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カテゴリ: 管理人のつぶやき

荒岱介さんを偲ぶ会に参加して

◆ごく普通に偲んできました

 戦旗・共産同元議長の荒岱介さんがお亡くなりになって一年がすぎました(→参照「【追悼】さよなら荒岱介さん」)。市ヶ谷の私学会館で一周忌の偲ぶ会があり、自宅に案内が届いたので参加してきました(→画像報告)。
 あまり一般向けでもないし、大衆的に公開されたものではないので、ブログに書く気もなかったのですが、前のエントリで写真を使ったせいで気になった方もいるようですので、ごく個人的なことだけ書いておこうと思います。最初にことわっておきますが、私は現役時代は関西で活動しており、荒さんとは主に書籍の上、および党中央と地区の関係、すなわち文章でのおつきあいが中心でしたので、活動を離れたところでの荒さん個人に特別な思いいれもないかわり、憎んだり嫌ったりという感情もありません。

 さて、上に書いたように一般公開の集まりではありませんので、参加者の顔ぶれやその発言を、どこまで公開していいものやらわかりません。いわばmixiで書いた内容を、本人に無断で外部に公開するようなというか。まあ、特に問題はなかろうと思われる方々についてのみ書くことにします。でも、内容はごく普通に「偲ぶ会」でしたね。この会の呼びかけ人の一人でもある、埼玉県ふじみ野市議の鈴木啓太郎さんが、「強烈な個性とカリスマ性を持つ荒さんの呪縛から、一年たってやっと解放されたような気がする」とおっしゃっておられましたが、ようやくわだかまりぬきで、ごく普通に「偲ぶ」ことができるようになったという解放感が会場にあふれていました。まあたとえて言えば、「飲んだくれて暴れて家族に迷惑かけて亡くなった親父だが、一年たってやっとその息子たちもしみじみ想い出を語れるようになった」というような状況でしょうか。

◆荒さんの人生と発言者の面々

 知らない方に一応の解説。荒さんは元々70年安保闘争時における、学生運動の指導者(社学同委員長)として頭角を現し、二次ブント分裂に際して党派(戦旗派)の指導者として一派を牽引します。その後も党の分裂など挫折を経験しながら、ほとんどのブント系党派が小サークルとなって「党」としては事実上消滅に近い形になっていく中、指導する戦旗・共産同をまがりなりにも革共同系に対抗しうる勢力にまで伸張させます(この説明がチンプンカンプンの素人さんはググってくだされ)。
 ところが90年代以降の荒さんは徐々に共産主義思想を否定し、10年かけてゆっくりと組織まるごと陽性転向して「環境革命」を提唱するようになります。さらに晩年は周囲をイエスマンで固めた強引な運営が目に付き、最後はそのイエスマンたちからも見放される状況となって、手切金まがいの「退職手当」をもって組織から離れてしまった。まあ、簡単に言えばそんな経緯です。一番大きかったのは、「管制塔カンパ闘争」に対する冷淡な態度でしょうね。それで人心がすっかり離れて、地方組織もガタガタになり、全国動員もできなくなったと会場で話している人がいました。

 そんな荒さんの人生の、それぞれの時期につきあった方々が会場にはみえていましたが、やはり来賓(?)として会場で発言された「業界有名人」は、二次ブント系の方と、戦旗・共産同時代におつきあいのあった方が中心でした。やはりこの二つが荒さんが最も輝いていた時期ということなんでしょうね。名前をあげても差し支えないだろう方で言いますと、大下敦史さん米田隆介さん太田昌国さん清井礼司さん植垣康博さんらでしょうか。このあたりは左翼業界の人ならだいたい知ってますよね。旧赫旗派からは元議長の松平直彦さん(現・労働者共産党指導者)の顔もみえました。
 あと、今は普通に暮らしておられる方々で、二次ブントの各党派のリーダー(党首)クラスの人たち。ここらはかなりコアな趣味者しか知らないレベルですね。私はそれぞれのグループ名が記憶の片隅にあるくらいで、お名前はどこかで聞いたかな程度ですが、趣味者の人たちは本当にびっくりするくらい細かく知っていますから。ほかに戦旗・共産同関係では、啓太郎さんのほか、もうほんとに趣味者しか知らないでしょうが、こちらの画面下にある署名で有名な佐脇正祐さん、「管制塔カンパ闘争」に際して2ちゃんねるなどで何度も名前が出ていた牧原良(岩村清克)さんらの発言がありました。

◆三里塚分裂時の荒さんテロ計画

 さて、会場に着いてみると、そこはなんだかホテルの宴会場みたいな場所で、普段着の私はなんとなく場違い。会費も一週間前の反対同盟お花見会の1000円や、安田好弘さんを支援する会の500円と比べても段違いの6000円。つか高いよ!安田さんを支援する会では、残った料理をお持ち帰り用のパックまで配ってくれてウハウハでしたが、そんな貧乏臭いことできる雰囲気じゃない。これはもう腹いっぱい食べて元をとるしかない(笑)。

 会はまず故人への黙祷にはじまり、続いて献杯にうつりました。乾杯の挨拶にたったのは大下敦史さん(雑誌『情況』現編集長・世界書院社代表)でした。大下さんは戦旗派創生メンバーではありますが、戦旗派が俗に言う荒派と西田派に分裂した際、反対側にいた人です。西田派は三里塚闘争が分裂した際も、第四インター派らと共闘して熱田派に行った私たちと異なり、中核派と共闘して北原派に行きました。
 そんな大下さんですが、「分裂の前も後も、出会ってから今までずっと、一度も荒君に悪い印象をもったことはなかった。立場は別れてしまったが、ずっと好印象をもっていた」と述べられました。そして「三里塚分裂の後、ある人たちから、荒君と(三里塚現地の責任者だった)佐脇君の二人をなんとかしたいと思うがどうかという相談を受けた。私は即座に『われわれはブントだからそんなことはしないんだ』と答えた。そしたらその直後にインターがテロをうけた」という話をされました。
 これを受けて後で挨拶にたった元戦旗・共産同メンバーより、「実は私たちも一時、大下さんをなんとかしようかという話をしたことがありました。とりあえずご自宅だけはつきとめさせていただきました」という話がありました。まあ、あの時代のこととは言え、本当に話だけでよかったですね。そのおかげで今ではこうして共に荒さんを偲んでグラスを傾けることができるわけですから。

 また、呼びかけ人を代表して挨拶された佐脇さんからは、「一人一人がバラバラに思っていても力にならない。それが一つの塊にならなければいけない。みんなの力を集めて一つの塊にするために、荒はその中心になってみんなを引き付ける力があったから協力して担いだ」というような趣旨の発言がありました。

◆やっぱり俺はブントなのかなあ

 この後も、二次ブント系諸グループの元リーダーの皆さんからは、口々に「立場は別れて対立したけれども、そのカリスマ性や手腕には一目置いて尊敬していた」というような趣旨の発言が相次いだのが印象的でした。二次ブントや三里塚闘争の分裂直後には、それこそ口角泡を飛ばして論争(罵りあい)をし、殴り合いやら、あまつさえ「やっちまうか」という相談さえした同士が、こうして旧交を温め合っている。そういう私だって、今では三里塚現地で旧西田派(現・統一委派)の人たちや中核派メンバーのお世話になったり、彼らと一緒に酒を酌み交わしたり、あまつさえ統一委派の若い人たちとは今では「マイミク」だったりするわけで(笑)、かつてのことを思えばなんだか変な気分ですが、これはきっといいことなんだろうなと思います。

 でもこうなって、すごく不思議に感じることなんですが、共闘して共に闘ってきたインター系や共労党系の方たちより、対立していたはずのブント系の方々と話すほうが、なんというかずっと波長のようなものが合うというか、落ち着くんですよ。二次ブントの時代からやってきたというなら、それも何となくわかるんですが、私の世代では二次ブントなんて遠い昔の歴史の中の存在で、ブントでも「異端」扱いされてきた戦旗・共産同の体験しかありません。なのにです。これは蜂起派や統一委派の方々とお話させていただいて不思議に感じたことです。もっとも彼らのほうは、昔からブント系同士でつきあいがあるので、私が感じる不思議さがわからないみたいですが。

 そんな中でも、数少ないブント系の共闘相手だった旧赫旗派の松平さんの発言は、胸にしみるものがありました。松平さんは革命の旗派→赫旗派を通じての共闘関係の中で、荒岱介と戦旗・共産同は尊敬すべき一つの目標であったこと、そして荒さんが、当時としてはどこの党派より最も激しい権力弾圧を受けながら、なおかつ強大な革共同系列に囲まれる中で、それに伍するだけの、ブントとしてのアイデンティティをなんとか築きあげようと必死に苦闘しておられたと、自分たちの闘いと共に最後は涙ぐみながら語られました。私もいろいろな思い出がぐっと胸にせまってきて感無量になりました。

 他には、反対同盟の顧問弁護士として有名な清井礼司さん(現在は熱田派の顧問弁護士)が、マル戦派の元活動家として発言されたので「へぇー」という感じになりました。清井さんってブントだったのか。いやあ、わしゃ趣味者じゃないから知らんかったよ。ずっと「反対同盟の弁護士」というイメージしかなかったなあ。つか、マル戦派なんて、私の世代じゃ現物を見たこともない、それこそ新撰組みたいな歴史上の存在だったけど(失礼!)。

 また、太田昌国さんは、戦旗・共産同時代には、最初は通訳からはじまって、よくお世話になった方です。つか、最初は「通訳の人」だと思ってました(笑)。そのうち私らの集会にも顔を出して発言とかしてくれるようになった。太田さんは、「左翼はスターリン主義の問題こそが一番重要で、党官僚主義はダメだと思っていた。だから党派なんかとつきあうなんてとんでもなかったんだけど、なんだかこの人たちはとても自由で、そしていい加減だった。だからこことならつきあえるかなと思った」「ただ、環境派に転向した時は驚いて、普通、転向というのは一人でやるもんで、おまえら集団で転向すんなよと思った」と語られ、会場では笑いがおこりました。

◆沢田さんに会えずに残念

 私がこの集まりの案内をいただいて(6000円もするけれど)参加しようかと思ったのは、当初的には今のアクティオの方々とも話してみたい、できれば何か協力しあえることがあるかなあと思ったからでした。呼びかけ人の中に沢田(水沢)さんのお名前があったので(6000円もするけれど)参加を決めました。関東の方とはあまり親しくはなかったのですが、現アクティオ代表の沢田さんとは、大阪で一年くらい一緒に生活したことがあり、再会と共に、いろいろお話できるかなと、それを楽しみに行きましたが、沢田さんのお姿を会場に見つけることができませんでした(6000円もしたのに…ってしつこい!)。

 かわりにというか、京都で一年以上いっしょに生活したSさんと再会しました。今は浄化槽会社の社長さんだそうです。「お、○○じゃないか?」と当時の組織名で声をかけられました。相変わらずの愛すべきマイペースさはそのまんまで、その○○が、今では「草加耕助」だということも知らない様子。たちまち時間が遡って、昔のまんまの下級メンバーとして親しく接していただきました(笑)。私が今も三里塚に行ってると言うと、少し変な顔をしておられた。

 啓太郎さんは「草加耕助」を知っていると思うのですが、同じテーブルになっても目をあわせない、話をしてくれない、こちらから話しかけようと努力しましたが、「あ、どうも、こんにちは」と曖昧に答えてくださっただけなので、それ以上はもう話しませんでした。別に私は敵じゃないよ(涙)。もっといろいろお話ししたかったんだけどなー。

 元三里塚現闘のAさんは、現闘当時は良い意味で泥臭く、「飯は党で保証すると言われたので現闘に来た」とか語っておられ、いかにも三里塚!という感じだったのが、当日はすっかりダンディになっていたので驚いた。最初はAさんだと全く気がつかなかった。それにひきかえ、私とSさんは全く変わんないや。当時のあいつらがそのまんま歳とったという感じ。一目で「あ、あいつだ」とばれてしまう(笑)。

 まあ、いろいろありましたが、総じて行ってよかったかな。興味深いお話も聞けたし。私は荒さんと個人的なつきあいはなかったので、そういう意味では戦旗・共産同時代の話以外はグッとくるものはなかったけれど、それでも面白かったです(不謹慎?いいよね?)。なお、やはり偲ぶ会なので、故人を褒めこそすれ、批判的な考察はありません。当然だけど。その分は割り引いて読んでね。けど、会場である人が言ってたんですが、自分で選んだ道なのに、自分を荒さんの被害者みたいに言うのはよくないんじゃないかと。批判は批判としてあるとしても。

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  • 大学入学したての頃は最も激しくオルグされたのは戦旗派でした。ソ連崩壊後の混迷の中で、新たな作風で乗り切ろうとした、柔軟さは他党派よりも評価しています。ただ荒さんの心変わりが、組織的な転向に直結してしまう体質は何だったんだろう??リーダーのカリスマ性故か独裁的組織のようでしたね。機関紙のの表紙が登山だったりするのは、他の党派に色々揶揄されましたが、僕は機関紙はこうあらねばならんという方が頭が固いと・・・私は派閥名なしのブントを名乗りだした頃からチョイと違うなぁと思い出しました。

  • 塩見孝也さんは来ていなかったのですか?少し意外な感じがします。

    私が、趣味者活動を開始して、摸索社やロフトプラスワン界隈に出入りしはじめた頃、ちょうど佐藤氏襲撃事件があり、その後ギアさんやいずみちゃんと「小倉謝れ友の会」とかでお付き合いさせていただいたので、荒氏の印象は必ずしも良くないのです。
    でも、荒破天荒伝は面白かったですし、魅力のあった人だからこそ多くの人がついてきたんでしょうね。

  • 大熊寝子さんはきっと「脈あり」と思われたのでしょう。なんとなくわかります。
    環境派への転向について、私は途中の経緯を全く知らず、ひさびさにネットで検索して見つけた時は、腰がくだけるほどびっくりしました。
    一般にはいきなり転向したみたいな印象が強いようですが、実際には10年以上の歳月をかけてゆっくりやってますね。
    最初は革命イメージとして、「日本のボリシェヴィキになる」から、人民が立ち上がるなかで、その一角を担うという感じに。
    それから、マルクス=レーニンの古典だけでなく、20世紀以降の現代思想も研究して学ぼう。
    とまあ、私が少しおつきあいがあったのはそこまでですね。
    あとは「マルクスに限定しない」から「マルクスの否定」に進むみたいですが、そのあたりはよく知らん。
    さすがに、ゲリラ闘争をやっていたところから、荒さんの一声でいきなり環境派になるほど「カリスマ性」はないっていうか、それだと宗教だしね。
    ちょっとずつ舵をきっていく中で、その時々にはそれなりの説得力があったのでしょうが、やはり荒さん以外の人が提唱しても下部はついていかなかったでしょうね。100人ちょいの小党派を、監獄から出所するや数年で中核、カクマルに次ぐ第3党派にしたという実績があったからこそだと思います。

  • まつきさん>
    塩見さんが来ていないことには、植垣さんがブイブイ不満言ってましたね。
    まあ、酒の上の冗談半分でしょうけど。
    「破天荒伝」は私も読み物として面白かった。きっとこの本は、左翼運動なんて何も知らない人こそ、読んで面白いのだと思う。当事者というか、運動・思想的にどうこういう思いが強い人だと、「なんじゃこりゃ!」となるみたい。
    もともと荒さんの文章は、左翼の論文としてはかなり読みやすいんです。ちゃんと日本語で書いてあるというか(笑)。それでも若い頃に書かれた「過渡期世界の革命」はまだまだ左翼的悪文で、18歳の頃にはじめて読んだ時は「日本語で書いてへん」と思った。
    確かに私が知る頃の荒さんは魅力もあったのですが、最後の頃は(伝聞でしか知らないのですが)どんどん老害・暴君化してたみたいですね。この記事内での出席者の発言は「偲ぶ会」ですので、故人に鞭打つ人はさすがにいませんよ。結婚式のスピーチみたいなもんです。

  • 久々に拝見しました。
    まっきーさんも来られていたのですね。
    本部でまっきーさんのもとで働いていたことがあり、なつかしかったです。

    で、まっきーさんの本名をぐぐったら、お亡くなりとのこと。

    荒さんとまっきーさんのご冥福をお祈りします。