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懐古的資料

われらが長征をたたかいとれ-なぜ山に登りつづけるのか

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われらが長征をたたかいとれ

 われわれが組織的に山行に取組むようになってから、もう何年たっただろうか。アダチ分派(73年6月)以後のことだが、全体的にやってみようかということになったのは、たしか75年の夏だった。場所は雲取山で、これを一個の闘争として、戦争として位置づけて戦取しようとしたのだった。

 あれからもう六年たった。今年初頭には遂に、厳冬期の南アルプス塩見岳に総勢56名が全員登頂するまでに、われらが長征は闘いの規模を拡大し、それにつれて「内ゲバ襲撃やゲリラ攻撃の武闘訓練が行われているとの情報もある」(81年3月13日夕刊、毎日新聞)などという、公安当局の反山行キャンペーンまではられるようになった。

なぜ山に登りつづけるのか

 われわれが冬山山行に何を求めようが、それは全くわれわれの勝手である。
 公安共は権カ者に特有の恐怖心にかられており、不可視の領域が生まれることに不安を感じるが故に、ありもしない「内ゲバ襲撃」の「訓練」などを、マスコミに流しているのだが、それは全くのデッチ上げであり、事実無根であって、全く迷惑千万なキャンペーンといわねばならない。とはいえ公安共のように山行を外面から興昧本位にながめる者としてではなく、主体的に遂行する者としてとらえ返すならば、そこには独自の内在的獲得物が措定されてしかるべきである。

 それは一言でいえば、全党全軍を戦争に動員し、戦争を遂行することを自己の課題となしうる革命党と革命勢カを、如何にして形成するのかに応えるためである。しかもそこでいう戦争というのは政治の継続としての戦争であり、人民がそれを遂行することを第一の要素とするものであり、機械的、技術的、機能的な戦闘術の問題ではない。つまり権カが考えているような技術的な訓練に流されてしまうならば、逆にわれわれが冬山山行を遂行する目的は半減してしまうことが、前提としてふまえられる必要がある。

 一月の塩見山行に即していえば、光州民衆蜂起に応えきり、81年戦略的闘争を領導しうる階級的主体への飛躍をかけて、肉体的精神的な訓練のため実践するというものであった。そこでわれわれが獲得物としたものは、闘争主体の実践的気概であり、光州蜂起に連帯するとは、全斗煥軍に鎮圧されるまでの不退転の蜂起戦を貫徹しきった韓国民衆の戦闘精神に学びきることであり、そのように生きるのだと決意を固めることであると問題を把えたのである。

 たとえシモンのセキネル・レプリカを手にし、ガリビエールのマカルーをはいたって、用具が勝手に山に登ってくれるわけではない。登るのは人間であり、意志である。しかもわれわれは組織として登るのであって、そこでは強い者がいれば勝利できるのではない。相対的にカの弱い者をいかにカバーできるのか、落伍せずに共に闘いぬき高みをめざすのかが問われるのであり、その論理こそ階級闘争の論理であり、人民戦争の思想的核になるものだと思う。それを把みとるためである。

 われわれを取巻く外的状況が余りに厳しく、自然の猛威の中で誰もが押し潰されそうになり、自分だけのことしか考えたくなくなる世界において、そうであるが故に団結し、連帯し、助け合おうとする時、われわれにつきつけられるものは人間の実存の原点であり、「何故登るのか、闘おうとしているのか」という問そのものである。それは日常生活の中では、なかなか感受することのできない領域であり、それを自己のものとするべく、われわれは修験者のように山行を実践しようとしているのである。

 いや何もそれだけではない。自然はいつも猛威だけであるわけではなく、美しく、生きる確証を与えてくれるオアシスでもある。吹雪がさり、太陽が姿をあらわし、白銀の稜線がきらめくなかを、クラストした雪をきしませながら歩くことは、それ自体歓びであって、本当に美しいとはどういうことかを誰もが感ぜざるをえなくなる。それは闘いの中の息抜きであり、心があらわれる経験である。

 それ故われわれの山行にあっては、基本的に技術の習得、つまりダブル・アックスがどうだとか、岩登りのグレードをアツプすることは、それ自体目的化されることではない。それは組織の闘う団結をつくり出し、革命戦争の論理を実践的に習得することに従属しており、それ以上の位置をもたない。この点がわれらが山行が一般山岳会と百%ちがうところであり、また訓練としての山行の存続の意味でもある。

戦争の論理を学ぶ

 単なる戦闘術ではない戦争の論理をつかむこと、これは言い換えれば革命運動への人民の組織化の論理をつかむことと同一であり、正規軍ではない民兵の動員、民兵が主体的に戦争を遂行することを学ぶことを意味する。何故ならば敵権カを打倒する革命運動の過程にあって、その主カになるものは労働者階級人民であり、たとえ党の正規軍などといったところで、公然たる兵営生活を基礎とし、生活の一切を軍によりまかなわれる職業軍人の実存など創り出せない。単に形態的に創れないばかりでなく、人民の生活的実存に立脚せず、ただ党の論理のためにだけ機能する軍が形成されても、それが革命の主カ軍になることはできない。

 すなわちその形成は軍の形成における主軸ではなく、普通の労働者、学生、市民が、自己の武装と戦争の遂行を主体的課題として生活のしがらみをふっきって決起するとき、革命は現実の問題となるのであり、そうであるが故に人民の武装と民兵の形成こそが、われわれにとって課題となるものである。その追求を軸としない軍の形成は人民からの遊離の開始であり、人民解放軍(=人民革命軍)の名に値しないものである。

 われわれの歴史における軍形成の失敗は、党の正規軍としてのRG(エル・ゲー)建設に主軸がおかれ、故に恒武闘争という名のゲリラ戦に活路が求められていかざるをえなくなった点に、その根拠を有しており、大衆武装による大衆的実カ闘争がそれに比例してネグレクトされたことが、自らを細らせた根拠であった。

 それらの過程を対象化したうえでの結語が、全人民の政治的動員であり、三つの原則・四つの規範に示されるわれわれの「戦争の論理」である。武徳の思想はそこでの精神的気概を論じているのであり、たとえ民兵の闘いを軸とするものであっても、軍事の遂行にあっては、アマチュアリズムが克服されねばならないことを問題としているのである。

 山行の組織的実践はかかる領域の習得に道を開くものとしてありそれを基本命題としてたてられている。

 何故山行が軍形成の領域(これをわれわれは人民が戦争を自己課題とし、その遂行のために全カを傾注し、政治目的を貫徹する、その政治的成熟の度合の問題として考える)に実践的にかかわるのかといえば、それはブルジョア的な軍形成においてもそうであるように、共同生活と苦難を共にする共同行動の実践、そこでの政治目的の実現が、シビアな山行においては比較的容易に条件的に与えられるからである。

 又闘争心、戦闘精神の形成の第一は、様々な訓練によって修得されていくものであり、その中でも行軍は最も基軸となるものである。中国人民解放軍が1934年10月よりの二年問、12,500キロといわれる長征を敢行したことは、精神的気概を高め、不敗の信念を軍にうえつけるうえで多大の効果をもたらした。不敗の軍の精神的支柱として長征はあり、それは今も中国人民の心の中に生きている。たとえどんなに規模が小さくとも、塩見山行はわれわれにとっての長征であり、そこでの成果は、やればできるの確信を、われわれ一人一人にうえつけてくれた。従って階級闘争の主体的遂行において、その実践的担い手たる革命党と革命勢カの内的形成の手段と実践的訓練として、山行は位置をもっており、又そうしたものとして、われわれは団結山行を敢行し、又今後も敢行しようとしているのである。

 しかも心強いことに、このような位置付けが戦闘的すぎるといって驚く者はわれわれにはいない。われわれは光州民衆蜂起に応えぬける主体への自己の形成を真剣に考えており、それを全党全軍の団結した力でやりきる決意を固めているからである。

団結したカで勝利をつみ重ねよう!

 1975年8月の雲取山山行はその足がかりであった。それ以来75年冬の乾徳山、76年夏の富士山、冬の鷹の巣山、77年冬の燕岳~大天井岳、78年夏甲斐駒・仙丈、79年夏北岳、年春聖岳、夏戸隠連峰、81年初頭塩見岳と、誰もが登れるようなやさしい山を、せい一杯の思想性をこめて、われわれは登りつづけてきた。もちろんその過程にあっては冬の八ヶ岳の岩場、冬の荒川~赤石や後立山の縦走、冬の穂高、夏の滝谷や北岳バットレス、それに奥秩父や上越、丹沢での冬夏をとおしての沢登りと、バリエイションとよべるようなところも、山好きの部分がこなしてきたが、しかしあくまでもわれわれの山行の基礎は、必ず誰もがやれるやさしい山を、組織として全員が登りきることに中軸があり、その考え方を基本とすることにおいて成立してきたものである。

 何故ならばわれわれは山登りのエキスパートをめざす者ではなくただの労働者、農民、学生であり日常生活の苦労に追われ、実存の重さに絡めとられそうになりながら、なおかつ闘いぬく決意を固めている民兵であり、一兵士であって、ラインホルト・メスナーや、山岳同志会とは全く考えていることが違うからである。われわれはエリートのグリーン・ベレー軍団ではなく、ブルジョア社会で生きようとする限り革命をやるしかない現場労働者の集団であり、そうであるが故に三里塚農民の苦闘にこたえ、部落大衆の苦節にこたえぬかねばならない天与の任務を負っているのだ。

 民兵が思想性を武器に、自衛隊を打ち破ることを胸に、われわれはわれらがものならぬ世界、大いなる外的自然のふところに、試練を求めて入り続ける。それがわれわれの山行であり、その本質的な地平において敵権カは恐怖し、内ゲバ訓練やゲリラ戦に結びつけて卑劣なキヤンペーンを繰広げているのである。現に十二・七弾圧のS同志に対しては、中央アルプス空木岳池山尾根での愛知地区の同志の遭難さわぎに対し、「あれは粛清によって消されたのだ」等と、デタラメきわまることを吹き込もうとしている。

 だが問題は全く逆で、われわれは仲間を粛清で殺さなければならないような脆弱な組織、小ブル的革命観を止揚すべく、山行をつうじ自らを練磨しているのであって愛知の仲間は、権カの「遭難願望」とはウラハラに、誰の助けもかりずに団結しあって自カで脱出してきた。それはまさにわれわれの勝利であり、人民の勝利の可能性を切り拓くものであった。

 厳しい山行計画の前では、誰もが心が重くなるものである。それをはたすだけのカが自分にあるか否かは、結局日常的な訓練、準備に求められるしかない。具体的には毎日走ることであり、スクワットを続けることであり、岩登りなら指先のカを強めるためのトレーニングを積むことが必要である。冬山山行にあっては気象条件に左右されるわけだから、毎日天気図とにらめっこするしかない。このように毎日訓練し、準備するしかない実践、思いつきや願望だけでは自己を高みに持ちあげることのできない闘いは、政治闘争における「計画としての戦術」=合理性を持った計画性の遂行と軌を一にするものであり、革命運動の論理を学ぶことにもつながっていく。われわれが山行を一個の闘いとして位置づけ実践してきたこと、特に「内なる革命」の重要な試金石としてきたことは、現在までの成果において考えるならば、一定正しさを有しているように思える。

 すべての同志、友人諸君!かかる方向性の下において、今後とも共にわれらが長征を闘いとらん。

 「きみは、あれをまだ見たこと
  はなかったのか?
  今日はじめて、白日から
  真紅の光が立ち昇り
  そして谷問に落ちて沈むのを」

        マルクス逍遥

(一九八一年六月)

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