すべての同志諸君!
本八六年われわれは、わが同盟戦旗・共産同がこの三年有余をかけて推し進めてきた党の武装-武装せる革命党建設のかつてない前進をはっきりと刻印した。われわれはかかる攻撃能力の高次化を支えたものは組織防衛能力の高次化であり、それが三年有余の実践を通じ飛躍的に高められた成果としてあり得たのだということを確認しなければならない。
その指標となるものこそ十・一五大島・仲宗根両同志に対するフレーム・アップ(でっちあげ)攻撃との闘いの完全勝利である。十・一五フレーム・アップと、その後の集中的な組織弾圧に、日帝警備公安警察は文字通り総力を挙げてきた。これは権力の組織破壊攻撃との闘いを貫徹してきたこの三年有余の過程にあっても極めて大きな、いわば最初の本格的な試練であった。
だがわれわれはこの試練に堪えた。われわれは皇居・アメ大へのM22ロケット弾攻撃をはじめとするゲリラ・パルチザン戦闘、レーガン来日阻止常盤橋戦闘や三里塚用水闘争などにおける数々の大衆的実力闘争の貫徹によって、日帝後藤田-山田らの「過激派壊滅作戦」との闘いの最前線の一角に押し出されつつも、そこで耐え抜き、勝利を収めたのである。もってわれわれが、武装力の面のみならず組織防衛力の点でも第一級の水準をもった党であること、大衆運動主義的な「動員の党」から出発しつつも、今やどのような敵の弾圧にも耐えぬきうる資質と作風と体質を内包した党として自らを定立させるに至ったことを刻印しぬいたのだ。
組織防衛力の強化は武装闘争の高次化をかちとり、政治展開の自由を確保しきるために、全党-全革命勢力に課せられた最大の課題である。それ抜きにいかなる武装闘争の勝利もない。ゆえにわれわれは組織防衛力の強化を党の武装の根本にすえて今後とも不屈に闘いぬいていこうではないか。
そもそも政治警察との死闘にかちきることはレーニン・ボリシェヴィズムの根本中の根本である。組織防衛闘争を目的意識的にやり抜き、己れを鍛え上げてゆくことぬきにプロレタリア革命の勝利など断じてありえない。それは一時の決意ではない持続的決意、決意一般にとどまらぬ持続的・持久的訓練のあくなき実践によってのみ作り出されるものだ。
本文章ではかかる組織防衛闘争の更なる前進に向け、既存のマニュアルである「日常活動の手引き(1)」その他にもとづくこの間の闘いを総括しつつ、その不十分な点の補足や是正を主な内容としている。すべての同志が本文章を実践に適用し、ゲリラ・パルチザン戦闘兵士として組織防衛力の一層の強化を実現するよう訴えたい。
それでは、具体的なマニュアルの内容に即して、この間の実践、及び研究で明らかとなつた点について述べていきたい。
プロレタリア革命運動を遂行するにあたり、ひとつの必然性として政治警察との攻防に入っていく、つまり体制を守ろうとするものとそれを打倒し革命しようとするものとの間に緊張した政治攻防が形成され、しかもそれが革命党と政治警察間の、プロレタリア的組織性とブルジョア的組織性との間の争闘として繰り広げられていくことのうちに、最も有効な敵に打ち克つ方策としてのマニュアル化の問題は導出される。
その場合その骨格となるものに革命者個人の秘匿、革命者が労働力を再生産する場としての居住の秘匿、革命者が生活資料を購人するための資金を得る場としての職場、および職場での秘匿の問題があることを忘れることはできない。
つまり政治活動を遂行する自由を確保するためには、一番有効なことは自分が活動をやっていることそれ自体を権力に知られないことであり、組織生活を基軸としているわが同盟にあっては、そのためには何処に住んでいるのか、或いはその人物が一体何者なのかが判別されなければ最も良いということになる。
ゆえにマニュアルの励行において最も問題となることは秘匿性の確保ということであり、それは個人(己自身)、居住、職場の順に重要性を有しているのである。
個人の秘匿というのは、最も基軸的には自分が何者かということを敵権力にわからせないということであり、カモフラージュ(集会時にマスクやサングラスを着用すること:草加注)を行うのはそのための手段である。
しかしそれでも自分が活動をしているということを敵権力に知られた場合、次に大事なことは必要以上の人民大衆に自分が活動を行っていることを悟られないことである。つまり不必要に自分が活動家であることを他人に察知されてはならないということだ。
そのためには活動家振った態度を市民生活においてとってはならないことが原則であり、そのために必要なことは常識的な生活態度と服装を保ちつづけることが前提である。或いは全く逆に全く活動家とはおもえないような生活態度をとったり、カモフラージュを行いつづけるということも政治目的の特殊性においては必要なことである。時にはより高度の政治目的を達成するためなら、徹底的にカモフラージュをおこない他の何者かになりきることが必要なわけだから、その場合には徹底的にそうなりきるということが大切である。
だが、そうでなくとも基本的にはあくまでも服装、身だしなみは質素であり、清潔であるべきだ。この原則からの背反は、とくに学生活動家の場合などに顕著なわけだが、常識的であることに前提的に無自覚であり、一見して学生活動家(無精ヒゲをはやし、戦闘服みたいな上着を着用し、ズック靴をつっかけて上服づかいに人を見ながら歩いていたりするそれ)としか見えないが故に、ただ道を歩いているだけで職質に会い、それだけで勾留されてしまったりする場合があるのである。これでは論外だ。
これは結局は未だゲリラ・パルチザン戦闘を遂行する準備もできてない牧歌的な意識性の下に彼が存在しつづけていることを自己表出しているだけであり、こうした陥穽を早急にこえでて、目的意識性に支えられた生活態度、服装に改めていくことが問われているのである。
又必要もないのに自分が活動家であることを吹聴するとか、そもそもが人に挨拶もできないようなことでは、ゲリラ・パルチザン戦士どころか組織生活者一般としても失格である。
第二に重要なことは政治警察との攻防においては、特に居住の秘匿こそ核心をなす命題であるということだ。盗聴、尾行、家宅捜索の一切の前提にあるものが、居往の割り出しであり、これを秘匿しきれれば政治活動の自由は限りなく拡大する。
そのためにわれわれはこれまで居往を秘匿しようとするならば、(1)住民票の移動はおこなわず、(2)電話器等をとりつけてはならないということを原則としてきた。と同時に(3)部屋を借りるメンバーは逮捕歴等を有さず、アパート・口ーラーに対処しうる公然性を有した人物でなければならないということも今や自明である。
現在権力-政治警察が対処してきているのは、それでもなお執拗なアパート・ローラーをかけることによって割り出しを行いつつ、基軸的にはその居住者の交通手段(車、オートバイ、原付)のナンバーを照会し、そこに住んでいる人物を特定するという方法である。
つまりたとえば偽名で部屋を借りたとしても、交通手段については未だ本名で所有している場合が多いので、それをまず捜査し、目ぼしをつけた居住区の回りにおいてある交通手段から逆に居住者を割り出していくという方法を、現在権力はとっているのである。
十・一五弾圧は基本的にはそこから、つまり使用していたオートバイを察知されることによってもたらされたものである。
これに有効に対処するためには結局、使用する交通手段の名儀を変更することにより自己以外の公然性のあるものとし、しかも居住のそばにはそれらをおかず、かなり離れたところにそれを保管するということになる。
権力が事務所等に出入りするメンバーを特定しているのも、事務所の周辺に駐車してある交通手段のナンバーから人物を割り出し、誰がそこを使用しているかを探り出しているのである。追尾によって部屋や居室が割れてしまうというのは、むしろパーセンテージとしては少ないということを知らねばならないのだ。
われわれが特定の人物をターゲットとし、それを探し出そうとする場合にも、その人物が使用している交通手段をまず見つけ出し、歩きの場合なら駅を張り込むことを第一とする。又彼(彼女)が車を使用しているなら、その車の特徴やナンバーを明確化させ、必ず外に駐車しているその使用車をまず発見することによって、そこからターゲットとする人物を捕捉していこうとする。
相手の住所がわからない場合には、結局はそれ以外やりようがないのである。これを敵権力は全く逆の立場から行っているというにすぎない。
ゆえに居住の秘匿のためには、その部屋が住民票の移動なく、電話もなく、しかも他人名儀の部屋であるというケースでは、自分が用いている交通手段の名儀の変更をも必要とし、しかもそれを居住より離して保管しておくことが核心をなしてくる。
それを完全におこない、なおかつ追尾を完全に振り切りさえするならば、敵に察知されることなど有り得ないのである。
肝心なことは、察知された場合には、何らかの方法によって敵は索敵行為に勝利したということなのだから、その方法を発見し改めることであり、そこで無気力になったり、敵の執拗さに閉口してしまっては絶対にならないということだ。
その攻防の弁証法的な連なりに勝利していくこと、それこそが勝利する革命党の基本条件だということをはっきりと確認しておきたい。
職場の秘匿は、ありていにいえば生活資料を得るための賃金を得る場として絶対に必要である。そこで組合活動その他に従事し、己の身分を公然化する必然性がある場合を除いては、ゆえに追尾の振り切りによって敵権力に職場を察知されないという以上に、職場活動において馬脚をあらわしては絶対にならないことを意志統一せねばならない。
職場において馬脚をあらわすとは、敵権力が通報によって経営者に首切りを強制させようとする場合をのぞいては、結局自分が自分の身分をあかしてしまうということにつきてしまう。
自分が活動家である、或いは活動を行っているという事実そのものを同僚に喋ってしまい、そのために職制に目をつけられ、つまらぬ理由で配転させられたり、首切りにあったりするというのは、合法主義者の対処であり絶対に回避せねばならないのである。
つまり自分が何者であるかを言わねばならぬ場合には、結局嘘をつくしかないということだ。
職場の同僚がオルグ対象者となり、共に戦列で闘えるという見込みがないのならば、つきあいはほどほどにし、あくまでも自分が活動をおこなっていることを隠し、できるだけ長くその職場にいられるようにしておくのが基本対処である。
大資本であればある程、「過激派」には過敏になっている。ましてや最も戦闘的にゲリラ・パルチザン活動を行っている戦旗のメンバーであることを許容するというほど、ブルジョア資本家は甘くない。会社にとって一定の戦力であり、仕事に使えるという保障がない限り、首切りの対象になるのは目に見えている。
それでもいいと安易に考えるのは敗北主義である。職場を転々とすればする程、定職につける確率は落ちていき、ルン・プロ化するだけなのだ。党が常任活動家を養える絶対数は限られており、しかもその常任は定職者によって生活を保障されるのであるから、結論的にいって、その職場内で活動をおこすことがない限り、あくまでも自分の身分は秘匿することだ。
そして決起すべき時は決然と首を覚悟で闘い抜け!
それ位できなければとても武装せる革命党の労働者革命家とはいえないのである。
以上、秘匿に関する事柄、これがマニユアルを獲得していく前提をなす基本命題である。この励行ののちに以下にのべる案件が課題となるのであるから、ここからはじめることを意志統一したい。
われわれは「尾行は必ずまけ!」を合言葉にしているが、にも拘らず未だ尾行のふりきりは充分とはいえない。その理由の最大のものは、尾行者の存在を察知できぬままに行動することにある。従って歩きにせよ、車・バイクに乗っている場合にせよ、まずもって尾行者を察知することに全力が注ぎこまれねばならない。
尾行者を察知するための一番確実な方法は、尾行者の視野から一旦自分の身(車)を隠したり、見にくくしたりして、相手がこちらを見失なうようにすることである。
例えば、歩きの場合なら、まず走ることから始める。そして柱の影、塀の内側などに隠れて、相手の視野から身を隠してそこで待つ。最近では歩きの尾行も相当離れてついてくるから最低三分間待たねばならない。尾行者はわれわれの姿を見失ったので必ず不審な行動をとり、探し始めるから発見できるのである。
車の場合も要領の基本は同じだ。ただ歩きとは違って隠れるのはむつかしい場合も多いから、(1)通行量の少ない道、できればほとんど通らないところを通り、後から来る車を確認する。(2)夜であれば一定区間ライトを消して走ったり、やはり通行量の少ない所や、暗い道に人ってライトを消して待つ。夜など相手の車の方が逆にライトを消して追尾したりするが、こちらのテールライトが消えて目視で確認できなければ必ず探そうとしてライトをつけたり、ゆっくりと走って探し出そうとするので確認できる。車の場合も最低三分ぐらいは確認の時間をとる必要がある。
こうして察知できたら、次に尾行者をまくわけだが、歩きの場合には、デパートや地下街など雑踏にまぎれてしまう。車の場合は、渋滞を逆に利用してふりきるなどが実践的には有効だ。又とくに車の場合などは一定の区間、逆にこちら側が権力を追尾してやったりすることも有効な方法である。尾行は気付かれればその効果はなくなってしまうので、こちら側が察知していることをはっきり見せつけてやると、権力は戦意を喪失してしまう。このようなことを何回も行なうとその人間の尾行をあきらめる場合さえある。
又、車にせよ、歩きの場合にせよ、毎日同じ車、同じ人間であるとは限らないので、尾行者(車)の特定は、顔や車のナンバーだけで判断せずに必ず以上の方法でその都度行なわねばならない。
車輌への尾行ふりきりについて知っておくべきものに、追跡用発信器がある。
これは「カーハンター」という名前で市販されている製品で、送受信機と付属品を合わせて20万円弱で購人できる。現実に民間の探偵社などでは「必携品」とされ、追跡対象の車にとりつけて尾行の際に使われている。
送信器は写真1のような形状をしており、上部に強力な磁石、下部にはよく警察無線受令器に使われている表面をビニール被膜でおおったヘリカルアンテナがついている。大きさは、15時間~20時間連続発信のもので、約9センチ四方で厚さ4センチ、タバコ大よりやや大きめ、45時間~50時間使用のもので約16センチ×9センチ×4センチ、タバコニ箱分の大きさである。これを追跡車輌のバンパーの裏側、ガソリンタンクの底、シャーシー部などにくっつけておく。小型なのでオートバイの場合でも、エンジンの下等に取りつけることができる。
この送信器からは、「ピッピッピッ」という間けつ性の発信音がたえず発信される。この発信音を尾行者は専用受信機でキャッチし、耳に聴こえる音の強弱、メーターのふれ具合、発光ダイオード表示、の三つで相手との距離感をつかみながら追尾するのである。無指向性のロッドアンテナで受信している場合には、相手との距離感しか判明せず、追尾対象がどの方向に向かっているのかまではわからない。だが、指向性のビームアンテナ、図Aならびに図Bを使うと追尾対象の方向を概ねキャッチできる。
さてその性能であるが、都心で2~3キロ、郊外で3~5キロ、更に高台やビルの屋上等見通しのよい所でビームアンテナを用いると10~15キロエリアまで受信できると力タログにはでている。また逆に5~10メートルの至近距離まで相手に接近しても受信機能に影響はないという。従ってこれを設置されてしまうと、最高10~15キロの範囲内(警視庁を中心にすると都内23区のほぼ全域)で受信場所からの概ねの方向をキャッチされてしまうこととなる。
実際の使用法としては図Bのように基地局と追跡車輌のそれぞれ、又はバイクと車のそれぞれに受信器を積み、一方は追跡を主に行ない、基地局や車が相手の動き方を受信状況から判断する役割りを担当して、連絡しあいながら追尾する。
従ってつけられている方は、一担追尾車輌をまいても、又発信音を頼りにして発見されてしまう。更にもう大丈夫と思って目的地に着き、車をとめておくと、そこからの発信音を頼りに目的地を割り出されてしまうのである。
連続作動時間は最低でも15時開あるので、たとえばA地点からB地点にゆき、そこで泊まると、その夜中に発見されて張りこまれてしまうというわけだ。あるいは受信器をもって追尾する車輌が一台でも、かなりの距離をとってつけてこれるし、こちら側が止まって待っていれば向こうも見えない距離を保って待っていられる。
この種の発信器が取り付けられた一番新しい例に山谷争議団がこの二月宣伝カーに仕掛けられた例がある。(写真2)
対策としては、発見するのが一番である。車に乗るたびに、まず、車の下部をのぞきこむこと、バンパーが鉄製であれば裏側を探って調べることを習憤化することだ。装置自体は小型だが、ヘリカルアンテナがつき出ているので発見はそれほどむずかしくはない。
組織的に使う車、個人の車を問わず必ずチェックを励行して発信器をつけられる隙を与えないようにしなくてはならない。
前項で扱った尾行と並んで、権力がわれわれの動静、組織の内情や意志続一の内容、組織系列の把握に向けて最も基軸的に進めているのが、この盗聴である。居住が割り出されてしまった場合、盗聴を防ぐことができれば組織活動の秘匿性は格段に高まるので防聴には最大限の注意を払わねばならない。
盗聴については、1)電話通話内容の盗聴と、2)室内会話の盗聴の二つに大別される。以下、「盗聴防止法」に書かれた内容をふまえ、それに補足して盗聴方法について知っておくべきことと防聴の方法について述べていきたい。
この点については先に「盗聴防止法」に書かれてある、(A)電話局から盗聴する、(B)電話機、ヒューズボックス、電話線の途中、マンション・団地の集合端子盤のいずれかにFM発信機をしかけ受信機で傍受する方法の他に、(C)特種な装置をしかけた電話器Aに対して、Bから電話がかかってきたときその装置を作動させると、BとCの間での通話が聞こえる(図C)という方法もある。
電話通話の盗聴は(B)の場合を除き、盗聴を不可能にする方法はない。従って、公然事務所の電話、権力がつかんでいる居室、自宅の電話はすべて盗聴されていることを前提にして使用するのが最良の防聴法である。
これまでのマニュアルで電話使用について確認した注意点を守り、どんな緊急事態が起ろうと(そうした緊急事態こそ権力が一番知りたい事柄なのだ!)今後ともそれを厳格に遵守しなければならない。
文書管理については、まだこれまでの原則が貫徹されきっていない。又、従来からのマニュアルに沿って行われているように見えて、実際には不断に易きに流れている傾向も見うけられる。そこで文書管理についての注意事頂のうち最も骨格的な内容のみをここにあげておきたい。
これまで確認してきた通り、秘匿・保管すべき文書は可能な限り減らすことが前提である。定期的に点検し、もういらなくなった文書は速やかに処分しなければならない。
そのうえで、確実な秘匿・保管に努めることだ。もちろん百パーセント大丈夫ということはないが、秘匿すべきものは必ず秘匿せよ!
これまでの経験をとらえ返していけば、隠し場所が見当たらないということはまずないはずだ
秘匿すべき文書の管理をやりとげた上で、不必要な文書を絶対に持ち歩かないことが重要だ。金銭出納帳、TBなどは持ち歩かず、必要な事頂のみをそのつどWSP(水溶紙)に書き写すべきである。
今年に入り6・8、9・24と情宣中に権力が介入して不当逮捕された例があるし、9・21には「服装が怪しい」ことを理由に職質→連行、むりやりカバンを開けて、戦旗派のメンバーとわかると「軽犯罪法違反」で逮捕するといったムチャクチャな不当逮捕が行われている。
このような例から見れば、いつどんな理由をコジつけられてデッチ上げ逮捕されるかも知れないのであるから、不必要な文書は絶対持ち歩いてはならない。
われわれがWSP(草加注:水溶紙)を使っているのは処理しやすく、秘匿性を守るのが容易だからだ。用途が済んだのにいつまでもためておいたりしてはWSPを使っている意味はない。意志統一に必要なメモは、それが終わったらその場で直ちに処理する。会議中はいつでも処理できる用意をしておく。とっさの場合には、呑みこんでしまえばそれで解読不能になる。
いずれにしてもWSPは使っている理由・利点を最大限生かして活用されなくてはならない。溶かさずにとっておくなどというのは問題外だ。溶かしてはじめてWSPを使用している意義があることを忘れてはならない。
われわれは事務所の防衛のうち、外からの襲撃や侵入に対する備えとして、(1)バリケード構築と、(2)侵入者の有無のチェックをこの間意志統一してきた。このうち(2)の場合について従来確認されてきたいわゆる「ミリ単位の点検」についてば実践的経験からいって改善すべきである。
その理由は「ミリ単位」などという微妙な点検では誤差が出やすく、実際には侵入の有無が確認できないケースが多いからである。
つまり、引戸の場合には常に何センチ開けるか決めてそれを毎日はかって点検するとか、小さな目印を置いて開けたら位置がずれるようにする。あるいは机の上、引き出しの中の決まった場所に特定のもの(例えば手帳)を置き、位置のずれを確かめる等というのがいわゆる「ミリ単位の点検」なのだが、こういう方法をとっていると、実際には日によって戸の開け方が1~2センチずれていたり、特定のものを特定の場所に置いていても、居室の他の住人がうっかり動かしてしまったりする危険が常につきまとう。そうすると結局、侵入されているかいないかについての目安がアイマイ化され意味がなくなってしまうのである。
従って侵入者のチェック・システムについては、「ミリ単位」などという微妙なものではなく疑問の余地がないくらい明確に侵入してきた痕跡が残るものの方がよい。例えば数十センチ目印が動くとか、ものが切れたり、壊れたり、倒れたりする等である。
またこれと同時にそもそも侵入できないと思わせるようなガードを作ることも必要だ。例えば錠を二つにし、できることなら最新式の暗証番号にもとづく電子ロックにする、非常ベルを取り付け、外に「防犯装置取り付けの家」というステッカー(市販されている)を貼っておく、ドアの下にクサビを打ち込んで物理的にドアをあかなくする、などなどである。
要するに想定している「侵入」とはあくまでも家宅捜索などの合法的侵入ではなく、それ以外の非合法の侵入であるから、権力が侵入するのになるべく手間ひまをかけさせたり、物音をたてさせたりして、周囲の住民に気付かれる可能性を高めることで防衛の確率を高めるのである。いわば権力に「ドロボー」の汚名を強制して自らを守るわけだ。ふだんあまり人のいない自宅や下宿などはこうしてガードを二重三重に固めたほうが、チェック・システムの高度化よりも防衛力は高いといえる。
要は「ミリ」を行う場合、侵入されたことを居住者が発見できることに核心点があり、どうだかわからないような「ミリ」では意味をなさないということだ。そのためには逆に侵入させない、出来ないようにしておくほうが有効性があり、結局「戸じまり」が一番であり、その次に必ずわかるチェックのシステムが問題となるのである。これは如何なる部署の活動家にもあてはまることなので必ず遵守されるべきである。
家宅捜索は現在では常に身体捜索を伴うものと思わなくてはならない。従来の確認では「NB・TB・WSPなどを身につけて寝る」などとされていたが、今では通用しない。とっさの場合処理できるよう寝るときも身近に置いていることは必要だが、捜索を察知したらすぐにしかるべく処理すべきである。
男女を問わず、下着の下まで調べられるから身体につけていれば必ず発見される。発見されるケースが多くなればなるほど、権力は身体捜索に執着するようになるから、今後は絶対に身につけてはならない。隠すべきものは必ず隠し、それから就寝することが必要だ。
捜索令状を立会人に見せること、必要とあらば騰写させることは捜査員の義務ではあるが、実際にそれを行わせるのは必ずしも容易ではない。入□で押し問笞が続くと権力は焦燥感からより強圧的な手段(チェーンロックを切って乱入するとか、立会人を拉致してしまう等)に出て、結果として捜索令状を読むことすらできなくなる。
そこで一つの有効な手段としてあるのが捜索令状を朗読し、テープに録音する方法である。又、写真機は捜索に来た刑事の面割りのためぜひ用意しておくべきだ。この二つの機械は敵の不当な捜索を制動するのにももちろん有効である。
捜索が終わったら必ず報告をする。メンバーが立会人になった場合は押収品目録で判明する事実以外に、(A)令状に記載されていた押収対象物件、(B)実際に何を重点的に探していたか、(C)押収されたものはどこからどのようにして押収されたか(D)人数は何人であったか、を必ず報告する。これらは敵の目的とやり方をよりはっきりつかむために必要なことなのでぜひとも実行してもらいたい。
家族への権力介入と対策のマニュアルを確認してきたが、今や家族を利用した転向強要は、権力の組織破壊攻撃の最も有効な手段として用いられている。十・一五弾圧でもそうであったし、八五年九・二九被逮捕者に対しても用いられた。又埼玉県警などは捜査事件とは全く無関係なメンバーの、地方に住む両親宅へ出向いてデマを吹き込み、両親を転向強要のための道具に使おうとしている。
われわれは、無関係なわれわれの家族までをも弾圧のための道具として利用する、このような権力のやり方をとことん卑劣だと思う。腹の底からの怒りをおぼえる。だがここで考えなくてはならないことは、家族を使っての転向強要が未だ重要な手段として用いられるのは、権力がそこをわれわれのウィークポイントだと思っているからだということである。ならばわれわれも、これとの闘いを組織防衛闘争の最重要の一環としてとらえ、はねかしていかねばならない。
その場合何より重要なことは、権力の片棒をかついだ転向強要との闘いは、とりもなおさず権力との闘いであると肝に銘ずる革命性の確立である。
かつて60年代後半の活動家は「家族帝国主義打倒」なるスローガンを掲げて家族(主要には両親)との革命的訣別を追求しつつ闘った。しかし、われわれはこれまで家族、特に両親の多くは労働者や農民等勤労人民であるが故に、ア・プリオリに反革命と決めつけるのでなく、われわれの闘いへの理解-たとえ心情的・部分的なものであっても-をかちとることを重視する観点から、一般的に「家族帝国主義打倒」といった立場には立たなかった。
しかし明確にわれわれを転向させようとしてくる目的意志の発現に対しては、かかる「理解を求める態度」はかえって害悪である。権力の意をうけたものである場合はもちろんのこと、そうでない場合であっても同じことである。権力と闘う場合と同じよう非妥協的に闘わねばならない。怒りにかられて怒鳴ってこようが、泣いて懇願しようが権力による取り調べと闘う気になって断固としてはねつけるのである。一個の信念を持って生き闘うものの決意の峻烈さ、確固さを、そこではっきりと見せつけねばならない。話はそこからである。
あいまいで自信のない優柔不断な態度をとっていては、かえってわれわれの思いも真剣さも家族には伝わらず、権力によるデマに説得力を与え、まるでわが子が「犯罪者」であるかのように見えてしまうものである。そのような妥協的な態度では、逆に理解も得られないし説得もできないということを知るべきである。その場しのぎの不誠実な態度では家族との関係もやがて泥沼に陥ってしまう。
家族はいろいろな理由をもってわれわれを「説得」しようとするであろう。親ならば老後の人生が不安だ、お前が頼りなんだとかいうであろうし、自分はそれでもいいけれど子供の将来はどうなるのか、生活していけると思うのか、などと夫や妻なら言うかもしれない。だがそれらの「理由」がわれわれを転向させるという目的意志のためだけに語られている段階においては、一切耳を貸す必要はない。
考えてもみよう。親のことを思いやらない子供、自分の子供や夫や妻のことを心配しない人間などいない。思いをはせつつも、様々なしがらみをふっきって闘いとるのが主体的な人生なのである。己れの人生は己れのものだ。たとえ親や子供や夫や妻でも、その人生を代わりに生きてやることなど誰にもできはしない。みんなそれぞれ己れの人生を生きるのであって、やがてそこに分岐ができ、お互いに理解できないものがあったって、それは仕方がないことではないか。あくまでも自立した一個の人格として、一人の革命者としての人生をわれわれは生きるのみである。
あるいはまた、「人のため、社会のために活動しているのなら、まず自分の家族の事を考えてほしい」などという家族もいる。こんな言い分は言語道断である。自分のために人の人生をねじ曲げようとする単なるエゴイストの言い分だ。自分ら家族だけが「不幸」にならないためには、このブルジョア社会の矛盾に目をつぶってしまえなどという、そんなさもしい素町人根性から脱け出せないから、いつまでたっても日本人民は第三世界人民に敵対する帝国主義本国の「臣民」でしかありえないのだ。第三世界人民の革命性、韓国民衆の不屈性にこそ学ぼう。
更には「若いから今までは大目に見てやったが、もうお前も大人だ。活動などやめてもっと実直な人生を生きろ」などと諭す親もいる。まったくお話にならない。われわれが階級闘争を闘うのは「若気のいたり」でも、「青年に特有の反抗心」でもない。ブルジョア社会の根底的転覆なしにはけっして変革できない不正と腐敗、抑圧と収奪にこの社会が満ちているからであり、その中に理没せず闘うことが最も人間的な人生であるからだ。
故に革命運動に「引退」などありえない。いかに年をとろうが、闘い続けてこそ革命の勝利もかちとられる。今やわれわれの戦列にも三十年、四十年という革命的人生を闘いとったプロレタリア戦士がいる。かかる人々の人生こそ革命的なものだ。こうした確信をわれわれは断固として打ち固めなくてはならない。
その他色々なケースが具体的には考えられるであろうが、要は家族との闘いもまた階級闘争の一環であり、転向強要は帝国主義権力との闘いであると考え、非妥協的な思想闘争を貫徹することである。
われわれはこの間確認してきたマニュアルを今後とも実行する。しかし家族対策の核心は、本人が家族に対し革命家として、毅然として対処することだ。周囲がどのようにフォローしようとも、本人が革命的背骨性を保てない限り家族を使っての転向強要を粉砕することはできない。うわべだけ、その場だけ、なんとかとりつくろって問題を先延ばしするのではなく、決定的に対立した場面でも、断固とした対処ができるような主体の構えこそ必要なのである。
かかる問題はいわば「マニュアル」を超えた領域のことであるがその重要性に鑑み、はっきりと意志統一しておきたい。革命的家族対策を組織防衛闘争の一環にくみ込み、貫徹することは、権力の帰順、転向攻撃に抗することなのだ。組織共同体の力をもってこれを打ち破り、党の団結を第一義にすえて共に闘いぬこう。
(1986年11月)
⇒「日常活動の手引き(1)」を見る