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「自己否定」という成功体験(中)

 ●回想・全共闘 ////
 (上)からの続きです。

 それで、次に非正規雇用とか格差とか野宿者などの問題の根っこをどう考えたらええんかなあ、自己肯定でええのか、とかいろいろ思っておりましたところ、先日、ある哲学研究者(現在留学中)の方のブログを拝見しておりまして、そこに欧州のアウトノミア運動についての小論が翻訳紹介されていました

 ちょっと繰り返しになりますが、やはり当時は労働者と言えば「正社員」のことであり、いくばくかの生活保障と引き換えに、汗水たらして資本主義を支える存在というのが前提でした。労働(組合)運動も正社員を前提とした体制内運動であって、社共支持の組合も含め、大きく言えば現在の体制を守る立場(体制の左足)にあった。これに対して新左翼やアウトノミアなどの運動は、首に縄をつけられて御主人様からエサをもらう存在になることを多かれ少なかれ拒否するというところから出発していた。それはアウトノミアでいえば、「労働の自由化」あるいは「労働の拒否」「労働者たちのアウトノミア化(自立化)」という主張だったと。で、現在の非正規雇用(規制緩和)の実態というのは、まさしくこのアウトノミアが主張していた労働の自立化そのもの、あるいはそれへの国家の側からの対応と言えるのではないかというのです。

 さて、ちょっと話が飛びますが、実は左翼が主張した「国境の撤廃」というのも、空理空論的に頭の中で生まれた理想主義ではありません。もともと資本は国境を越えるものであり、労働者の諸問題や存在はそういった資本の存在形式に規定されているという極めてリアルな問題があるのです。

 労働とは何かと言えば、そこらのオヤジ社長は「金を稼ぐことじゃ」とか言い出しかねませんが、では貨幣経済のなかった時代の労働は労働ではなかったのか?とか、泥棒も労働か?とか、どうも変なことになります。左翼的(とは限りませんが)には一応「自然を加工して人間に有用なものに作り変えること」ということになろうかと思います。

 で、身の回りのものを見てもわかる通り、現在の労働は高度に分業化・国際化しています。原料の採掘からその運搬、加工、流通、小売、あるいはそれぞれの場所で使用され、磨り減って(減価償却して)その商品に価値を移していく機械や道具、ちょっとした小物でさえ、いろんな国の様々で大勢の人の手によって作り上げられることがわかります。

 どこか遠い国で原料を採掘している労働者の地位や待遇が、地球の裏側の最終消費地の政府や企業のあり方に握られているなんてのは普通にある話です。すべては網の目につながっており、どこか一つを変革するなんてことはできません。労働者の地位に関する問題はもはや一国的には解決しきれないのです。そして無理にそれをしようとすれば、結局はどこか一番弱い所にしわよせがいくことになります。

 左翼の国際主義とは、労働問題は国際的にしか解決不可能であるという現実的な根拠(前提)があったこらこそ生まれてきた、必要に迫られたものだったのです。それは私たちが通常考えるような一国内の利害調整という意味での「政治」という範疇からははみ出たもので、どちらかと言えば国際的な民衆レベルの「プロジェクト」といったほうがしっくりきます。「労働者に祖国はない」というのがスローガンになります。このスローガンを「お前ら労働者の祖国ソビエトを守れ」と矮小化し、動き始めた壮大なプロジェクトを、再び小さな「政治」の世界に押し込めたのがスターリンですが、それはまた別の話。

 一方、愛国主義イデオロギーというのは、この現実を覆い隠し、本来は利害が一致しているのだから手を結ぶべきはずの各国の民衆を敵対させ、支配者同士の縄張り争いや資源争奪戦に民衆をおつきあいさせるためのものであって、それは文字通り「政治」とか「プロパガンダ」というのがしっくりきます。つまり愛国心イデオロギーのほうこそが、頭の中にしか存在しない空理空論にすぎないのです。経済発展にともない、資源確保に躍起になっている中国政府が、突然に「愛国」を強調しはじめたことは、非常に示唆に富んでいると私は思っています。

 一方、アウトノミアなどの潮流やエコロジー左派などは、マルクス主義的な左翼運動では、自然からの収奪や環境破壊の問題が解決されない、マルクス主義も資本主義と同じ「産業主義」であり、それは資本主義とは違う価値観の「もう一つの世界」を実現しないという不満の表明があったというのが私の理解です。

 で、もともと左翼側が洞察していたこの構造の元、かつて余力のあった資本主義が戦争に訴えてまで縄張り争いを続けてきたのが、現代ではグローバリゼーションや「労働の自由化・流動化」という形で、左翼が主張したのとは全く裏返しに主客を転倒して「上から実現され」ている。これはいわば必然な流れになる。

 これを読んで考えさせられたのですが、正社員を前提とした労働者の地位向上運動というのは、女性解放運動にたとえてみれば、誰もが結婚して「主婦」になることを前提にした女権拡大運動、すなわち「主婦の地位」向上運動みたいなものだったのかなと。新左翼系というのはこういうのも結局は女性の地位を固定化することに協力していると批判していたわけですが、そういう左翼側の主張に対して「そんなに言うのなら……」と、女性に対する賃金格差やその他の差別にはいっさい手をつけず、ただ結婚制度による女性の「主婦」としての地位保障や男性からの「保護」だけを消滅させ、「あとは自己責任だよ」と放り出したのが、たとえてみれば現在の非正規労働者の状況なのかなと思うわけです。「さあ、皆さん方は自由です。後はどうぞ御自由に。すべては自己責任ですから」というわけです。

(下)に続く……はずですが、書きながら考えをまとめているので、どうなることやら(笑

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