マルクス入門『賃労働と資本』ノート/草加耕助

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資本主義の方法 剰余価値の搾取
「資本主義の方法」ドイツの風刺画

< 目 次 >
解説っぽいもの
マルクス『賃労働と資本』ノート/著:草加耕助
  はじめに
  1. 労働力商品の価格としての賃金
  2. 生産関係と階級
  3. ブルジョア的生産関係としての賃労働
  4. 価値法則の貫徹
  5. 賃金における価値法則
  6. 資本=ブルジョア的搾取関係の物的表現
  7. 資本家と労働者との交換関係(賃金)
参考リンク

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解説っぽいもの

マルクス似顔絵

 私が青春ド真ん中なガキの頃に書いた文章です。
 「はじめに」の部分は左翼のお約束(様式美)ということで、飛ばしてくださっても結構です。と言うか、ちょっと恥ずかしいので飛ばしてくださいまであるw しかし今読むとまぶしいわ、この部分(泣)。

 本題は次の「労働力商品の価格としての賃金」の部分からです。一読してマルクスは、別に生活実感とかけ離れた難しいことなんて何も言ってないでしょ?

 もともとこの本は、特に教育を受けていない普通の労働者でも理解できるように書かれた、宣伝用のパンフレットだったわけで、歴史性ゆえのわかりにくさはありますが、それでも特に工場労働や日雇い派遣を経験した人なら「うんうん」とごく普通に納得できる内容のはず。

 まあ、今の資本主義はもっと複雑で、金融資本はこんな産業資本みたいに牧歌的な「労働者の搾取」なんてレベルじゃない。また、国家が経済過程に介入して矛盾を調整したりおこぼれの「福祉」政策(それもできなくなってきましたが)で労働者階級を買収する国家独占資本主義が今の主流なわけで、ここに書いてあることは資本主義の根本、または出自というような感じになります。
 そのあたりくわしくは、この文章に続いて「レーニン『帝国主義論』ノート」に進んでください。

マルクス『賃労働と資本』ノート/著:草加耕助

初出「闘う労働者」1985年3月1日号 (戦旗社)より

はじめに

国際労働者協会で演説するマルクス

 現在われわれは切迫する三里塚二期着工や、三月チームスピリット侵略演習をはじめとする追いつめられた帝国主義者共の凶暴な攻撃を前にして、全身全霊をかけてこれを粉砕するべく、一丸となって正月返上でフルに闘いぬいている。
 もちろんこれらの闘いを、一般的な「戦争はいやだ」的意識や、農民への同情といった内容においてのみ闘うならばそれは決定的に不充分であり、反帝反侵略の階級的観点において闘う以外に決して運動の発展や展望は見い出せず、そればかりか階級的成熟を遂げる韓国民衆や戦闘的三里塚農民との根底的連帯などありえない。

 しかしその「階級的観点」とか「階級闘争」とか、一口に言う内容とはどんなものなのか。
 マルクスは『賃労働と資本』の中で次のように提起している。

「われわれはこれらにもとづいて、つぎのことを証明した。それは、どんな革命的反乱もたとえその目標がどんなに階級闘争からかけ離れているように見えようとも革命的労働者階級が勝利するまでは失敗するほかないということ、どんな社会改良も、プロレタリア革命と封建的反革命とが一つの世界戦争で勝敗を決するまでは、ユートピアにとどまるということである」
(大月文庫版、原典で傍点がふられている部分は太字にしました。以下同じ)。

 マルクス自身もこの『賃労働と資本』を、ヨーロッパ全土で民主主義革命の嵐が吹き荒れながらもいたる所でブルジョアジーの裏切りによって敗北していった、その激動の一八四八年から四九年に執筆しているのであり、文字通り右のような問題意識に貫かれたものとしてあるのである。

 今まで私自身「わかりきったこと」としていたこのような内容を一般にマルクス経済学の入門書とされている『賃労働と資本』の学習をつうじて再確認していきたいと思う。
 そして「ブルジョアジーの存在と彼らの階級支配との基礎をなしており、また労働者の奴隷状態の基礎ともなっている経済的諸関係そのものに、いまやくわしくたちい」り、今後の労働者活動家としての自己の定立化に向けた一助としていきたい。

1. 労働力商品の価格としての賃金

 一般に賃金というと、一定の労働時間や労働給付に対して資本家が支払う一定の貨幣額だということになっている。つまり賃金とは労働者が具体的になす労働の価格のようにみえる
 しかしそれはただ、そうみえるだけである。実際に労働者が売り、資本家が買っているのは労働ではなく、労働カなのである。

チャップリン「モダンタイムス」

労働と労働力の違い

 労働力とは人間の生きた体のうちにやどり、労働するさいに用いる肉体的・精神的(知識など)な力のすべてのことであり、その具体的な働きが労働である。つまり機械が作業能力をもっていても、労働者が動かさなければ作業をしないのと同じ関係である。

 ただ労働カは売るといっても自分の体からはなして相手に渡すことはできない。だからより正確には、労働者は自分の労働力を使う権利を資本家に売るのである。労働者は一ヵ月や一日というふうに時間をかぎって労働力を売り、資本家は約束した期間労働者を働かせて生産することにより、労働力を消費する。

 だから労働者が労働を開始した時には彼の労働力はもうすでに資本家のものであり、彼の生産物もまたすべて資本家のものである。ただ賃金は普通、労働がすべて終わった後で、つまり労働力を使ってしまった後で支払われ、長く労働すればするほど高くなるという賃金システムが、賃金を”労働の価格”のようにみせたり、自分の労働によって得られた”営業収入の分け前”のようにみせかけているだけである。

 実際には資本家の側から言えぱ「生産に必要な商品の購入」という点で、労働力も工場の建物や機械も、まったく同じ位置しかない。「もの言う機械」にすぎないのである。

労働力は商品であり賃金はその価格である

だから賃金は、自分の生産した商品に対する労働者のわけまえではない。賃金は、資本家が一定量の生産的労働力を買いとるのにもちいる既存の商品の一部である。だから労働カは、その所有者である賃労働者が資本に売る一つの商品である

 さてこうして「賃金とは、労働力の価格に対する、人間の血肉以外にはやどるべき場所のないこの独特の商品の価格にたいする特別の名前にすぎない」ということが明らかになった。

 この労働と労働力の区別ということが、実は非常に重要なことなのである。
 なぜならもし労働者が売り、資本家が買っているのが労働力ではなくて労働であるならば、資本家は労働者を搾取することができず、その利益も発生しないからである。

 このことにたちいる前に、そもそも労働とは、すなわち人間がものを生産するとは、いったいどういうことなのか。そこにどんな意味があるのかについて考えてみよう。

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