YouTubeの仕様が変更になり、長時間動画を扱えるようになりましたので、1月30日、大阪市がおこなった日雇い・野宿労働者の強制排除について、私が撮影したその一部始終をアップの上、ここにも貼り付けておきます。
これは大阪市が皇族を迎えて開催する「世界バラ会議」の際に見苦しいという理由で、貧困のゆえに公園で過酷な野宿生活をしている労働者を、暴力的に追放するという暴挙でした。
当日は、大方の予想を遥かに上回る人数の抗議と支援の人々がニュースを聞いて公園に駆けつけました。当初は、ろくに抵抗もできないうちにあっと言う間に排除されるだろうと思われていましたが、蓋をあけてみたら、2回の総攻撃を押し返して、延々と7時間も踏ん張り続けるという、市側が想定もしていなかった事態となりました。
感じとしては辺野古の阻止行動みたいかな。とにかく「非暴力・不服従」が強調されてて、「絶対にこちらから手をださないで」と何度も何度も注意があった。また、排除にきた市の職員や、ガードマンの中にも、野宿労働者の命がけの必死の訴えを聞いて、とても辛そうな表情で、こっそり小さく頷きながら聞いている人が何人もいたことを伝えたいと思います。中には涙を流している人もいたそうです。あと映像のある通り、大阪市に雇われた民間ガードマン皆さんは、職員の盾みたいに使われいて、本当に気の毒でした。
代執行の当日、当然のなりゆきとして多くの良心的な市民による抗議と抵抗があり、大きく報道されたのは記憶に新しいところですが、残念ながら誤解を招くような報道も見られました。 市職員に負傷者が出たことのみ大きく報じられていますが、支援側も救急搬送3名(うち1名は全治1ヶ月の重傷)他軽傷者多数を出しており、1名が逮捕されるほか暴力的な弾圧を受けました。ましてや、追い出された人々を受け入れるために支援者側が用意した他公園のテントなどを当日先回りして撤去、封鎖するなどして、その行き場すら奪うと言う、救命ボートを沈めるような大阪市の非道な行為については、テレビカメラを追い出して公正な報道を妨害しようとした行為同様、ほとんど知られていません。
(「釜パトブログ」より)
当日の排除がはたしてどんなものであったのか、支援者は暴力的であったのか、是非ともその目でご覧いただきたいと思います。
報告記事については、すでにいろんな人がいろんな場所で書いているわけで、いまさら私が書くのもはばかられる気がしましたが、そんなことを言っているうちに、昨年の「11・11叩きつけ行動」に関する記録も書き損なってしまいましたので、以下、いまのうちに自分なりの記憶を書き留めておきたいと思います。
私の仕事は昼から翌明け方までの14時間~18時間労働ですので、この日も仕事が終わってから、そのまま寝ないで始発電車で現場に向かいました。
その時に私が得ていた情報では、前日深夜より公園は封鎖されるであろうこと、その時点で公園に残った者は全員逮捕の危険もあること、夜明けと共に襲撃がはじまり、市役所が開くまでに作業を終わらせるつもりらしいこと等で、どうも「野次馬のふりして公園に近づくのも難しいんじゃないか」とか、「半端じゃない大人数で襲ってくるだろうから、ほとんど抵抗らしい抵抗もできないだろう」と言われていました。
そこまで言われると、はっきり言ってビビっちゃいましたよ(笑)。しかし、「逮捕は恐い。でも、行かないときっと後悔する」と。
家族のいる身で、いま逮捕されるわけにはいきません。電車の中でも、過去48時間で3時間しか寝てない状態でしたので少しでも寝ようとするのですが、体は疲れているのに、緊張で全く眠ることができませんでした。とりあえず自分としては、撤去に反対する「阻止行動」は逮捕の危険が大きすぎて参加できないけれども、せめて大阪市の非道を見届ける「監視行動」に徹するつもりでした。
排除が予定されていたのは、大阪城公園と靱(うつぼ)公園の2箇所です。場所は地図で確認、検討した結果、より早く到達できそうな靱(うつぼ)公園に駆けつけることにしました。事前の情報から察するに、少しでも早く到着しないと、もう排除が終わっているかもしれないと思ったからです。
その時の私の予想では、公園内に残っているのはせいぜい30人くらいで、排除も30分とかからず終わるだろうと思っていました。おそらく、大阪市側もそう思っていたはずです。ところが実際には、この事前予想を全く覆すような光景が広がっていました。
午前6時45分頃、私が到着した時点で靱公園は確かにフェンスで囲まれ、封鎖されていました。警察車両が周囲にひしめき、私服警官らが続々と降りてきました。
わたしがおっかなびっくりフェンスに近づきますと、遠くに座り込んでいる野宿労働者と座り込みの人が見えました。何とかあそこまで行けないかなあ、でも公園に入ろうとしたとたんに、逮捕されるかもしれないなあと考えていますと、ちょうど報道のカメラクルーが通りがかったんですね。で、この人らについていけば入れるかもしれないと(笑)。
で、結果的にはうまくいきました。どう見ても私は報道陣には見えないみすぼらしい格好でしたが、一箇所だけ門が封鎖されずに開いていて、そこから多数の報道と一緒に見咎められずに中に入れました。ここも直後にフェンスで封鎖されましたから、間一髪だったと思います。
中に入って私はびっくりしました。30人なんてとんでもない。緊急に公園の道路側入り口に一番近いところに建てられた「団結小屋」のテント周辺には、軽くみても100人くらい。他にも公園のあちこちのテント前には。支援や野宿労働者の人々が点在していて、総数200人くらいはいるんじゃないかと思われました。
もしこの200人が本気で「暴力闘争」をしたら、大変な大騒動になることは、私のような「経験者」ならわかるわけで、実際にはそうなっていないことからも、決して良くも悪くも「暴力的」ではなかったことは、はっきりしています。
その場に知り合いが一人もいないで、のこのことその場に現れてしまった私は、何をどうしたらいいのかもわからず、とりあえず「団結小屋」前で報道陣にまじってカメラを回し、「監視行動」にそなえることにしました。団結小屋の前では、野宿労働者と、仲間の支援にかけつけた日雇労働者の皆さんが、シュプレヒコールなどで気勢をあげておられました。
そのうちに、大阪市が雇ったガードマンの大群が整然と押し寄せてきます。あとからあとから、途切れることがなく続いてきます!いった何人いるのか!
さらに白ヘルの大阪市職員の部隊が30~50人単位くらいで、ガードマンの影にかくれてあちこちに待機していました。報道によると、たった数名の野宿労働者を追い出すために税金で投入されたその総数は、600人から650人だったということです。さらにそのほかに大量の私服刑事の群れや、機動隊も多数集結してきます。あっという間に公園は制服で埋め尽くされてしまいました。
ここからは、職員たちが入ってくるのがよく見えた。数カ所の入り口から、きれいに並んで入ってくる、安っぽく整備されたところをオリンピックの行進のように。ずっと入ってきて、ぴたっと止まる。みな、きれいな制服を着ている。万里の長城のように人々が連なっている。 (中略) わたしは、ここは、舞台だな、と思った。 「あー」と大声を出したら、意外と大声がでた。だまって長城のように並んでいる職員たちの前で一曲歌うことにした。 「サンタールチア」 大声を出すには、ナポリ民謡が一番。(中略) 抵抗の一番わかりやすいやり方は、大声を出すことだと思う。言葉は実はなんでもよい。ひどい、でも、やめろ、でもなんでもよい。歌は歌えても、その場で大声は出なかった
(キョートット出版:小川恭平さん)
あー、いたいた、「サンタぁルぅ~チぃアぁぁ~!!」 と大声で熱唱している人!ムービーにも声だけ入っています。申し訳ないが、私はその意図するところがよくわからんかったです(笑)。まあ、抗議してるんだろうなというのは伝わってきましたが。
とにかく、一部始終をカメラに収めようと走り回りました。カメラが向けられていれば、市の職員やガードマンも、あんまり酷いことはできないだろうと。もしそれでもやったらネットですべて公開してやる!それが自分のせめてもの役割であろうと必死でした。
午前8時から排除がはじまりました。私は団結小屋前にいましたが、だいたい100~150人くらいの人間が押し寄せてきます。ガードマンが周囲を封鎖して、市の職員が押してくるという体制でした。
この時、気がつかなかったけれども、各テントでもいっせいに一箇所につき100人くらいの人数で排除が強行されていて、別のテントにいた前述の小川恭平さんはこの時点で排除され、仕事に間に合ってしまったくらいだそうです。
「おや?」と思ったのは、ガードマン達が、野宿労働者が前夜から徹夜で作ったというバラの造花を踏みつけるのをためらっていたこと。
このバラの造花は、自分達が「バラ会議開催の見栄えが悪い」という理由で排除されることへの、野宿労働者達の精一杯にして強烈な皮肉でもありますが、同時に「争う意思はない」という表明でもあります。
もし、機動隊なら何の躊躇もなくこれを踏みつけたでしょう。何しろ機動隊は、三里塚で、反対派農民の畑を踏み荒らして収穫間直の農産物を台無しにしたり、干してあった稲わらを田んぼに叩き落しても、それでも恬として恥じなかったのですから。
もう一つ、「おや?」と思ったのは、多くの市の職員がガードマンの後ろに隠れていること。つまりガードマンを自分と野宿労働者の間において、「人間の盾」として使っている。
で、自分は安全なところからグイグイ押している。さらに市の職員は交代で休憩をとって、タバコを吸い、飲食物を口にしているが、ガードマンはそれを横目に飲まず食わずで何時間もずっと立ちっぱなし。
さらに市の職員は、自分の上司の公園課長の名前が書かれた人形(支援の人が悪乗りして作ったもの)が地面に落っこちてしまったのを指差してゲラゲラ笑い、今にも踏みつけようとしてましたが、私が見てるのに気がついてやめた(笑)。大阪市職員はちょっとお行儀が悪いですね。ガードマンは可哀想でした。
この第一回の排除で、団結小屋前にいた人以外は、ほとんど公園の外に排除されてしまったようです。
一方、団結小屋に襲いかかった市側の排除部隊は若い男性ばかり約150~200人くらい、これに抵抗する野宿労働者とその支援の人々は100人足らずで女性や高齢者も多い。
しかしやはり全然意識が違う。数を頼んで押してくる「傭兵部隊」に対して、逮捕覚悟の「市民義勇軍」というところです。しばらくは互角の押し合いが続きましたが、そのうち、支援の男性が、苛立った市側のガードマンに突き飛ばされて転倒、コンクリートの段差の角で後頭部を強打して負傷しました。おそらく脳震盪をおこしたらしく、しばらく声も出せずに大混乱の人ごみの真ん中で倒れておられました。
ただちに救急車が呼ばれましたが、市側のガードマンは、どうして良いかわからないという風情で負傷者を見下ろしたまま突っ立っています。
「負傷者を外に出せ!」「封鎖をあけろ!」「救急車を通せ!」と罵声が飛びますが、それでも突っ立ったままのガードマンに、ついに野宿者側の怒りが爆発、「お前らどけ!」と、何人かが体当たりで負傷者を運び出す道をあけさせようとします。
最後には市側もおれて、救急隊を公園内に入れることに(やっと)同意したようで、負傷者は救急車で運ばれていきました。
この混乱の間、自然発生的に休戦状態になっていましたが、午前10時頃から市側は排除を再開。その人数もどんどん増えていきます。
私のそばにいたテレビ局のアナウンサーが「どんどん押し寄せてきます!」とマイクに向かって絶叫していました。それでも生活と命がかかった野宿労働者と支援の必死のスクラムを崩すことができず、逆に押し返されてガードマンの隊列が崩れる場面もありました。
長時間の攻防の末、ついに昼前にはいったん排除部隊を退却させることに成功。二回におよぶ排除を完全に阻止しました。
現場は団結小屋の仲間を中心に、それを包囲する市側のガードマンと職員がにらみ合いつつ、いつの間にかその外側に、私のような「監視活動」に立ち上がった支援の市民がぞくぞくと増えだしました。
この時間には広大な公園を封鎖する市の体制も混乱をはじめ、あちこちから市民が公園内にもぐりこんできました。それらがマスコミのカメラの放列とまざりあって完全に市側の排除部隊を「逆包囲」していきます。
かかる「三重丸」の状況で、現場は完全に膠着状態となりました。マスコミの中には、欧米人クルーの顔も多く見えました。打楽器を持ち込んだミュージシャンの力強い演奏も続きます。欧米人はこういうパフォーマンスがお好きらしく、必ずこのミュージシャンにインタビューしていました。
旅行者とおぼしき欧米人も何人かいました。「いったいこれは何の騒ぎ?」って感じで周囲の人に英語で尋ねておられましたが、「公園に寝泊りしているホームレスを、市が排除しようとして、支援の市民団体と共に抗議しているのだ」と知ると、明らかに「信じられない!」という感じで、市側を睨みつけ、その中には一緒に座り込まんばかりの勢いで団結小屋のすぐ側まで近寄る年配のご婦人もおられました。
まさしく市の排除部隊は、時間と共にどんどん追い詰められ、市民の怒りに逆包囲されていきます。おりから小雨がふり出し、何時間も雨の中に突っ立ったままの市職員の厭戦気分に拍車がかかります。
11時頃には野宿労働者側からマイクで「昼飯休戦」の呼びかけがあり、同時に「私達はこのような混乱を望むものではない。強制的な排除を中止して、お互いに話し合いのテーブルにつこう。話し合いで解決しよう」という申し入れがありました。
支援の人々に対しては、何度も「非暴力に徹してください。どんなに挑発されても、こちらからは手を出さないでください」という注意がありました。私は知らなかったのですが、ちょうどこの直後に市役所では市の幹部職員が記者会見に応じており、幹部職員の口から「現在の事態は想定外のことである。どうするか今、検討中である」という発言があったそうです。
野宿者側にどれほどの自覚があったのかわかりませんが、この時点で野宿者側が一時的にせよ大阪市を逆規定する関係に入っていたと思います。市は野宿労働者にまさかこれほど多くの支援があるとは思ってもいなかったでしょう(かく言う私も驚いたくらいですから)。まさしく現場の膠着状態は、この市側の混乱をストレートに反映したものであったのです。この時点で大阪市は強制措置を中止し、話し合いの呼びかけに応じるべきでした。
この膠着状態の途中で、一度だけトイレに行きました。面白かったのは、トイレでは大勢の市の職員やガードマン、それに野宿者と支援が、みんな仲良く一列に並んでまざりあいながら、順番を待っていたことです。みんな行儀がよくて、便器の前では支援者とガードマンが譲り合ったりと、マナーの悪い大阪では稀有の光景でしたね(笑)。
なんとなくこういう生理現象はお互い様というか、トイレ周辺だけが休戦地帯で、そこだけ赤十字のマークが立っているような風情で微笑ましかった。三里塚の機動隊との間では絶対に成立しない光景だったと思います。
そうこうしているうち、12時頃だったと思いますが、団結小屋からバラ園をはさんだ公園の反対側で、市職員の動きがあり、悲鳴と怒号が聞こえてきました。
ここからでは遠すぎて何がおこっているのか見えません。私はカメラを抱えて駆け出しました。息せき切ってかけつけてみると、そこでは40人ほどの市職員が、雑木林の奥にひっそりと立っていたテントを破壊しているところでした。公安の私服刑事が何やら市の職員に指示しています。支援者20人ほどが林の柵の外から「もうやめて!」と、悲鳴に似た抗議を浴びせていました。
団結小屋のスクラムをどうしても崩せない大阪市は、「どうするか検討」した結果、とりあえず早朝に支援者を排除して無人になったテントから破壊して回ることにしたのです。
その様子を撮影していたテレビ局のアナウンサーが「今、市の職員が、野宿していた方のテントを”ゴミ”として片付けています。もう跡形もありません」と実況していましたが、まさしく市の職員は、テントを徹底的に破壊しました。床材に使われていた板をくぎ抜きで叩き割り、外壁に使われていたブルーシートを引き裂き、布団を土足で踏みにじって木屑や泥と一緒に積み上げました。昨日までの生活の場所は一塊の廃棄物と化しました。もはや使えるものは何もありません。
この事態を指して大阪市は、「放置物を撤去保管し、いつでも持ち主に返還できるようにしました」と臆面もなく広報しています。私は後日にこの大阪市の広報を見て、血が逆流するほどの激しい怒りをおぼえました。なぜ、当日にもっと抗議して罵声をあびせてやらなかったのかと心底後悔しました。
「撤去保管」だって?「持ち主に返還」だと?ふざけるんじゃない!あれがそんな生易しいもんだったか?おまえら支援者が実力阻止しないのをいいことに、公安警察の指示をうけながら、憎しみをこめて破壊しつくしてたじゃないか!
大阪市は正直に「浮浪者どものテントを二度と使用できないように徹底的に破壊してやりました。これでやつらも少しは思い知ったでしょう」と広報するべきである!!
大阪市のかかる「保管」だの「返還」だのいう建て前を投げ捨て、「破壊」と「暴力」にすがった暴挙は、一方では、野宿者への支援と同情の声の大きさを読み誤り、膠着して動けなくなった彼らの焦りと苛立ちを反映したものでもあります。
交代で休憩をとる市の職員はともかく、自分達を守るための「盾」にしているガードマンには、さすがに体力と気力の限界も近づいています。かく言う私も喉はカラカラで、お腹もペコペコになってきました。早朝にコンビニのおにぎりを1個と眠気覚ましの栄養ドリンクを1本飲んだきりです。空腹はまだ平気でしたが、水が飲みたくてたまりませんでした。
こうして「水断ち」していたせいで、ほとんどトイレに行かなくてもすんだわけですが、テント破壊の現場を撮影した後、しばらく水のみ場を探してふらふらと歩いたくらいです。緊張のせいで相変わらず眠気はありませんが、丸二日寝ていないのも体力的に効いてきました。「外に出る」と言えば出してくれるだろうが、おとなしい(?)私には、それからまた公園内にもぐりこむ自信がない。結局は諦め、「これくらいのことでねをあげるなんて、野宿労働者の苦闘にくらべたら恥ずかしいぞ!」と思いなおして、団結小屋前に戻りました。
団結小屋に戻ってみると、そこでは大阪市側の「予定」通りに、午前中に排除と撤去(という名前の破壊)が完了した、大阪城公園の仲間達が合流していました。大阪城公園には支援者も抗議の人数をさくことができずに手薄なため、短時間で破壊されてしまったようです。こんなことなら、私も大阪城のほうに行けばよかったかもしれません。
さらに、今日排除された野宿者が寒さをしのげるようにと、扇町公園の野宿仲間が一時的に設置した仮設テントが、撤去のための手続きも通告もなしに、「もののついで」と言わんばかりに先回りして破壊されていたことが報告されました。まさしく「救命ボートを先に沈めてから本船を撃沈する」がごとき人でなしの行為です。
大阪城公園の仲間のテント破壊に抗議してきた、日雇労働者の仲間が、その場にあったマイクを片手に、怒りで声をふるわせながら、大阪市職員に向かって、火を噴くような抗議の演説をはじめました。
「野宿者も市職員も同じ労働者なのに、なぜ団結しようとしないのか!」「(野宿労働者が)一緒に飼っていた公園の犬は排除されない。わしら犬以下だと言うんか?」
「テントを破壊するということは、野宿者に死ね!と言うのと同じことなんや!そんなん誰も納得できひん!」「家に帰って自分の子供に”今日、野宿してる人のテント壊して追い出してきた”と胸張って言えるか?言えへんやろ!言えへんことはしたらあかん!」
「シェルターにはプライバシーもない、布団には枕もないし、シラミがわいてるやないか!野宿者ならそれで充分なんか!野宿者やからそれでもええと言うのか!それが差別とちゃうんか!」
「シェルターなんか誰も喜ばない施設ばっかりいっぱい作ってるやないか!だが作って運営しとる奴は儲かってる。シェルターの所長だけは年収1000万や!はっきり言うわ、おまえら野宿者を食いモンにしとるだけやないか!予算の70%はそういう施設費に使われて、実際にわしらのために使われるのは30%あるかなしかや!」
「75年にも大阪市は野宿者を排除しようとしたが、その時に君らの組合の公園支部は、ちゃんと反対声明を出して闘ってくれたよ。変わってしもたんかいな、そやないやろ!労働者の魂あるやろ!だったら今すぐ回れ右して帰ってくれ!そして話し合いをしよう。強制やなくて話し合いやったらなんぼでもする!」
この演説が進むにつれ、その場の市職員はうつむき、顔をこわばらせて、いかにも辛そうな表情になっていきました。「優しそうな顔の人も大勢いるやないか、本当は帰りたいと思っている人もいるんとちゃうか?」と優しく言われた時、思わずうなづいている職員がいたのを見ました。
人民新聞の記事によると、公園の外では、排除された仲間が入り口を封鎖している市の職員と対話していたそうです。「組合はどこ?」と問われて「自治労や、ここに来てるんはみんな自治労やよ」と言うので、支援者が「こんなことしてるようでは、天下の自治労も泣くね」と言うと、「ほんまやなあ」とうつむいていたそうです。
12時半ころ、ついに動きがありました。大阪市は悪い意味で「腹をくくった」ようです。そこには大阪府警公安の意向もあったと思います。一歩ひいた地点にいた公安達が、市の幹部職員としきりと打ち合わせをして指示をはじめましたから。
別の場所にいた市職員が大量に団結小屋前に集められました。前からここにいて、先ほどの労働者の演説を聞いていた職員と、後からきた職員とで、空気が違うように感じました。前からいた職員は意気消沈して厭戦気分が蔓延していますが、後からきた職員は、ピリピリと苛立っているように見えます。
いよいよ総力をあげた本格排除かと思いました。私はそばにいたガードマンに、「もうすぐ終わりですね。お互いに怪我のないようにしましょうね」と語りかけると、ガードマンはにっこり笑って「はい」とうなづいてくれました。ああ、この人も労働者なのだなあ、機動隊のような「権力」とは違うのだなあと思いました。
なぜ労働者同士がこうして争わさせられねばならないんだろうか。でも、今日はみんな頑張ったよね。本当にここまでよく頑張ったよね。そう思うと涙がにじんできました。ガードマンに見られないように、急いでぬぐいました。
すぐに排除にやってくると思った彼らは、しかしすぐには襲ってきませんでした。驚くなかれ、彼等がまず一番最初にしたことは、報道陣、とりわけテレビカメラの排除だったのです!
市の包囲網を逆包囲していたテレビクルー達を、脚立をゆすっては引きずり下ろし、大勢で取り囲んで一人づつ公園外や、現場から遠く離れた所に排除をはじめました。野宿者側からいっせいに怒号が飛びます。これには私も先ほどまでのセンチメンタルな気分も吹き飛び、怒りで手を震わせながら、その様子を撮影し続けました。
一緒です!三里塚での強制代執行の時に権力がやったことと!そしてイラクでアメリカ軍がやっていることと!こんなこと市の職員が思いつくはずがない。背後に公安警察のレクチャーがあることは明白です。報道陣(特にカメラマン)も、とまどいつつ、一応は抵抗のそぶりを見せますが、最後はしぶしぶと引き上げていきます。
支援者達は、急いで、包囲の内側にいた新聞記者とカメラマンだけでも排除されないよう、スクラムを組んで記者を防衛します。が、よく見ますと、支援者が必死に防衛していたのは産経新聞の記者だったという(笑)。ずっこけましたね。いえね、単に反動的な新聞という意味ではなくてね、野宿者と産経については、ちょっとした因縁があるのですわ。まあ、それは後日にここでも取り上げて紹介したいと思います。
さて、次に彼等がやったことは、やはり包囲の外側で逆包囲していた「監視行動」の人たちを、一人につき10人から20人くらいがとり囲んで公園の外に引きずり出すことでした。
こちらは記者よりもはるかに強く抵抗しましたが、あらかじめ野宿者側から「絶対に手を出さないで、非暴力に徹してください」という呼びかけがマイクで何回もされていましたので、みんなそれに従い、結局は大勢で抱きかかえられたりしながら放り出されていきます。さらには包囲網の内側で一人で立っていたような人まで、油断しているとゴボウ抜きされていく。こうして人数を減らせるところまで減らしてしまう作戦のようです。
包囲の外でカメラを回しながら監視行動をしていた人は比較的女性が多かったのですが、その排除に「活躍」したのが、市側の女性ガードマンです。
彼女らは黒い靴に黒いストッキング、黒のスカートに黒いコートと、全身が黒づくめ。市の職員の指示に従って、一人の女性を大勢の黒づくめの女性が取り囲んで、無言かつ無表情で連行していきます。
その光景がすごく恐い。なんだか近未来を舞台にしたアンチ・ユートピア小説やSF小説の一場面を見ているようでした。先に書いた外国人旅行者の女性も、彼女らに連行されていきました。ちなみにこの女性は黒づくめの包囲網をふりきろうして抗議するなど、報道陣なんかよりよほど頑強に抵抗していた。偉い!
こうして手足をもがれるように、団結小屋は裸にされていきました。報道のカメラもずっと遠くに下げられてしまった。もはや残っているのは、50人くらい。この時、そこにいた一人一人に決断が迫られていたと思います。取り囲んでいるのは、もう何百人かわからないくらいの人数になっています。今度こそ勝ち目はない。あくまでもここに残れば、逮捕されるかもしれない。自発的に出るか?それとも残るか?
けれども、残った誰の頭の中にも、「出る」という選択肢はもうなかったと思います。歯をくしばっている人もいました。スクラムを組みながら、お互いの顔を見つめあいながら、うなづいて笑っている人もいました。みんないい顔をしていたと思います。これが人間の顔だと思います。それを見ながら、再び涙があふれてきました。
私にも、もう「監視行動」という中間的な道は残っていないことを悟りました。包囲とスクラムの中にいる限り、すぐにくる総攻撃的な排除に対面することになり、否応なく「阻止行動」の輪に入ることになります。かといって、包囲の外から監視しようとしても、ただちに取り囲まれて公園外に排除されてしまうでしょう。
ここまで来て、最後の最後に自分から出てしまうことができるでしょうか?「きっとすごく後悔する。だったら、もう、いいや」と思いました。ここに来る前に、ネット友達の何人かに、「もしもの時」のことはお願いしてあります。家族や職場も含めて、最低限のことはどうにかなるでしょう。ここは甘えて彼らに迷惑をかけさせてもらおう。
その時、一人の女性がマイクを片手に「メーデー歌」を歌いだしました。
聞け万国の労働者 とどろきわたるメーデーの
示威者に起る足どりと 未来をつぐる鬨の声
汝の部署を放棄せよ 汝の価値に目醒むべし
全一日の休業は 社会の虚偽をうつものぞ
われらが歩武の先頭に 掲げられたる赤旗を
守れメーデー労働者 守れメーデー労働者
(メーデー歌:大場勇作詞・栗林宇一作曲)
みんなでつぶやくように唱和します。って、その後に続けて「六甲おろし」(阪神タイガース応援歌)をみんなで大合唱したのが、いかにも大阪ですが。しかもこちらのほうが皆知っているので声が大きかったという(笑)。
などと言ってるあいだに、とうとう総攻撃が始まりました!目の前のガードマンがいっせいに「わーっ」という感じで迫ってきます。もはや最初の攻撃の時のような迷いがいっさい感じられません。3回目だし、きっと彼らももう限界だったのでしょう。気持ちはわからないでもないけれど。
私はそんなガードマンから、後ろの人にドカンと押し付けられ、後はもう何がなんだかわからない。必死で足をふんばって耐えるだけで精一杯でした。押されまいとするけれども、今度ばかりは相手の人数が多すぎる。全体がどうなっているのかもわからない。自分一人が耐えるだけ。
そのうちに足をすべらせて転んでしまいました。この状態の中で転ぶのは非常に危ない。必死でもがいて立ちあがろうとします。誰かが背中の衣類をつかんで引っ張ってくれたので、やっと立つことができました。野宿労働者らしい初老の方が、もみくちゃにされながらも、目に涙をいっぱいに浮かべて、職員一人一人の顔をのぞきこみながら、懸命に抗議しておられました。後で人民新聞の報道から、この方が当日に自分のテントを破壊された方だと知りました。
もう前しか見ていませんでしたが、後ろで音がするので振り返ると、市職員が団結小屋のテントに貼り付いて破壊しようとしていました。一人がもみくちゃになりながら、骨組みにしがみついてネジをはずそうとしている。奥のブルーシートが「ビーッ!」と大きな音をたてて破けると、その向こうから市職員が3人くらい出てきました。まるでドリフのコントようです。
テントの前だけでなく、後ろにも、凄い数の職員がいたことが、この時にはじめてわかりました。最後の骨組が倒されようとすると、それにしがみついている人が見えました。私は骨組みを引っ張って、その人が怪我をしないようにしようとしましたが、たいして役に立っていなかったと思います。
その姿を見て、私も骨組みにしがみついて妨害しようとしていると思われたらしいです。左足にドカン、ドカンと激しい痛みを感じました。誰かが蹴っているらしい。左側には市の職員しかいないから、その誰かだけれども、もう混乱していてその顔を確かめてやる余裕もありません。
私以外の人も、かなりの怪我を負ったようです。途中で「怪我人が出たからいったん引いて!」と叫び声が聞こえましたが、いくら叫んでも、市側は攻撃の手を緩めようとしません。怒りのあまりに「下がれ!」と怒声が飛びますが、なおも押してきます。実はこの時の怪我人は、足の骨を骨折していたそうです。
「危ない!危ないから!怪我するから!」と言いながら、支援者を引き剥がそうとしている職員がいました。私は蹴られた痛みをこらえながら、「何を言ってやがんだ!」と思いましたが、今から思い出せば、彼はテントの破壊行動はせずに、ずっと職員と支援者の間に割ってはいることばかりしていた。それももちろん支援者への妨害には違いはないんだけれども、彼はどんな思いだったのかなと考えてみたりします。
そのうち、ついに最後のスクラムが崩れました。テントは完全に倒れています。「皆さん!これ以上の混乱と怪我をさけるために、いったん出ます!」と、野宿者の方が大声で提議され、残った私達はスクラムを組み直して分断されないように注意しつつ、ガードマンの包囲のすきまから一気に外に出ます。
この時はガードマンがたじろぐほど、全員がすごい形相をしていたと思います。そのまま公園内をしばらくの間スクラムデモしました。離れた所にある出口から外に出ようとすると、外側で公園を封鎖していた職員が、あわててフェンスをあけて私達を外に出します。彼らにとって、「公園の外」のことは関係ないのです。
そのまま公園沿いにデモをしながら移動。団結小屋に一番近い入り口のあたりで、先に排除されていた仲間が合流し、デモ隊は膨れ上がります。で、そのままその入り口から公園内に再突入。再度の公園内デモを試みます。
この時に、入り口を封鎖していた初老のガードマンが、フェンスとデモ隊にはさまれてしまい、もがいておられました。私がデモ隊の後から追いついて、このガードマンに手をさしのべ、「危ないからこちらに来て!」と言いますと、ガードマンは喜んで外に出てきました。このあたりもやっぱり機動隊とは違うなあ。
その後で、私も一番後ろから公園内に入りましたが、20メートルと進まないうちに、慌てふためいて真っ青になった職員らの阻止線に阻まれていました。デモ隊の勢いからすると、簡単に突破できたと思うのですが、今度も衝突をさけて抗議にとどめ、そのまま外に出ました。
外では今度こそ本物の機動隊が道路を封鎖しており、私達はそのまま横の児童公園に移動します。この時に一人が私服に逮捕されたそうです。
児童公園内に集まった仲間は、先に排除されていた仲間や、大阪城公園の仲間を加えて200人くらい。すでに帰っている人もいますから、これはかなり誰にとっても予想外に多い人数だったと思います。
時計を見ると、なんと午後2時になっていました。「あっという間に排除される」「始発電車でも(排除に)間に合わないんじゃないの?」と、支援者でさえ思っていたというのに、蓋をあけてみたらどうでしょう!排除の人員が到着しはじめたのは午前7時ですから、それから7時間、実際に排除がはじまってからもで6時間も延々と抵抗し続けたのです。
大阪市は午前中にすべての作業を終わらせるつもりでいたようです。テレビのインタビューでも、現場の責任者とおぼしき役人が「想定外の事態でした」と険しい(寂しい?)顔で答えています。
しばらくの間、抗議のシュプレヒコールなどを繰り返した後、大阪市役所に抗議に向かうことにしました。この時、恐る恐るズボンをめくると、左足はかなり酷いことになっておりました。まあ、これくらい、もっと重症の方もおられますから、大したことではないんですけど、見た目はかなり派手です。なんとなく北欧系かなと思われる、外国人の女性の方が近寄ってきて、片言の日本語で驚いたように「ダイジョウブ?」「ダレニ、サレタ?」と、声をかけていただきました。
その後、三々五々、徒歩で市役所に向かいました。私も「このままでは帰れない」という思いからご一緒させていただきました。本当に知った顔が一人もいないので、ただ付いていっただけなんですが、それでも精一杯に抗議のシュプレヒコールをあげてきました。私達の声は「ミニ小泉」こと関市長に届いたでしょうか?
先日、読者の方からたいただいたメールには「大阪市長側近が『関市長も気にしている』と今週はじめにのたまっていました。大義のある抵抗がある限り、権力者にも一片の良心が残っているならば、良心の呵責を感じざるを得ないのだと実感しました」とありました。本当に良心の呵責を感じてくれているのでしょうか?それなら本当にいいのですが、そしてもう二度とこんなことをしないで欲しい。
入り口には市の職員がピケをはっていましたが、その顔は眉間に皺をよせて、本当に「困ったなあ」という顔が多かったように思います。彼らの中には、「本当はこんなことしたくない」と思っている人が確かにいたと思います。
抗議行動の最後に、「これから扇町公園に移動します」という提起がありました。今日排除された人たちは、扇町公園のテントに一時避難するはずでした。その一時避難所さえ、大阪市は先回りして破壊していたのです。
みんなはお互いのグループや知り合いに分かれて、ある人は電車で、ある人は乗ってきた車で、扇町公園への移動をはじめました。誰も知り合いがいない私だけがポツンと取り残されてしまいました(笑)。ちょっと迷いましたが、もう体力的にも限界でしたので、ここで帰宅することにしました。
帰り着いた頃にはすでに夕方でした。服を着たまま倒れこんだ私は、そのまま翌日の昼まで眠り込んでしまいました。でも、こうして眠れる家がある私は本当に幸せです。この日に排除された人々は、今は散り散りばらばらになっているそうです。
それでも、うつぼ公園の野宿者たちは、連絡をとりあって、排除後に声明を出しました。うつぼ公園に住んでいた野宿者たちは自治会を作っていたそうです。その自治会声明には、今まで公園に住まわせてくれて、暖かい支援の手を差し伸べてくれた近隣住民達への感謝とお礼、そして「お騒がせして申しわけありませんでした」という言葉が書かれています。私はそれを読んでまた泣きました。
地域の皆様や商店街の方々にいままでの支援ありがたく感謝しております。食物、アルミ缶、古新聞などを、いただきました。「死んだ夫の古着です。きてください」と、わざわざテントまでもってきていただいた方もいらっしゃいました(このような方々は決して外に向っていわれませんが、私達を理解し支援してくださいました)。今だに失われない、日本人のやさしいおもいやりを感じます。ありがとうございました。
(靭公園自治会声明より)
靭の桜は美しい。ましてそれを観る人々は桜にまけないほど整然とならびすわり、酒を飲み美食し、やさしくおもいやりの心で野宿者にテント生活者にふるまい美食をわけた。その光景は、桜の下で1つのものとしてとけてゆくようだった。今は桜も人をこばむフェンスの中にある。
せめてこの日のことは、一生忘れずに、心にとどめておきたいと思います。
◇傘もささず、行方知れず(釜パトブログ)
◇靱代執行の写真(釜パトブログ)
◇30日(キョートット出版のブログ)
◇靱・大阪城の強制排除阻止行動(日日是丹精)
◇ホームレス問題について(アッテンボロー)
◇ゲシュタポ尋問官と大阪市職員(つぶやき手帳)
◇[ザッカン][非正規雇用問題][障害者福祉][尊厳死]数点(いちヘルパーの小規模な日常)
◇公園の利用とは?ホームレス排除問題に想う(山鹿ニュース‐山中鹿次のブログ‐)
◇書評「ホームレス入門」(Birth of Blues)
◇行政代執行を見て──悪の陳腐さについて(P-nave info)
◇「施設」と生きる場所の違い(P-nave info)
◇関西テレビ「なぜ、公園を離れないのか」(P-nave info)
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ご報告ありがとうございます。
聞け万国の労働者のところで涙が出て、職場で一人泣いてしまいました。
まさしくガードマンや市職員は
「汝の部署を放棄せよ 汝の価値に目醒むべし
全一日の休業は 社会の虚偽をうつものぞ」
だったんでしょうけど・・・
あの日、現場にいた者です。
詳細な手記と、貴重な映像による報告、ほんとうにおつかれさまでした。
拙ブログと、身内の掲示板などで紹介させていただきました。
はじめまして。Arisanのブログを通じてこちらを拝見させていただきました。自分の言いたいことは支離滅裂なのですが、私のページでこちらのエントリーをトラックバックさせていただきました。
ご報告と映像、ありがとうございました。
某作家のblogのコメント欄で「ガードマンが同情されている」などと紹介されていたので存在を知りました。
この件については関東では断片的な報道しかなく、「ホームレスを大阪市が大勢の職員を動員して排除した」「途中で報道関係者が排除された」と言う程度の事しか状況としてはわからず、非常にやきもきしていました。
これだけの人のふれ合いがあったとは…ガードマンも動員された大阪市職員の多数も(最後に出た黒服の女性職員はどういう考えかよくわかりませんが)良心の呵責を感じながら結局命令に従うしかなかったと言うのが哀しいと同時に、
命令やアドバイスをした市幹部や公安警察の連中に対して泣いても泣ききれない程の怒りを覚えました。
私もかれこれ15年ほど前に東京は原宿などで街頭にでていたりなどしていたので、公安や都の職員と睨み合いになったり機動隊に引っこ抜かれたりと言う経験があり、その時に感じた行政上層部の不粋さや非道さ、警察という組織の暴力性や逆に野次馬の持つ温かさと言う、今の自分の姿勢を決定付けた源体験を思いだし、
不惑にも「ワルシャワ労働歌」の件で嗚咽してしまいました。
大阪の野宿労働者の皆さん・支援者の皆さん・そしてその場で支援に立ち上がった皆さん、これは一つの「敗北」だったかもしれないけど、この事態によって確かに獲得している物も沢山あると思います。
まだまだ長い道のりが続くと思いますが、相模原の地より応援申し上げます。
今後の健闘をお祈りいたします。
皆様、いろいろと暖かいコメントありがとうございます。本当にいつもとても励みになっています。このエントリーに限らず、なかなかお一人お一人にレスができなくて心苦しく思っていますが、書いてよかった。また書こうと思える私のエネルギー源です。
私の場合「参加した」と言いましても、たった一日そこにいただけです。けれども、こうして皆様の投稿を拝見し、私が自分の目で見、自分の耳で聞いたそのままを、一人でも多くのみなさんにお伝えすることで、私が参加した意味もあったのかな、少しは役にたっているのかなと思えています。
私の手記は、客観性を重視した、いわばレポートなんですが、大阪城公園の強制排除に抗議された方の手記である「傘もささず、行方知れず」は、抗議闘争に参加された支援の方々や、当事者である野宿労働者の心情を中心に、それが痛いほど伝わってくる、本当にすぐれた文章です。上の「参考リンク」にも入れましたし、当ブログにも転載・保存させていただきましたので、是非、ご一読ください。
その手記の中に、強制排除の前日、支援の人たちが「自分のやりたい形の闘争ではなくて、当事者である野宿労働者の気持ちや希望を聞き、支援はそれによりそうような形にしよう」ということが話し合われたという内容があります。緊迫した現場で、このようなことが自発的に話し合われたという事実に、深く感動しました。もちろん、なんでも当事者の言うことをそのまま聞くだけが支援の形ではないでしょう。支援の意見を当事者に伝えることも必要だと思います。けれどもやっぱり、私は「自分のやりたい闘争」をしただけかもしれないという思いは残ります。
私は当事者の野宿労働者の方々や、それと深くかかわって行動を共にしておられる支援ボランティアの方々の呼びかけに応えて、自分なりにできることをしました。そのことは間違っていないと思いますし、野宿者の問題に限らず、世の中の不正を憎む一人でも多くの人々が、自分のいる場所で今、出来ることをしていくことが大切だと思います。私のしたことはそのうちの一つ、小さな小さな行動だったと思うし、やはり主人公は当事者である野宿労働者と支援ボランティアの方々だという、当たり前のことを常に忘れないようにしたいと思っています。
一口に野宿労働者と言っても、これも当たり前のことですが、様々な方がいます。厳しい労働に耐えて日本の基礎を築きながら、使い捨てにされた生粋の下層労働者もいれば、去年まで年収ン千万円だった元社長までおられます。当然に意見や意識も様々でしょう。阪神大震災の時は、自分が被災者でありながら、支援ボランティアに全面協力して東奔西走した方もいれば、支援が用意した精一杯の食料炊き出しにも、まるでレストランの客みたいに文句をつける人もいました。同じような光景は野宿労働者の間でも見られます。もちろん「俺たちはボランティアなんだから、食えるだけありがたく思え」みたいな見下した態度は論外だと思いますが、支援も事情がある中で必死に頑張っているのですから、いちいちくってかかるのもどうかと思います。
こういう奇麗事ばかりではない、文字通り生きるか死ぬかの境界で闘われている野宿者の人間としての生存をめぐる闘いの中で、自分のしたことにどういう意味があったのか、あるいはなかったのか、これからゆっくりと暖め、考え、今後の行動と人生に思いを巡らしていきたいと思っています。
RT @kousuke431: [過去記事ランダム] 強制排除阻止行動に参加して http://t.co/1Dq0pSpPtf