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懐古的資料

青年の党派たれ! 戦旗派86年年間総括

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二.86年階級攻防の概要(後半期)

 だがここで問題となったことは、第一にわれわれが3・25戦闘の炸裂をつうじ、否応なしに右翼民間反革命との攻防に巻き込まれている間に、三里塚現地にあっては熱田派の二期決戦体制の構築が大きく遅れ、秋に下されることになった東峰判決まち、東峰判決に備えてのカンパ要請や身辺整理はおこなうがそれ以外に対しては『眠り込ん』でしまうという気運の増大である。

 第二には4・29~5・4でわれわれが作り上げたヘゲモニー性に対し、第4インター、プロ青などの協商懇右派勢力が6・15「ぶっつぶせ中曽根!六月行動」なるものを対置し、再度の地域住民運動主義的な形での全国闘争のヘゲモニーの奪還をはかろうとしたこと、およびそれに対しわが同盟が充分にかかわりきれず、「皇太子訪韓阻止・戦艦ニュージャージーの佐世保寄港阻止」をかかげた前段集会を提起しえたに止まり、4・29~5・4闘争牽引の政治的成果を一過性のものにおしとどめてしまっていたことである。

 要するに右翼民間反革命の襲来に対し全面的にそれヘの対処にのめり込んでいかざるをえなくなっている状況下(3、4、5、6月)わが同盟は4・29-5・4で作りあげた政治的関係を保持しえなくなり、しかも用水攻防をつうじ形成された反対同盟の左傾化にも空洞化をもたらし、「政治的空白」の時間を作ってしまったのである。

 こうした状況の進展に対し7・27政治集会を××××名でうちぬいたわが同盟は、それに先立つ7・23に小泉揚水機場へのゲリラ・パルチザン戦を発動し、又8月戦艦ニュージャージー寄港阻止をかかげ、安保―日韓体制打倒闘争の旗幟を再度鮮明にした。しかる後に右翼民間反革命との闘いを、4・29闘争に決起した全潮流の共通の課題とするべく中核派、革労協狭間派まで含めた反弾圧集会を設定せんとしたわけである。

 これらは8・24横須賀米第七艦隊ロングビーチの寄港阻止闘争、および9・6四谷公会堂での反弾圧集会として結実したのであるが、しかしここでの巻き返しを三里塚現地-農民レベルにまで波及させていくには至らなかった。

 かかる情況下、9・14三里塚集会における菅沢基調での話し合い示唆問題が発生し、明らかに東峰判決との「取り引き」を念頭においたと思われるこの発言に対し、わが同盟は9・15抗議声明を提起することによって話し合いの阻止にはいったのである。

 9・14基調に対し直ちに9・15抗議声明を発したのは、何はともあれ中曽根の二期着工攻撃の切迫のなかで、熱田派反対同盟を条件闘争派化させてはならないということ、いかなる政治的軋轢を生み出そうとも、20年間の三里塚闘争の成果を簒奪する「話し合い」路線を粉砕し、闘争的大義の旗を守りぬかねばならない絶対的必然性があったためである。

 9・15抗議声明に対しては、「やり方が稚拙」だとか「手続きがおかしい」「第三項の事実がちがう」等の批判を、第4インター、プロ青などはなげかけ、菅沢氏擁護の論陣をはってきたのであるが、とんでもない話だ。われわれが9・15抗議声明を出し、熱田派の話し合い路線への傾斜に強硬にストップをかけたからこそ、熱田派の条件闘争派化は阻止され、話し合い(熱田氏と菅沢氏の8月における当局との交渉)は停止したのであって、わが同盟が決断しなかったなら熱田派の存続そのものさえ危うくなっていたのは全く自明のことである。
 その点で第4インターやプロ青は事実上話し合い路線に屈服し、前衛勢力としての任務を100%放棄したのであって、恥ずべき後衛の位置にしかいない。

 ともあれこうした経緯を経てわれわれは、夏秋期において再び、熱田派に代表される政治勢力の左翼的牽引およびその内部の右翼市民主義との対決をつうじた日本階級闘争の左傾化、武装闘争の保全と発展の道へ舞い戻っていった。そこでは10・19反安保連帯行動の組織化と10・14ゲリラ・パルチザン戦闘をつうじて、中曽根の戦争国家計画と真向うから対決する全人民的政治闘争潮流としての地歩を一層打ち固め、戦略的総路線にもとづき不抜の武装闘争を継続する前衛党としての階級的プレゼンスを決定的に高め上げるに至ったのである。

 10・14対運輸省・首相官邸に対するゲリラ・パルチザン戦闘と10・19闘争の組織化は、おかれた状況の困難性からいえば3・25-4・29での困難性をはるかにしのぐものであり、これを打ち抜ききることができたのは、結局は右翼民間反革命との攻防をつうじ本質的な戦争遂行という意志統一の強化を克ちとり、戦争と暴力を政治の道具として発動できる骨格を党が打ち固めたからに他ならない。3・25と10・14は同一の戦略的総路線に導かれた波状の戦術的攻勢の闘いであり、この二つを実践したことによりわれわれの権威は高まり定着化したのだ。

 それに対し中核派は「10・26三里塚蜂起戦」を打ちあげたものの、岩手県警による革命軍への弾圧に大打撃をうけ、全くの大衆集会でお茶をにごしてしまった。中核派の植民地党派の位置で「総武装で10・26へ」などとほざいていたアダチグループなどは、動員さえも×××名レベルに落ち込んだまま、何の手出しも権力に対しなしえなかったでのであり、言ったことは必ずやる矜持のカケラもない三流四流の存在でしかないことをはしなくも露呈させたのである。
 結局のところ彼等は「総武装」ではなく「総武線で10・26へ」参加したというだけのことではないか。
 まさにここに至ってわれわれが、少なくともアダチグループなどに対しては、分裂以来13年の年月をへて、全く異なる存在へと自らを止揚することに勝利しているのだと断言しても、決して単なる自己確認の言辞とはいえないであろう。

 しかもこの10月、11月の政治過程においてわれわれが直面したものは、実際には9・15抗議声明に対する熱田派反対同盟右派部分よりの猛反発と、10・15仲宗根・大島両同志の被逮捕にみられるすさまじい権力弾圧の嵐であった。
 既に9月21日の反対同盟幹部会において、一、同盟本部当番からの排除、二、実役会議への支援としての参加禁止、三、同盟が主催する闘争、行事への参加禁止といった処置がとられるなか、それでもなおわが同盟は熱田派反対同盟の革命的再生の方途をさぐり反対同盟との論争を続け、執拗に対話路線粉砕を繰り返し、「首を切られる」ことを覚悟で三里塚闘争20年の精神と魂を守り抜こうとしたのである。
 かつまた10・14闘争の翌日、証拠も不充分なまま内偵され、所在を特定された仲宗根・大島両同志が被逮捕されたことに対しても、全党の総力をあげた反撃戦を展開し、フレームアップ攻撃を打ち破って両同志を奪還したのである。両同志が極めて苦しい情況下完黙を貫徹したことそれ自体が、われわれの不屈性・不滅性の例証であり、戦旗・共産同の組織力量の蓄積の一大証左であるといわねばならない。
 10・19闘争においては4・29、5・4をひきつぐ共闘関係的領導はたしかになしえなかったわけであるが、それでもわが同盟は××××名動員を実現し、闘えば闘うほど強くなる背骨性を示しぬいた。

 それに対し日帝権力は10月27日、ついに二期本格着工にのり出し、二期用地内京成成田空港駅付近のエプロン(駐機場)の造成工事を開始したわけであるが、われわれは第19次現行隊のあらかじめの投入によってこれをむかえうち、三里塚現地攻防の先頭に立ちつつ、熱田派の革命的再生を追求しつづけ、戦旗排除策動を粉砕しつつ逆に、熱田派内左派農民の潮流的結集とそれとの再結合を実現せんとした。
 すなわち横堀反対同盟との結合、小川剛正氏、小川源氏の戦旗擁護をうけ、青行隊にみられる敵対を甘んじてうけつつも、二期着工阻止に向けての横堀ヤグラ改修を同盟決定にまで高めあげることに勝利したのである。
 12・14労学集会には熱田一氏、小川源氏、小川剛正氏、鹿嶋清氏の参加を克ちとり、かつ動員的にもわが同盟開設以来最高の××××名動員を達成し、12・21には反対同盟農民20名の参加の下横堀大ヤグラの建ち上げを物質化した。
 この結果85年用水攻防をつうじ形成された左派農民との結合はより質的に高度なものへと高められ、わが同盟が右翼民間反革命との攻防に入らざるをえなくなった86年春夏期の状況下での闘争的ヘゲモニーの空洞化、10・4東峰判決(三名無罪、残り全員執行猶予)にみられる農民懐柔=支援と農民の分断策にも一定の歯止めを与え、日帝中曽根と全面対決する全国政治闘争の主力党派としてのポジションを再び決定づける位置に立ったのである。

 以上1986年の階級攻防は大きくいえば春の天皇・サミット決戦期での権力との攻防と、その後の右翼民間反革命との戦争、それを一応収斂させた秋における日帝の国鉄分割・民営化および二期着工攻撃への反撃とその過程での熱田派反対同盟の対話路線への傾斜に対する闘いへと大別することができるが、83年三・八分裂以来戦争への対処を語ってきたわれわれが、思いもよらなかった右翼民間反革命との激突により、はじめて本格的に戦争に着手し、政治の継続としてこれをやりぬいたという点に特質的な政治攻防の軌跡を残しており、この闘いへの着手をつうじわれわれは打ち鍛えられ、よりメジャーになり、かつ実戦的な訓練をつみ重ねることができたことをおさえきっておかねばならない。

 いずれにしてもいえることは、困難な局面の到来に対してもわが同盟が党勢をおとさず、団結を崩さず、戦略的総路線を守り抜き闘い抜いた意義であり、その連なりこそが党の権威を高め、階級的プレゼンスをますます強めることになった点である。
 それでは以上の概要をふまえ、以下政治組織的総括点を明確化していこう。

⇒ 86年に到達したわれわれの位置

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