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「皇族として戦後はじめてとなる皇太子の訪沖を阻止すべく、2000の戦闘的労働者人民はフォード来日時を上回る厳戒態勢のなか、続々と本蒲田公園に結集した。会場到着までに3度の検問を実施するという妨害をものともせず、公園は大部隊で埋まりシュプレヒコールが響き渡る。集会では関東沖解同(準)の決意が表明された。沖解同(準)の代表は『われわれの全未来を賭けて決起してきた』と力強い決意を述べ、全体の圧倒的拍手で確認していった」
本土での決して小さくはない反対運動に見送られながら沖縄に到着した皇太子に対し、今度はその足元に沖縄人が投げつけた火炎瓶がとんだ。沖縄の地域党派である沖縄解放同盟(沖解同)と、73年に分裂した、本写真集の戦旗派(日向戦旗)とは無関係のもう一つの戦旗派(西田戦旗)が協力した共同闘争だった。
実行した沖解同の知念氏の意図は天皇名代の皇太子式典を妨げる示威行動で、裁判の場で天皇の戦争責任を追及することが目的だった。だが警察・検察は知念氏の意図を封じるため、暴行や傷害などの容疑を一切不問に付し、礼拝所不敬と火炎瓶使用だけで起訴し、さっさと刑務所に放り込んだのであった。また、現場以外で警察車両に投石した援護陽動の2名も同じく公務執行妨害のみでの起訴だった。
援護部隊のうち沖解同だった川野純治さんは、事件後に活動から離脱。一年有余の服役も済ませ、その後は市井で穏やかに暮らしながら沖縄の平和運動にも参加していたが、事件から35年後の名護市議選に辺野古新基地反対運動からの要請で立候補して当選した。
その後、二期目の選挙にあたって基地推進派から「元過激派」などとキャンペーンを張られ、支持者から「済んだことなんだから言ってくれたらよかったのに」と心配されたそうだが、実は黙っていたのではなく、ちゃんと服役も済ませて責任もけじめもつけた40年近くも前のことなど、本人もすっかり忘れていたとのこと。選挙への影響を心配したが、逆に昔のことを持ち出して「前科者」呼ばわりするネガキャンが裏目に出て、なんと前回よりも票が増えて再選されてしまったとのことw
もともと沖縄では(表立っては誰も絶対に言わないが)事件には当時から同情なり共感をよせる雰囲気、もしくは事件への本土とは異なる寛容さがあった。県警の内部にすら、犯行への共感を示す者がいたという逸話が、沖縄では語り継がれているそうだ。
ただ、そういう雰囲気もあって政府は昭和天皇の訪沖に慎重となり、結果として知念氏は昭和天皇に死ぬまで沖縄の地を踏ませなかった。また、このことは独特の憲法観と天皇としてのアイデンティティ(国民統合の象徴)を持ち、その点で裕仁の負の遺産を思い知らされた明人天皇にとって、即位後の被災地住民の重視(辺境への視線)や、彼の非戦的なふるまいに影響を与えたと思う。
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【草加メモ】 60年の安保条約改定を受けて、防衛庁が秘密裏に日米共同作戦計画を策定していたことが暴露されたのが65年(三矢研究)。さらにベトナム敗戦で疲弊し後退した「世界の警察官」米軍に代わり、その手先として自衛隊を「アジアの憲兵」にしようという流れがこの頃から強まる。左翼は三木‐フォード会談もこの流れにあると見たしそれは正しかったろう。
これら日米軍事同盟が「秘密研究」ではなく、堂々と出てきたのは、とりわけ80年代の中曽根‐レーガン時代だった。日米ガイドライン、有事(戦時)法の制定などが打ち出され、同時にそういう国内統合の象徴として天皇制を強調していくようになる。硬軟織り交ぜた「皇室報道」が頻繁にマスコミに登場するようになった。冷戦終結後も安倍政権は極めてイデオロギー的にその完成を志向し、そして今日ついに集団的自衛権や「自衛隊による先制攻撃」までも打ち出される事態になっていく。
政府はその時々でソ連や北朝鮮の体制などを利用しながら、きわめて近視眼的な美辞麗句をふりまいてこれを正当化し、アメリカも圧力をかけてくるが、私たちはそうではなく、戦前の日本帝国の惨めな崩壊過程にまで遡り、戦後のこういった歴史的な流れの中で現在を考え、アジアの一員としての未来を見据えなくては、またぞろ戦前の惨めで不名誉な歴史を繰り返すだけだろう。
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【草加メモ】 この坂田‐シュレジンジャー会談の直後にシュレジンジャー米国防長官は以下のように述べた。
「韓国に何かがあった場合は在日米軍基地の補給機能が役に立ちますから、日本は間接的には韓国の安全に寄与できるわけです。それに日本の自衛力、特に防空、海上自衛隊等の存在は、周辺地域全体の安全を高めるという派生的効用を持ちます」(75年8月29日、在日米大使館での外人記者との会見での発言)
要するに60年安保改定の一挙的な具体化、自衛隊(日本軍)の在日・在韓米軍の元への繰り込みであり、その対象は「朝鮮有事」の際の軍事侵攻であるということだった。その体制のために朴独裁政権も護持され、韓国をはじめ第三世界各国の自立や民主化を目指す運動はアメリカに圧殺され見殺しにされる。それがまた世界各地の反米闘争の火に油を注いでいくという構造だ。
後のカーター大統領の「人権外交」路線は、親米独裁政権の民衆弾圧を認めないことでこの悪循環を止め、ベトナム以降のアメリカの名誉を取り戻そうとする新機軸だったが成果を上げられず、支持率が下がるやすぐに支配層から見捨てられていった。そして80年代のレーガン‐サッチャー‐中曽根以降の凶暴な新自由主義とネオコンの時代へ、そして「対テロ戦争」へと推移していき、今も私たちは当時はもてはやされたその路線の宿痾に、政治的にも経済的にも苦しめられているのだ。
「三木‐フォード会談に基づく朝鮮共同出兵共同謀議=坂田‐シュレジンジャー会談粉砕8.28闘争、9.14日韓閣僚会議阻止闘争に続き、天皇訪米阻止の決意と覚悟を明らかにした、東宮御所(20日)‐防衛庁‐原宿駅宮廷ホーム‐葉山御用邸‐伊勢神宮(15日)を貫く9.15-20闘争の成果をもって、天皇訪米阻止への決起を実現せねばならない」
【草加メモ】 ちょうどこの頃、幼い私は伊勢旅行に連れられて、何も思わずごく普通に参拝してきました w。もちろん当時のことは知るわけもありませんが、西田戦旗のひめゆりの塔での火炎瓶決起があって、その対抗心みたいのがあったのだろうと想像します(邪推?)。
主催:全国労働者共闘会議/全都筑波共闘/全都高共闘
基調提議:伊勢 洋
※訪米阻止闘争本番の9.30当日の写真が、残念ながら以下の3枚しかありません。写真や機関紙などお持ちの方は、是非ごこちらからご一報を。
2. 7-9月「激闘の三か月総力戦」