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小説・三里塚

小説・三里塚 戦後最大の住民闘争、三里塚。実在の開拓農家をモデルに、敗戦、開拓、闘争と、その波乱の道のりを感動で描く。

市東さんの農地取り上げに反対する会

市東さんの農地取り上げに反対する会 親子3代90年も耕してきた農地を、違法に取り上げる動きを見過ごすことができません。

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結衣ちゃんは革命家 誰でも遊べるブラウザゲーム。ヒロインの声は声優さんによるフルボイス。君はエンディングを見ることができるか?

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三里塚勝手連 当コミュは三里塚闘争に共感し、様々な形で農民を応援していきたいと考えている有志の集まりです。

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戦旗派コレクション 20世紀、1970~80年代を駆け抜けた「戦旗派」の写真集。かつての同志たちへ、そして……。

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天は自らを助けるものを助ける(上)-左翼は「かわいそうな人」を助けられない‐

◆今のままでは今のまんま

 レーニン曰く「武器の使い方を習得し、武器の使い方に習熟し、武器をもとうとつとめないような被抑圧階級は、抑圧され、虐待され、奴隷としてあつかわれても仕方がない(全集23巻 軍備撤廃のスローガンについて)」これは現役左翼時代によく使っていたというか、あちこちに引用もされていた言葉ですが、今となってはもう(まだ)関係ないと思っている方が多いのではないでしょうか。ですが私の人生の中では今でもかなり大きな位置をしめている箴言であります。つまり、武器というのは銃だけではないのです。確かに現段階で、拳銃やバズーカ砲を苦労して備蓄することが賢明な闘争方針とは思われません。ですがその時々で必要もしくは効果的な武器というものがあると思う。

 何が言いたいかといえば、「天は自らを助けるものを助ける」ということです。抵抗もせず、そのための方法に習熟しようとしないものは、こき使われ、奴隷として扱われても仕方がない。それが私の人生訓の一つであり、それはレーニンから学んだものです。別の言い方をするならば、「待っていても何も変わらない」「今のままでは今のまんま」ということです。

◆「非常識」な抵抗が歴史を進歩させる

 誰も抵抗も暴れもせず「秩序」や「伝統」や「常識」を重んじていたら、原発だっていつまでもなくならないし、それどころか今でも奴隷制度が続いていたでしょうね。スタートレックでそういう惑星の話がありました。日本において戦後も天皇制がなくならず、未だに日の丸を使っているのもそういうことです。そのせいで右も左も共通して全国民が、とりあえずは「国家のしるし」程度には認められるような旗(国旗)が未だに日本にはない(→こちらを参照)。歴史を前に動かすのは、いつだってその時代の「常識」やら「良識」を真っ向から否定する「非常識」な人々なのだと思います。

 また、三里塚の農民が多くの支援を集めることができたのは、踏みつけられ、虫けらのように扱われて「かわいそう」だからではなく、そこで命がけの抵抗をしたことが一番大きい要因です。最近の人はよくわからないんでしょうが、その闘いの正義性と可能性に多くの人が魅せられたし、表面的なニュースを見ただけの事情をよく知らない一般の人でさえ、農民に大きな同情心を抱いて心情的に応援した。そのことが闘争と支援の輪を巨大なものにしていったのです。

 これは余談ですが、よく「左翼は農民を助けるようなふりをして実際は自分達の闘争に利用し云々」みたいなことを書く人が(必ずしも右派的な人に限らず)いますが、こういう人は歴史や現地事情を知らないがゆえに完全に誤解というか左翼への過大評価をしているんであって、そんなことで闘争がここまで大きくなるはずがない。つまり私たちが「かわいそうな農民」を「助けてやる」ために現地に行ったと思い込んでいるんでしょうが、それこそ農民やその闘いを高みから見下しているわけです。
 そうではなくて、私たちは尊敬すべき闘う農民にお願いして「支援させていただいている」と思っていたし、農民に迷惑をかけてはいけない、農民の役にたたねばと思って必死に闘っていました。農民を「助けてあげる」とか、ましてや「指導してあげる」みたいに上から目線で入ってきた支援は、共産党みたいな大きな組織力と動員力をもった団体さえ、結局は現地農民は絶縁し、排除しています(→「小説・三里塚」)。

◆「かわいそうな人」を助けることは誰にもできない

 不当な目にあわされている「かわいそうな人」はたくさんいると思いますが、もしその人がそこに身をゆだねて現状を変えようとしないのならば、神様か魔法使いでもない限り、周囲の人は手のだしようがないものです。もしそういう人を助けるのだとしたら、それこそ自分の人生を24時間すべて投げ出して、その人のために生きるくらいの覚悟がないとできません。それがわが子や恋人だったらそういう覚悟もできるでかもしれませんが、それは極めて特殊な場合でしょう。

 だから支配者にとって一番都合がいいのは、奴隷自身が「私は今のままでいい」と思い込んで「ご主人様(主君・天皇・社長・国家)に忠誠を誓います」と自発的に言うことです。するとそこで客観的に見てどれほど不当で非人道的な支配や搾取がおこなわれていようが、その関係性の外にいる人間は手の出しようがありません。その目的のために、どんな時代にもその時代の支配や搾取を正当化するため、あれやこれやのイデオロギーが道徳や常識とかのいろんな名前で存在するわけです。そこでヘタに支配者を倒して奴隷(的)な立場の人間を自由にしてあげても、「わが主君の仇」とか言われかねません。

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「君が代」の替え歌で懲役2年もー自民党が法案提出を検討

 仕事で疲れ果てて今日はもう寝るつもりでしたが、以下の記事が目にとまりました。これを読んで、忌野清志郎さんのCD発売禁止事件を思い出したのは私だけではあるまい。 まあ「やっぱりね」という感想しかないです。どうせ自民党は物忘れの激しい嘘つきだし、この国の国民には「歴史」なんてもんは存在しないのです。

 自民党は2日、国旗損壊罪を新設する刑法改正案を今国会に提出する方針を決めた。日本を侮辱する目的で日章旗を焼いたり破いたりしたら2年以下の懲役か20万円以下の罰金を科す内容。民主党や公明党など他党にも協力を呼びかけて成立をめざす。
 尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件などをきっかけに自民党は保守色を強めており、「君が代」の替え歌など国歌への侮辱に刑事罰を科す改正案も検討する。
→元記事へ 2011年3月2日 asahi.comより)


 まず、「日の丸」と「君が代」(以下「ひのきみ」と略)を国旗・国歌と定めたのは、まだ記憶に新しい小渕内閣の時だったはず。少なからぬ反対意見の存在を無視して、全国民的な合意を放棄し、「多数決」で強引に決めてしまったという経緯があります。これは個人の思想信条というよりも、さらに微妙な「心」の問題でもありました。つまり(政治的な)表現の自由の問題というより、もっとも基本的で大切な内心の自由、個人の良心のあり方に関する問題です。

ファシズム3国の国旗 これはあの中曽根政権ですら(むしろ右翼色の強い中曽根政権では)できなかったことです。ではなぜそんな最近まで、日本には国旗も国歌もなかったのかと言えば、もともと日独伊3国の中で、ファシズムと侵略戦争の象徴だった当事の国旗を、戦後もそのまま用いようとしたのは日本だけだったということがあります。そのために戦後まもなくから「国旗国歌法」制定の直前まで、「戦後の新国家にふさわしい新しい国旗・国歌を定めるべきだと」いう議論が結構根強かったのです。これに対して政府が、新憲法制定の頃からのらりくらりと抵抗して時間をかせぎ、既成事実を積み重ねてきました。

 要するにこの旗は、もともと明治天皇体制や戦前の大日本帝国を(多かれ少なかれ)肯定してその原理を戦後に持ち込もうとする人たちのシンボル(右翼の旗)としての性格があり、実際にもこういう人たちが戦後も必死で護持してきた歴史がある。もちろん一般にはもっと素朴で土着的な意識もあるでしょうが、こういった歴史に着目した場合、この旗は、右から左までがその立ち位置に関係なく、少なくとも「自分達の国の旗」として一致して認める(国民的合意)ことが最初からできない宿命にあるのです。その点で日の丸は他国の国旗とはかなり違う特殊な性質があります。「日の丸」のこういった性質については右翼の人も実は気がついているはずで、つーか、それを反省するのではなく、むしろ「そういう旗」としてのまんま強制するから、ますます「日の丸」にイデオロギー色がついて対立が深まっていったということだと思います。
右翼街宣車と日の丸
 そのような歴史的な経緯があるからこそ、「国旗国歌法案」は、少なからずいる、何となく「ひのきみでは嫌だな」と感じる人など、そういう素朴な個人の内心の自由や良心の問題に、その人の自由意志ではなく、人の「心」に国家が土足で踏み込んで、特定の価値観を強制する法案ではないのか、あるいはそこまでいかなくても、今後は数々の無言の圧力で個人の内心の自由、さらには表現の自由さえもが踏みにじられたり、社会的な圧力がかかるのではないか、そういう危惧や質問が何度も何度も何度も法案審議の過程でなされたわけです。

 それに対して時の自民党政権は、やはり何度も何度も何度も、これは政府として「ひのきみ」を国旗・国歌とするだけであり、その決定を国民に強制するものではない、「ひのきみ」では国旗・国歌にふさわしくないと思う人の内心の自由は尊重するし、もちろん「ひのきみ」に反対するような表現の自由だって侵害しない。ただ政府の立場として国旗・国歌だと決めるというだけである。要するに「今までと何も変わりませんよ」と言っていたはずです。それなら別に「日の丸」を「これを国旗とは認めない」と思う人がいても、また、実際にそう主張したとしても何の問題もないはずです。だからこそ、当事の国民の多数は、そういう人の思想信条の自由も保障されるという点をもひっくるめて、「まあ、特に問題ないんじゃない。今さら変えるのもなんだし」という人が多かったわけです。

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陰険ヘタレ虫ばかりが増殖する日本の危機

外国人研修生 私は今、工事現場なんかでも働いているんだけどね、建設現場なんて昔は荒いおっちゃんがたくさんいたわけですが、最近はみんなすっかり「常識人」でおとなしいですね。おかげで私のような小心者が現場に出てもやっていけるので助かります。

 そんな中で、日本語もカタコトの外国人(主に中国人)の労働者を現場でたまにみかけるようになりました。私の現場に限定すればですが、その中国人労働者たちは、すげーバイタリティありまくり。まかされた仕事(今のところ下っ端仕事なんだけど)は、人を掻き分けてでもガンガンやってしまう。他の業者さんが仕事しててもおかまいなし、親方に言われたことを何が何でも最優先。たまには面食らって思わず「ちっ!」とか「空気読めよ」とか邪魔に思ってしまう。

 ところがですね、休憩場所とかでよく見ていると、その業者さんの中では、彼らはすんごく可愛がられていて、よく食べ物とかもらったりしてる。それで気がついたんですが、こういう彼らみたいな人たちって、ほんの数十年前の日本人にはよくいた、今は「現場の叩き上げ」になっているおっちゃんたちの、若いころの姿なんですよね。

 そんなことを思っていたら、以下のような記事が目に付きました。
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民主党の「エエカッコしい」に使われているだけの朝鮮学校排除

写真素材 PIXTA
(c) har.s写真素材 PIXTA
こちらのコメントとほぼ同じ内容です。書いているうちに長くなったので、例によって(貧乏性だから)もったいないのでエントリとしてもあげておくよ。もともとコメントなんで、エントリにも増して、記憶だけでしゃんしゃんと書いたもんですから、資料的なことは自分でちゃんと調べてね。細かい間違いがあったら教えてちょんまげ(おやじギャグ)

—————–
 本当は、他の方へのレスを先に書かないといけないのですが、ちょっと興味をもったので先に書きます。天下御免さん、たけさん、ごめんなさい。

 まず、無償化の対象を公立高校のみにすべきだという主張はべつにOKです。それだと、高校無償化という脈絡では、私立学校に通う子供や保護者への差別になりますから、単に「公立高校の授業料を無料にする」という政策になると思います。学校ごとに授業料が違うのは、同じものでもメーカーによって値段が違うのと同じことなので、差別には該当しないと思います。buveryさんが、そのほうがよりよい政策だと思うなら、それは自由ですし、エントリーの趣旨とは何の関係もない自分の意見の開陳ですから、私から本エントリのコメント欄で何も言うことはありません。

 次に、高校無償化に反対する論拠に、憲法89条を持ち出してこられたのは、多少おもしろく感じました。私も法学部出身なので、89条の解釈において「私学助成金も本当は憲法違反」という極少数説があることは知っています。ただ、この解釈では、民間のボランティアやNGO、それのみならず、私立の介護・福祉施設などへの補助金や助成も違憲になってしまう可能性があり、妥当ではありません。共産主義社会が実現したのならともかく、現在の国家、社会において、教育・福祉・慈善などの社会的な事業については、むしろ在野や地域の人々の営む事業や取り組みに行政が適切に協力し、公的機関でしかできない分野との共同をすすめていくことが求められていると思います。しかるに公的な行政機関(お役所)の営む事業以外には、いっさい公金を使ってはいけないという解釈は、13 条、25条、26条などとの整合性を考えても失当であると思います。

 思うに憲法89条の立法趣旨は、公金が徒に浪費されるような「ばらまき」を危惧したものであり、いわば国家が教育・福祉・慈善などの分野において、これを在野と「協力・援助」するのではなく、「丸投げ」して後は知らない、結果として税金が濫費されうるという事態を禁止するところにあるものです。よって、たとえば行政が「歳末たすけあい運動」なんかに税金を、その具体的な使い道の監査もなしに寄付するような行為は89条違反の疑いがあります。しかしそれは支出先を日常的に監督していることや、まして行政機関が運営するものにしか公金を使ってはいけないという趣旨ではなく、税務やその他の特別法において、運営状態(とりわけ会計)の監査や公開、審査というゆるやかな方法があれば、89条の「公の支配」の条件には足りると解します。実際、そういった監査の結果、翌年からは補助を打ち切るなんてこともあるわけですから。つか、昔の教科書を見ずにうろ覚えで書きましたが、これが通説であると思います。

 老婆心ながら、こういう極少数説を信奉するのは別に悪いことではないし、それはそれでいいのですが、それが特殊な考えてあることを隠して、いきなり「こうなのである」と自明の真理みたいに断言して終わらせてしまうのは、印象操作などというレベルを超えて、ほとんど嘘を書いているに等しいと思います。学部の試験だったら赤点がつくと思います。こういう少数説をとる場合は、まず、「一般的にはこう言われている」と通説的な考えを紹介し、「しかしこれは××という理由で妥当ではない」とそれを批判したあと、「ゆえに私は○○という考え方が正しいと思う」と自説を展開するべきです。そこまで書いてはじめて、読者としては正しい判断を下せると思います。私はこれが面倒なので、憲法についてはできるだけ通説を採用するようにしていることは内緒です(笑)。ところが、ネットではよくこういう「いきなり少数説真理教」みたいな言説をみかけます。まあ、「地球は丸くない」みたいな、「地球は丸い」という通説がほとんど常識として通用している分野なら、通説をはしょってもいい場合もあると思いますけどね。ところが、こういう法律解釈のような一般的でない分野でまで、「知ってる?真実はこうなんだよ」的な文章があふれているので、ネットは恐いんですよね。

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高校無償化からの朝鮮学校排除の問題について

善意はわからんでもないけど四トロ掲示板三次会への投稿を加筆修正して掲載→原文こちら
投稿者:草加耕助 投稿日:2010年12月 6日(月)22時20分0秒

パルタさんへのお返事です。

パルタさんが善意であることはわかります。ですが、今回の「無償化除外」は、パルタさんが考えておられるような「教育方針」や「教育内容」が理由ではなく、北朝鮮の「拉致事件」と「砲撃事件」が理由だと説明されています。そして、無償化に反対するような一般的世論も、それが理由だと思っているのではないか。
私はこのような理由による無償化除外には反対です。「無償化賛成」というよりは「無償化除外反対」ということです。こういう「世論」を後押しするのは非常に危険だと思うからです。

第一に、憲法が保障する法の下の平等は外国人にも保障される人権です。他の外国人学校の生徒は無差別に無償化措置が行われるのに、朝鮮学校の生徒だけに不利益を課すのは差別です。他の外国人と朝鮮人で異なった扱いをすることを正当化するためには、議論の余地がないくらい強力で合理的な理由が必要です。その理由が「北朝鮮の対外政策」ということでいいのでしょうか?

たとえば私は日本人ですが、もし外国に住んで、「日本政府の政策」を理由として法的な不利益を課されたら、やはりそれは不当な差別だと感じると思うのです。日本人だからといって、日本政府の政策についての責任を個別にとりきれるものではありません。やはりそれは「たまたま日本人に生まれた」という、本人の責任ではないことを理由とした(人種・国籍による)差別です。

第二に、今のままの理由で無償化除外が行われた場合、在日朝鮮人のみならず国際世論、さらには北朝鮮民衆に、誤ったメッセージを送るのではないかと危惧しています。おそらく、朝鮮学校の子供たちは、自分たちが日本政府から、ひいては日本国民から、侮辱され、差別され、肩身の狭い思いをさせられていると感じているのではないでしょうか。国連の人種差別撤廃条約の審査において、無償化除外が人種差別であるという勧告を受けたのはその流れです。

本来、北朝鮮との「対決」は、朝鮮民衆と連帯してその人権を守る闘いであり、であるからこそ、日本一国にとどまらず、世界中の人々から(そして在日朝鮮・韓国民衆からも)支持されることが可能な普遍的な正義性を獲得できるのです。
思えばイラク戦争のブッシュ-ブレア-小泉でさえ、それがいくら欺瞞的だと言っても、一応は「フセインは敵だがイラクの民衆は敵ではなく友人だ」と繰り返し語っていました。それに比べても民主党政権はせめて「君たちを不当に扱ったり差別したりする目的ではないんだ」「金正日は敵だが朝鮮学校の生徒たちは大切な社会の一員だ」「決して民族教育の権利を否定しているのではない」くらいの、不安にかられ、自尊心を傷つけられた子供たちの気持ちを慮った一言が言えないのか。民主党だけではなく、朝鮮学校無償化に反対する論者は、そのことにふれるさいには必ずこのことを何度でもしつこいくらいに繰り返し言わないと、現在の日本の社会状況においては、非常に残酷な役割を果たすことになるでしょう。

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転載】イルムから―当たり前に本名が名乗れる社会を求めて

 最初は「ニュースとお知らせ」のコーナーに掲載しましたが、読んでいるうちに、ふと、私の中学校の卒業式の日、クラスのみんなの前で「本名宣言」をした在日の友人のことを思い出し、胸が苦しくなって、ブログのほうに載せてみたいと思いました。

 彼は一生残る卒業証書の名前に、通名と本名のどちらを書くかと校長先生に尋ねられ、親とも相談し、悩んだ末に本名を選択したようでした。そして、それは彼が今後の人生で、通名ではなく本名を名乗り続けるという決断をしたことを意味していました。

 私は、卒業式のその日まで、彼が朝鮮民族であることをまったく知らず、ごく普通の友達としてつきあっていました。担任の先生からの簡単な説明の後、そんな彼が、今まで見たこともないような真剣で思いつめた表情で、けれどもものすごく自信をもって「僕の本当の名前は呉○○です!」と、まっすぐに前を向きながら、あらためての自己紹介を終えた時、私たちはすっかり圧倒されてしまい、何も言うことができませんでした。まだ世間なんて知らない中高生の子供だった私たちには、その「本名宣言」の重さがよくわかっていなかったということもあると思います。

 けれども、そのときには、クラスの全員が彼の言葉を好意的に受け取ったということだけは断言できます。何人かはとても感動していたようでした。教室の後ろには、彼の母親と校長先生が一緒に立っておられ、そんな彼の「本名宣言」を、彼のお母様は、泣いているのか笑っているのかよくわからない複雑な表情で、感無量というかまぶしそうな表情で見つめておられたのを覚えています。

 先生が、「卒業式で、もし他のクラスの人に聞かれたら、みんなも教えてあげてな」と言ったあと、講堂に移動しての卒業証書授与式の時、「呉○○」と校長先生が彼の名を呼ぶと、彼はどの卒業生よりも一番大きな声で「はい!」と返事をすると、直立不動で卒業証書を受け取りました。校長先生はそんな彼に「おめでとう」と笑顔で声をかけておられました。何人かの他のクラスの主に女子が、「え?名前違うやん」という反応をしましたが、うちのクラスの女子が説明し、ふんふんと頷いているところが見えました。

 式のあとのクラスでの謝恩会の時も、特に何事もなかったように、みんなで楽しく過ごしました。差別ゆえに通名を名乗らざるを得なかった彼が、それを捨てて本名を名乗る決意をすることで小さな波紋をおこし、かえって周囲の差別意識を減らしていく。たまたまかもしれませんが、絵に描いたような展開でした。私の中学高校時代なんて、青春の華やかさのカケラもないバッチイ思い出が多いのですが(笑)、これは数少ない美しい思い出です。彼とは友達とは言ってもクラスでは別のグループだったし、高校も分かれたので、それ以来会う機会はありませんでした。在日差別の問題については、昔よりも進歩したのか退歩したのかよくわからない状況が続いていますが、どうか力強く、そして幸せに生きていてほしいと願います。

--(転載ここから)--

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尖閣問題についての話題

休みがとれたら三里塚報告の続きを書いて、その後に尖閣における中国漁船拿捕事件について書こうと思っていました。でもなかなか休みが取れず、たまに取れた休みはぐったりして家で寝ているというヘタレな有様でして、来月以降までこの状態は解消されそうにありません。書くべきネタとしては今のところ4本くらいたまっているのですが……。

その間にコメント欄にて、尖閣問題についての話題が先行的に出ています。政治ネタとしては旬だったので、まあそれも当然でしょうか。そこでまだはっきりと固まらないまま、私もそれに対するレスとして、先行的に今考えている問題意識の羅列のようなことを書きました。今読み返してみますと、自分で自分の書いた文章に突っ込みを入れたくなる部分もあるし、微妙に考え方が変わっていく過程でもあるのですが、とりあえずそのへんには目をつぶって、今後の整理のために(コメント欄は全文検索に引っかからないため)ここに該当部分を集めておきます。

■投稿日時: 2010 年 9 月 27 日 1:20 AM
http://bund.jp/modules/wordpress/?p=6587&cpage=1#comment-60151

国家は民衆同士の反目を上手に利用する……(前略)それはさておき、言及されておられる事件については、まさしく菅政権にとっては、軍事力の増強維持と、安保体制(属米政治)の維持のための格好の宣伝に使われていますね。また、中国政府にとっても、やはり軍事力増強の口実に今後使われていくでしょうし、民衆の目を「外敵」に向かわせていくことで、国内の問題(人権・チベット・貧富の拡大)から目をそらせることに成功しています。まさに歪んだ共依存です。
 そしてまた、日中両国とも、こういう排外的なナショナリズムの扇動に、まんまと乗せられている人が大勢いる。おそらくにんまりしているのは米中の支配者のみ。日本の菅政権はおたおたしながらその尻馬に乗っているだけ。まさかアメリカは日本を守ってくれるとか本気で思ってるわけじゃないですよね。

 私は日米中は「矛盾的共存関係」と位置付けています。中国はもはや金融資本主義のトバ口にさしかかっており、こういう後発資本主義国は、その拡大を維持するために、旧来の世界的資本主義国ばかりが占有している資源・領土・勢力圏を、新しい力関係に基づいて再分配しなおすように要求するものなのです。戦前のドイツや日本がそうでした。結局これは最終的に世界的な戦争となって決着がはかられていった。しかしそれを可能とした経済的な要因は、植民地と宗主国による垂直的な分業体制と、ブロック的な経済貿易体制でした。政治的には「労働者国家」が裏切って、この植民地分捕り合戦にその一員として参加したことで可能となりました。

 ところが戦後の冷戦体制の中で、この関係は崩れていきます。すなわち、資本主義世界はアメリカ一国を中心として、水平的な経済・貿易体制になっている。これにより、もはや大国同士で資源・領土を分捕りあうような総力戦は事実上不可能になりました。日米中3国についてもその事情は同じです。とりわけ後発資本主義国である中国からの再分割要求は強く、その矛盾は決して解決され得ないものの、今後も矛盾的に共存していく以外に資本主義体制が生き残る道はない。そしてとりわけ米中という大国同士が作り上げる世界秩序に対抗する民衆の闘いや、オルタナティブに対しては、彼らはむしろ対立ではなく共同してこれを抹殺する体制をもっています。日本・沖縄を踏み台にした安保体制もその一つです。

 アメリカにせよ日本にせよ中国にせよ、およそ「国家」を信用するものには、最後には矛盾や犠牲の押し付けしか待ち受けてはいないでしょう。それはすでに戦前の歴史が証明していると思います。私たちはこれら強盗同士の分捕り合戦に対して、そのどこかを支持したり味方したりするのではなく、その全員に対して「おまえらいい加減にしろ!」と怒ることだと思っています。そこでのキーワードはやはり「人権」であろうし、とりわけ中国や北朝鮮などの体制を揺るがすものはそのような民衆の怒りでしかありません。「人権」をキーワードとせず、どこかの「国家」に味方するような態度は、中国や北朝鮮にとっては痛くも痒くもないし、むしろ歓迎でさえあるということです……(後略)

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人種差別撤廃条約の講座に参加してきました

日本に実在する飲食店の人種差別看板 「知識」という面だけで言いますと、いわゆる「総決起集会」とか各種のデモというのは、アウトプットにあたるわけです。それに対して講演会とか学習会みたいなんは、どっちかつーたらインプットになるわけですね。そいで、いつもいつもアウトプットばっかりしてますと、バカサヨク代表を自認し、ただでさえあんまりカシコない私なんぞはすぐに枯れ果ててしまうというわけで、先日の10日、「人種差別撤廃条約講座」に参加させてもらいました。

 講座の詳細はこちらですが、左翼系の告知では全く見かけなかった講座です。NGOボランティア系のサイトで偶然に見つけました。そのことでわかるように、左派色は全くなし。人権・人道・国際法の講座です。ただし実践的でした。
 大変に勉強になりましたが、国連人種差別撤廃委員会の日本審査に実際に参加し、意見を述べられたNGOの方々に、それぞれ自分の分野の問題点や現状について解説していただくという内容でしたので、人種差別撤廃条約について全く予備知識がない私は、国連の日本への勧告について、逐条的に解説していただけるような基礎講座を想像(期待)していたこともあり、極めて実践的な内容には事前の心構えができておらず、少々消化不良になりました。よって何か間違いがあったら指摘してください。

 そんなこんなでどういう順番で紹介しようかなと迷ったのですが、読者の皆様に興味があるだろう順ということで、前後しますけど、一番最後の質疑応答で出た「在特会」の話題について最初に、次に講座の中で印象に残った話題の中からいくつか、最後に、資料として日本政府に対する国連の勧告の全文(仮訳)を掲載することにします。

◆「在特会」の国連への「抗議」の内容

 これは、こことか、こちら日革連さんが紹介してくれている内容のことですね。この講座の質疑応答の中でその全容がわかりましたので、ご報告しておきます。日革連さんは「彼らは国連大学に抗議に行っている」と教えていただきましたが、正確には国連日本広報部らしいです。

 まず、日本国内における外国人差別の高まりの実例として、「在特会」が京都の朝鮮小学校を襲撃した際の映像が国連で上映されました。これを彼らは「無断で映像を使用された。著作権違反だ」と抗議してきたらしいです。ですが、彼らの言い分は全くのデマです。国連で上映されたのは、このサイトでも何度も使用しているこちらの動画です。これは「在特会」ではなく、被害者側が襲撃の証拠映像として残したもので、「在特会」の公開している映像ではありません。

 このあたりは軽く紹介されたのですが、質問に立たれた一人が、「そうは言ってもね、もちろんそうだろうなとみんな思うだろうけど、彼ら(在特会)がこれだけ大々的にデマを流しているうちに、それが本当だと騙される人だって出るでしょう。ちゃんとデマなんだとネットなりで大きく公表するべきではないですか」とおっしゃりました。これはもちろん正論で、「在特会」のやっていることは、彼らの祖先であるヒトラーの「嘘も100回言えば本当になる」という言葉を地でいくものです。けど、ネットとかで大きく反論するというのは、きわめて活動家的、いわば左翼的な発想であって、普通のNGOである講師の皆さんは、「それはそうかもしれないけど」と少し困っておられました。

 ま、こういう時こそ左翼サイトの出番というわけで、かわりに大きく言っておきます。
それは「在特会」のデマです
だまされてはいけません。もし、機会がありましたら、「デマだ」と自信を持って広めてあげてください。もちろん、よしんば「在特会」が動画共有サイトに公開した動画であったとしても、こちらの日革連さんへのレスに書いた通りの理由で彼らの主張はまったくの失当です。


 次には、何やら「審査委員が日本人でないのがけしからん」と「抗議」してきたそうで、これには会場から失笑がもれました。
 外人に日本のことを裁かせるなんてという発想らしいですが、いったい国連とか人権というものをなんだと思っているのでしょうか?人種差別撤廃条約の審査委員に限らず、国連の役職は加盟国の選挙によって選出されます。各々の審査委員は出身国の利害を代表して派遣されているわけでもなんでもない。たまたまその中に日本国籍の者がいることもあればいないこともある。だいたい条約の加盟国は173か国もあるのです。自国籍の委員がいない国のほうが普通なのです。

 さらには、全くもう次から次という感じで、「われわれを批判するようなNGOだけが意見を述べることができるのはおかしい」と言ってきたそうですが、これも「在特会」の無知ゆえの間違いで、審査に対しては、誰でも意見を提出することができるし、その気になれば国連で直接意見を述べる機会もあるのです。たとえば私だって意見を提出することができます。もちろん、私のように何の実績もなく、日常的な人権擁護活動もしていない個人や団体の意見と、長年の実績が認められているような団体では意見の重みがちがうでしょうが、そんなの当たり前で仕方がないことでしょう。

 そうしてやんわりとたしなめられると今度は、「そんなこと言っても英語がしゃべれないんだ!どうしてくれる」と言い出したそうで、これには会場が爆笑になりました。これじゃクレーマーですよ。「意見を提出したNGOも、決してネイティブの人たちではないんですよ、意見書を英訳するにはそれなりの方法があるから、それは自分で調べてください」と当たり前のことを言われたにもかかわらず、「いや、意見書を書くからお前たちで翻訳して国連日本広報部の名前で審査委員会に提出しろ、変な翻訳をしないように、われわれも翻訳に加えてやれ」と無茶なことを言い出したというところまで話が進んだところで、会場からは「バカだ……」「バカじゃないか」「バカだなあ」というつぶやきがもれました。

 まったく、どこまで自分らだけが特権階級だと思っているのでしょうか?他のNGOは、みんな自分たちで勉強して英訳したり、しかるべき人に依頼して翻訳してもらっているのです。なんでなんの人権擁護活動もしていない、チリほどの実績もない自分たちだけが、プロをタダで使えると思っているのか?ネットでよくいますが、「ネット上のものは何でもタダ」と思い込んでいる奴とか、フリーソフトなどをタダで使わせてもらいながら、感謝の言葉の一つもなく、まるで客みたいに文句を言う輩と何も変わらない精神構造ですね。

 一応、わかっているのはここまでということでした。なお、「在特会」は、国連広報部の職員に自分らの文章をタダで翻訳させて、なおかつ国連広報部の名義で審査委員会に送付させたと豪語しているそうです。だいたいそんなクレーマーまがいの要求をしたこと自体が恥だと気がついていないのは本人だけですが、それでもこれがどこまで本当なのかはわかりません。国連広報部の方々は、慣れないクレーマーへの対応に振り回された被害者ですから、決して非難はしてはいけないとNGOの方は言っておられましたが、同時に、「それが本当の話なら、今後は私たちは今までみたいに苦労して翻訳し、書式にしたがって意見書を届ける必要がないですね。国連広報部に持っていけば、それこそ誰の意見でも翻訳してくれて、なおかつ国連日本広報部の名前で意見を提出してくれるんでしょうか?」とおっしゃっておられました。ちょっと考えにくいことですね。

 さらにその「意見書」の中身ですが、日革連さんの投稿を読みますと、小学校への襲撃は差別ではなく、子供を標的にしたものでもないと強弁しているそうです。だったらなんでわざわざ、複数の小学校の子供たちが行事で大勢集まっている公園を狙ったのでしょうか?まさにその日、その場所を狙って子供たちに「スパイの子」「キムチくさい」などと拡声器(しかもあれは60W以上の大型拡声器です)を使って暴言を浴びせることが、「差別ではなく」「子供を標的にしたのでもない」と、どの面下げて言えるのか、この恥知らず!

 100歩譲って差別が「主観」だとしましょう。犯罪でも「主観」を成立要件とするものがあります。殺人罪もそうです。だからと言って、「殺すつもりはなかったので傷害致死です」と言えばなんでもそうなるわけがないでしょう。心臓を狙ってナイフを突き刺せば、本人がどう言おうが殺人の故意ありと認定されます。「在特会」が言っていることは、まさに人の心臓を狙ってナイフを突き刺しながら、「殺すつもりはまったくありませんでした」と言っているに等しい恥知らずな言い訳です。こんなものが通用する世界があると本気で思っているのでしょうか?あきれ果てるばかりです。

 まあ、何と申しましょうか……。今までね、主に2ちゃんねらーの方とかが、よく「在特会ってバカばっかし」とか「在特会はバカだから」云々みたいなことを書いておられましてね。そういう批判の仕方って嫌いだからしてこなかったんですけどね。でも、今回だけは同意しますわ。やっぱり「バカ」でしたよ。やつらは。痛すぎるでしょ、これじゃフォローのしようがないですよね。

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報道】京都朝鮮小学校襲撃事件への抗議集会に900人

朝鮮学校周辺の街宣禁止 京都地裁仮処分を決定
(京都新聞2010年03月24日)
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P20100324000209


 京都市南区の京都朝鮮第一初級学校で「在日特権を許さない市民の会」(在特会)などが民族差別発言をしたとされる問題で、京都地裁(小河好美裁判官)は24日、在特会などに学校周辺で誹謗(ひぼう)中傷を伴う街宣活動を禁止する仮処分を決定した。

 学校側が、28日に在特会が街宣活動を予定しているとして、19日付で仮処分を申し立てていた。

 申し立てによると、在特会のメンバーらが昨年12月4日、学校による近隣公園の使用方法を批判するため、授業中の学校前に訪れた。約1時間、拡声器を使って差別的発言を繰り返したという。

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抗議集会に900人 円山からデモ行進 京都朝鮮初級学校に差別発言
(京都新聞 2010年03月28日)
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P20100328000121

 昨年12月、京都市南区の京都朝鮮第一初級学校に、「在日特権を許さない市民の会(在特会)」を名乗る団体が押しかけ在日朝鮮人を差別する発言や脅迫を繰り返したとされる問題で28日、差別的攻撃に抗議する集会が東山区の円山公園であった。

 集会は、大学教授や弁護士らが呼びかけ人となり、実行委が開催し、900人(主催者発表)が参加した。

 集会では、攻撃を受けた初級学校生徒の保護者らが登壇し「子どもたちは心に大きな傷を負った」などと話した。高校授業料無償化から朝鮮学校を排除する動きについてもアピールがあり「すべての在日・滞日外国人が民族性や文化を尊重され、共に生きていくことができる多民族共生社会の実現に力を合わせよう」とする宣言が、拍手で採択された。

 集会後には、参加者らが円山公園から市役所前までデモ行進した。四条河原町交差点や市役所前で、在特会のメンバーらが「日本から出て行け」などと叫び、デモ隊ともみ合い府警の機動隊員が割って入るトラブルもあった。

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外国人参政権問題を考えるにあたって

◆スローガンは美しいが

共に生きる 定住外国籍市民の地方選挙への投票権については、近い将来に実現する可能性が出てきた(⇒現在の状況)ということですが、このいわゆる「外国人参政権」に対して、穏健保守やリベラル派とは違い、左翼業界では慎重・反対の人も多いようです。確かに「多文化共生」もその言葉だけは美しいし、これに文句をつける人は少ないでしょう。また、産経新聞の世論調査では、外国人参政権付与に賛成53・9%、反対34・4% わからない11・7%となっており、世論の支持もあります。
 ですが、これを単なる「スローガン」として内容をよく吟味せずに要求していると、それを逆手にとられ、言葉の美しさとは全く似ても似つかない、醜い社会や制度が導入されてしまうかもしれません。

◆過去の教訓ー「男女平等」「労働の自由」「行政改革」

 たとえば「女は黙って家庭にいるのが美徳」とされてきた時代(高度成長時代頃まで)から主張されてきた「男女平等」とか「女性の社会進出」というスローガンですが、これも結局は女性を「企業に献身する一人前の労働力商品」として、労働市場に組み込むだけの結果しか、とりあえずはもたらすことができませんでした(もちろん今も暫進的な歩みが続いています)。
 本来の男女平等は職場だけでなく家庭でも実現されないと意味がありませんし、そのためには女性を「男並みに働かせる」のではなく、男性に「女並みに家庭や個人生活に時間がさける」社会にしなくては何にもなりません。そのための労働者保護法制の整備はもちろん、介護や育児などを社会全体の責任として負担していくことが求められていました。ところが実際には企業社会は充分な責任を分担せず、ただ雇用にあたってゆえなく男女別の募集などをしてはいけないとか、同一労働で男女に賃金差があってはいかんとか、最初っから「当たり前だろ!」という程度のものしか当初的に勝ち取れませんでした。
 こういう状態のままでは、夫婦ともに(仕事に限らず)社会活動をしていれば、家庭・個人生活がままならない事態にもなります。結局はそのしわ寄せの多くは女性(場合によっては子供にも)にきて、社会に出るにしても、パートなど非正規労働として組み込まれていくわけです。「自己責任論」の蔓延や不況の民衆へのしわ寄せなどの閉塞状況の中で、介護疲れによる無理心中などの悲惨な話題もいまだに事欠きません。

 また、派遣労働者の問題がクローズアップされた時、派遣法そのものに反対だった共産党の志位委員長の質問に、時の福田首相が「そういう働き方に対する需要もあるんですよ」と答弁していたことも思い出されます(⇒動画)。確かに、好況期を背景として、「そういう働き方」への模索もありました。それは家庭や個人生活を犠牲にしてでも、企業への献身が求められることに対する自然発生的なアンチとしてあった。家庭や個人を優先したいという価値観の人も増えていた。それを推し進めていけば、本来なら資本からの自由という「労働の解放」に進むべきものでした。
 ですが、労働者派遣法は「そういう働き方」に対する労働者側の需要に応えたものではありません。いわばそういう風潮をも逆手にとる形で、「そういう雇い方」に対する企業側の需要に応えたものだったのです。企業にとって、派遣労働者は本当に都合がいい存在です。特に製造業への派遣が合法化されたのが致命的でした。制度が作られて合法化されれば、必ずそこに組み込まれてしまう層が生まれてくる。しかも派遣法は労働者ではなく、極めて露骨に企業のための法制度です。「そういう働き方への需要」に応えたものではありませんから、派遣労働者はちっとも「資本から自由」になったのではなく、その反対にますます「資本の奴隷」になっていきました。

 もっと古くは「行政改革」があります。これはもともと民衆の側のスローガンでした。単純に「税金の無駄使いをやめろ」というところからはじまって、許認可権などを盾にとった、官僚や役所の権威的、支配的、かつ非効率な行政の無駄をはぶき、民衆の側に主導権を持たせよう、利権政治を打破しようという、左派の側からの要求であり、突きつけだったわけで、もともとそういう思想が根底にあった。
 ところが中曽根内閣や小泉内閣などが進めてきた「改革」は、結局は民生部門・行政サービスの削減であり、本来まじめにやればやるほど「儲からない」はずの行政活動を、民営化という名で企業利潤の原理にゆだねてしまうことでした。スローガンだけは「官から民へ」という、革新野党などが要求してきたことに沿ったものでしたが、実際には「民(たみ)」を切り捨てる「公から私へ」にすぎませんでした。国家全体が私企業と同じ発想で動けば、企業は別として民衆レベルでは繁栄どころかペンペン草も生えなくなります。その極端な事例が中国における超格差社会でしょう。

◆自民党路線の破綻 保守政治に出口はあるか

 こうして見てきますと、「男女平等」、「働き方の自由」、「行政改革」、いずれも元は民衆の側や弱者の側から出てきた自然発生的な要求であり、左派もその自然発生性にのっかる形で「要求貫徹」のために運動してきたことばかりです。ですが、その結果として生まれてきたのは、当初的にこのスローガンをとなえてきた人々が考えていたような美しい制度や社会の発展ではなく、それと全く逆の社会や結果でした。とりあえず思いつくままこの3つを並べてみましたが、見事に一直線に結ばれていることがわかるのではないでしょうか。
 そしてこの一直線に結ばれ、「ブルジョア階級の政治委員会」たる自民党政権が、何十年もかけて積み重ねてきた路線がいきつくところまでいってしまい、とうとう昨年の総選挙で(やっと)民衆から拒否された路線の本質なんだと思います。そのことを民衆は理屈ではなく肌で感じているからこそ、いくら民主党が醜態をさらそうとも、自民党の支持率が、当人たちが思うほどには遅々としてあがらないのです。

 ついでに言っておけば、その拒否感の受け皿となった民主党は、こういった不満に「理解を示した」だけなわけです。その端的なスローガンが「コンクリートから人へ」であり、「国民の生活が第一」でした。しかし単に理解するようなそぶりを示して、旧来の自民党政治を否定してみせただけであって、何かしらそれと根本的に変わるような内実や、(好不況をくりかえしながらも長期的に)低迷し、衰亡している資本主義を蘇らせるような青写真をもっているわけではありません。企業(資本家階級)やアメリカの側に民主党を取り込んでしまおうという圧力も強いし、それに対抗して最後まで「国民の生活が第一だ」と対決する気概も感じられない。結局最後は政策的に破産するか、あるいは企業側に立って民衆に犠牲を強いる自民党的な政治に舞い戻るかしかない。一方の自民党も、民衆のこういう拒否感の方向性が見えていない。まさに保守二大政党制に出口なしです。

◆支配者の都合による「受け入れ」と「共生」

 それにしても私たち民衆は、今までこれだけ煮え湯を飲まされてきたのです。そろそろ学習してもいい頃ではないでしょうか。たとえば「外国人移民の受け入れ」を一番熱心に主張している日本国内の勢力は、他ならぬ経団連などの企業・財界連中です。もちろん彼らの思惑は、低賃金な下層労働力の確保でしょう。このままほうっておいたら、またぞろ「共生社会」は、あちら側のスローガンになってしまい、その言葉の美しさとは似てもにつかぬ醜いものが生み出されてしまうかもしれません。つまり今までと同じ、一直線に結ばれた同じ路線です。

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