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運動組織論

過激派への100の質問 第三回:党と階級

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第三回:党と階級

これは1986年に出版された本の一部再録であり、歴史的な資料として掲載しているものです詳細)。冷戦構造を前提に書かれた時代的な制約があるため、読者が理解しにくい部分については一部に加筆・修正を加えました。転載などすべてご自由に行っていただいてかまいませんが、その結果の責は転載者等にあります。

Q19.革命運動に何故前衛党が必要なのですか

 労働者階級人民の闘いは即時的意識のままでは雇い主に対し賃上げを要求し、職場の改善を求めるものにとどまらざるを得ず、そのままではいつまでたっても根本的な解決にはなりません

 つまり、こうした労働者階級人民の自然発生的な闘争が直ちに革命闘争へと発展するわけではないのです。それが目的意識を持った共産主義者の集団、すなわち前衛党の存在を介することで、自然発生的な闘いから、ブルジョア階級打倒、共産主義社会の建設を目的とする革命闘争へと練りあげられていくのです。

 このような前衛党必要論は、ともすれば「大衆蔑視」のように言われることもあります。しかし事実は全くその逆です。私たちは差別・抑圧・戦争・貧困・飢餓など、さまざまな問題の根本的な解決のためには革命による帝国主義の打倒が必要不可欠であることを、大衆運動の中で堂々と訴えているのです。党組織必要論を大衆蔑視のように語る人々(レーニンは全部まとめて「経済主義者」と総称しました)こそ、自分たちが背負うべき闘いの責任を民衆に丸投げして責任転嫁しているのではないでしょうか。

 レーニンはこういった「民衆の自主性を尊重する」経済主義者の態度を、人民を信用していないという点でテロリストと共通しているとし、政治闘争に懐疑的な経済主義者と過激なテロリストは同じコインの裏表にすぎないと喝破しました。私たちはこのような右翼的・極左的な偏向に対し、左翼運動の大道に立ち返るべきことを訴えています。

 かつて光州蜂起の血の教訓の中から韓国民衆が、「前衛党の不在が敗北の根拠であった」と突き出していたように、官僚化され、高度に組織化され、中央集権化されたブルジョア権力機構を打ち破るためには、人民の興奮と怒りの水滴の無数の細流を、巨大な一本の奔流へとまとめあげること、私たち民衆の側もまた組織的に闘うことが必要不可欠です。ゆえに全人民的政治暴露を行い、全人民的政治闘争を領導し得る革命家の組織(=前衛党)が必要になってくるのです。

⇒「何をなすべきかノート」(『ブント主義の再生』)

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Q20.「党としての闘い」「党のための闘い」とは何を意味していますか

 「党としての闘い」とは、たとえば60年・70年安保闘争のような全人民的政治闘争の実力闘争・武装闘争による実現を通して帝国主義の政策遂行を阻止し、革命情勢を切り開いていく闘いのことです。これに対して「党のための闘い」とは、革命党の組織建設やその防衛、人民の階級形成を実現していく闘いのことです。

 これらは「どちらを重視するか」というような別々のものでもなく、ましてや二律背反の関係にあるものでもありません。それはまさしく一個二重の闘いなのであり、組織化のない運動も、運動のない組織化も、最終的な民衆の勝利にはつながりません。

 たとえば「党としての闘い」を軽視するのがカクマルであり、権力とはいっさい闘わず、ひたすら「社共乗り越え」「他党派解体」を掲げた党建設のみを「反帝反スタ革命運動」の内実とする内ゲバ主義的な誤りに陥っています。

 一方、「党のための闘い」を軽視したのが第二次ブントであり、戦術のエスカレートによって、人民は革命の勝利にまで到達することができるとしました。第二次ブントは「党のための闘い」を軽視したために、破防法の適用などの権力弾圧の激化に抗しきれずに分裂します。これにより、ブントはいくつかの小グループを残して潮流としてはいったん消滅してしまいます。

 私たちはこの二次ブントの廃墟の中から痛苦な反省をもって立ち上がり、ブントの戦闘性を継承しつつ、カクマルに見られる内ゲバ体質をも批判し、反権力実力闘争を領導する不抜の革命党建設を訴えてきました。そしていまだ不充分とは言え、日本階級闘争におけるブントの潮流的な再登場を実現させることに成功したのです。

 権力と闘わずに強大な組織などできないし、逆にいくら戦闘的に闘って敵の危機を作り出しても党建設と階級形成がなければ革命は勝利しません。だからこそ党としての闘いと党のための闘いを共に推し進めなければならないのです。

⇒「川口君虐殺問題とカクマル運動の陥穽」(『ブント主義の再生』)

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Q21.「全人民的政治闘争」とはどのような闘いをいうのですか

 最も端的な例は、60年安保改定阻止闘争、70年ベトナム反戦、安保・沖縄闘争のような闘いがあげられます。つまり、帝国主義の延命のために不可欠である基軸的な政策との闘いが全人民的政治闘争です。

 今日では安保‐日韓体制の戦争体制への再編、国内における米軍基地再編や自衛隊との一体化、改憲策動などの戦争国家計画との闘いがこれにあたります。

 またかつての東大闘争や、現在の三里塚闘争のように当初は個別学園・地域的利害から開始されつつも、帝国主義支配者にとり、その個別学園・地域における政策の貫徹が自らの存立のために必要不可欠な位置を占め、かつ闘争主体が主体的階級的成熟をとげ個別的改良的課題の勝利のためではなく、全人民の解放=プロレタリア革命運動の一環として自らの闘いを位置づけることによって、全人民にとって普遍的な意義を持つまでに押し上げられた闘いも全人民的政治闘争です。

 いずれにしろ確認しなければならないのは、全人民的政治闘争とは、革命党が不断に帝国主義の動向に対する政治暴露を行い、闘争課題を政治焦点下し、統一戦線の構築を通じて人民の闘争気運を広範に結集しながら、自らが責任を持ってその先頭に立ちきって闘うことによって初めて可能になる闘いだという点です。
 つまり自国帝国主義打倒・権力奪取を目指す戦略的総路線にのっとった革命党の計画としての戦術の実現が全人民的政治闘争を生み出していくのです。それゆえに全人民的政治闘争こそが、党としての闘いの内実をなしているわけです。

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Q22.“レーニン・ボリシェヴィキ党”のような党建設を目指すとはどういうことですか

 われわれが“レーニン・ボリシェヴィキ党”のような党建設を目指すという場合、全人民的政治闘争を領導し、武装蜂起を組織して革命を勝利させていく強固な中央集権党をつくりあげていくことを意味しています。

 レーニンは1903年ロシア社会民主労働党第二回大会において、規約第一条(党員の資格)をめぐって、党員の資格を曖昧にし党組織のどの一つにも所属しないものをも党員として認めようとするメンシェヴィキを批判し、党員は必ず党組織に自ら参加して組織の決定を物質化すべく闘わねばならないと主張しました。

 メンシェヴィキのように党員の資格を曖昧にしたり、党の団結や組織性といったものに対してまで「個人の自由」ということを対置してしまう、そういった組織思想をもって「コーヒー片手に革命談義」をしてみても、それは左翼的な気分にひたるサークル集団か、文化人のサロンのような集団にしかすぎません。

 このような「党」は大衆や運動の気分に流されて一時的に先鋭化したと思えば右翼的な経済主義に流されたりと、路線的にもジグザグするのが常であり、運動の高揚期にも逆に最も困難な停滞期にも、常に一貫した計画性のもとに長期にわたる猛烈な階級闘争の試練をくぐりぬけ、最終的な勝利に達することはできません。また、個人の自由というかけ声とは全く裏腹に、かえって党幹部が大物ぶった官僚化しやすく、下層労働者の実存や下部活動家の苦闘とはかけ離れた理念的な存在になりがちなのです。

 まさにそのことを示しているのが第一次、第二次ブントの分裂と敗北なのであり、全人民的政治闘争を発展させ革命を勝利させていく不抜の革命党を建設するには、なにかしら組織性がないことをもって団結を保つような思想(気分)とか、単に理論的綱領的な一致や戦術の一致だけでは全く不十分であり、組織的統一と行動の統一を守りぬいていくことが必須です。
 あれやこれやを大衆のせいにせず、自分たちの主張をつつみ隠さず系統的に訴え続け、幹部が下部に対して責任をとりきっていく、そのためには、党員一人ひとりが規律を守り、革命の勝利にむけて党を守り育くんでいく共同主観の形成が必要となります。

 どのような困難の中でも団結と規律を保持して闘いぬく、党員一人ひとりの献身性に支えられた強固な一枚岩的革命党のみが、政治警察との死闘にうちかちブルジョア権力機構をうち破ることができます。われわれ労働者人民一人一人は小さく無力な存在であったとしても、それが束ねられ、ひとつの大きな奔流となるならば、もはや何者もわれわれ人民に打ち勝つことはできません。つまりわれわれは、いかなる困難にあっても党のもとに団結して組織的に闘いぬかねばならず、そうすることによって日本革命を真に領導することの可能な“レーニン・ボリシェヴィキ党”をつくりあげていかなければならないのです。

⇒「一歩前進、二歩後退ノート」(『ブント主義の再生』)

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Q23.プロレタリアが「主体形成」「階級形成」していくとはどのような意味ですか

労働者階級の生活(イギリス)

 私たちプロレタリア階級は、即自的には単調でつらい仕事を長時間耐えぬいたり、身を粉にして働き続けたり、あるいは自分以外の他者との協働によってものを生産していくといった、忍耐づよくしかも類に生きる存在です。しかし他方において労働力商品所有者として不断にブルジョアジーの側に個的にからめとられていく存在でもあるという両面性を持っています。

 こういった即自的存在としてバラバラに分断された個々のプロレタリアは、未だ革命を志向し共産主義をめざし、ブルジョア階級と相対立する組織された階級として形成されているわけではなく、これではいつまでたっても問題の根本的な解決には至りません。

 革命運動における主体形成、階級形成とは、プロレタリアがこの一個二重性の中で、具体的実践的闘いを通じながら、生活防衛の「諸要求貫徹」のためだけではなく、プロレタリア全体の利害に立ってブルジョアジーと対決しなければ最終的には自己の解放もないことに気づくと共に、そのために自己の利己的なブルジョアイデオロギーを払拭する闘いを自らに課し、共産主義革命に自分たちの未来を託し、目的意識的に自らをそこに動員していこうとするところに本質があるのです。

 私たちは口では「民衆の自発性を尊重する」ように言いながら実際には民衆を過小評価して見下し、あるがままの即時的民衆に迎合しようとする経済主義や右翼市民主義に反対し、あるいは自分たちと対立する特定党派の打倒や「運動からの排除」を大衆運動の主要課題として持ち込もうとする立場にも組せず、反戦・反帝国主義の闘いこそを堂々と掲げ、プロレタリアが主体形成、階級形成できるような全人民的政治闘争をこそ、すべての左翼が共同して闘うべきことを訴えています。

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Q24.内ゲバについてどう考えますか

カクマルによる襲撃

 この問題についてまず確認しておきたいのは、革共同中核派、社青同解放派とカクマルとの間で展開されている「内ゲバ」の根本原因は、「国家権力打倒のための革命闘争と、革命運動・革命的共産主義運動の分化」なる主張をもって、帝国主義国家権力との闘いよりもスターリン主義との闘いを第一におき(反ソ容帝主義)、革命運動の一切を「社共ののりこえ」「他党派解体」に収斂させるカクマル(革共同革マル派)の歪められた内ゲバ主義的な運動・組織づくりにあるということです。

 つまりこういったカクマルの襲撃にいかに対応していくべきか?ということに問題の根本原因があるのです。
 たしかに国家権力と闘う者を背後から襲撃する彼らカクマルとの闘いは、その意味で革命運動の発展の中では不可避の課題です。しかし、カクマルとの闘いを対権力闘争と同列におくことは、まさにカクマル運動の誤りに自分たち自身がはまりこむことになるのではないでしょうか。

 また、カクマル以外との人民内部の意見の違いに関しても、私たちは党派闘争が「党のための闘い」の重要な一環であることを認めますが、それはまず第一に対日帝権力闘争の方針をめぐり、いかに大衆を組織し、支持を得られるかをめぐって行なわれねばならず、可能な限り暴力的解決を排し、大衆運動の現場へ直に持ち込むことは厳に戒めなくてはなりません。

 つまり内ゲバ主義に対しては、全人民的政治闘争の組織化とその爆発という実践を対置することで対決し、その中でこれを包囲していかなくてはならないということであり、これらをすっとばし、それ自体は全人民に明らかになっている課題とは言い切れない特定党派の解体や排除を、ストレートに大衆運動課題として掲げる方向に立つべきではないと考えます。

⇒「川口君虐殺問題とカクマル運動の陥穿」(『ブント主義の再生』)

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Q25.新左翼は四分五裂しているようですが、統一して闘えないのですか

全国学生共同闘争

 共通の敵、共通の獲得目標が明らかにされ、相互批判の自由が保障され、行動の一致が得られれば、統一して闘うことも可能です。これらを「共闘3原則」(=課題の一致・行動の統一・批判の自由)といいます。現に全国学生共同闘争や三里塚闘争など、各党派間での共闘が盛んに行なわれてきました。

 しかしながら、「共闘」をこえた党派の「統合」は、日本革命を遂行していくにあたっての戦略的方向の一致なくしては不可能であり、新左翼内の分裂の根拠もそこにあります。
 「反帝反スタ」を掲げる革共同両派―対権力闘争を後景化させ他党派解体を目指すカクマルや、カクマルとの闘いと日帝打倒闘争とを等置して戦略的に固定化し、対カクマル戦にのめり込む中核派。「反帝反社帝」を掲げ、安保条約を承認し安保闘争を放棄する中共派(ブントの一部)。このように明確な戦略的相違が存在する中で党を統合することは困難なことなのです。

 従って、日本革命の前進のためには、「党派間統一戦線」の拡大を具体的な闘いを通じ克ち取ってゆくことが必要であるし、またなしとげねばなりません。私たちは、八四年五月、「反日帝反中曽根共同戦線」の呼びかけを行なって以来、この課題の実現に向け奮闘しています。

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Q26.第一次ブントについて教えて下さい

60年安保闘争

 一九五八年「共産主義者同盟」(ブント)は、対権力闘争を放棄する日本共産党からの決別(分派)をもって結成されました。日本共産党が議会主義に埋没してしまい人民の戦闘的闘いを全く領導できないばかりか、むしろ人民の闘いを制動しようとするのに対し、実力闘争で国家権力と真向うから闘いぬく旗幟を鮮明にして登場したのです。

 その後、岸訪米阻止、羽田闘争(六〇・一)を皮切りに、国会突入戦(六〇・六)での樺美智子同志の死を賭した闘いを引きつぎ、「世界を震撼させた十日間」という安保闘争の一大高揚を切り拓きます。しかしながら、六〇年安保闘争の後、ブントはその総括をめぐり分裂するという革命党としての脆弱性をあらわにしてしまいました。

 つまり、ブントは日本共産党スターリン主義の「唯一の前衛党」神話をうち破り、全人民的政治闘争を実力闘争として発展させ領導する革命党として日本階級闘争史上に登場する画期的意義をもちながら、その後の分裂に示されるように長期の困難な階級闘争の試練にたえうる強固な前衛党建設をなしきれたとはいえないのです。

「主権者の怒り―写真集・60年安保闘争の記録」(日本ジャーナリスト会議・編)

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Q27.第二次ブントについて教えて下さい。また戦旗派はどのようにして形成されてきたのですか

70年安保闘争

 第一次ブントが六〇年安保闘争後に分裂し消滅していった後、全国で闘う共産主義者がブントの戦闘性を維承すべく一九六六年に再建したのが第二次ブントです。

 二次ブントは、日韓闘争、砂川闘争、三里塚闘争や十・八羽田闘争、エンプラ寄港阻止闘争十・二一防衛庁突入戦、日大・東大闘争といった六〇年代後期の歴史的激動期を最先頭で闘いぬきました。

 しかしながら、第二次ブントはもともと旧ブント系サークルの寄せあつめとして成立したが故に、学生サークル的な組織体質を払拭できず、党を守り育む革命家、つまりプロレタリア的な主体は未形成のまま、自意識過剰で自己に拘泥する小ブル革命家集団として推移します。そしてついに一九六九年七月赤軍派が「前段階武装蜂起」を掲げて分派を強行したことを契機として党内は百家争鳴の大混乱に陥り、以降は四分五裂を繰り返していくのです。

 こうした党の四分五裂の混乱状態に直面する中、東大闘争などの戦闘的な大衆闘争を現場で担っていた社会主義学生同盟(社学同)全国委員会の指導部であった部分は、現場への指導責任をとろうとしないで分派闘争にあけくれる党中央に対して『党の革命』を開始し、真に人民の信頼に応え現場に責任を持って全人民的政治闘争を領導することのできるレーニン主義党建設を要求して闘いを開始しました(七〇~七一年)。これが現在の戦旗派の発生史的な端緒となります。

 やがて「現場に責任を持ち人民に信頼される前衛党を」という戦旗派の主張は、多くの現場活動家からの支持や、全共闘運動を戦闘的に担いながらも今後の運動的な展望を求めていた非党派の一般学生活動家の合流をも勝ち取り、ブント系の最大党派へと成長します。その後、七三年アダチ分派(俗称:戦旗西田派)が武装闘争路線に耐えきれずに「総評青婦協への加入路線」を掲げて分派することにより、戦旗派は組織的に大きな後退を強いられました。しかしその後も一貫してレーニン主義的党建設を追求することにより、今日では七〇年安保当時の結成時の勢力をも大きく上回り、アダチ分派当時を数倍する勢力へと復活してきたのです。

 四分五裂していった私たち以外のブント系諸派がレーニン主義を放棄したが故にことごとく雲散露消して小サークル化し、党派としては事実上消滅してしまったなかで、未だ全く不充分とはいえ、ブント系の中ではわれわれのみが安保・日韓闘争を領導しうる革命党としての前進をかちとってきているということができます。とはいえ、それでも我々は未だ人民の信頼に応えるには不充分な、とるにたらない存在であり、今後の階級激動を闘いぬくなかで、日本革命を領導しうる革命党への飛躍という課題を己に課して闘いぬいていきたいと思います。

⇒「第二次ブント止揚をかけての戦旗派建設の今日的位置」(『理論戦線』18号)

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Q28.日本共産党は新左翼を「ニセ左翼」「トロツキスト暴力集団」と罵倒し、「権力に泳がされている」と言いますが、本当ですか

民青(共産党)の内ゲバ部隊

 六〇年・七〇年安保闘争、三里塚闘争など、新左翼は常に権力の弾圧をはね返し、日本階級闘争の先頭で闘ってきました。だから「ニセ左翼」「泳がせ」論が敵を利するデマであることは明らかです。

 議会主義・平和革命路線をとる日共(日本共産党)およびその傘下の民青(民主青年同盟)は自分たちの右翼性をおおい隠すために、戦闘的・革命的に闘う党派や人民に対して許し難いデマをとばしているのです。

 三里塚、狭山など数々の闘いから逃亡したばかりか、いくら意見が違うからといって、権力の弾圧に抗して必死で闘っている人民に向かって背後からデマをとばして罵倒し、あまつさえ武装襲撃までしかけてくる日共は、もはや「権力の左足」としての役割を果たしているといわれても仕方がないでしょう。

 真の左翼とは何よりも人民の最先頭で国家権力と真向から闘い、人民を組織できる部分のことであり、何よりも私たち一人一人が新左翼運動のもつ一定の限界を突き破り、国家権力と実力で対峙する革命党へと飛躍することによって、日共のデマを言葉ではなく実践をもって粉砕していかなければならないと思います。

⇒「われらの対立 共産主義者同盟と共産党」(『理論戦線』12号)

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Q29.日本において、プロレタリア革命をめざす運動は、いつ頃からどのような形で始まったのですか

米騒動(1918年)

 日清戦争を経てその基礎をなした日本資本主義によって大量に生みだされた賃金労働者は、それまでの自由民権運動とは違った、ブルジョア階級と闘う、プロレタリア階級独自の運動を開始しました。

 多発するストライキ、工場焼き打ちなど、自然発生的な労働者の実力決起は日露戦争を前後して全国に波及し、国家権力を震撼させたのです。
 そして、一九一七年、ロシア革命の勝利によって、日本においても社会主義、労働運動の高揚が生まれました。革命勝利の報道を聞いて、道を歩く労働者は抱き合い、感激に涙したといわれます。

 このような状況の下で、米騒動における七十万民衆蜂起が闘い抜かれました。この闘いは、未組織・自然発生的なものであり、軍隊の出動によって鎮圧されましたが、日帝軍隊がシベリア出兵をし、ロシア革命の圧殺と、日本国内への革命の波及を回避するための弾圧強化がなされていく中で闘われたことは、日本プロレタリア革命の萌芽を示すものです。

 つまり、決して日本人民は言われているように唯々諾々と帝国主義天皇制政府に従ってアジア侵略に動員されていたばかりではなく、また、戦前の反政府運動といえば自由民権運動ばかりだったわけでもなく、私たちにも誇るべきプロレタリア解放運動の大きな闘いの歴史があるということです。

 さらに、一九二二年に結成された日本共産党は、日帝の侵略戦争によって人間性を剥奪されたこうした日本人民の自然発生的な怒りを革命へと組織するため、天皇制支配の苛酷な弾圧の中で、前衛党の建設を開始しました。しかし、戦前の共産党は、アジア侵略戦争を阻止することができず、日本人民の戦争への動員を許してしまいました。この痛苦な敗北を、私達は二度と繰り返してはなりません。

 私たちはこのような日本労働者階級の歴史的な戦闘性を今後とも引きつぎ、いかなる困難があろうとも前衛党たることを放棄しない、強固な革命党建設をもって戦前の日共の敗北を突破し、日本革命の勝利をかちとることが問われているのです。

Webで読む小林多喜二『蟹工船』

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  • 私は共産主義者としてとある作業所の組合書記長をしておりました、そしたら部長が私を追い出しました、あの右翼まがいの部長のことです好き勝手にするとおもいます!

    • がんばってください!
      というか、もう5年前の投稿でした(汗
      気がつかずにすみません。
      幸せに暮らしておられるといいのですが……

  • > Re: Q24.内ゲバについてどう考えますか
    今、中核と革マルは停戦協定を結んでいるので、戦争になっていない。これは自主的に解決されたものではないのか。そう考えないと、法政文化連盟のプログの革マル派という呼称は理解できない。

    •  「停戦協定」というのは噂だそうで、当人たちは公に認めていないそうですが、今は大衆集会の門前で、両派が並んでビラをまいている(東京だけ?)ような現状なので、事実として考えてみます。

       結論から言えば、これは革共同的な(クソ)リアリズムに基づく政治方針の結果であって、内ゲバを真摯に総括した思想的なものではないと思います。要するに今どき内ゲバなんぞしていたんでは、組織も運動も持たない、大衆は誰も逃げ出して寄り付きもしなくなるからということ(外部的に強制された要因)です。

       もちろん内ゲバ方針の中止(というより棚上げ)は続行やエスカレートよりは100倍いいことは当然の前提として申していますが、少なくとも「これで解決」とは言えないでしょう。こういう(クソ)リアリズムは一面では強さを発揮することもありますが、革共同系の悪いところではないかと思います。

       別の言い方をするならば、単に運動的な利益や都合から出てきた方針であって、組織論・運動論における本質的、思想的なもの(中身)は何も変わっていないということです。

       なんらの総括もしない、全くのご都合主義的なのりうつり方針のため、特に近年になって運動に参加した若い人たちの間で、自分らがどれだけ他の人たちを苦しめてきたか、どれほど多くの運動家に途端の苦しみを味あわせ、その人生をぐちゃぐちゃにしてきたか、そういうことに対する自覚や歴史的な継承が全くなされていません。

       京大同学会問題などに端的にみられるごとく、若い人たちに、その唯我独尊的なスターリン主義体質のためにどれほど大衆運動から蛇蝎のごとく嫌われてきたかという自覚がなく、そこを批判されても「昔のことじゃないか」「闘っているのに批判するな」くらいの唖然とするほど軽い認識しかありません。謝罪や反省の一言もないのです。つまり何も変わっていないし総括も継承もない。

       反原発も反差別も反戦も、その内容性を問わなくては場合によってはかえって害悪になることさえあります。なんでもいいってもんじゃない。それはソ連や中国の変質の歴史をみれば明らかです。そのことは革共同両派だって否定はしないでしょう。

       だからこそ私は、たとえば法政大学での弾圧に抗議する趣旨で企画された非中核系学生による鈴木邦男氏の講演会を「鈴木は右翼だから」という理由で潰しておきながら、一方で鈴木氏が登壇する反原発集会には何食わぬ顔で「参加を呼びかけ」て、右翼の集会参加をめぐる論争などにも特に何も発言しないご都合主義的な態度に対し、それを冷たく横目で見るしかないし、カクマルとの協定(=密約)についても、迷惑がかからなくなったのはいいことですが、それ以上に特に積極的に評価するようなものでもないと思っています。

  • 中核と革マルの連中は完全に和解したことを隠しているが、それを批判するのは構わないけど、しかし、現実に和解はしているし、今の全学連はどの派閥も、参加者が生まれる以前の状態に戦争になっていたのであり、今の全学連に、おまえら悪いやつだというのは、とても、なんか、イヤな気持ちに私はなるのですが、とても変な返事になってしまい、私は右翼大学に通っていたので、本当のことをよくいうと、ゲバルト戦争は書物でしか知りません。そんなことを言い出したら日本共産党に極左時代もあったし、今の共産党員には、極左責任はありませんよ。変な返事になって申し訳ありません。たしかに、総括されていなことは、問題とは私も思います。