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懐古的資料

勝利を持続させる党 戦旗派85年年間総括

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一、八五年階級攻防の概要(Ⅰ)

 八五年階級攻防は、2・5千葉県警第二機勤隊本部に対するゲリラ・パルチザン戦闘の組織化と、2・24自主耕作地防衛・警備用道路建設阻止の三里塚単独決起をもって開始された。

 2・24は熱田派反対同盟の右傾化、エコロジー化に抗し、三里塚闘争の闘争的原点を守り抜くべく単独決起した八四年11・11をひきつぐものとして設定された闘いである。つまりそれは熱田派反対同盟が三里塚現地攻防から遠ざかる傾向の下にあったことへの、わが同盟からする政治的牽制の位置に立ち、同時に熱田派を規定していた第四インター方針への批判性において打ち抜かれたものである。

 八五年初頭、未だ熱田派主流の位置にあった第四インターは、八四年秋の用水攻防を全くネグレクトしひきつづく自主耕作地の表土移送に対しても三里塚現地における日帝権力との攻防を放棄したまま、三里塚闘争方針を彼等の言うところの「二期を来させない運動」へ、具体的には七一年東峰十字路戦への論告・求刑に呼応した「東峰被告を守る百万署名」へとズラしていこうとしていた。
 この「東峰被告を守る」ということが、熱田派反対同盟の主要な問題意識であり、二期着工攻撃の切迫性に対する闘いは、不断にネグレクトされることが常態化されていたのである。

 そもそも八四年秋における反対同盟の成田用水関連方針は、「一切は地権者預りで、同盟としては個人の判断にまかせる。総論的には用水攻撃反対の立場だが、それにより農民の分岐がおきるとまずいので具体的な対処はしない」というものであった。第四インターなどはこの方針を持ちまわり、もって用水闘争への取り組みを放棄したのである。これに対しわが同盟が、空港関連事業であり、用地内外の分断をはかる成田用水絶対反対の立場をかかげ、東部落の小川進氏と結合し、「抵抗の田」を現出せしめ、八四年9・29攻防をもって用水粉砕闘争を創出したのに対し、石井武氏などはこれを取り上げ、「戦旗は余計なことをしてくれた。支援は同盟の方針に対し口出しはするな」と苦言を呈するような関係性の下に、わが同盟はおかれていた。

 われわれに問われていたのはこうした関係性を打破し、迫り来る二期着工攻撃に対し、熱田派反対同盟が戦闘陣形をととのえ、これを迎えうつ「闘う反対同盟」として再生する方向性を作り上げることである。それをもって熱田派の現地攻防からの召還を克服し、ひいてはエコロジー化を止揚しつつ、三里塚闘争20年の歴史性を守り抜き、もってわれわれの戦略的総路線との結合を可能とすることが、喫緊の課題だったのである。
 わが同盟は、こうした現状を突破する方策として、八四年10・14および八五年3・31反対同盟主催現地集会に対し、全国結集の態勢をとらず、限定動員をもって対処する方向をとった。そしてその各々に対し、10・14に対しては11・11を、3・31に対しては2・24の単独決起を対置し、われわれ戦旗・共産同は三里塚反対同盟に対してであろうとも「闘いの団結」なき右翼的妥協はしないことをつきつけたのである。

 わが同盟のこの、3・31ヘの動員を限定しつつ、2・24単独決起に全力を注ぐといった闘い方が与えた波紋は、様々なものであった。第四インター・プロ育などは「戦旗は北原派に行く気だ」等と言い回り、次の三里塚闘争方針を「5・19東峰コンサート」日比谷野音集会に焦点化、脱現地攻防化をすすめ、三里塚闘争の原点をパフォーマンス化する方向にむかった。
 しかし同盟中枢の幹部農民(熱田一氏や小川源氏、小川剛正氏など)内には、「戦旗の実体的力抜きには熱田派は存続しえず、権力とも闘い抜けないのでは」という危惧を惹起せしめ、戦旗の意向をまるで無視して青行=第四インター方針のみを熱田派の基本路線とすることへの歯止めと反省を与えたのである。

 わが同盟は2・24単独決起のあとには、安保-日韓体制打倒をめぐる協商懇構造との路線的せめぎ合いの焦点となった3・21チーム・スピリツト85粉砕戦へ全力決起していったのであるが、いずれにしても八五年階級攻防は、2・24を単独決起で闘い抜き、そこに最初の全国決起をとっていかざるをえない情況性の下にあったことをみてもわかるとおり、協商懇・連帯する会などの右派ブロックに対し、ゲリラ・パルチザン戦闘を内包した政治闘争派、実力闘争派としてのわが同盟が、左から巻き返しを与え、その影響下にプレートを整備しなおしていく路線論争を基軸に闘いとられる以外ないものとして存在した。

 3・21チーム・スピリット85粉砕闘争は、2・12韓国総選挙で大躍進をとげた新韓民主党の勝利性をひきつぐ、日本における反中曽根=反全斗煥、アメリカ帝国主義のアジア反革命生命線打倒の闘いであったが、同時にそれは、安保-日韓体制打倒の全人民的政治闘争を反トマ構造に依拠せず、「日韓共同行動」を基軸に推進し、そのコアにわれわれが位置をしめるべく努力した闘い、つまり協商懇構造に対し、わが同盟が日韓行動連や反天戦線と連帯し、左からのヘゲモニー性を発揮していくための闘いとしてあった。
 三里塚における苦況を、「チ-ム・スピリット85に反対する日韓共同行動」と「トマホークの配備を許すな!首都圈運動」の共同主催となったチーム・スピリット85粉砕闘争の領導において打破し、協商懇右派勢力のヘゲモニー性に左から制約を与え、もって「日韓共同行動」を反トマにかわる新たな共同行動の母胎として打ち固め、つづく六月反安保闘争への影響力を拡大しぬく必然があったのである。ゆえにわが同盟は3・21全国結集の方針をもって臨んだ。

 その結果わが同盟は2・24にあっては××××名の闘争動員であったものを、3・21にあっては××××名にまで上のせし、八四年三度実現した××××動員体制への再度の足掛かりを構築し、政治闘争の領導におけるヘゲモニーを、首都圈においては第四インター・プロ青からわが同盟の下に奪還することに勝利した。つまり反トマ構造と日韓戦線の共同主催の下にあった3・21清水谷~日比谷闘争において、反トマ系列は全く動員体制を構築できなかったのに対し、「日韓共同行動」が闘争ヘゲモニーを完全に奪取することによって、わが同盟はその主力として地歩を回復し、大衆闘争の領導において協商懇右派勢力を逆規定する関係性を作り上げたのである。

 しかもこの三月、わが同盟は開発を急いでいた全く新しいゲリラ・パルチザン戦闘の武器としてのM22ロケット弾の実用化のメドをつけ、その実戦への適用を検討していた。その矢先、四月五日に二期予算が国会で成立し、四月七日には「成田はいま」なる政府広報が、全国有名紙に掲載される事態がおきたのである。これに対するただちの反撃として、4・8公団工事局ビルに対するM22六発のロケット弾攻撃が敢行された。

 これは3・21闘争の勝利性を三里塚に持ち込む闘いであり、同時に政府広報にみられる二期着工の切迫性に対し警鐘を乱打し、空港廃港にむけての日本人民の闘う決意を、敵政府・公団に対し一層鮮明に突きつける戦闘としての位置を有していた。
 まさしくロケット砲M22を開発し、それを果敢に公団工事局ビル攻撃に使用することによって、われわれが本気になって安保-日韓体制打倒を革命戦争として闘い抜く気であり、そのための準備をすすめており、武装し闘う革命党として自立しつつあることを、全人民にアピールしきったということができる。

 ここにおいてわが同盟は、実際上の二期決戦体制に突入したというにとどまらず、中核派の三・八分裂後の党派戦争宣言に対し、逆に反日帝反中曽根共闘体制構築の必然を訴えた八四年五月海原論文提起の趣旨をはじめてみずから物質化したのであり、この戦闘の組織化によりわが同盟の権威は大きく高められ、熱田派反対同盟に対しても大きな影響力を駆使する実体的根拠(=革命党としての戦闘力の例証)を持つことになった。
 なおかつわれわれはこの一ヵ月あと、5・7にも空港関連三施設(所沢東京航空管制所、成田空港警備保障、山田レーダーサイト)に対するM22をもっての攻撃を敢行した。
 6・16反安保闘争の組織化と同時一体のものとして遂行された、この5・7戦闘の勝利により、わが同盟が反日帝反中曽根闘争をゲリラ・パルチザン戦闘を内包し構造化させつつ闘い抜く革命党としての構えの構築において、大きな実体的前進をとげており、独自の生命力を再生産しつつあることを、更に全人民に対し強烈にアピールすることに勝利したのである。
 要するにそれは来たるべき三里塚二期決戦の主力党派は、第四インターではなく、今や戦旗であるということを、熱田派反対同盟農民が承認する以外ない関係性を、革命党の力性において作り上げたということを意味している。なんとなれば5・7空港関連施設三ヵ所同時攻撃は、それにより二期警備用道路5~6月着工を直接頓挫せしめる戦果さえ克ちとったのであるから。

 この巨大な成果をひきつぐものとしてわれわれは、八五年最大の人民結集の場として、6・16反安保闘争を定め、前段の労働者実委集会(宮下公園)から、明治公園への長蛇の進軍を準備した。
 実に××××名を動員した戦旗派革命勢力の6・16における圧倒的登場は、八四年六月ヨコスカにおける反トマ闘争より約千名も動員をおとした反トマ潮流にとっては、3・21をひきつぐ反党反前衛の右派市民運動の凋落の刻印であり、第四インターにとっては彼等が批判してやまないゲリラ・パルチザン派の勝利の刻印であった。
 この結果に反トマ事務局長の井上澄夫氏は動揺し、神経症を理由に事務局長の座を辞任することとなり、もって協商懇構造が戦旗を封じ込めることの不可能性が例証されることになったのである。

 この過程において歴然としたことは、武装せる革命党の団結、組織力、戦略的総路線の下には、大衆迎合の住民運動一般は余りに無力であり、一過性の力しか有せず構造的な対抗力など持ちえないという革命運動の真理の開示である。これにより反トマ潮流に依拠することによる延命、反トマ的大衆闘争の高揚による中核派の内ゲバ攻撃への対抗といった路線をとっていた第四インター、プロ青などの右翼日和見主義潮流は、立脚すべき基盤の崩壊にさらされたわけであり、闘争組織過程での共労党五十嵐メモに対する、『戦旗』511号(四月二十五日付)でのわが同盟の批判という形をとっていた「八〇年代安保論争」にもおのずと結着がつくことになった。

 のみならず『世界革命』892号(六月十四日付)において、「崩壊した戦後民主主義労働運動にかわる全国的な運動とヘゲモニーを作り出す闘いを(ロケツト弾)一発で代替することなど絶対にできはしない」「テロリズムの最大の犯罪的役割は職場と地域で労働者階級の闘争陣形を形成する粘り強い闘いを続ける以外に、何らかの安易な代わりの道があるかのような幻想をいだかせることである」などといい、ゲリラ・パルチザン戦闘とテロリズムを意図的にくし刺しにして批判することによって、戦旗の4・8および5・7ゲリラ・パルチザン戦闘、中核派の4・12ゲリラ・パルチザン戦への批判にかえていた第四インターの実践における破産=言ったことを具体化することができない革命党としての弱さが全く鮮明にあらわになっていったのである。

 つまるところ協商懇構造からの戦旗の締め出しをはかったところで、戦旗の組織力は既に構造化されたものとして蓄積されておリ、明らかに第四インターのほうが没落している(6・16における第四インターの動員は総数でも××××名以下、本隊×××名、宮城労組××名程度)ことを誰もが認めざるをえない唯物論的現実として、6・16はつきだしたのだ。それにひきかえわが同盟の××××名動員は、屋外での大衆運動上のこれまでの最大動員であった。
 共労党プロ青および第四インターは、この過程で、例えば共労党『統一』(八五年六月十日)二四六号、波多彰論文「安保粉砕と日帝打倒のダイナミックな関係を-戦旗派の批判にこたえる」とか、第四インター『世界革命』(八五年七月二十二日付)八九八号、須崎芳久論文「安保闘争論争によせて」などを発表し、わが同盟に対する論争を挑んでいるが、それらはいずれも、みずからの立脚すべき陣営の崩壊ー自壊作用への歯止めの役割さえはたすこともできないまま、空語としての位置しかしめなかったのである。
 かくして3・21をひきつぐ6・16のわが同盟による領導によって、単に八四年七月「連帯する会」脱退後の分岐とか、中核派の党派戦争宣言に対する打ち返し方の差異といった戦術上の問題にとどまらず、協商懇構造およびそれを支えんとする党派と戦旗との間には、革命党の形成という本質問題での抜本的差異性が存在していること、つまり非革共同系列新左翼運動の本流は結局戦旗が担うべき位置性の下にあることが全くもって鮮明となった。

 大衆の心理は、常に「力は正義である」ことが法則であるかのような動きかたをする。まさしくこの6・16における戦旗の領導を決定的な契機として、遂には協商懇構造の内部から、菅孝行氏によって第十二回時局協商懇談会合宿(於本郷朝明館、八五年九月七日)の席上、「八六年四月五月へむけて、個別と全体をつなぐ組織戦」が語られ、「行革、臨教審、軍拡、天皇」などに対する闘いを「中曽根打倒全国運動」に高めあげることが提起され、そのためには「協商懇の改組→勢力形成、組織戦のための結集のし直し」が必要であり、「ダメなら、飛散して、別のあり方を」という具合に、協商懇構造そのものの作り直しの必然が叫ばれる事態にまで至っていくのである。

 われわれの任務は、こうした首都における大衆運動展開における圧倒的な規定力を、三里塚にもちこみ、熱田派反対同盟の再生をかちとることにむけられねばならず、それはとりもなおさず、八五年成田用水攻防を熱田派が反対同盟として取り組む関係性を作り上げることに収斂されていった。
 ゆえにわが同盟は、七月以降の党的活動を、秋期成田用水攻防の組織化に定め、そのために必要なあらゆる領域における準備に入っていったのである。

※この前半期の過程とそこでの意思統一については85年中間総括(1985年7月)も参照

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