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人間の尊厳(人権)

驚くね、政治家や官僚達のセクハラについての発言

セクハラ抗議 4.19財務省前行動
週刊新潮が暴露した福田財務次官のセクハラ音源

by 味岡 修

 この季節になると郷里から姉が筍を送ってくれる。もう何年になるのだろうか。「今年はイノシシのごちそうになってしまったのよ」そんな電話の声に驚いた年もあったが、今年は豊作らしい。美味しい筍ご飯を楽しんでいるといつの間にか、GWも近くになっている。これといって出かける予定はないか気分は浮き立つところもある。むかしの名残なのだろうか。不順で不安定さのついて回る天候だが、それでも気分のいい季節になってきたことは確かである。

増え続ける意思表示や抗議行動に思う

財務省前で抗議する人々

 経産省前に出掛けるのはいつの間にか無意識というか、自然の趣になってきている。あたりまえだろう。撤去はされてしまったとはいえ、テントができてから7年の歳月が過ぎたのだから。
 思えば、この7年の歳月の間に国会周辺も含めて霞が関一帯の光景は変った。何かの法案が国会で終末を迎える局面で人々が国会の周辺に来て声をあげるだけでなく、もっと日常的に国会周辺や霞が関一帯で人々は意思表示や抗議行動が行われるようになった。それも政治団体やグループに率いられてではなく、諸個人の自発的な行動として。

 経産省前だけでなく、いろいろの省(官僚組織)に対する行動も増えてきた。文科省、財務書、そして、防衛省などに対して人々の抗議行動が多くみられるようになった。これがどのような意味を持ち、日本の社会に影響するのかは、まだ、誰も分からない。それはやがてその意味と力が明確になってくるだろう。僕は権力、そのあり方を変える持久戦的闘いとみているが、GWを前にしての国会行動もあるように思う。こうした行動はさしあたりの有効性など気にせずに続けるほかないが、政治や権力を変えて行く基盤になりつつあるように思う。

傲慢でお粗末なセクハラ行為への発言

財務次官のセクハラに対する麻生太郎財務大臣のコメント

 僕らが座り込んでいるのは経産省前だが、対面は財務省である。財務省の次官(トップ)の福田淳一のセクハラ問題が報じられ、ここにも抗議の人たちが詰め掛けている。福田は「そんなことはしていない」、「記憶にない」、「全体にみればセクハラ」ではないと発言を変えつつ、セクハラ行為を否定している。それではいったい彼の取った行為は何というべきなのか。

 これに対する財務省の対応も驚くほかない。相手が名乗りでないからどうしょうもない。名乗りでよという、セクハラの被害者になった女性が簡単には名乗り出にくいことを見込んでの傲慢な発言など何をかいわんや、である。麻生大臣の発言はお粗末すぎて論外というほかない。

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女性(異性)への感性は文化の度合いを示す

 今回の事件は学校や企業など様々な領域であることが、露呈したといえるが、女性に対する男の対応の現在のありようを示しているという意味で衝撃的な事件である。マルクスは男の女に対する(女の男に対する)感性は文化の度合いを示すという。男(女)の女(男)に対する関係(意識)は文化の様式が介在しているのだが、その水準を示しているのだ。

福田淳一財務省次官

 福田が自分の対応(女性記者に対する関係、あるいは態度)はセクハラではないというのなら、何であるかを語ってみよ。キチンと弁明してみよ。そうしたら彼の女性観を示すことになるだろうし、そのお粗末な女性観に自身がおどろき、否応なしに反省を強いられるにちがいないのだ。彼はこのことを生涯の事として抱え込まざるをえないだろうし、それを解決していくのは自己の女性観を真摯にかえり見ることしかはじまらないのだ。女性記者の勇気ある告発を受け止めるにはそこしか道はない。

「権力」の問題であることへの無自覚さ

 この事件が人々に与えている衝撃の一つは権力の問題である。今回のセクハラは単に女性にたいする嫌がらせ(性的行為の強制)だけではなく、そこでは権力が介在している。これは社会的な場面で権力が介在して行われることでもある。権限を利用しての性的行為の強制がなされること、このことに権力にあるもの、あるいは権力はいかに無自覚であるかを示したのが財務省や麻生大臣などの一連の言動である。

 権力のあるところでセクハラは発生する。男(女)の女(男)に対する性的関係の強要(そうした関係のあり方)は権力の特権のように存在してきた。だが、そのような権力のあり方への批判はフェミニズムの運動を含めて広範に存在してきたし、今は告発の形で出てきている。これはセクハラと呼ばれる行為への批判であるが、それを許容してきた権力のあり方の批判でもある。

 こういう動きに対して、日本の官僚(権力)はどうなのかを示したのが今回の事件である、僕が考えさせられるのは日本の権力のこういう問題に対する受け止め方の鈍さだが、権力や権力者は女(男)関係のあり方が、権力の現在のあり方を写していることに自覚的であるべきだ。

味岡修(三上治)

味岡 修(三上 治)

文筆家。1941年三重県生まれ。60年中央大学入学、安保闘争に参加。学生時代より吉本隆明氏宅に出入りし思想的影響を受ける。62年、社会主義学生同盟全国委員長。66年中央大学中退、第二次ブントに加わり、叛旗派のリーダーとなる。1975年叛旗派を辞め、執筆活動に転じる。現在は思想批評誌『流砂』の共同責任編集者(栗本慎一郎氏と)を務めながら、『九条改憲阻止の会』、『経産省前テントひろば』などの活動に関わる。

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  • >相手が名乗りでないからどうしょうもない。名乗りでよ

    これは当然じゃないでしょうか。
    社会性を人質にして法的問題を問うなら、問うている側も主語・主体を相互主義でハッキリさせる事は大前提だと思います。

    文化の問題ではありません。
    社会性の成熟度の問題だと思います。

    • 私は著者ではないので、横レスになりますが
      社会もしくは社会性と言っても文化と言ってもたいして違いはないような、言葉遊びのような気がします。あと「文化」じゃなくて「文化水準」ですからね。文化で言えば、戦争が正業化してそれが権力の源泉となって以来、どこの国の文化も多かれ少なかれ男尊女卑ですからね。

      まあ、世界的に見ても(議会の男女比を見ればわかるとおり)完全に女性問題を克服している国はありません。ただ、こういうセクハラや差別問題を正しく「重要問題」として扱い、まず告発者の地位やプライバシー含めてしっかり守った上で、厳正な対処をするべきと考えることが比較的に主流な国と、たいした問題であるとは考えず、むしろ告発者に対して風当たりが強い国というのはあるんじゃないですか。そのへんが「水準」の問題と思います。

      そういうことではなく、もし被害者個人のことを非難しているのなら、権力をかさにきたセクハラ行為に対し、そんな意見が出るような社会であること自体が、著者の意見の正しさを証明していると思います。ちゃんと画面下の音声も聞いたと思いますが、あれを聞いてまだ、このクソオヤジをかばえる人はスゲェなと尊敬します。そのほうがよほど特殊な人なので、そんな人を説得するような必要は感じません。

      その意味で麻生財務大臣は(こんな言い方もどうかと思うが)重大なチャンスを逃したと思います。もし、この身内のクソオヤジに対して、記者会見を開いて怒髪天で怒ってみせれば、それだけで世間一般の麻生氏への印象はガラリと変わったはず。さらに再発防止策を含めて徹底的な綱紀粛正を指示し、閣議でも安倍総理を筆頭に、財務省だけの問題ではないとして、麻生氏を全面的にバックアップし、官僚の身内かばいのクソ対応を許さない厳しい対応をとっておれば、内閣支持の理由が「他に適当な人がいない」から「安倍首相を信頼するから」に世論も変わったろうに。

      なのに麻生さんの期待を裏切らない対応(笑)。これじゃむしろ財務省も綱紀粛正したくてもできないわ。そして昔の自民党みたいに麻生―安倍にちゃんと苦言を呈する人が誰もいないと。みんなが知っている自民党と今の自民党は別物だとあらためて思った。これはあなたのような「支持者」のせいでもある。

      おそらく80年代あたりまでの政治家、たとえばサッチャーさんあたりなら、怒髪天で怒ったと思う。こういうのは右翼も左翼も政策内容も関係ない。それ以前の問題。実はセクハラや女性差別発言の問題というのは、左翼の世界でも残念ながら、数年おきに内部の女性からの告発があるのですね。それは生まれ育っていく過程で刷り込まれていった女性観や家族観に対し、あとから学んだ平等思想とかフェミニズムというのがあって、普段はあとから学んだものが表に出て本人も「それが自分だ」と思っているんですが、ふとした時に気安くなった女性に地金が出てしまう。特に結婚してそうなる人が多い。

      これは思想に関係なく一般的にそう。それでも自分は差別なんてしてない、むしろ愛妻家だとか本気で思っている。そういう意味では文化の問題と言えるかもしれません。これは伝聞ですが、逆に「大和撫子たれ」みたいに表面的には男尊女卑を説いている右翼思想の人が、家に帰れば家事を分担してイクメンだという例もある(らしい)。でも本人は由緒正しい日本の男尊女卑な家庭を守っていると思っている(らしい)というから、左翼の悪例とは逆。もちろんそれは極少数例なんでしょうが、いずれにせよこの分野は思想とは関係なく出るものがあるようです。

      しかし今はアメリカでもトランプは自分でセクハラしまくってた過去を暴露されたりしてるからなあ。欧米はこういうのは「家庭を守れ」の保守派でもわりと厳しかった印象があるんですが、セクハラはそういう差別的な家庭観以前の問題で、保守の男尊女卑の立場からでも非難は可能ですし。そういう意味で世界的に政治家や官僚の質が下劣になっているということでしょうか。手前味噌で言えば、批判勢力が弱体化したのが災いしていると思います。ライバルは常に必要なのです。だから保守のためにも左翼がもっと頑張らねばと(笑)。

    • 大切なことを書き忘れていました。
      「綱紀粛正」という言葉を使いましたが、たとえばセクハラ問題などでも、問題をおこした当人を厳しく罰してそれで終わり、そのあとの通達とか研修などでも「どういう行為がセクハラにあたるか」という内容ばかり、私はそういうのに以前から疑問を感じています。

      もちろん何もしないよりはずっといいのです。今回の財務省や麻生さんのふざけた応答よりは100倍いいです。たとえ表面的にせよセクハラが影をひそめ、それが悪事であると知れ渡るのはいいことです。

      ですが、単に罰がこわいからやらない、さらに「こういうことをするとマズいらしいぞ」みたいな、下劣な校則みたいなくだらない認識だけが広まる。それがなぜ悪いのかということが心のレベルでわかっていない。こうなりますと、セクハラとか女性差別は表面からは消えても、人々の心の地下にもぐって滞留していく。

      それはふとした時にマグマのように噴き出してくるものです。そういう例を、すでに私たちはネット社会で嫌というほど見聞きしているのではないですか?

      何が悪いのかもわからずに、ただ禁止だけされて、表から見えなくなった人々の醜い差別心や悪意は、そのうちセクハラ被害者を貶め、傷つけ、さらに「女尊男卑だ!」「男性差別だ!」とか愚にもつかない「意見」を言い出す。そして今回のように、圧倒的に上位の立場や権力を得たとき、弱い立場の女性に牙を剥く。それに抗い告発するのはとても勇気がいることです。そんな社会や文化水準にいつまでも留まってしまう。

      それはやはり文化水準や文明度の問題と表現してもいいように思えます。表面だけ「文明国」のフリをしても世界からはバカにされるだけということです。それはセクハラを糾弾する側にも問われることで、単に勧善懲悪的に、加害者のクソオヤジを徹底的に吊るし上げて罰を加えて、それだけで満足していいのか。そのあとはどうなるのか。他人を指弾した刃は自分にもかえってくるというのに。
      問題意識だけで申し訳ないですが、差別の問題はいつもそのことを考えていないといけないと思うのです。