アッテンボローさんのサイトに、中核派の故本多延嘉書記長「中国文化大革命批判」の学習ノートが載りました。それを読んで、運動や党のあり方を論じたこの論文を思い出しました。
本論は革共同(中核・カクマル)や日本共産党に顕著な、いわゆるセクト主義や前衛ショウヴィニズム克服の問題を、毛沢東の「整風文献」を素材に論じています。私が左翼への結集を決めた文章でもあり、内容も高校生が理解できる平易なもので、特に難しい点はないと思います。
中核派の本多論文の意義は、アッテンボローさんのブログのコメント欄に、ぴよ丸号さんが書いておられる通り、毛沢東と「文化大革命」に、左翼の原則的な立場から理論的な批判を加えたという点です。これは誰かがやらなくてはいけなかったことです。
今回引用した小論の内容は、そう言った本多さんらの批判は全く正しいと認めつつ、じゃあ理論的に批判できればそれで終わりなのか、それで「日本の左翼は毛沢東を越えた存在だ」と言えるのだろうか?という所からはじまっています。
もちろん中国や北朝鮮の人民抑圧の現実にまだまだ無知で認識不足であったという批判は成り立つでしょうが、それでもここで語られている問題意識を共有することは、思想信条の違いをも超えて今日でも充分な意義があると思います。
60年代末からの全共闘運動、70年安保へとつらなる「異議申し立ての時代」において、 短期間ですが文化大革命の影響から若者たちのあいだで、毛沢東主義(中共派)が人気を博し、日の出の勢いで勢力を拡大したことがありました。なのでどこの左翼党派もこれに対抗して、一通りの毛沢東批判を出していたはずです。
その頃、中国のいわゆる文化大革命では、学生(紅衛兵)たちが街頭に繰り出してアメリカもソ連も批判し、実権をもっていた大人や政治家たちを文字通りに吊るし上げ、追放してしまいました。彼らは壁新聞を張り出して(今ならネットでしょうか)政府要人を公然と批判し、お互いの意見を闘わせてオープンに討論しているように見えました。全共闘運動の熱気がおさまらない日本の若者たちからは、それが「なにかしら良さそうなもの」に見えたのでしょうね。
本論の執筆は1974年ですが、 その時代には70年安保や全共闘運動も終焉し、 左翼運動が瓦解していく混迷の時代でした。実はこの頃すでに主要な毛沢東主義グループは権力弾圧に耐え切れずに消滅状態。逆に分裂したブント系の中には、毛沢東主義に流れて延命した党派もありますが、どちらにしろ小グループにすぎませんでした。
日本の左翼はおしなべて「毛沢東なんて左翼じゃない」「簡単に論破できる」と軽蔑していましたので、中共派に流れる若者たちには「なんでそんな簡単なことがわからないのか!」という以上の何ものでもなく、本多さんの論文はその雰囲気をよく伝えています。
今の方にはわかりにくいだろうと思って、時代背景の解説がすっかり長くなってしまいましたが、もはや競争相手ですらなくなったという余裕もありつつ、そんな毛沢東や文革の、かつて若者をひきつけた主張をも、自分たち左翼運動の総括、反省に役立てようとする一つの模索として、本論もあるということだと思います。
それまでの左翼の毛沢東批判は、本多さんのように、マルクス主義の立場からの理論的な批判にとどまっていました。それはそれで必要なことですが、ただ、それだけで自分が毛沢東よりすぐれた存在であるかのように観念するなら「学生に特有の頭でっかちな批判」でしかありません。本論では日本の毛沢東主義者から学ぶものは何もないが、毛沢東本人(が「整風文献」で論じている旧来の左翼への批判)には耳を傾ける点があるとして、自己批判的に検討を加えています。
これ以上は長くなりますので、あとは本論を読んでいただきたいと思います。毛沢東への評価など、歴史的に再考すべき点は多々あると思いますが、現在的にこの小論を評価するにあたっては、そういったことに拘泥せず、以上の歴史的な背景と制約を念頭においた上で、論文のガイスト的な内容、つまり言わんとしている点だけを現在的に理解して評価を下していけばいいんじゃないかと思っています。
※再録にあたって、当時の他党派への批判など、一般の読者にはまったく意味が不明で必要がないと思われる部分はできるだけ割愛しました。割愛した部分は「中略」として明示してあります。文中の太字なども原文にはありません。
初 掲:1974年『戦旗』343号
転載元:1990年『ブント主義の再生』第三版・戦旗社
所 収:2003年『反体制的考察』実践社
「われわれは革命の原動力であるが、同時に革命の対象でもある」とは、「人民一人ひとりの魂にふれる革命」をめざすとして、毛沢東によって領導された文化大革命中にさかんに叫ばれたスローガンの一つです。
この革命が本質的には劉少奇と毛沢東の「社会主義」中国の方向をめぐる路線闘争であり、中国共産党の指導をめぐる分派闘争の性格を有したものであることは否定できませんが、同時にわれわれは、それが毛沢東の「見果てぬ夢」(スタンレー・カーノフ『毛沢東と中国』)の実現をめざすものとして、国際共産主義運動史上にも比類のない、マルクス主義の深遠と根源を問いただす内容を有した、巨大な革命的実験でもあることを否定することはできません。
「革命家の生涯は徹頭徹尾革命的でなければならない」と『青春の墓標』中のノートで奥浩平は叫んでいますが、まさに数十年かけて自己が創り出してきた党組織が利害者集団化し、人民の上にそびえたつただの官僚機構にしかなってないと判断した時、自らの手でそれを根底から覆し、人民への還権をなそうと試みた、そんな毛沢東の姿には、われわれは「徹頭徹尾の革命性」の一端を感ぜずにはいられません。
この毛沢東の挑戦のもつ革命性を評価しきれず、それを理論主義的に論じ、「過渡期と社会主義の混同」というようなことをもって批判しても、問題の本質にはなんら迫りえないことを、われわれは過去の自分たちの姿への反省(例えば『理論戦線』11号、東一彦論文)として、切開していく必要があります。理論的なあやまりはそれとして踏まえつつ、党風や作風の問題として、党の人民に対する態度の問題として、われわれには先進的で革命的なアジアの人民に学ばねばならないことが、余りにもたくさんあるということです。
一九六九年七・六赤軍分派以来の様々な経験、なかんずく近くは足立分派グループとの闘いという経験のなかで、われわれは多くのことを学んできました。すべてが学生共産主義者でしかなかったわれわれにとり、全く新しい体験であり、その中でのたくさんの失敗や誤ちの経験をこそ、われわれは革命的に対象化していくのでなければならなかったのです。
(中略)早大での川口君虐殺と田中・佐竹の転向問題、そしてそこにおける労働者人民とカクマルの関係、いま様々な外在的・内在的契機を経て、われわれは組織の問題を、それを支える主体との関連で対象化し、同時にどのような政治=党風がいかなる主体をつくるのかを考察すべき地点に至っているように思えます。否、今のわれわれにはそれが一番必要であることと言えます。
共産主義的主体とは何か?革命的マルクス主義者への自己止揚のためには、いかなる批判の刃を自己自身にさしむけなければならないのか?
一九七〇年初春よりの第三次ブント建設への着手以来、組織の形式をととのえはしたが、それを支える主体を組織的に創りだしえないままに失敗を余儀なくされた、そんな反省をもふまえて、ここにその概括を描き出していこうとすることは、われわれの階級的責務です。
高度な成長をとげつつある帝国主義足下で活動してきたわれわれは、これまで先進的で革命的なアジア人民の革命闘争に対し、支持や連帯をよせてはきましたが、われわれ自身の理論主義の病いゆえに、その闘いから学び教訓をかちとるという作業にかんしては、十分に遂行してくることができませんでした。特に朝鮮労働党や中国共産党、そしてベトナム労働党の経験や歴史については、われわれの帝国主義的おごりや主観主義ゆえに、それを研究し対象化し、学ぶことなくすごしてきました。
それらは主要にはマルクスやレーニンの文献上の語義にのみ忠実で、アジア人民の生活や実存に無自覚であり、イデオロギー上の(たとえそれ自体は正しくとも)批判をもって、実践上の批判に置き換えて満足してしまったという、そんなわれわれの過去に規定されています。
マルクス主義の基本的諸原則を民族的風土や歴史、社会生活に正しく適用させていく視点、どのような条件と環境のもとで理論作業そのものがなされ、それはまたどのような役割りを担ったのかを分析し、理論を適用していく視点、そういったものの欠落にそれはもとづきます。
今、アジア人民の闘いに学ぶということをも含めて、これらの命題についての毛沢東の提起を見ていくことは極めて有意義です。いわゆる『整風文献』とよばれるもの、「われわれの学習を改革せよ」(一九四一年五月)や、「党の活動態度をなおせ」(一九四二年八月)などで毛沢東が述べている命題は、一九二九年頃の「党内のあやまった考え方の是正について」での指摘を発展させ、継承するものとして、主観主義・セクト主義・党八股のおよぼす害毒を最も主要に批判しているということができます。
主観主義、セクト主義、党八股といった場合、セクト主義とは本位主義とか山上主義とも語られ、自己の組織の内部や特定の地域内の団結には気をくばっても大局的な見地にたてず、党全体の利益、人民全体の利益のことを考えられない、極めて狭い地方・地域的観点のあやまりをいうわけです。
党八股とは主に文章の形式における主観主義のもたらすあやまりであり、要するに人民の実際の生活や活動に関係のない、ないしは解らないことを、長たらしく書いたり、難解な言葉や文字をやたらと使ったり、あるいは文章の体裁ばかりに気をとられて中身のからっぽな、そんな文章を書くことのあやまりをいいます。つまり八股文のあやまりということです。
私達が今ここで問題にしようとすることは、それに対し、主観主義の害毒として毛沢東が批判しているあやまりです。主観主義のあやまりは、毛沢東の言葉でいえば教条主義と経験主義のもたらす弊害ということであり、これはわれわれの言い方でいえば、理論主義と素朴実践主義のあやまりともいえます。
理論主義のあやまりとしてこれまでわれわれが対象化してきたものは、要するに理論主義的な主体形成主義の害毒ということであり、それは様々な共産主義理論、経済学、哲学などの学習を自己目的化することにより、そのような理論学習のつみ重ねが共産主義的主体をつくりだすと考え、結局思想性が一つの階級的実践ど不可分であり、組織性と結合された思想性以外ではなく、従って理論は実践と結合され、そのなかでつちかわれていくことが忘却され、観念化された理論それ自体の発展や、また階級的実践からの自立を目的化していく、そんないわば宇野弘蔵的世界の否定を根拠としていたわけです。
しかし毛沢東が「党の活動態度をなおせ」などでいい、われわれが学ばんとしている教条主義といわれる理論主義の批判は、そういったものとは少しちがいます。
それは「われわれが必要とする理論家とはいったいどのような人なのか、かれらはマルクス=レーニン主義の立場・見地・方法にもとづいて、歴史や革命の中で生じたいろいろな実践問題を正しく解釈することができ、中国の経済・政治・軍事・文化のさまざまな問題に科学的な解釈をくだすことができ、理論的な説明をあたえることができる人々である」
というような文章に見てとることができる、マルクス主義の原則が歴史の現実の中に正しく適用されていく必要性と、そのような現実的適用の欠落した理論一般の教条主義のあやまりをいうわけです。
言いかえればこれは「共産主義の基本的諸原則(ソビエト権力とプロレタリア独裁)を個々の点で正しく変化させ、それらを民族的な、民族=国家的な差異に正しく適応させ、適用する」(レーニン『左翼小児病』)ということであり、「理論が現実に接近する」(マルクス)ということです。
様々な歴史的現実の中に生起している事象をマルクス主義的に対象化し、現実を出発点としつつそれを切開し、分析することによって、解説し説明を加える、しかもそれを人民にもっとも容易でわかりやすい仕方でおこなう、これが理論家であり、このようなことができずに現実をわかりやすく説明できない教条をふりまわすだけ、それが教条主義のあやまりだというのです。
このような主観主義、われわれの過去はこのような限界に大きく規定されたものでした。われわれの理論作業もまた、指摘されているとおりのあやまりにつきまとわれた観念性の強いものでしかなかったと言えます。階級的実践において真に人民と結合し、かつ人民に奉仕しえる党風を確立しぬくためには、だから逆にいえば、日常活動の遂行においてわれわれは、常にこのような問題に心をとめる必要があります。
現実の大衆が生活しており、存在している場、そこにどんな問題があり矛盾が潜んでいるのかを、最も平易な言葉で、わかりやすく、しかもマルクス主義的に説明すること、それが要求されるのです。そのような作業が実践的に遂行されず、計画的で系統的な暴露が組織できない時、そんな場合にはますますわれわれの組織活動は観念化し、労働者人民からの孤立の意識が戦役主義や、つたない小ブル左翼主義の表現をとることになるのです。
過去の恒常的武装闘争(論)の三つの内容、帝国主義軍隊解体、革命の正規軍創出、ソヴイエト型組織建設の提起は、それ自体正しく必要な命題でも、このような観点との関連で対象化されていかない限りあやまりだったといえます。つまり革命的左翼の目的意識性を、現実に生起する大衆運動に直接に接木しても、それは決して大衆的課題にはなりえないということです。
理論は現実に適用されねばならず、それはとりもなおさず、現実の歴史を学び、社会的背景を掘り下げ、資料をととのえ、分析し、切開する以外ではないのです。おかれている与件、所与の条件から常に出発しつつ、職場の状態、生産点の現実という誰にもわかり感ずる矛盾を階級的に分析し説明していくこと、理論が観念化され教条化されず、具体的なものの豊富化に役立つこと、これの欠落が理論主義であり主観主義であることを、われわれは学ぶのでなければなりません。
そして毛沢東は、現実から出発しつつ、それを分析し、下向し、その運動原理をつかみだし、法則的に認識していくことがないまま、つまり経験を理論的に対象化することがないまま、自分の身のまわりの小さな体験だけにたよっていくこと、これも経験主義のあやまりとして、主観主義以外ではないものとして退けます。
主観主義とは一方における理論をふりまわすだけの教条主義においても、また逆に自分の小さな体験だけにたよる経験主義においてもいえることだというのです。前者がマルクス主義の文献解釈的、ないしは無媒介的現実への接木という意味において具体性を有せず、不断に観念的なものにながれ、ために自己の主観を対象に押しつけるだけのことにしかならないのに対し、後者は狭い個人的経験や地域的特殊性だけにたより、それだけを実践の基準にすえることにより、より広く普遍的な、科学的な深化された内容をつかみえない意味において主観的である、どちらもが正しくない作風であるということです。
だからここからわれわれの日常的実践において、組織活動の遂行における主観主義に犯されていないかどうか、対象を獲得できないことを、主体の問題として把え返すことなく、対象のせいに還元していないかどうかを切開していくことができます。
具体的には各生産点のなかや、組合をつうじての諸活動において、普遍的ではあるが抽象的で一般的でしかないマルクス主義の公式や教条を、自己満足的にふり回していないかどうか、ないしは逆に現実に発生している様々な矛盾を正しくマルクス主義的に対象化し、階級的なわかりやすい説明を加えることができずに、その現実におぼれ、サロン的な関係に流され、階級的なメスをふるえていないのではないかといったことを、常にふり返り、主体的に反省してみることです。
このことは実践的な例証としては、
a) 賃金格差、長時問勤務、生休や産休、組合活動への規制、労働条件のひどさ、社会保障の有無、住宅問題、通勤地獄といった、労働者なら誰もが必ずぶつからざるをえない現実の矛盾や問題点をとりあげ、そこから出発しつつ、それに現在の日本帝国主義の現状や動向からの説明を加え、またマルクス主義的対象化における階級的矛盾として説明し、日和らずに労働者階級に共産主義的見解をわかりやすく提起するということであり、また
b) 臨時工や社外工、下請などへの不当な差別や抑圧、部落民や在日外国人、沖縄人への規制・差別、分断、「障害者」排除といった策動に対し、日帝の侵略反革命と腐朽性から説明を加え、そのような策動の根拠を解明し、そこからブルジョア階級への反撃を組織していくということとして提起することができます。
いずれにしてもそこでは世界対象化においては、実践的な階級的主体よりは狭い視座しか持ちえない状態にある労働者人民の、各々のおかれている関係性をとらえ、自分の納得している視座だけから語るのではない、具体性のある提起が必要であるということです。
このような自己の主観主義の問題に留意すること、これがわれわれの作風や党風における二つの主観主義を排する一つの方法であり、人民に奉仕しえる党風と、それを支えぬける共産主義的主体を確立するにあたっての一つの条件です。
さて党の作風における主観主義を排していくということは、それを支える主体が共産主義的に自己をたかめ、組織的な主体として強化されていくということと同義なわけですが、そこにおける主体と客体の弁証法的関係についても、われわれは抽象的なそれとしてではなく、具体的なレベルの問題としてとらえかえしておくのでなければなりません。
つまりブント的客観主義、理論主義、何でも人のせいにする没主体的な雇われ人思想を、徹底的に根絶していくためにも、われわれは対象と主体の「関係」の弁証法を、ここでマルクス主義的にとらえなおしておく必要があります。
まずよくいわれる対象変革と自已変革ということの意味ですが、これは本来的には人間が対象としての外的自然にかかわり、生活資料を生産していく労働行為の関係性から導出される概念です。
自然と人間の関係は・歴史の本源的な行為としての直接的生活の生産において、人間が自然に対し労働力を供出し・それを変革し、自然から生活資料を得るという質料交換の繰り返しのなかにみてとることができます。(⇒「賃労働と資本」ノート)
この場合主体としての人間は自己をとりまいている対象としての外的自然にかかわり、それをつくりかえることによって主体の生命活動を維持するわけですが、しかしながら人間=主体は同時に対象としての外的自然の一契機としての存在でもあるわけです。自然の一契機としての人間が、自然を変革するということは、同時に自己自身を変革しているということに他ならず、このような関係性を対象=自己変革としてみるのです。
例えばマルクスはこのような命題に関し、初期の『経哲草稿』においては、
「自然は人間の非有機的身体、つまりそれ自身として人間の肉体でないかぎりでの自然である。人間が自然によって生活するというのは、ひっきょう自然が人間の身体であり、人間は死減しないためには、あくまでもかかる身体との不断の過程にあるのでなければならない、ということである。人間の肉体的および精神的生活が自然と関連するということは、とりもなおさず、自然が自然自身と関連するということに他ならない。なぜなら人間は自然の一部だからである」
といっています。
それはさておき、このようなものとしてとらえられる対象と自己の同一性や矛眉的自己同一の概念は、更に根源的にはへーゲルの『精神現象学』における意識の運動、唯一の弁証法的理性を持った存在であり有的存在としての意識が、次々と対象を措定し、自己疎外におち入り、対象について思惟=労働し、再び自己にかえってくることを繰り返しながら、宗教・法・国家と世界そのものを創造し、遂には絶対知にまで至っていくという運動を根拠にしているわけです。
またこれを裏返しにして「へーゲル的概念のレーニン的転倒」と称し、意識ならぬ弁証法的理性を有した「物質」なるあってなきものが、次々と自然や人間をつくり、階級闘争をも生み出し、自己止揚をとげて共産主義社会に至っていくというのが、「裏返しのへーゲル主義者」たる黒田寛一の『へーゲルとマルクス』であり、黒田哲学とよばれるものの内実です。
そういったことをふまえたうえでわれわれは、主体が対象を獲得していくためには、主体そのものが対象のおかれている関係性を知り、そのような関係性の中での意識=状態をつかみ、その立場で物を考え、思考し、そうしてそれを自己の立場=関係性からとらえなおすことによって批判を加え、ということは実は経験を交流するということですが、過程的なものでしかない自己自身の変革ということをもバネとしつつ、対象を獲得するようつとめることを学ばねばなりません。
対象=客体に対する批判が正当なものでありえるためには、対象自身のおかれている状況や関係性を批判する側の主体がつかまねばならず、一度は自已自身を投影しなければそれはわかりません。
そして対象の関係をつかみとり、その立場にたちつつ、主体の提起すべき内容を提出していく時には、逆に主体自身の過程性がはっきりとし、批判は経験の交流となって具体性をおびると同時に、対象の変革と主体自身の自己変革をも必然化させずにはいないのです。弁証法的な相互止揚の構造とは、やはりそのようなものでしかありえません。
しかもその場合、主体が対象のおかれている状況や関係をつかみきるためには、対象に対する単なる感性的把握では不十分であり、より下向的分析を加えた理性的把握、対象認識における概念的把握が必要となってきます。そのためには主体自身は対象に対し、どうしても理性的な立場にたたざるをえないのであり、そのような態度と方法こそマルクス主義的なものなのです。
このことをもっと具体的にみるならば、次のような例をあげることができます。
例えば、長い間組合活動に従事し、当局との交渉にあけくれ、戦闘的ではあってもその枠を破ることなくすごしてきた職場の活動家がいるとします。このような部分をオルグしたり、意志統一をかちとっていこうとした場合、われわれは多くいら立ち、われわれの立場だけから問題を提起し、なかなか納得されないことが常なので、結局「組合主義者」などときめつけて終始しがちです。
しかしながら、われわれが不十分ではあっても党的な組織活動に従事し、そこにおける関係性や視点から問題をたてた時、それが正しいかどうかの判断は、同じような経験を持った部分によってしかなせるものではありません。すなわち組合活動にしか従事したことのない部分には、正しいかどうかを判断することはできないし、また逆に自分のおかれている関係、組合内的な関係や当局との関係においてしか、判断の基準は見出しようがないのです。
だからその場合には、教条化された党の理論一般よりも、実践的な組合活動上の方針や指針を討論することが必要だし、そのなかから活動そのものの遂行における党的な部分と組合的な部分の差異を明確化させていくことが問われます。また党のほうにひきつけるのではなく一たん組合活動上の経験として必ずありうる内容にもどり、その解決の仕方や方法をめぐって討論を重ねることができます。そうしてみると、逆にわれわれなどよりははるかに深い組合活動の経験により、われわれは組合活動の多くについて彼から学ぶであろうし、われわれ自身の提起の観念性やあやまりに気づかされるかもしれません。
その場合には主体=自己自身が変わる必要があるのであり、そうすることによってのみ組合活動から党活動への対象の発展はかちとれることになります。ということはとりもなおさず常に対象が過程的であると同時に、主体もまた過程的であることを自覚しなければならないということです。そうして真に対象自身のおかれている状況をつかみきり、その立場から問題を提出していくならば、批判は経験の交流として具体性をもち、失敗やあやまちは経験の蓄積として、正しく総括されさえするならば、それは次の教訓にもなるのです。
組合などで、そこにいる活動家の意識と状態にあわせて討論をすすめるということは、決してわれわれが組合活動に埋没したり、組合主義になつてしまうことを意味しません。対象にとり外的でしかないものをふりまわしても、決してそれで対象が変革されたり獲得されたりするわけではないということです。
だから相互批判というようなものは、根底的には批判しあうものの体験や経験の交流でありそれまでの歴史性や失敗の教訓による経験の豊富化の作業と同じことであることを、われわれは学ばなければならないのです。
そしてまた同時に、客体としての対象を獲得したり、党的に発展させるためには、主体のがわが対象の立場にたち、そこでの見方、考え方で思考し、それに共産主義的な批判を加えることによって、自己自身の変革をも契機とした相互作業としての、対象の変革をなしとげていくのでなければならないのです。
毛沢東はこのような問題に対し、「病いをなおし人を救う」ことが、共産主義的な批判の作業であると言っています(対象を批判することと、対象を主体の側に獲得することは同じことであり区別できません)。
つまり第一には「以前のことをこらしめて以後のことをいましめる」のであり、第二には「病いをなおして人を救う」のが、共産主義的な批判の目的であるというのです。以前のあやまちについては科学的な態度で、過去のまちがった事柄をあばきだし、分析し批判することによって、今後の活動をもっと慎重にさせる、よりよくさせる、しかもそれは医師が病気をなおすのと同じで、もうだめだと診断することではなく、彼の病気をなおしてやり、りっばな同志にかえてやるようおこなうのだということが、そこでの主旨です(『党の活動態度をなおせ』)。
思想上の欠陥や政治上の欠陥には決して乱暴な態度をとるべきではないという、革命的批判の原則にそった党内闘争を貫徹できなかったため、またまた不毛な分派を余儀なくされた足立分派問題をも反省して、われわれはこのような党の団結をつくりだすための諸問題に、今後は特に留意していくのでなければなりません。
次にそこで、主体が対象を正しく批判したり、また獲得していくためには、対象の存在構造を怜悧に分析しなければならず、また科学的な立場にたって概念的に対象を認識しなければならないという問題についてふれるならば、次のようなことがいえます。
すなわちわれわれが客体について見ていく時、そこにあるがままのものを、あるがままの状態で把握する、例えば一人の組合活動家がいれば彼の外見や格好で外的に判断するという状態は、対象認識における感性的把握ということにすぎません。常にそのような状態から出発しつつ、当然次には、それではその組合活動家がどんな労資関係のもとにおり、またどんな仕事をしており、どのような関係性の下におかれているのかといったことを、われわれは分析する、ないしは反省しなければならなくなります。
社会科学の問題としていえば、諸階級や人口といった表象から出発し、市民社会の解剖を本源的蓄積過程との関係においてとらえ、商品や価値や私有財産といったものをつかみとっていく過程です。これは認識における悟性的段階であり、分析をつづけることによって原基的なフォルムがつかみだされる、構造的な把握の時期です。
しかしながら対象を主体が完全につかみきるためには、対象が有している客観的な構造をつかみとるだけでは不十分です。更にそのものが有している運動原理、法則性といったものをつかみとることが必要です。ブルジョア社会における労働者階級の矛盾や苦悩は、つきつめていけば賃労働と資本の関係に還元されていくはずですし、またそこでの変動には一つの法則性がつらぬかれていることを知ることができます。
例えば資本の有機的構成の高度化により、不断に過剰人口が形成され、産業予備軍が生み出されていくといった人口法則に関する問題、すべての商品はその商品の生産に必要な労働時間を基準にして交換されるという価値法則、一つの企業の合理化や新しい生産手段の採用による利潤の拡大も、結局はすべての企業がその生産手段を採用することにより均等化されることにしかならないといった利潤率均等化法則、これらの経済法則とよばれるものが市民社会の根幹をつらぬく法則であることを知るということです。
このような立場、対象認識における概念的把握=理性的把握さえなすならば、主体は逆に対象の様相の変化や変動に、動揺したり困惑したりする必要がなくなります。日食や月食集開の人達にとっては杏然の驚異であり、神秘的な神の奇跡でも、太陽の自転と地球や月の公転の関連を知った現代人には決して驚異ではありえません。
そのように、対象をそのもののもつ運動原理や法則との関係においてつかみとることができる立場が、理性的な立場であり、マルクス主義的主体が死を賭し、何物も恐れず闘うことができるのは、対象に対するそのような把握をなすからです。そうして客体を知りぬくための分析と切開、それを対象自身の立場にたってなしきること、しかも観念的にではなく実践的にそれをおこなうことが必要なのです。
つまり対象認識という問題は実践的なことであり、観念的な命題ではありません。実際に見たことのないものに対する百万語の説明も、一見にしかないことは、全くことわざのとおりなのですから。
農民のことを本当に知り、農民の苦悩を己がものとなし、それを真にうけとめるためには、理論的に知るのではなく実際に知ることが必要です。
真の対象認識は従って実践的なものであり、また実践においてのみ可能です。極端にいえば漁民のことを知るためには、そこにいき漁民自身になりきらなければならないし、農民の気持ちや心情や生活を知るためには、実際そこにいって苦楽を共にして生活してみなければわかりません。
理論は現実の前では灰色であり、いかなる具体性も現実の前には比べようがありません。
結局、われわれが真に組合活動家について知るためには、実際そこに自分がいってみなければならないし、また漁業にしろ農業にしろ、実際にそこにいって自己の経験として生活そのものをつかみとってこなければならないのです。
しかもそれを単に感性的な経験として表面的におこなうだけではなく、農業問題や漁業問題の本質を理論的に分析し、実践を方向づけ、あとづけていくこと、そのような繰り返しが必要となってくるのです。これをやりきらなければ、われわれは決して労働者入民の苦闘や苦渋を、己がものとすることはできず、客観主義にはしり、また主観主義におちこんでしまうのです。
共産主義的な主体の強さないしは普遍性、それはだから常に実践的なもの以外ではなく、単なるイデオロギー的な対象の認識から生み出されることはありません。実践を通じ鍛えられ、イデオロギー的に深化される繰り返し、言い換えればそれを通じ強化されていく価値判断の強さ、それこそが共産主義的主体が獲得すべきものです。
そして主体が対象に対しかかわりを持ち、それを真に止揚された地平で獲得するためには、あらゆる苦悩や苦痛を自己自身のものとして感受しえるまでに対象の中に入り込んでいくこと、対象自身になりきることが必要であり、そのような過程を経て対象の苦悩を解決した時、はじめて真に対象=客体の世界をわがものとなしえる共産主義的主体がつくりだされるのだということです。全人民に奉仕しえる党風、それを支えぬける主体とは、そのようなものでしかありえません。
真の共産主義的主体性に支えられた党風とはまた、党の団結を第一におき、人民の団結を第一におく党風であることは言うまでもありませんが、そのためには対象の認識や獲得におけるプロレタリア性と同時に、組織的総括などにおけるプロレタリア性をも克ちとっていなければなりません。共産主義的主体のプロレタリア性は、組織的対処におけるプロレタリア性と等しく同義といえます。
そこでわれわれは次に、組織的総括の方法などにおける小ブルジョア性とプロレタリア性の差異といったことを確認しておきたいと思います。
つまりこれまでわれわれは様々な機会に、総括における結果解釈主義や路線手直し主義といったことを問題としてきました。
結果解釈主義とは、例えば六〇年安保闘争は平和と民主主義を守る闘いであったというようなそれをいうのであり、一つの闘争なり組織なりのムーブメントにおいて、最終的に「結果として」「そうなった」ということを起点として、その結果に対し意味付与し解釈していくといった作風です。
そこでは何故そうなったのか、また何がどのような過程をとることにより、そうなっていったのかといったことが分析されないため、現実の対象化がただの主体の観念の中における意味づけの変更としてしか実現されず、ためにあやまりや失敗を犯してもその根拠から正しく切開されることはありません。
具体的には日米軍事同盟としての安保条約粉砕を闘った第一次ブントが、その闘いの推進のなかで分裂していった時、その根拠に対し切開を加えることなく、「六〇年安保は平和と民主主義の闘いだった、だからこれからは反帝だ」といったところで、何も主体にとってのあやまりの是正には連なっていきません。それは観念化された六〇年安保なるものに勝手な解釈を加えただけであり、実際に分裂していった安保ブントの限界は何も解明されずに残るだけです。
このようなあやまりがもたらされるのは、主体が対象的な客体にかかわっていく(六〇年安保ブントが六〇年安保闘争にかかわっていった)構造が分析されておらず、主体が客体を変革しえなかった問題を客体のせいに押しやっているからです。どのようにかかわったのか、ないしはどのような構造の下に闘いに加わったのかが解明される必要があるのです。
その場合には過去の経験との交流が必要ですし、またやれもしない大きなことをアドバルーン的に打ち上げるのではない、小さなことでもやりきれることをきちっと物質化しきる体質、計画したことを獲得しきるリゴリズムといったことが組織体質の問題として課題になってきます。またひとえに総括は主体から出発して主体の強化に還元されていくものとなるはずです。
つまり結果が何だったのかとか、良かったか悪かったかを総括するのではなく、自分達がめざしたことがたとえ小さなことでも、きちっとやりきれたかどうかを問題とし、やりきれなかったならばそれは何故かを切開していくことです。そうすれば一つ一つの闘いから、われわれは様々な経験の蓄積をなすことができ、それは次の前進の糧になるのです。
路線手直し主義というのは、結果を解釈するだけのような党風の場合、しばしば生み出される作風ですが、こうなったのは路線のせいだからこれを別のと変えよう式に、主体を転換しようとするのではなく、客体化された党の路線や理論を批判することにより、結局は主体を合理化していくという、やはりあやまったものです。
例えば1971年の秋期闘争時、10・21より11・19そして11・20の過程で、われわれは様々な技術的失敗やミスを繰り返しました。このことをめぐる総括論争の時、「これは恒武闘争路線が論理主義的で、具体性がないからこうなったのだ」というようなことが、それを担った運動指導部から提出されました。だから恒武闘争路線の論理主義を総括し、路線を変えろというのがその主旨です。
しかしミスや失敗はあくまでもミスや失敗であり、それを担った主体の問題であって、それ以外ではありません。恒武闘争路線を客体化して擬人化し、それに反省の根拠を転嫁することによっては、あやまちを構造化させている主体はそのまま残るだけであり、何も前進していくことにはならないのです。この結果が四人委員会問題であり、今の足立分派に連なっているわけですが、このような対処は結局党を混乱させ、同盟を分裂させただけで、何も革命的なところがありません。
もちろんこのようなわかりきった問題さえも、正しく党的に解決できず、無用の混乱を拡大させたのは、病をなおし人を救う形で批判を展開できず、もうだめだと追い込んでしまったわれわれの批判の小ブルジョア性にもとづいています。それゆえ現在的にはわれわれは、このようなわれわれの政治の小ブルジョア性を真撃に総括していく以外ありません。
しかしいずれにしても言えることは、以上のような二つの総括方法は小ブルジョア的対象化であって、決して主体を強めず、プロレタリア的なものではないということです。正しくプロレタリア的に問題を対象化するとは、自分達のあやまちや不十分性を暴き出すことであり、決して自分の都合のいいように歴史を解釈しなおすことではありません。一つの行為、一つの理論、一つの実践のいずれに対しても、それが良いことであろうが悪いことであろうが、主体的に継承し、切開を加えていくということです。
政治組織総括とは主体の不十分性をあばきだし克服していくということであり、あやまちをも継承するということぬきには、何ら主体的なものとはなりえません。第三次ブント(戦旗派)の四年問にわたる歴史は、それがどのようなものであれ、それを担ってきたすべての活動家、同盟員の歴史であり、それ以外ではありません。だからそれを、「誰々のせい」に還元していくようなことはやってはならないし、また正しくはないのです。
またそれと同時に、実践的総括を理論的基礎に還元していくといった批判が、特にカクマルコンプレックスが強い「自称理論家」達から、提起されます。
例えば統一戦線問題に関し、MUP共闘と対立関係に入ったのは、○○の××論文に根拠をおいている、等というものです。具体的には一九六七年の十・八羽田闘争頃の社学同の機関誌だった『理論戦線』七号の××論文を批判することによって、われわれのMUP問題に対する批判とする、などという類です。
しかしながら特に政治組織の論文や理論は、その時々の実践の指針なり総括として提起されるわけで、その時の歴史的状況や背景ぬきには正しくとらえかえすことはできません。フルシチョフのロシア共産党二十回大会以前の各国共産党員の文章や、ハンガリー革命以前の誰それの文章に、スターリンを讃える一節があったから、あいつはスターリニストだということには決してならないのです。だが主体が未熱であり、必ずしもプロレタリア的であるとはいえない場合など、そのような押しつけや、強引な根拠づけがえてしておこりがちです。
われわれもまた、決してそのような傾向から現在的に完全に自由であるわけでもありません。一九六七年なら、その時の社学同の方向を提起されるために書かれた文章は、そのような歴史性に規定されるわけであり、批判や適用は、そのような範囲のなかでのみなされるべきであり、そこにおいてのみ有効です。(中略)このような傾向もわれわれは克服していかなければなりません。
それはさておき、だから問題を正しくプロレタリア的に切開するということは、党の団結を強化し、人民の団結を強化する方向で、主体の歴史性を継承し、それに責任をおっていくということであり、歴史を現在の都合からとらえかえすのではなく、歴史のその時々における主体の対処と実践に貢任をおっていくということです。あやまちに対しても成功に対しても内在的に対象化した時、はじめて正しい歴史的蓄積は可能であり、次の発展のバネが形成されます。そういった総括の仕方こそプロレタリア的なのです。
われわれはこのような正しいプロレタリア的な対処の典型を、レーニンのプレハーノフやカウツキーに対する批判のなかに見てとることができます。例えば『プロレタリア革命と背教者カウツキー』のなかで、レーニンはカウツキーの革命的祖国敗北主義への敵対や、何よりもロシア革命は農民革命でありプロレタリア革命ではないという批判を猛烈に攻撃し、徹底的に論破していますが、次のような言い方をしています。
「われわれは、彼がマルクス主義的歴史家となることができたこと、最近の背教にもかかわらず彼のこういう労作が、プロレタリアートの手堅い財産としてのこるだろうということを知つている」
「まだ背教者でなかった一九〇九年にカウツキーは、『いまや時期尚早の革命をおそれることはできない、敗北をおそれて革命を拒否するものは、うらぎり者である』と書いている」
レーニンはカウツキーがドイツの戦時公債の発行に支持を与え、祖国擁護の立場に立ったことを批判していますが、決してカウツキーの全政治活動を否定しているわけではありません。政策や路線をめぐる対立としてカウツキーへの批判をおこない、しかもカウツキーがなしたマルクス主義理論戦線への貢献に対しては、これを公然と評価しているのです。
また『知られざるレーニン』というメンシェヴィキのヴァレンチノフの著書によれば、レーニンと政治的な敵対関係にあったプレハーノフの哲学を、ヴァレンチノフが批判すると、「ロシアマルクス主義の父としてのプレハーノフの業績と、政治的実践におけるあやまりを一緒くたに論じるのは不当である」と言い、むしろヴァレンチノフを批判したということが書かれています。チェルヌィシェフスキーの著作に対しても、同じような態度をとっています。
われわれはこのようなレーニンの対処のなかにこそ、限りないプロレタリア性を感ぜずにはいられません。レー.ニンは自分がプレハーノフやカウツキーにさえも学んだことを隠そうとしないし、またその革命運動での実践があやまった方向にむかったとしても、彼らがそれ以前になした業績はそのことによってなくなりはしないというのです。こういう問題のとらえ方、先人への対処は全く正しいものと言えないでしょうか。
(中略)最近はどうだかわかりませんが、このような例として、中核派が黒田寛一の理論作業を正しいものといい、自分達の理論的基礎として認めているのを、かつてわれわれは見たことがあります。このような中核派はやはり立派です。
現在の黒田寛一の人民へのカクマル議長としての敵対が、いかに反革命的なものであり、許しがたいものであれ、かつて黒田寛一の書物を中核派が読み、それに学んだことは事実だし、またそれを認めたところで、決してカクマルを認めるというこどにはならないのです。レーニンがプレハーノフの理論作業に過去において学び、カウツキーの実践と同じ道をたどったこともあったことを認めても、決して現在のそれを容認していることにはならないのとそれは同じです。むしろ自己の過去の歴史性に対し誠実であるという点で、そのような対処こそプロレタリア的であり、革命的なのです。
(中略)ともあれこのようないくつかの観点から、われわれはレーニン的な組織体質や継承性、総括の方法などにおけるプロレタリア的主体性というむのを学ぶことができるし、また中国共産党などが七億の人民を結集させる党風を作り出している根拠を知ることができます。一九七〇年代階級闘争が、革命の現実性にうらづけられていることを確認するほど、正しいプロレタリア的党風へと組織を止揚し、主体を強化していくことは早急の任務です。
ところで今まで見てきたような事柄は、われわれが主体形成主義におち込んだり、学習会主義に染まったりすることを決して意昧しません。
むしろわれわれは前衛ショウビニズムを排し、現在の新左翼全体がおち込んでいる混迷を打破していくために、これまでの新左翼運動を脱皮した、真に人民に奉仕しえる党風へわれわれが自己止揚をとげていくことを問題としているのであり、純プロ主義や左翼反対派運動のあやまりから、われわれが本当に解放されていくことを課題としています。
その意味ではわれわれの過去に大胆な切開を加え、『革命的暴カとは何か』をいくら理論的に対象化しても、川口君虐殺にはしらざるをえないような、またはてしないテロ戦にはしらざるをえないような、カクマル運動に象徴される革共同的前衛党主義をも克服し、真に人民を解放しえる党風の確立をかちとっていくことを目的としています。
われわれはこのような党風の転換の問題として、いったん革命的主体の問題についてもふれ、大きな原点をつかみとっていこうとしているのであり、実践的には毛沢東と中国共産党の「三大規律・八項注意」に代表される革命的な作風に、大きな感化をうけています。
日本の中共派から学ぶことは少なくとも、本当の毛沢東思想から学ぶものは、レーニン主義の豊富化としてはかりしれないと考えています。
その場合にはわれわれは、毛沢東にしろ中国共産党にしろ、いわゆる中間地帯論とよばれる「国際共産主義運動の総路線」的な戦略論上の問題、『実践論』や『矛盾論』に代表される哲学上の問題・過渡期社会建設上での「社会主義の下での階級闘争論」など、社会科学的に論じたり、イデオロギー的に対象化しなければならない多くの問題においては、非常にあやまりが多く、また日本には適用しえないことにみちているど考えています。
しかしながらそのことと、党の作風や革命の経験から学ぶことは全く別であり、区別されて論じられなければならないというのがわれわれの基本的な観点です。そして何故われわれが先進的なアジア人民から学び、中国共産党に学ばねばならないのかについては、日本の新左翼がその根幹において未だ真に人民に奉仕しえる党風を確立しきれておらず、従って真の人民の解放もなしえない状態にあるということが、その理由です。
別の言い方をすれば、中核派に代表される日本共産党の模倣路線にしろ、カクマルの反スターリン主義運動としての日共のりこえ運動にしろ、結局のところ日本共産党が労働者人民との間につくりだしている関係、ロシア共産党的な人民を支配する党の構造と、別のものをつくり出してはおらず、結局同じであるとわれわれは考えるからです。
しかもこのことは、徹底的に暴カ的で戦闘的な前衛党理論の問題としてとらえかえそうということであり、叛旗や情況のような小ブルインテリの自己満足的な観念的世界への逃亡、日和見主義の合理化とは全く発想を異にしています。
「いかにして権カを打倒するのか」という命題を、「いかなる共産主義をつくるのか」という根本思想との関連でとらえかえすべきこと、これはあの痛苦な連合赤軍の同志に対するリンチ殺人事件、カクマルの川口君虐殺、そして第二次ブントの崩壊、八派の解体、武装闘争の挫折という経験をへてきた現在の日本革命的左翼にとり、回答すべき根底的で焦眉の命題であり、文化大革命という巨大な挑戦と思われるものに当面したわれわれの、避けてとおってはならない任務です。
では一体、スターリン型共産主義からの訣別として、われわれは何を否定していかなければならないのでしょうか。つまり革共同両派が日共と同じものしかつくりだしておらず、それは根底的にはロシア共産党の流れと同じものでしかないと、われわれが考えることはどんなことでしょうか?それは極めて抽象的に言えば、次のようにまとめることができます。
これはカクマルに最も特徴的なわけですが、自分達の党内では反スターリン主義を語り、組織的関係における上下の平等や官僚主義の克服をかたっても、人民との関係や諸派とのかかわりにおいて全く本位主義的であり、セクト主義的であって、むしろ人民の敵対者へと実践的にはなっているということです。
毛沢東は党官僚の子息などが過去の土豪劣紳にかわり一部の特権的な階層となり、人民とは別の権限を持つようになっている、そんな現実に対し、上海コンミューンにみられる人民への奪権を提唱したといわれていますが、日共にしろカクマルにしろ、そういったことが問題とされたり、また克服していこうといったファクターを一切有していません。
東ドイツやチエコスロヴァキア、ポーランドなどにおいては、この問題が「人民の支配者」としての党に対する大きな不満として潜在化しており、それが「プラハの春」や「グダニスクの反乱」につながっているといわれます。
組織の中でいくら反スタ的関係が問題にされても、党の外に対しては排外主義とならざるをえない、そんな前衛党は、被抑圧人民の利害を守りぬける党とは言えません。
具体的な例として川口君虐殺や早大でのカクマルの諸派狩り、テロ・リンチがあり、また日共の反トロキャンペーンやセクト主義があげられます。われわれのMUP共闘に対する対処も、このような陥穽から自由ではありませんでした。
これは理論としていくら反スタが叫ばれても、実践的党風としてはスターリン主義を克服しえず、むしろその亜種的なものへと不断に転落してゆく、ひとえに組織体質と革命主体の問題として、党風の問題としてとらえかえされるべきことと思われます。
それは根源的にはレーニン主義の骨格ともいえる、大衆の自然発生性と革命的共産主義者の目的意識性といった命題に根拠をおくのかもしれませんが、それを理論的理解の仕方をかえるというような、理論主義的な総括としておこなっても不毛です。
むしろどういう論争の中で何を目的としてこれが強調されたのかを考え、レーニンがナロードニキや経済主義者との論争のなかでこのことを強調したことは、レーニン自身にとっては大衆に対する敬愛や信頼と少しも矛盾するものではなかったことを理解するべきです。
ということはこれは理論一般ではない、階級的実存の問題であり、共産主義の内実に関する問題であると、対象化しなければならないのです。
党内問題や分派闘争などにおいて、政敵に対する粛清が暴カ的テロルとしてなされる場合など、正しい党的対象化がないままにそれが拡大していくと、人民を党=権力者がテロるというような関係として、疎外された政治関係が構造化されます。
これは「人民を大事にし、人民を助け、人民を守る」といつた精神によって、党と人民の根本的な関係がとらえられず、党が人民を支配するものとして、党にかかわる人間があやまった人民との関係に安住している場合におこる問題です。
党が人民の上に君臨するのではなく、人民に奉仕し、人民の利害を守る部隊として自らを組織していないと、このような逆転は生じるのです。
これは党組織が自らを人民に対し、どのような関係にあるものとして位置づけるのかという基本にかかわることであり、スターリン型共産主義には支配し君臨する党の姿はあっても、ないしは大衆を操作すると言ってもいいのですが、人民に奉仕する、人民のためになることだけをおこなうという党風はありません。
これはやはり共産主義の根本精神からの背反です。
毛沢東の大躍進政策と農業集団化に対し、帝国主義との直接的な戦争を直前にしているとはいえスターリンのクラークに対する血の粛清は、大きな政治の違いをわれわれに感じさせないではいません。
これはコメコン経済体制の中における国際分業において、ソ連邦とその回りの東ヨーロッパ諸国の産出品が、全く分断され、ソ連国民のための農産物をつくることを余儀なくされた東ヨーロッパ諸国が工業化を実現できず貧困にあえぐといった事態にみてとることができ、また日本共産党が他の反対政党に対しとる独断的な政治宣伝などに類型をみてとることのできる、一言でいえば様々なセクト主義の拡大された形態です。
これは党と人民との関係の疎外が、国家間関係においても固定化される結果生み出されるものであり、本質的には国際主義を欠落させた一国社会主義建設可能論のもたらす害毒です。
ソ連邦が世界で最初の労働者国家として成立し、その後の変質をとげつつも、闘う各国人民にとり何の援軍にもなりえなかったという、いわばスターリン主義批判の根本にかかわる問題としてこのことはあります。
そしてこのたぐいは、諸派に対する全くのセクト主義、他党派解体主義、ないしは中核派などの八派共闘などでの引き回し、自派のことだけを考えて他をかえりみない利用主義などにおいて、われわれ自身のうちにもすべからく縮小された表現としてみてとることのできることです。
このような党風はやはり正しい共産主義とはいえません。
いずれにしてもこれらのスターリン主義的な共産主義のもたらす害毒、われわれはこれから自らを訣別させ、真の人民の解放をかちとれる組織へと自己止揚をとげるのでなければならないと考えるのです。
つまり人民と党とのこれらの関係性は、反スターリン主義を標榜し、イデオロギー的にそれを対象化している新左翼にもやはり根底的には克服されないまま残っており、われわれにおいても、主観主義的な前衛党建設の弊害として、多く持ち統けているものです。これの克服はひとえに共産主義的政治の実現の問題であり、理論一般の深化によってはかちとれない課題です。
われわれが「人民に奉仕する党」をいい、被抑圧民族・人民の利害を徹底的に守り切る闘いの貫徹をめざすのは、まさに少しでも対象化しようとしていることを組織的に獲得していくためであり、同盟の根本体質における総括としてこの作業を遂行しようとしているのだということが、確認されなければなりません。
われわれは共産主義的政治を貫徹でき、真に人民を解放しえる前衛党をめざすのでなければならず、そのためにはこれまでの組織的実践の全歴史性が決して清算されてはならず、革命的に継承され、そこにおいて一切の限界が怜悧にあばきだされていくのでなければならないのです。
われわれが「MUP共闘その他の諸君への自己批判」をなし、「HBF問題に対する自己批判」を真撃になそうとしているのは、まさにそのためであり、これは決して小手先の「政治的のりきり」のためではありません。
人民に奉仕し、徹底的に人民のための闘いを構築できる党になるためには、大衆に対しどう喝をおこなったり、暴カをふるったりしては決してならず、テロやリンチを廃絶し、人民が正しいと思うことのみをなさねばならず、そういった観点の欠落として、HBFやMUPの問題をとらえかえす必要があります。まさにそのような共産主義的政治は、同盟の基本路線を大衆におくことによってなされ、大衆闘争として一切を解決していくことがめざされるべきであり、その原則が忘れさられ前衡ショウビニズムにおち入った地平に、われわれのあやまりはひそんでいたのです。
セクト主義の問題、前衛ショウビニズムの問題、統一戦線や共闘機関へのかかわりの問題、被抑圧人民・民族の利害を守りぬける党になるためになそうとしているわれわれの一切の努カは、徹底した大衆路線の実現の方向に解決されるのであり、共産主義的主体の強さの獲得としてめざされるべき方向は、この徹底した大衆路線を担いきれる主体をつくりだすこととしてとらえかえされるべきです。
戦旗派の敗北は、これまでのスターリン型共産主義の延長にあるものでしかない、革共同両派にみられる小ブルジョア・リゴリズム、大衆を支配する党の関係を廃絶できないまま前衛主義におちこんでいった点にあるのであり、そういった試練に耐えきれない部分が、自己の方向を逆転させ悪質NR(ノンセクト・ラジカル)に次々と転落していくことによって、サークル集団からの党批判を構造化させていくことを蒐服できなかった点が問題なのです。
われわれが理論的に対象化してきた「党の論理」はそれ自体徹頭徹尾正しいものであったと言えますが、われわれはそのことの対象化で手いっぱいであり、そのような党それ自身が人民との間にいかなる関係をとり結ぷのかを、ともすれば忘却しがちでした。
足立分派問題はたしかに大きな後退であり、脱落分子の反前衛的集団への実質上の転落は、戦旗派の党風を根底から問いかえす嵐となりました。しかしながらわれわれは、このことを一つの頂点となす試練に直面することにより、大きな反省の契機をつかみとったのであり、これはより高い視野からみれば根底的なわれわれの前進であり、進歩といえます。
この大きな失敗と後退を、より遠くへ跳ぶための後退ととらえきることができるかいなかは、ひとえにわれわれの徹底した内的反省と努カによるのであり、確固たるプロレタリア的な決意により、必ずわれわれはその作業を遂行しきるのでなければなりません。
敵に対してはあくまでも容赦なく、おそれをしらず大胆に闘い、徹底して人民のためになることのみをおこない、これまでの新左翼運動の地平を一歩前進させること、そのために共産主義的主体としての自己を問い直し、革命的な戦旗派の大胆な再生をかちとっていくこと、これこそがここにおける全対象化の一切のねらいです。
初 掲:1974年『戦旗』343号
転載元:1990年『ブント主義の再生』第三版・戦旗社、
所 収:2003年『反体制的考察』実践社
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今晩は。最近は息子の看病と看病疲れから来た風邪のために、こちらを読む機会が殆ど無いのにもかかわらず、私のブログを読んで下さり本当に有り難うございます。草加さんも色々とお忙しそうですがお体に気をつけて下さい。
さて記事の冒頭に書かれている「理論的に批判できればそれで終わりなのか、それで『私たちは毛沢東を越えた存在だ』と言えるのだろうか?」というのは本当に重要なことだと思います。他者の間違いを列挙することでそれを乗り越えることにはならないと言うことと、誤りを沢山含んでいながらも半植民地であった中国での革命に勝利した毛沢東率いる中国共産党の良い点を貪欲に学ぶことは大切だと思います。
私自身過去の階級闘争の教訓をどれだけ自分のものに出来ているかと言うとはなはだ心許ないものがありますが、全ての革命運動の積極的側面を吸収し、否定的側面を反面教師にすること無しに本当の発展はないでしょうね。
長かったので、3回に分けて読みました。この論文自体は読んだことがあるようなないような微妙な感じです。80年代前半にもこの論文の随所にあるエキスは残っていまして、そのへんが私が社学同に惚れた理由でありました。
冒頭の部分の、
>主観主義とは一方における理論をふりまわすだけの教条主義においても、また逆に自分の小さな体験だけにたよる経験主義においてもいえることだというのです。前者がマルクス主義の文献解釈的、ないしは無媒介的現実への接木という意味において具体性を有せず、不断に観念的なものにながれ、ために自己の主観を対象に押しつけるだけのことにしかならないのに対し、後者は狭い個人的経験や地域的特殊性だけにたより、それだけを実践の基準にすえることにより、より広く普遍的な、科学的な深化された内容をつかみえない意味において主観的である、どちらもが正しくない作風であるということです。
これって、いつも考えてないといけないことなんだろうけど、私は後者の「経験主義」に陥りがちです。私のまわりの活動家筋は「教条主義」的な人士が多いのでバランスはとれているかもしれません。逆にものすごく「経験主義」的な人には、若干、「教条主義的」的に対処しています。自分の経験を教条にしている最悪な人もたまにいます(自分もちょっと、そういうところがありますが。)
貴重な論文、ありがとうございました。