右派内部で大騒ぎの内ゲバを演じてきた、天皇の政治利用がどーたら、こーたら言う話であるが、議論の中身そのものは左派にとっては見るべき内容のないものでした。だいたい支配層は戦後一貫して天皇(制)を政治利用してきたのであって、「天皇の公的行為」とは、イコール天皇の政治利用に他ならないではありませんか。
今回のドタバタ騒ぎの論点は、宮内庁の官僚が5年足らず前に定めた、「天皇に会いたい時は一ヶ月以上前に言ってね」という、いわゆる「30日ルール」が総理大臣と言えども拘束する絶対のものなのか否かということだけ。憲法がどうの公的行為や国事行為がどうの政治利用がどうの、そういうこととは何にも関係ありません。もう、どうぞお好きなように、天皇(制)を政治利用するにあたっての「ルール」を右派の内部で喧々諤々やってたらいいだろうと思います。
本当に「天皇を政治利用してはいけない」とマジで考えているのなら、その鑑としか言いようのないお手本がありますので教えてあげます。それは共産党です。共産党は天皇が憲法に書いてある行為(いわゆる国事行為)を書いてある通りに行うことは認めています。いちいち反対しません。それに反対するなら憲法を改正するしかないのです。また、天皇に私生活があることも認めています。天皇が生物学の研究をすることに共産党が反対したという話は聞いたことがありません。これらは天皇(制)にどんな考えを持っていたとしても関係なく認めています。
その上で、それ以上の場所に天皇を引っ張りだして公的なふるまいをさせることに共産党は反対しています。たとえば国会の開会式。天皇をまるで国会の主催者のような高い場所に立たせ、「おことば」という名の訓辞を読ませる。こんなこと憲法のどこにも書いてありません。書いてないことを時の政府が勝手にやらせる。これはダメです。
天皇に憲法に書いてない政治的ふるまいをさせてはいけないと、共産党はずっと国会の開会式に欠席してきました。どうしても天皇にこういうことをやらせたければ、やはり憲法を改正するしかないのです。その上で、だからこそ憲法を改正すべしと思うかどうかは別にして、あるいは天皇(制)に対してどんな考えをもっていようとも関係なく、断固としてそう言うのです。言い切るのです。これが「政治利用はダメ」ということの一貫した態度です。
これに比べてドタバタ騒ぎのカタカナウヨクたちは、要するに民主党が嫌いとか、小沢さんが嫌いとか、中国が嫌いとか、そういう政治的な動機から必死に騒いで話を大きくしようとしているにすぎません。そういうのこそを「天皇の政治利用」と言うんです。おまいらは共産党の爪の垢でも煎じて飲め。
なにやらオバマ米大統領の天皇へのお辞儀が深すぎたのはけしからんとか、アメリカの右翼が騒いでいますが、素直に考えれば日本の右翼としてはむしろそちらのほうが反応ポイントだと思うのに、完全スルーの弱腰です。これがアメリカ大統領じゃなくて中国要人での話だったらどんなに大騒ぎになっていたことやら。
今回の件も同じこと。これが民主党政権下ではなく自民党麻生政権下で、中国副主席ではなくアメリカ副大統領だったら、大きな騒ぎにもならなかったに違いありません。だいたい「天皇制はすぐれた国家制度でこれを中心としてみんながまとまる国作り」と言った同じ口で「政治利用は許せん」なんて、堂々と書いている矛盾に満ち満ちた態度のどこが信用できますか。
要はこういう輩の言っていることは、右派勢力内部でのみ天皇に対して「お互いに抜け駆けはなしね」と言い合ってるだけにすぎん。共産党みたいに天皇は(左派を含めた)みんなに対して中立であるべきと言ってるのでは全然ないんよ。結果的にせよ民主党攻撃の政争の具に天皇を利用しただけで終わった。その程度の内輪もめを政治利用がどうとかの美名にくるむなよと。
さらに呆れたことに、共産党が上に書いたような立場で小沢さんを批判したら、それに乗っかろうとする浅はかさ。政争のためならなんでもありかよ。だいたいさあ、あんたら共産党と比べたら、今回の問題についてはよっぽど小沢さんや民主党の意見に近いじゃん。本来なら小沢さんと組んででも、まず共産党を批判して、それから小沢さんを批判するのが筋でしょ。それとも民主党を批判しているなら北朝鮮とでも手を組むんかね?ああ、アホらしい。
まあ、こういうどうでもいい話はこのへんで充分なんですが、なんか小沢さんが激昂して「公的」と「国事」を言い間違えている映像を見まして、思わず「えっ?」と思いましたが、記者たちは誰も沈黙して突っ込まない。まあ、概念は違うが、結局は同じことになるので、論旨としては間違ってないから、記者は黙っているのかなと思っていました。
そしたら何やらサンケイ新聞に、信じがたいほどアホな記事が掲載されました。これは自民党時代からの政府見解である「公的行為論」ではなく、おそらくは「私的行為論」という、とっくにすたれて今どき誰も言わない大昔の学説に依拠したと思われる記事で、しかも「公的行為否定論」に立つ共産党委員長の発言まで援用したあげくに、どちらの説からも出てこないはずの「公的行為」を論じるという想像を絶するものでした。小沢さんに対する「えっ?」どころの騒ぎではありませんよ、これ。
それだけなら「サンケイはやっぱりアホやった」で済む話なんですが、ネトウヨ系のブロガーさんとかが大量にこの記事に依拠した(つうか騙された)文章をアップしていましてね。まあ、彼らはただの個人ですから罪は無いというか、マスコミを自称して適当なことを書いたサンケイさんが悪いんですけどね。んで、これらのエントリーが無茶苦茶なのはわかるのですが、だったら「正しい」解説はどうなるのかなと。
そう言われると、お前書けと言われても急には書けませんよね。それでまあ、これも勉強になるかと思って、学生時代の基本書などを引っ張り出してきまして、この機会に天皇の公的行為論などを中心に整理してみました。しかし特に誰かに見せるあてもなく、このままハードディスクの片隅に眠りそうだったので、何かのご参考になることもあるだろうと思い、ここまでの論評をつけて公開することにします。
一応言っておきますが、以下は単なる私の防備録であり、学説整理ノートです。当たり前ですが「学問的正確さ」を保障するものではないので、これを信じて恥をかいても感知しません。大きくは違ってないと思いますが、サンケイなどという、一応は自称マスコミでさえ全く信用できないいい加減なことを書いていたのですから、一ブロガーの記事を信用してはいけません。もし何かに使う場合は、巻末に私が使用した参考文献を掲載しておきますので、最終的には原典に目を通した上でご使用ください。
また、ご期待に反して(?)左派的な視点は排除して中立的な視点でまとめてみました。さらに掲載にあたって羽毛田氏などへの論評を追加しましたが、そちらはむしろ右派的です(笑)。
日本国憲法は「主権が国民に存することを宣言し」、「国政は,国民の厳粛な信託によるものであつて,その権威は国民に由来し,その権力は国民の代表者がこれを行使し,その福利は国民がこれを享受する」ものであることを「人類普遍の原理」として採用した(前文)。そこにおいて天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基づく」(第1条)のである。
これに対し、天皇制と比較されることもあるイギリス君主制の場合、名目上の主権は君主にありながら、実質的には国民がコントロールしているという意味での立憲君主制である。また、名実ともに天皇主権であった明治憲法体制では、主権者である天皇の地位は「神聖にして不可侵」なものであり、天皇の地位(国体)を論じること自体が犯罪を構成し、かつ国会など国民がコントロールし得る機関とは、法的に隔絶した宮廷法体系によって、天皇の地位と権限が保障されていた。
日本国憲法の原理はそのような思想とは全く異質なものであり、現在の日本は形式的にも実質的にも国民主権である。国民主権のもとで国民がコントロールし得ない場所に超然と存在する国家機関はあり得ない。もちろん天皇もその例外ではなく、天皇制は内閣を通じて国民の多数意思によるコントロール下におかれており、またおかれねばならず、何よりその地位は(廃止も含めて)実質的のみならず、形式的にも国民の意思を根拠としてのみ成立している点で、イギリスのごとき立憲君主制やまして明治憲法体制とはその原理が異なる。
これが日本国憲法の立場であり、解釈を行う場合の前提となる。余談だが、もし天皇を「国家の中心」とするような神秘主義的な国家主義の立場に立つならば、日本国憲法の精神を根本から否定する「憲法無効論」や「自主憲法制定論」などに立つべきであり、その場合に論旨は一貫する。だが、天皇中心主義思想の擁護・推進は、それ自体が日本国憲法の否定なのであるから、何かしらそれを日本国憲法を根拠として論じる立場は自己矛盾であろう。
天皇の行為には、国事行為と私的行為があることについて争いはない。それ以外に公的行為という概念を認めるか否かについて、主に天皇の国会開会式での「おことば」の合憲性を巡って争いがある。
「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ(第4条1項前段)」と規定され、6条、7条によってその具体的行為が限定列挙されている。これを国事行為という。
この中にはいかにも君主らしい統治権の行使と思われる事項も含まれており、ここまでなら「君主の権能」を限定して形式化する通常の立憲君主制である。しかし同時に「国政に関する権能を有しない(第4条1項後段)」との文言を付け加えることで、それが君主としての権能の行使であることを否定している。つまり天皇は儀礼的な存在(象徴)であって、国政に対し実質的にだけでなく、形式的存在としても影響を与えることを禁止している点が、立憲君主制憲法とは違う特徴となっている。
つまり天皇は「内閣の助言と承認」に従い国と国民を象徴して国事行為を儀礼的に行う機関であって、内閣の「助言と承認」を拒否することはできず、その行為については内閣が「責任を負ふ」のである。要するに国事行為は実質的に内閣の責任で行っているのであり、天皇はその指示に従って儀礼的に行為しているだけの存在。こういう言葉使いに天皇主義者には不満をもつだろうが、現憲法の構造はぶっちゃけそういうこと。
天皇も人間であるから、私的な領域があることについては異論がない。憲法がそれについて規定していないのは、いわば当然の前提であるからだと考えられている。たとえば天皇が個人的に生物学の研究をしたり、和歌や音楽をたしなむなどがこれにあたり、憲法上も問題がないと考えられている。
憲法に限定列挙された国事行為ではなく、さりとて私的行為とも言い切れない「公人」としてのふるまいである。主に天皇が国会の開会式で「おことば」を述べる行為が、合憲か違憲かをめぐって争われてきた。合憲派は、国事行為と私的行為との間に「公的行為」という概念を新設することで論理的な整合性を保った(公的行為肯定説)のに対し、違憲派は憲法を厳格に解釈して公的行為という概念を否定する(公的行為否定説)立場に立った。
左派系とリベラル系は否定説に立つ場合が多いが少数説であり、全体としては肯定説が通説となっている。ただし肯定説の根拠づけを巡っていくつかの説に分かれる。もちろん政府は(自民党も民主党も)肯定説に立っている。主要政党では日本共産党が否定説の立場に立って、国会の開会式には欠席を続けている。現在、当たり前のように行われている「公的行為」であるが、それは力関係の問題に過ぎず、理論的にはかなり危うい理屈の上に立っている。
この問題はたとえば地元の市長が、地域の橋や道路の開通式に出席して祝辞を述べる行為などを考えればわかりやすい。それは市長の業務とは言いがたく、さりとて全くの私人として出席したのではない。あくまで市長として祝辞を述べたのである。これにあたるものとして「おことば」朗読以外では、外国元首の接待や親書・親電の交換、国内巡幸、国外公式訪問、国体・植樹祭などへの行事参加、園遊会、正月一般参賀などを巡って争われている。
否定説の立場からすれば、これらの「公的行為」はすべて憲法違反であり、天皇の政治過程への参加(=体制側による天皇(制)の政治利用)ということになる。ただし通説の立場も、天皇の行為を無原則に拡大することを容認しているのではなく、内閣の判断(=助言と承認)によるならば認められると構成することで、天皇の行為に事実上の公的な領域が生ずることを認めつつも、その範囲を限定し、かつそれに主権者である国民のコントロールをおよぼすことで、「国政に関する権能を有しない」という憲法の規定との整合性をはかるという動機がある点にも注意が必要である。
学説の整理にあたって、「公的行為説」が通説であるということにかんがみ、わかりやすくこの通説を基準に分類してみる。まず、そもそも公的行為という概念を否定し、天皇のこれらの行為を憲法違反とする解釈があり、これを「公的行為否定説」とする。次に、通説である公的行為説だが、これはその理由付けとして、「象徴行為説」と「公人行為説」とに分かれる。最後に、「公的行為」というような概念を認めない(使わない)点では否認説と同じだが、これら天皇の行為を認める結論は通説と同じという諸説を、便宜上「中間説」としてまとめる。
憲法解釈としてまことにすっきりしてブレがない。天皇が公人としてできることは、すべて憲法に書かれているではないか、なんでそれ以外の行為を勝手に書き足すんだということ。また、憲法解釈上だけではなく現実問題としても、そんな勝手なことを認めれば、その範囲が少しずつ拡大していくのではないか、やがてはまたぞろ戦前のように、天皇(制)は体制側による「国民支配の道具」として機能するようになるのではないかということ。否認説によるこの危惧と指摘は、天皇制を国民統合の軸として打ち出そうとした中曽根内閣時代に、まさしく的中することとなる(⇒「昭和天皇在位50年式典」、「Xデー攻撃」など参照)。
否認説の立場からは、たとえば今回のような場合を含め、外交的な義理を欠いてでも「天皇謁見」の申し込みは無差別にすべて断ればいいということになる。理由は憲法の規定によるということで充分だろう。憲法制定の最初っからそうしておけばすっきりしていたとは思う。
政府としては天皇の政治利用(公的行為)を続けたいわけで、国民的にも式典への皇族出席などが、すでに意識として定着している現状を重視して、むしろ憲法の中にちゃんと位置づけてしまったほうがいいと考える。そこで憲法制定から間もない初期に、「これは内閣の関与を必要とする私的行為である」という「私的行為説」がひねり出され、これが当初の多数説になっていく。
だが、「内閣の関与が必要で、天皇の私的な判断が許されないものを、もはや『私的行為』とは呼べない」という当然の突っ込みが入る。また、憲法外の天皇の行為を無限に認めてしまいかねないという批判もある。つまり私的行為説は反対説に数では勝っても理論的にはかなり分が悪いと思われる。そこで「公的行為」という概念を作り出し、これでひっくるめて天皇の行為を認めてしまうかわりに、天皇の私的判断は反映されない「公務」と規定し、国事行為と同じく内閣の助言と承認を必要とするという枠をはめる新説がでてくる。これが現在にいたるまでの通説になるという流れ。
つまり肯定説の論者は、天皇の行為には、国事行為以外に公的な性格のものが出てくるのは仕方がないという、ゆるやかな前提に立つ。その現実を認めた上で、そういう天皇の公的行動から、天皇個人が私的な判断で行動する余地をなくし、内閣のコントロール下に置く中庸な説であるという考えなのだろう。
(追記)
大切なことを書き忘れていた。公的行為説によって、内閣の関与が絶対条件として帰結されるということ以外に、「公務」とすることで、そのための予算はすべからく、皇室予算である宮廷費から支出されることになる。私的な行為であるとすると天皇の私金である内廷費からも支出することが許されてしまい、そうなると監査にかからず、支出について国会がコントロールすることができない。宮廷費なら会計検査の対象になるので、常に国会が使途についてコントロールし、事後審議することが可能になるという点で、旧説に対する公的行為説の優位性がある。<追記ここまで>
これに対して否定説は、そもそも天皇の「公務」は国事行為としてすべて憲法に書いてあって、それ以上に公的なことなんて一切できないはずだと反論する。確かに、もし内閣や裁判所が憲法上で許されている行為(権限)を勝手に拡大したとしたらどうだろうか。これは天皇を、先の例の市長や、総理大臣のような個人にすぎないと軽く観念するか、内閣や裁判所のような(たった一人で構成される)国家機関として重くみるかという点もポイントの一つであろう。
さて、この公的行為という概念を認める通説の中でも、その理由づけとして主に二説ある。どちらが多数説かは本によってはっきりしない。拮抗しているということなのだろうか。一応、「象徴行為説」が多数派っぽい。
まず一つ目の理由づけは、憲法は天皇を「象徴」としているのだから、その「象徴」の行動が多少の公的な性質を持つのは仕方がない、別の言い方をすれば、天皇の憲法上の地位(象徴)を根拠として公的行為を説明するのが「象徴行為説」。
ただしこの説には憲法が(ひいては国民が)天皇に授権した「象徴」という地位に、その内容を越えた過大な意味を付与している、あるいは公的行為として許される範囲がどこまでか明確に限定できないなどの批判がある。
そこでもう、すっぱりと「象徴」という規定から切り離して、天皇は「公人」なんだから、その公人が日常で当然におこなう社交的、あるいは儀礼的な行為ということでいいじゃないかというのが「公人行為説」。つまり、先の例で出した「地元の市長がやっていることと同じ」という説明か?私見だが象徴行為説は天皇の国家機関としての側面に注目し、公人行為説は天皇を個人として扱っていると言えるだろう。
しかしこれだと象徴行為説以上に「あんたが言ってる公的行為ってなんだ、その範囲はどこまでだ」ということがますます曖昧になって、ほとんど何でもありになりかねない(天皇制による憲法秩序の破壊・侵食)という弱点がある。
なお、右派による「天皇中心の国家」を志向する各種の言説は、公的行為論とは何の関係もないという点には注意が必要。公的行為論はそんなことを志向はおろか容認もしていない。法学上の憲法解釈論であり、主観的には天皇の行為に枠をはめることを目指している公的行為論を、憲法を全面否定する「天皇中心国家」というイデオロギーに基づく政治主張の根拠に用いることは、あまりにも愚かしい不見識であり、滑稽ですらある。彼らの立場からは、公的行為論もろとも憲法を根こそぎ否定するのが筋である。
※メモ:しかし考えてみれば、そのように国事行為の時にだけうやうやしく登場する厳格な天皇と、現在の一見すると庶民的な装いをまとった「開かれた皇室」のどちらが、右翼のお目がねにかなうのであろうか?私の父親は昭和天皇が死んだ時、「今の天皇のためには死ねんなあ」とつぶやいていたけれども。現皇太子の代にはますますそうなるであろう。
次に、公的行為なんていう概念を持ち出すからややこしいことになるのだ、天皇には私的行為と国事行為しかない。そのどっちかだ。たとえば外国元首の接待なんかは私的な社交儀礼として、国会開会式での「おことば」は憲法7条10号の「儀式を行ふ」に該当する国事行為として認めるというのが「国事行為説」。いわば私的行為説の裏返しか?
ゆえに私的行為説と同じく、理論的に(文理的な解釈として)無理があるという批判がされている。つーか、私から見れば、失礼ながらほとんどこじつけに近いようにも思える。
たとえば、法学で一番の論点になってきたのは、国会開会式での「おことば」の合憲性なわけだが、開会式という「儀式を行ふ」のは天皇ではなく、国会の長である衆院議長(不在の場合は参院議長)である。天皇は最高裁長官などと共に議長に招かれて出席している来賓にすぎない。これを7条10号に含めるのはいかにも無理がある。結局は「行う」に「参加する」を含めてしまえということにしかならず、学者が憲法を解釈する立場として、国家の権限をこのように無限定に拡大解釈するのはいかがなものか、それは他の条項にも影響をおよぼしてしまうという観点からも批判されている。
素人は「国会を召集する」に含めればと考えがちだが、召集とは具体的には議員に「国と国民を象徴して」通知状を発する行為までを指している。すでに召集が終わってしまった段階での「おことば」朗読までそれに含めることは、「儀式を行ふ」に含めるより以上に文理解釈上無理があるため、さすがにわざわざそう主張している学者を見たことがない。
そこでこの文理上の無理を回避するため、これらの公的な行為は、国事行為に密接に関連した付随的な行為であるから認められるという説が出た。つまり公的行為や私的行為なのではなく、「国事行為の一環」であるというわけで、「準国事行為説」という。たとえば外国元首の接待は国事行為の「外国の大使及び公使を接受すること」に付随する行為であり、開会式での「おことば」は、同じく「国会を召集すること」の付随業務であると構成する。
ただしこれにも、どこまでが天皇に許される「国事行為と密接に関連した行為」かその範囲が明確でないという批判がある。
※メモ:私見。公的行為否定説以外は、憲法がわざわざ条文で厳格に指定した行為以外に、天皇ができる行為(=ぶっちゃけ天皇を使って内閣が行うことができる行為)があることを認めている。しかもどこまで許されるのかの範囲がどれも明確でない。学者は「認めると共に範囲を明確にする必要性」を説くが、実践的にはある意味いい加減で、伸び縮みが自由(ケースバイケースでの判断が可能)な説のほうがいいという、日本人的な発想があるのかなと思う。あと、学説上は天皇条項と戦争放棄(9条)については、いわゆる「試験には出ない」部分で、人権規定のように、最先端で火花が散っている分野ではないということもあるのかも。
いけ好かない、偉そうだ、もともと政治姿勢に反対、ゆえに腹が立つということはあると思う。だがそういう感情論にすぎないものを除けば、小沢氏の言っていることは論理的には全く正しい。たとえ嫌いで腹が立とうとも、(少なくとも日本国憲法の枠内では)論理的に正しいのなら、そう認めるより他に仕方がない。ただしそう言うためには二つの前提を必要とする。
その第一は用語の混乱の是正。一回目の会見で激昂した小沢氏は、「公的行為」を「国事行為」と何度もいい間違えている。この両者は概念的には違うもの。ただ、公的行為論の本質は、それを国事行為に準じて扱うことで合憲性を確保するものだから、結論としてはどちらでも同じことになる。第二は、「公的行為」という概念を主張する学説をとること。逆にこの概念を否定する説に立った場合は、小沢氏の立論は前提からして間違っていることになる。そのうちでも共産党の志位委員長が小沢氏を批判したのは、否定説の立場からであることは疑いがない。
小沢氏は二回目の会見で用語の混乱を認めて修正した。よって公的行為論(すなわち自民党時代からの政府見解)をとる限りは、小沢氏に間違ったところは一つもない。いくら感情的に気に入らなくても、あるいは「天皇は自分のいうことを聞けと言っているみたいで不遜である」とかのイデオロギー的な感情論を展開しても、憲法上は小沢氏の言う通りなのだから仕方がない。簡単に言ってしまえば「法的には全く問題がない」の一言につきる。右派は小沢氏を批判したければ「憲法の規定を守れ」(爆笑)ではなく、イデオロギーや政治主張の分野で、小沢氏ではなく憲法の精神を否定することで展開するべきである。
こんな大騒ぎになった火元は、羽毛田宮内庁長官(元厚生官僚)が、自分たち官僚が決めた30日ルール(「天皇と会見したいなら一ヶ月以上前に言って下さい」ということ)を無視されたといきまいたことらしい。要するに憲法は何の関係もなくて、単に「30日ルール」官僚ルールをどこまで守るべきかが争点になっているだけ。そんなのどっちでもいいことだから、何の興味もわかない。
だいたい宮内庁長官というのは、厚生官僚が横すべりしていることでもわかるように、総理大臣が管轄する単なる役所。羽毛田氏は鳩山総理の部下である役人。さらに「30日ルール」とは決まってからまだ5年もたたず、さらにその例外はこの4年間でもう2回目だとか。今回に限ってこの小役人は何をやってんだとしか思えない。民主党が嫌いとか、小沢さんが嫌いとか、中国が嫌いとか、そういう政治的な動機がある人ばかりが騒いで必死に話を大きくしているんだろう。くだらない騒ぎだ。
まず、羽毛田氏は自分が普通の公務員であり、総理の部下であることを忘れている。あたかも自分の上司は総理ではなくて天皇だと言わんばかりであり、天皇の権威を利用して、国家の行く末を担う重要な立場に自分がいるかのように妄想し、その妄想を振り回すことで極右派からスター扱いされて酔いしれているだけのただの馬鹿。非常にみっともない。
私は、天皇(明仁氏)個人には同情もするし、親しみを感じることさえあるが、むしろそうだからこそ、羽毛田みたいに天皇の権威を利用することで自分を実際よりも大きく見せようとしている奴は大嫌いである。天皇の代わりに民族だの国だのをもってくる奴も同じ。「在特会」もそうだしほとんどの右翼もそう。お前自身はなんぼのもんやねんと。こういうアホどもが言っている「日本」というのは、私がごく素朴に親しみを感じている「日本」とは全く別物で、奴らの脳内にのみ存在する醜悪なもんであるとしか思えない
だいたい宮内庁の役人が、「天皇の味方」だなんて、私はこれっぽっちも思っていない。「雅子の人格を否定するような発言があった」という皇太子の怒りの記者会見を忘れてないし、これに対して「皇太子は記者会見で『雅子が公務を果たせなくて国民の皆様には申し訳ない』と言うべきだった」というコメントも忘れていない。宮内庁(そしてウヨク)にとって、天皇一家なんて、所詮は自分の頭の中で考える「あるべき姿」でいてくれたらいい存在としか写ってない。
それを神様と呼ぼうが人形と呼ぼうが玉(ギョク)と呼ぼうが君主と呼ぼうが陛下と呼ぼうが道具と呼ぼうが全く同じ。奴らは「天皇」や「皇太子」は敬っているかもしれんが、明仁さんや浩宮さんという生身の人間を、これっぽっちも大切に思っていない。そして彼らが奴らの脳内における役割人格から外れた時には、奴らは平気で彼、彼女たちに牙をむく。羽毛田氏やウヨクどもの「怒り」も所詮はこういった発想の延長にあることを忘れてはならない。奴らは明仁氏をはじめとする人々の「味方」なんかでは決してないのだ。
私は明仁氏や浩宮氏を、そんなイカガワシイものではなく、自分と同じ「人間」と呼ぶ。同情心にしろ敬意にしろ、相手が同じ人間だと思えてこそはじめて生まれる。対して羽毛田氏やウヨクには腹が立って仕方がない。明仁氏は天皇としての自分を、憲法の規定に従い国民のためになるのだというアイデンティティと使命感で理解し、その任務を粛々として勤めているように思える。私は左派として、彼の思想に同意するわけでは全くないが、少なくとも人間的には羽毛田氏の100倍は立派な態度であると思う。羽毛田は明仁氏を見習え!その爪の垢でも煎じて飲め!と思います。
女性天皇騒ぎの時もそうだが、だいたいこういう時に頭に血を昇らせて「危機感」とやらを持つのは、天皇本人ではなく、「天皇の権威」で飯を食ったり威張ったりしている連中だけ。私は天皇よりも、こういう取り巻き連中こそが大大大大嫌い!これは単なる推測にすぎないので間違っているかもしれんが、女性天皇については、私は天皇と皇太子は同意していたというか、むしろそれを望んでいたようにさえ思える。そして小泉さんもその意向を充分に知っていたから無理したんではないかと。そしてこの点について最後まで寡黙を通した点についてだけは、取り巻き連中のバカ騒ぎと比較して、3人とも敵ながら天晴れな態度であったと。これはただの妄想なので忘れていただいて結構だが、なぜか私にはそう感じられてならない。
どちらにせよ、国家制度としての天皇制は、近代的自我にとってはあまりにも非人間的な制度だ。天皇の世継として生まれた者には、6歳までに専用の「教育」をしないと間に合わないから早く決めてくれと、女性天皇騒ぎの時に宮内庁の役人が言ってたが、要するにそれは自我が確立してからでは間に合わないという意味であり、それってもはや教育ではなくて「洗脳」に近いだろう。そこまでしないと(そこまでしても)近代的自我にとっては耐え切れない制度なのだ。私は彼らのためにこそ、彼らを「政治利用」している取り巻き連中やウヨクどもと闘って、少なくとも国家制度としての天皇制を一刻も早く廃絶し、そこから彼らを解放してあげたいと願う。不純な政治的・イデオロギー的な目的ではなく、本当に、純粋に、彼らを政治利用するのはけしからんと思っているのであれば、それ以外の方法はないはずだ。
これは全くもって支離滅裂で意味がわからない。タイトルが「小沢氏の『国事行為発言』が波紋、共産委員長『小沢氏は憲法読むべきだ』」というもの。このタイトルは先に書いた小沢氏の用語の混乱を揶揄したものと思われるが、小沢氏の発言の肝はそういうところではないわけだから、どうしても揚げ足とりの印象は免れない。しかも批判の内容は用語の混乱に対する揚げ足取りに終始している。(⇒記事全文・魚拓)
さらにびっくりしたのはその内容で、公的行為には「内閣の助言と承認」を必要とせず、天皇の意思が反映されるとか、あげく天皇に「内閣の助言と承認」を拒否する権利がある(?!)かのように書かれている。「公的行為には憲法上の規定がないため、必ずしもその限りではない」そうだ。本当にびっくりした。こんなことを言っている憲法学者が一人でもいるのか?そりゃまあ、右翼的な学風の大学に拾われた奴をさがせば一人くらいはいるかもしれん。現に、京都産業大学で、「日本国憲法は無効である」と主張して、ひたすら明治憲法を講義している老教授がいたという噂を聞いたことがある(普通の学生にしてみればいい迷惑)。だがそんな何の影響も無い趣味的な極論まで、仮にも「自称マスコミ」が考慮する必要はないだろう。
仮にも客観報道を建前とする報道機関がだよ、「そういう説もある」というならまだ右派系の新聞なんだなと納得もでるが、堂々と「公的行為には内閣の助言と承認なんて必要ない」とか、「天皇の私的な判断も入る」とか断言しちゃってる!さらに「憲法上の規定がない」から拒否だってできるとは、もう何を考えているのか。とりわけ天皇条項で「憲法上の規定がない」ことは普通は「だからできない」という解釈になる。そもそも公的行為論というのは、その「規定がないこと」を何とかできるようにするために、四苦八苦して編み出された理論。「規定がないからできる」んなら、そんな苦労をする必要は最初からない。
次になんでこの論旨で「共産党委員長の批判」が援用されるのか?今まで繰り返し書いてきたように、共産党の見解は「公的行為否定説」である。共産党はこの立場から天皇の「おことば」朗読を憲法違反だとして、国会の開会式には欠席を続けてきた政党だ。「共産党委員長の批判」はこの立場からなされたはずのもの。つまり産経記事の主張とは真逆。だから記事の立場から言えば、小沢さんと並べて共産党委員長の発言も批判しなくてはいけないし、共産党から見れば、産経も小沢さんも同じ論理で批判の対象になる。
つまり、そもそも産経の主張はどっちかと言えば共産党よりも、はるかに小沢氏の主張に近いのだ。にもかかわらず、共産党の主張を援用する理由はただ一つ。「小沢氏は憲法読むべきだ」という一言を使いたかっただけだろう。それ以上の内容はどうでもよかった。単に「小沢は憲法に無知だ」という印象操作をしたかっただけ。このあたりは産経さんのお家芸で「おお、あいかわらずやっちょるな」という感じ。しかし実際には小沢氏は用語の混乱を除き、極めて通説に忠実な立論を展開しているにすぎない。
私は「憲法に無知」なのは、むしろこの宮下日出男さんという記者さんだろうと思う。どんな解釈をしても、日本国憲法の下で、私生活を除く天皇の公的な行動に、その私的な判断が介入する余地はない。いわばそこをクリアすることと引き換えに、公的行為論が成立している。産経の解釈ではここが土台から崩壊して公的行為が違憲になってしまう。
たとえ天皇の個人的な判断を内閣が忖度することがあったと仮定しても(実際にそんなことしていると公になったら大問題だが)、それはあくまでも事実行為であって、内閣の助言と承認(ぶっちゃけ言ってしまえば指示)によって天皇がその通りに行動し、その責任は天皇ではなく内閣に帰することに変わりはない。公的行為に天皇の意思が反映されることを認めてしまえば、その時点で(良くも悪くも)天皇に道義的な責任が発生してしまう。「天皇の判断や責任」などという概念は、日本国憲法の下では絶対にあり得ない。天皇には何の権能(権限や能力)を持たせないかわりに、訴追も罷免もできない。それは天皇が「神聖にして不可侵」だからではないのだ。これらは天皇の「象徴」という特殊な地位に基づくが、その地位は国民の総意(多数意思)を唯一の根拠としている。
記事の最後に「皇室関係法令に詳しい国学院大教授」として大原康男さんのコメントを引用し、いわば冒頭の共産党志位委員長の発言とサンドイッチにする構成。この大原康男さんは、國學院大學神道文化学部教授で、憲法学者ではないようだ。ご専門は宗教行政・政教問題というから、「いかにもそっち系」の方(ネトウヨ風に言うと「香ばしい人」)。京大法学部出身で法律の完全な素人というわけでもない。ただ京大を卒業されたのは1965年であり、その後は普通に就職された、なぜかそれから13年後に國學院で神道学の博士課程を修了されている。きっといろいろ苦労も努力もされたのだろうと思う。
産経の記事は何十年も前の古い学説である「私的行為論」の影響を受けているようにも思えるが、65年卒業の大原さんのレクチャーで、今となってはすたれてしまった大昔の通説を聞いてしまったのではないかとも思える。大原さんは法律の専門家ではないから、もしそうだとしてもこれは記者の責任である。自分でちゃんと一般的な解説を調べないのが悪い。
しかしいずれにせよ、大原さんは、法律家ではなく「神道学者」である。復古的な意味での天皇制や靖国を擁護するという立場から法律や憲法を解釈する人だ。だから悪いとか間違っているとか決め付けているわけじゃない。ただ、憲法解釈としてはあんまり一般的な人じゃないだろう。そこを無視して「神道学者」ではなく、「皇室関係法令に詳しい大学教授」と紹介しているのは、読者に大原さんが法律の専門家であるかのよう印象を(わざと)与えることを狙ったと言われても仕方あるまい。少なくとも私はてっきりそう思わされてしまいましたよ。より正しく「神道学者の大原康男さん」の意見だとわかったほうが興味が持てるのにもったいない。なるほどこういう立場の人はそう思うのかと、私のように無知な読者なりにも正確な判断ができるんじゃないだろうか。
だいたいこういう特殊な解釈を書く場合は、まず簡単に通説を紹介した後、その欠点を批判し、ついで自説を書くというのが通常の流れだと思う。報道機関だったらそれくらいは守らないと。そうしないと読者に「問題をわかりやすく解説する」という使命が果たせないじゃないか。決して一般的ではない解釈を書いて、何の前提もなく「こうなのだ!」と断言するのは読者に誤った情報を与えるだけの悪質なもの。これはその内容がいいとか悪いではない。世間でほとんど通用していない少数説を信奉するのは別に悪いことではないが、それは単なる主観の吐露であり、少なくとも報道とか解説とはいえないということだ。
しかし実際のところどうなんだ。記者の宮下さんが小沢氏が激昂したみたいに本当に無知なのか、それとも調べてみたら(用語の混乱以外は)小沢氏が憲法に無知ではないとわかって、印象操作という「記事の目的」が達成されないがゆえの確信犯なのか。産経さんの名誉のためには単に無知だったと思ってあげたいところ。実際、小沢氏に詰め寄られても、誰一人として「あの~、それは国事行為じゃなくて公的行為の説明ではないでしょうか?」と指摘できなかったもんな。こんな私でさえ「えっ?」と思ったのに。そのあげくに大原さんのレクチャー通りに記事を書いちゃいましたってところか。大原さんが神道学者としての自説を展開するのは結構だから、大原さんを責めることは何もない。だが宮下さんは記者なんだからどうかなあと思う。少なくともマスコミを自称できるレベルに達していない。
法学を学ぶとは、条文を暗記することではありません。そんなのは六法を開けば載っているのだから、そもそも暗記する必要がないのです(暗記しているに越したことはないが)。司法試験でさえ六法の参照は自由(論文試験の場合)なくらいです。そんなことではなく、リーガル・マインド(法的思考方法)を身につけることがすなわち法学を勉強することなのだと、とりわけ初学者のうちは口を酸っぱくして言われます。
一つの法、一つの条文にも、それができるまでにローマ時代からの長い歴史と理由と背景がある。その過程で鍛え上げられた概念や思想がある。それらを無視し、(自分なりに涵養した)リーガル・マインドに基づかないちっぽけで政治的な主観だけから条文をこねくり回しても、よしんばそれが論理整合的には成り立っていたとしても、そんな浅はかな答案は鼻で笑われて零点がつくだけです。そしてそれは別に法学に限らないことではないでしょうか。
過去を墨守しろといっているのではありません。もし、本気で過去の偉人の業績を否定して、新しいものを作り上げたいのだとしたら、まずそれらを一通り学んだ上で、さらにそこから正面対決していかねばならないんだということを知るべきだと言っています。そんなのは「ネットで調べて」わかったような気分にひたっているだけの人間にできることではないのです。
せめて自分が論じたい法律に関して、図書館でその法律の基本書の概論部分(最初の数十ページ)と、論じたい部分の学説の対立状況、そしてその条文が出てきた(必要とされた)社会的背景(立法事実・立法目的など)くらいは把握してほしい。それも「○○の陰謀だ!」とかアホな話ではなくて。
これは私だけではなく、たとえ大原康男さんでも同じことを言うと思う。ですが、私は普通、こういう説教くさい文章は自分の姿を思うと恥ずかしくて載せられない(読み返してみても、なんだか自分で自分のことを批判しているみたい)。けれど、最近、あまりと言えばあまりにも、主観に満ち満ちて、歴史性や背景を無視した駄文をたくさん読まされたので、恥を覚悟で自分を省みずに思い切って書いておきます。
勉強不足で、頓珍漢なことを書いてしまうのは私も一緒です。けど、何と言えばいいのでしょう、自分の頭で考え抜いた真摯な態度が全然ないというか、単なる決め付けの羅列や、安易な結論に飛びついて、先人の苦労をわかったような言葉で簡単に否定しているというか、あまりにも自分勝手で傲慢なだけの思い込みはやめていただきたいと思います。
まあ、お互いにねということで(汗)、生意気をご容赦ください。
・『憲法』芦辺信喜(岩波書店)
・『憲法の基礎知識』芦辺信喜・小嶋和司・田口精一(有斐閣双書)
・『現代憲法入門』山下健次(法律文化社)
・『憲法』佐藤幸治(青林書院)
◇小沢がしぶしぶ「修正」・天皇の行為と(岩下俊三のブログ)
◇天皇は「政治利用」されるべきである(BLOG BLUES)
◇とうとう共産党に応援を頼む産経(雑感)
◇公的行為と内閣の責任(アルバイシンの丘)
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◇天皇について(弯曲していく日常)
◇天皇を政治利用と言い張る、羽毛田宮内庁長官(ひげログ人)
◇てんのうせいと はいせんご にほんの ナショナリズム(やねごんの にっき)
◇天皇は常に「政治利用」されている。○か×か(こころ世代のテンノーゲーム)
◇【報告】民主党政権下の象徴天皇制 『リベラリズム』とナショナリズム(虹とモンスーン)
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天皇の政治利用はいまに
始まった事ではない。とくに
天皇側近の官吏であったことは
歴史が証明している。
羽毛田のバックが問題だ。
とりあえず「護憲」という念仏
はまだ有効なのだ。
岩下俊三さん>
参考リンクにある「やねごんのにっき」で
> こういった ことを ぎろんする ひとたちは、
> てんのうせい そのもの、
> てんのう という そんざい じたいは
> 「せいじてきで ない」と かんがえて いるのでしょうか?
という指摘が卓見だと思いました。
天皇制は「政治利用」されてきたのではなく、存在そのものが、特定の目的を持った政治的存在だと思います。
一度命脈の尽きた天皇制が、アメリカの日本支配に利用されることによって生き延びたという経緯が示すように、天皇制はあれやこれやの政党や個人の持ち物ではありませんが、支配者全体の持ち物であり、天皇個人も常に支配層の一員であったと思います。
もし、あらゆる政治的な意義から天皇を切り離したいのであれば、憲法秩序、すなわち支配システムや国家制度から天皇制を切り離すしかありません。しかし現状は全く逆に、それ以前の日本の歴史や伝統の中では全く異質であり、そうであるがゆえに明治天皇体制の重要な一部であった靖国神社まで、再度、民衆支配のための国家体制の道具として取り込もうとしています。
天皇を「政治利用はやめろ」と政治利用している人たちは、この部分と重なると思います。
明仁氏個人はまさしく戦後民主主義の申し子のような態度を随所でみせておられ、民主党どころかほとんど社民党に近いくらいの方だと思います。こういう方々の特徴は、憲法の理想をその建前通りに理解し、実践しようという善意にあると思います。そして明仁氏もまたその例外ではありません。彼は天皇と言う役職の元に、その善意に殉じることを、自分のアイデンティティとしているのでしょう。
「地獄への道は善意で敷き詰められている」の法則は、この場合にもあてはまると思います。
小沢一郎、無冠の王、自称野戦軍総司令官が中国のNo1コキントウに会い2ショットをとり参院選に利用する為に申し込んだ。普通はこんな汚職に
汚れた無冠の者に会うのは絶対無い。
それで
1。小沢は600人と数で圧力。
2。中国は鳩山 No1等に会っても位が違う。
3。天皇に会わせろ。1ッカ月ルールを知っていて日本人に侮辱与えたのだ。1ー2週間訪問をずらせば何も問題が無かった。小沢は中国が日本国民に侮辱を与える手助けをして成果を上げた。前にも中国はニコニコ田中外務大臣に英語で言って良くわかっていない侮辱が伝わっていないと感じて片言の日本語で『これこれを命じる』てな事を言った。案の定天皇に侮辱を与えた。国民は政治利用か否かの議論に気をそらされてすっかり中国の本当の意図を忘れた。小沢はそれを承知で如何に内弁慶か(中国でペコペコ,おてんたら)日本では偉いんだととんでもない憲法論を展開して虚勢を張った。哀れな恐妻家の成れの果て。ダムの事で四面楚歌でデプレス
していたのが少し晴れてマニック、躁状態となってワーワー騒ぎあのような事件を引き起こした。
本田さん>
論旨はよくわからないけれど、中国と小沢さんが嫌いで天皇が好きな人だというのは伝わってきましたよ。
おそらくエントリ本文は全然読んでないだろうことはちょっと寂しいですが。