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【草加メモ】 この翌々日の5月15日には沖縄返還協定が発効し、佐藤首相は期待された内容とは裏腹に、米軍基地はそのままで、自衛隊も派兵されるという内容(+核密約つき!)での沖縄「返還」を強行しようとしていた。
「復帰」前後から取りざたされ、政府が否定し続けて(嘘をつき続けて)きた密約が日本で正式確認されるには、それから37年後の政権交代時の2009年まで待つ。「(返還にあたり)沖縄に現存する核貯蔵施設の所在地である嘉手納、那覇、辺野古及びナイキ・ハーキュリーズ基地を、いつでも使用可能な状態で維持し…実際に使用できるように求める」当時から言われていたように、核抜き返還ではなかったのだ…。
また、この翌日の14日に政府側は「暴力団対策」を名目として(実際には沖縄返還に照準をあわせて)火炎瓶取締法を発効させ、使用しなくてもその場にいただけで重刑が課され得るというギリギリのタイミングでもあったが、他派は動かず、結果として戦旗派の単独決起となった。
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【メモ】 別名、御茶ノ水解放区闘争とも他称された。戦術的には選抜された遊撃隊のほぼ全員に近い128名が逮捕投獄されるという大敗北を喫した。ノンセクトだった方が「なんかよくわからない闘いだと思った」と首をかしげる投稿をしておられたので、政治的にも闘争後の打ち固めと広がりを作れなかったということだろうか。
【メモ】 遊撃隊は最後まで撤退せず、バリケードを構築するなどして徹底的に抗戦したと思われる。おそらくこのため機動隊に包囲され、明大の本隊から孤立してほぼ全員が逮捕されたということだろう。生還できたのは10名前後という全滅状態だった。
【草加メモ】 「旗旗」開設の頃、「あんたらあの時に何がしたかったのだ」と、当時を知る人から聞かれることがあった。もちろん(まだ生まれてなかったとまでは言わないがw)私の年齢ではその頃のことまで知る由もない。論者によっては後の戦旗派分裂の遠因になったと指摘する見解もあり、いろいろと謎の残る闘いであった。
これは想像でしかないが、火炎瓶取締法施行前日に戦旗派以外も含めた大衆的な決起で、明大前から御茶ノ水までのバリケード戦を構築、翌々日の返還協定発効をまたいで、本土における返還粉砕闘争を代表するような火柱を打ち立てる…。そういうフランスはパリのカルチェラタン闘争をイメージしたような闘いになれば…というところだったのではないだろうか?
結果として、その後の政治展開的にも尻すぼみの単発決起になってしまったようだが、原因として、まず何かの潮流ではなく、完全な特定単一党派の決起となってしまい「戦旗派支持」以上には広まりにくかったこと、大量の逮捕投獄で主要な活動家がいなくなって事後の打ち固めなど政治展開に不足をきたしたこと、この闘争の総括をめぐっては指導部でも意見がわかれたらしく、この後の展開を含めて指導部内をまとめるのに時間がかかったことなどがあると思う。
実はその際、後に「日向派」となる部分は討論の結果指導部はまとまったと思っていたが、実はあんまりまとまっていなかったことが後に発覚する。その意味で神田武装遊撃戦は、戦旗派分裂の遠因とされることがある。一般学生に人気のあった赤軍派の撃沈→連合赤軍の惨めな末路、蔓延する内ゲバという時代の空気もあったろう。そんな運動に人生を賭けようなんて、後の世代の誰も思わないわけで、みんなが「今後の方向性」を求めていた。
この時の指導部は多く鬼籍に入られたり、運動現場から遠ざかって行方の知れない方ばかり。一線から引退した西田さんくらいしか知りませんが、お会いする機会があればそのあたり聞いてみたいと思います。
2.神田武装遊撃戦(御茶ノ水解放区闘争)