[スポンサーリンク]
定番記事

ビールは飛んでこないのだ! ーもったいない社会主義のすすめ(笑

 私の実家は決して裕福ではないけれども、と言うか、むしろそれだからと言うべきか、食べ物の躾については結構うるさかったです。そのことも今となっては非常に感謝しています。

 まあそれも「自分で食べると言った分は残しちゃ駄目」からはじまり、茶碗の持ち方やら豆の食べ方、魚の食べ方などいろいろあります。それも「上品に食べる」よりも「無駄なく全部食べる」ことに力点がおかれていたと思います。つまり古き良き日本人の「もったいない」の思想ですね。

 結婚した時、うちの嫁さんは私が魚を骨の隙間まで綺麗に手際良く食べると驚嘆していました。そんな私から見ると、嫁さんの食べ終わった魚には、まだまだ充分にご飯一膳が食べられるくらいの身が残っているようにしか見えません(いやな旦那だな)。

 さて、そんな躾の中で、食事における言葉使いがあります。普段の言葉使いはうるさく言われなかったのに、食事の時だけいろいろ言われるのですね。
 たとえばお茶が欲しくて、母親に「お茶」というと、「お茶は(呼んでも)飛んでこないよ」と言われます。それで「お茶ちょうだい」と言い直すと入れてくれるわけですね。一事が万事でこの調子でした。

 子供のころにあるお茶メーカーのテレビコマーシャルがあったのですが、そこでは上品なおじいさんが居間に正座して新聞か何か読んでいる。それからおもむろに奥に向かって、なんと「おーい!お茶!」と叫ぶわけですよ!(爆
 するとテレビでは「はい○○園ですね」とそのメーカーの名前を「お茶の代名詞」として運んでくるわけなんですが、これはもう、疑いもなく明確に「お茶」を呼んでいますよね。何しろ私みたいに目の前の母親に言うわけでもなく、誰もいない空間に向かって「お茶~!」って呼んでるんですから。もう子供心に毎日テレビの前で「お茶は飛んでこないよ!」と突っ込みまくっていました。

 よく「オヤジの代名詞」のように言われる「風呂!」「めし!」「寝る!」の3語も同罪です。
 「風呂!」→「風呂は飛んでこないよ。自分で行けば?」
 「めし!」→「誰に言ってるの?ご飯は飛んでこないよ。せめて『めし食いたい』と言いなさい」
 「寝る!」→「寝れば?」もしくは「寝たい(ので布団をしいて)」と言い直させる。

 この躾のおかげで私は結婚してからも、無生物を呼びつけることなく、ちゃんと「○○を取ってくれ」と言うことができています。しかし世の中はそういう人ばかりではない。お店に来ていただくお客様でも無生物を呼びつける方は少なくない。その注文個数まで言っていただける方は更に少ないが、まあそれはいいです。

 たとえば「マスター、ビール!」とか言っていただく場合は、「はい、生ビールが1杯ですね」と確認して、お客様が頷けば「かしこまりました!」とニッコリ笑顔で元気良く返事します。

 でもこれが「ビール!」だけだと、それも私の方をみないで適当にお客様が叫んでおられたりすると、あー!言いたい!あの一言を言いたい!喉元まで出掛かっているのに、そいつぁとても言えねえ!ぐっと飲み込んで、心持ち大きな声で「かしこまりましたぁ!」とニッコリ笑顔の私。

 でも一番まいるのは嫁さんがね、これをやることなんです。ちょっと場面は違うんだけれども、ご飯時なんかにね、大声で「ごは~ん!」と私を呼ぶんですよ、これが。子供はちゃんと「パパ、ごはん!(だよ)」って言ってくれるのに。
 本当はこんな呼ばれ方で返事したくないんだけれども、黙っていたり注意したりすると、口うるさいと思われて角が立つ。だって嫁さんはそれまでの人生で、それが普通だったわけで、ちっとも悪いと思っていない。悪いと思わないことを「注意」されると腹が立つ。本当にまあ、結婚は異文化交流の連続です。

 さらに言うなら、私は決して「つまみ食い」とかをしてはいかんと育てられた。だから作った人が「食べて良し」とするまで食べない。だからここで返事しないと、自分のこだわりを通した場合、いつまでも食べられないことになっちまいます。(^-^;

 嫁さんは私が「風呂!」「めし!」「寝る!」と「おーい!お茶!」をしないから、その点には応えて同じように無生物を呼ぶような言い方はしない。その点だけでもあり難く感じなくてはいけない。でも、でもぉ!やはり言いたい!あの一言を言いたい!

一度でいいから、これをやってみたいのだ!

  • お客様 「ビール!」
     私  「ビールは飛んできませんよ…」
  • 嫁さん 「ごは~ん!」
     私  「いいえ、私は『ごはん』という名前ではありません

●サイト内リンク

だれが中国を養うのか?
牛肉問題から見える資本主義
バーベキューセット半額!

●リンク

 んで、ここで「もったいない人々」というリンクを作ろうと思ったのだが、検索しても「もったいない」のは「お金や時間で損をしている」という話ばかり。おいおい、それちょっと違うよ。これも世相かねえ。

 本来の「もったいない」は、たとえ時間を損してでも、非効率的であろうとも、場合によっては不合理に見えたりお金を損してでも、与えられたものに感謝して使いきる、必要ないものは使わない、目的に達するために最低限のものしか消費しない、そういう 「思想」だったと思うんだ。

 かろうじてあった「もったいない」を正しい意味で使った話題が、外国人のものだというのが情けない。欧米の消費文化や「金さえあれば」と一味違う、「判官びいき」「もったいない」に代表される古き良き日本はどうした!立て右翼よ!(笑

マータイさん:国連女性会議で「もったいない」を奨励(毎日新聞)
精神的幸福と即物的幸福(目からウロコの仏教入門)

コメントを見る

  • 母が栄養士でした。一応食べることのプロではありましたので「もったいない」は散々言われて大きくなりました。調理とは、自分が生きるために他のイキモノを殺す行為なので、殺される側が納得できるように、大切に「始末をつける」「往生させる」作業なのだと。たまに外食でマズいものを食べて腹が立つことがあるのですが、マズイものを食わされたということより、命を粗末にしている感じがして激しく腹が立つ。

    わたし達は生きていく以上、食べるに限らずいろんなものの命を消費するしかないですから。ああ業が深い。
    せめて食材ぐらいは大事に扱えコンニャロメー(`・ω・´)です。

    あ、そうそう。ビールは飛んでもこないし、歩いてもきません。投げつけられることはあるかもしれませんが。客商売だと投げるわけにはいかない、でも投げたいこともある。サービス業のサービスを受けるのだって他人の生きる精神力を消費してるんですよー。

    学生の頃アルバイト先でお金を投げて勘定を払った客に、おつりを投げて返した人がいました。わたし的にはグッジョブだと思いましたが。

  • 【もったいないおばけ】
    http://www.bakebake.com/nyumon/nyu15.htm
    勉強や学校はともかく、食べることのしつけはうるさく言って、子育ても終わりました。
    テレビのグルメ番組もひどいよね。食通なんていってるヤツがろくに箸も使えなくて~とくにひどいのが中尾彬。

    「もったいない」は、英語や西洋には無いよう。
    アジアには、ある!
    朝鮮語 「アーカプタ(akkapta)」
    フィリピン 「サヤン(sayang)」
    ぬぁんと!インドネシアでは、「愛」という意味もあるんだと! 
    「sayang 内容(意味):惜しい、もったいない、残念、愛する」
    http://premium.nikkeibp.co.jp/mirai/column/edahiro/02/index.shtml

    こうなりゃ、アジア発・反グローバリゼーション「もったいない革命」で行くか!

    「もったいない」世界に響け ノーベル賞マータイさん 国連で日本語紹介
    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050305-00000030-san-int

  • 鍋山さん>
    いいなあ、「もったいない革命」(^-^
    私の場合、グローバリゼーションで一番違和感を感じるのは、やはり左翼思想からの云々ではなくて、その西欧的合理主義に徹した「血の通わない冷たい資本主義」に対してなんですよね。
    共有掲示板(http://hatahata.mods.jp/cgi/bbs/bbs.cgi)で主義者Yさんが「【もったいない】は必ずしも【効率】と矛盾しない」とおっしゃっているし、それはそうだと私も思う。でもやっぱり「効率だの合理的だのぺちゃくちゃさえずって、弱い者いじめすんじゃねー!人間は不合理で当たり前なんじゃ!」と言いたくなる。
    ただ、そういうのが復古主義だの全体主義だのに収斂されないために「左翼(的)思想」は使えると思っています。
     
    けいたさま>
    >お金を投げて勘定を払った客に、おつりを投げて返した人がいました。
    わははー!それ最高!私も一度やってみたい(商売人失格?)
    けどそうね、「命を食べている」「往生させる」という視点は重要かもね。そう思える人は、食べ物だけでなく、自分より弱いすべてのものに対して寛大な心を持てると思う。グローバリゼーションを支持する人には食べ物も「命」ではなくて「資源」に過ぎないのでしょうから、理解できない非効率な思想でしょうが。
     
    まあ、殺される命にしてみたら、結果は同じかもしれないけれど、たとえば食べ残して捨てられる魚を考えてみます。この魚は捕まえられ、殺され、資源を消費して遠方まで輸送され、同じく資源を消費して熱で焼かれ、そしてそのまま捨てられ、またも資源を消費して燃やされる。その過程にいったいどんな意味があったというのか。この魚は何のために死んだのか。生きるために食べることは悪いとは言えないとしても、確かに「お金」は動いて経済は潤ったかもしれないが、私が魚なら絶対に納得できない。そしてこの「資本主義的合理性」を批判できるのは左翼思想より「もったいないの思想」かもと思います。

  • はじめまして。幼少時の出来事を書かせて頂きます。

     私の父は結構厳格な人で、外食に出かけてもどこか振る舞いが固かったのです。メニューを見てオーダーするときに、品名と数だけをいうのは特に珍しくもありませんが、父は必ず「○○を幾つ下さい(或いは「お願いします)」と、生真面目に告げるのが習慣だったようです。
     当然、一緒にテーブルについた息子である私が
    *サーブされた料理についてうまいとかますいとか批評的なことを言う。
    *他の飲食店についての何か批評的なことを言う。
    *サーブされた料理になかなか手をつけないでいる。
    *私が自分で選んだメニューを食べ残す
     といった振る舞いを断固として許しませんでした。人前であろうが関係なしに私の脳天にはゲンコツが振り下ろされました。

     父は会計を済ませるときには必ず「ご馳走様でした。おいしかったです」と告げる人で、私がこれを言い忘れると店内であろうが人前であろうがお構いなしに叱責されました。食べ残しがあると「全部食べきれなくて残しました。ごめんなさい」と謝らないと会計を済ませたレジカウンターの前で仁王立ちして微動だにせず、息子をいつまでも睨み付けているような人でした。

     そういうわけで、幼少時の私は正直、父と外食に出かけるのは余り楽しくなかったのですが、ある時父は目玉をグリグリさせてこういった意味のことを言ったのです。(遠い過去のことなので正確には思い出せませんが)
     「おまえがテーブルについて、口を動かして何か言うだけで、料理を作っておまえの前に運んでくれる。食べ残しも始末してくれる。皿も洗ってくれる。我々親子のそういう横着さをお金で割り切ってお仕事として対応してくれる方々には、感謝の態度を示しなさい!」
     子供の私は、お金を払っている客なのに、何故そんな窮屈な考えを持たなければならないのか、それに、出てきた食事が不味いときだってあるではないかと不服に思いました(怖くて口には出せませんでした)。
     しかし、私自身が長じて何事かの職業人となり生計を立てる立場になってみると、きっと父は、その人が何かのプロとなるために費やした時間や苦労に対するリスペクトを忘れてはいけない、とか、本来的な意味でのサービスというものに対しては常に感謝の念を表明すべきだ、と、息子に伝えたかったのかもしれないと思うようになってきました。

      

  • T.O.Pさま>
    はじめまして。書き込みありがとうございます。
    最初、前半部分を読んで、お父上の振る舞いはちょっと違うような、単なる礼儀作法として子供に権威的に押し付けても逆効果な気がして読んでおりました。
    けど、後半のお父上の言葉に感動し、「ああそうだったのか」と納得いたしました。とても良い言葉ですね。また、その時は子供心に納得できなくても、歳を経るにつけ、徐々にT.O.Pさまが心で咀嚼され、身につけて理解されておられることにも感動しました。お父上ともども尊敬いたします。私は子供に何を伝えられているのだろうかと反省しきりです。
     
    確かに店の人間とお客様とは、まず金銭的な契約関係で結びついています。それは基本です。しかしやっぱりそれだけではない。「美味しかった」「楽しかった」と言ってもらえたら嬉しいし、お客様に楽しんでもらいたいと思うのは、お金をもらっているからだけではありません。むしろこの「金をもらっているからだけではない」部分にこそ、生きがいなりやり甲斐なりの、人間として大切な本質があるように思います。
    「こっちは客だ。金さえ払えば文句はあるまい」という感覚も、資本主義的には全く正しい見解ですし、少なくとも店のスタッフとの関係では文句を言うつもりもありません。でもやはり自分の子供にはそういう人間にはなってほしくない。お父上もそういうことを伝えたかったのではと思います。