオ代表もどこかでそんなことを言ってたっけ。
時代・路線・人的要素などなどを無視するな! と怒られるかもしれませんが、戦旗派が組織的な大飛躍を遂げたのが、「戦旗・共産主義者同盟」と改称した1980年代に入ってからであったことは紛れもない事実でした。
1973年分裂時、「足立商会」派(アダチグループ・戦旗西田派)の後塵を拝していた戦旗派が、1974年7.7集会を機に再出発し、1975-76年頃には組織的にやや上回る勢力に回復していたとはいうものの、ここからの躍進で、80年代後半には権力・マスコミから「中核・革マルに次ぐ主要党派」とされるようになります。
もともと分裂から7年経てもなお同名で二つの「戦旗派」と二つの『戦旗』(機関紙)が存在していた状況は、双方にとってどうだったのか。三里塚集会などでは同じ会場で両派とも赤いヘルメット、旗も横断幕も戦旗派、せいぜいゼッケンが多少違うだけだから大変紛らわしい。結集したてのメンバーなどは当然のごとく混乱せざるをえなかったでしょう。
しかし、名称=正統派争いとすれば、相手に改名を迫ったところでどうなるものでもない道理。選択肢は自ら改名することしかないのは世の習い。とはいうものの、「アクティオ」のように内容がまるっきり変わってしまうのと違って、基本は継承なので「戦旗」も「共産主義者同盟」も棄てがたい。浮かんでは消える名前案(というより迷案)……、あれこれ議論の末、「戦旗・共産主義者同盟」への改称案が採択されました。
時に1980年1月(だったと思います)、都区内で開催された第1回同盟員総会でのこと。「戦旗」と「共産主義者同盟」のつなぎを「・」(ナカグロ)にするか、「-」(ハイフン)にするか、などという、決まってしまえば瑣末となるような問題もまっこと真剣に議論されたのでした。名称変更とともに新規約も採択し、組織や路線・政策の基本なども決定しました。
ブント系の一分派とか、二つある戦旗の片割れというような、いわば呪縛から解き放たれたかのように、これ以降、戦旗・共産同の飛躍的伸張が始まります。同年6月には社会主義学生同盟を再建し、1980年韓国・光州民衆蜂起連帯の安保・日韓闘争、1983年反対同盟の分裂を前後しながらの三里塚二期阻止闘争、反天皇制闘争などをめぐるゲリラ・パルチザン戦闘と連携した大衆的実力闘争を展開しつつ、機関紙『戦旗』のタブロイド判化→ブランケット判化や本部ビル建設など、動員的にも倍々ゲーム的に大きく前進します。
改称を決めたこの「同盟員総会」とは、事実上は戦旗・共産主義者同盟の党大会に相当します。なのに、なぜ大会ではなく総会という呼称なのか? 「大会は共産主義者同盟の再建大会=10回大会でなければならない」(第二次ブントの大会は、再建の6回大会~1969年9回大会までなので、次は10回大会)という意識が多少ともあったためでしょう。同盟の理論機関誌名をブント機関誌の『共産主義』とせず、自分たちの出自たる社学同全国委の『理論戦線』としたのも同様。
もっともそれは、「第二次ブント系諸派・個人の大結集による再建」(第二次ブントのような連合戦線党・派閥連合)ではなく、戦旗・共産同自身の党派的伸張を基盤にして(全国単一党)、というのが共通認識でした。第二次ブント系の諸派・個人の一部には、こうした考えを指して「日向革マル主義」などと批判するむきもあるようです。ですがそれは第二次ブント総括の視点や状況認識の違いのしからしむるところでしょう。
実際、1980年代を通じて、ブント系諸派のなかには、野合的な離合集散を繰り返しながら「党派」を名のる人たちがいたことも確かです。しかし、無理に野合して「党」を名のったりせず、異なる綱領・規約を有した党派が共通の課題を前に結成する「統一戦線」という形態をとっていれば、各々の系譜はもう少しスッキリ理解しやすいものとなったのではないか、などという老婆心はいらぬお世話。
それから13年あまり後の1993年8月、北海道で開催された同盟員総会での「共産主義者同盟」への改称が、戦旗派自身の変容への最初の小さな舵切りになろうとは、もちろんその当時は知る由もなかった……。
共産主義者同盟の略称「ブント」は、もともとドイツ語「Bund」(=同盟)の音読みをカタカナ表記したもの。
ドイツ語で「党」はParteiと表記し「パルタイ」と読む。1950年代、日本左翼のなかでパルタイといえば日本共産党を指した。第一次ブントが、パルタイ(党)への対蹠として「ブント」(同盟)という呼び方を通称として用いたのは、マルクス・エンゲルスが1847年、それまであった亡命者組織を改組して結成した「共産主義者同盟」(der Bund der Kommunisten)の原点と当時の日本新左翼運動をつなごうとする思惑があったと思われる【なお、英語ではCommunist Leagueと訳される】。
ところが、日本の新左翼関係者などに、Bundを「ブンド」と読む人が時々いるのはなぜだろう?
Bundをローマ字風に読んだ(「d」→「ド」)なのか、あるいは「ブント」だと語調が弱いと思った(最後の「ト」を「ド」にすると力強い?)のか、それとも(後述の)レーニン『なになす』好きが昂じて「ブンド」読みとなったのか、ブントの連合党的性格をレーニンが批判した「ユダヤ人ブンド」になぞらえて批判的蔑称としようとしたのか? さらには、単なる外来語取込における日本的な曖昧さのなせる業であるのか???(そういえば、国名自体、ニホンとニッポンが共存している)
他に、Wikipediaによれば、イディッシュ語では「bund」を「ブンド」と発音するそうで、たしかにロシアの革命家・レーニン『なにをなすべきか?』の邦訳などに「ユダヤ人ブンド」と日本語表記される組織(ロシア社会民主労働党の結成に参加したユダヤ系労働者の組織)が批判対象として登場するけれど、まさか、日本の左翼関係者がBundという表記に限ってイディッシュ語読みを意図的に選択しているとも思えない、なんとも不思議なことである。
ともあれ、しかし、今まで「ブンド」と発音・表記してきた方がもしいらっしゃったら、これからは「ブント」と呼んでくださるようお願いします。
画面上の表示が著しく煩瑣になるため、逐一明示することは避けましたが、この場を借りて、以下、参照したサイト・ブログなどの当該管理人様に厚く御礼申し上げます。
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「戦旗派コレクション」サイトを制作するに当たっては、事実確認などのため『北西風が党を鍛える』第1・2部(戦旗社)のほか、WEB上に公開されている資料・覚書などを参照しました。
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さらに「旗旗」版の作成にあたり、以下のサイト様にもお世話になりました。