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懐古的資料

北西風をこえる党 戦旗派84年下半期総括

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一.はじめに

 全国の同志・友人諸君!
 わが同盟は一九八三年の前進にひきつぎ、一九八四年階級攻防をも飛躍的な発展のうちに戦取した。八四年夏期より秋冬期にかけての闘いにあっては、7・16全国十ヵ所におよぶ全斗煥来日阻止のゲリラ・パルチザン戦闘を号砲に、7・29政治集会××××名動員、8・5用水粉砕六派共闘の領導、9・2~6全来日阻止闘争での××××名動員と東大・宮下などでのハンスト戦貫徹、九月用水実力攻防の牽引と9・24単独決起、11・11三里塚二期阻止××××名動員による単独決起、そして12・16安保・日韓・三里塚集会での××××名動員の達成などを実現した。
 わけても十・十一月過程にあっては本部ビル建設の闘いに全党の総力をあげて取り組み、埼玉県蕨市に鉄筋コンクリート四階建ての一大拠点を構えることに勝利した

 六・一七反トマ闘争をつうじ××××の大台にのった動員を三回にわたってキープしつづけたこと、本部ビルの取得、自力による改築・開設を完遂したことなど、まぎれもなくわが同盟は八四年階級攻防を大勝利のうちに打ち抜ききり、実体的な前進をとげたのである。

 この過程における政治攻防を敷衍するならば、次のような過程をたどっている。

 七月、中核派が第四インター活動家を千葉と福岡で再度テロる以前、五月初旬にわれわれは『戦旗』四八八号において海原論文を発表し、二期攻撃の切迫に対し、反日帝統一戦線の形成をもって日帝権力と闘いぬく必要があること、そのためには熱田派は一坪共有化運動を凍結し、北原派は中核派の内ゲバ攻撃を停止させるべきことを訴えた
 これに対し第四インターは、この海原論文の提起が「連帯する会」の趣旨に反するものであると主張し、われわれにその撤回と自己批判を迫るという圧力を強めるに至った。だがわれわれが、この趣旨が党の基本路線にねざすものであるがゆえに撤回などありえないことを主張するや、第四インターはわが同盟を「連帯する会」運動から放逐することを策謀しはじめ、それを材料としての自己批判を強要するに至ったのである。

 われわれは八月成田用水強行着工が迫っていること、ゆえに実践的な闘争体制構築が必要であり、「連帯する会」がこの用水攻撃に対し如何に対処すべきなのかを逆に問おうとした。だが第四インターは用水攻撃に対しては反対同盟の方針まちという対処をとりつづけ、われわれが七・一六ゲリラ・パルチザン戦闘の遂行において成田用水事務所をそのターゲットに設定し、闘争への決起を喚起してもなおそれを無視し、全く密室的な作業としての「連帯する会」構造での戦旗のしめ上げ、一坪凍結方針をおろせというタガハメ路線をとりつづけた。
 その結果、既に六月段階で一度は確認されたはずの事務局レべルでの「連帯する会」の声明を、事務局員である第四インターのT氏が勝手に書き換えるというような姑息な手段までとるに至り、遂にわれわれ戦旗・共産同は七月二十日「連帯する会」の運営と路線的方向に疑義を強く感じざるをえなくなり、わが同盟は「連帯する会」からの脱会を大衆的に公表するに至ったのである(=『戦旗』四九三号、七月二十一日付)。

 これによって「連帯する会」構造に拘束される必要性のなくなったわが同盟は、八月成田用水粉砕にむけての支援独自の集会設定を実現し、八・五三里塚現地において、戦旗、プロ青、赫旗、全国委、労活評、青共同の六派からなる用水粉砕派を登場せしめた。だがこの八・五共闘の成立に驚愕した第四インターは、今度はこのブロックの解体にのりださんとし、プロ青、赫旗をどう喝して回ることによって取り潰しにかかった。

 七・二九政治集会をはさみつつ七~八月現地行動隊派遣をもって用水粉砕の攻防に全面的に登場したわれわれは、こうした第四インターの策謀を横目でにらみつつも、日帝国家権力との正面切った対峙、破防法弾圧との闘いに傾注せざるをえなくなり、八・二ーには戦旗社に七・一六ガサにきた公安一課、四谷署デカ共により同志Sが三階から地上にまで突き落とされるという弾圧をうけた

 わが同盟はこうした弾圧の激化にひるまず、全来日阻止闘争を成田用水粉砕の闘いと同時一体的に、全人民的政治闘争として闘い抜くことを決意し、東大・宮下公園などでのハンスト戦を領導しつつ、九・二~六闘争を徹底した大衆的実力闘争の陣形をもって打ち抜ききった。そしてそのまま九月用水決戦に再度の現行隊派遣をもって臨み、熱田派反対同盟をも最後的には巻きこむ形で、九月攻防を闘い抜いたのである。

 しかし第四インターは九月に八・五の六派共闘が再成立することを阻止することだけに全力を注ぎ、九・二三~二四のどちらかとして設定した支援集会・デモを、石井武氏の主要な反対を口実に取り潰し、われわれはやむなく九・二四単独決起で闘い披かねばならなかった。しかも九・二九には二十三名逮捕という弾圧さえ日帝政府・公団によりこうむることになったのである。

 こうして八四年秋冬期を通じわれわれ戦旗・共産同と第四インターを中心とする「連帯する会」党派の間の分岐はプロ青、赫旗の中間主義的ブレと動揺-コウモリ的対処もあいまって、次第に大衆的にもあきらかなものとなった。また熱田派反対同盟も十・一四集会に、七八年政府との対話路線の主役である島寛征を基調にすえるといった条件派的対処をとりつづけ、ゆえにわれわれは十・四への大衆動員をおとし、熱田派同盟内左派潮流の結集を追求すべく11・11単独決起にて二期決戦勝利へむけての闘争設定を貫徹した。と同時に反トマ首部圈運動にみられる第四インターが依拠せんとする市民運動、旧べ平連や共労党部分との分岐も明確化させることを決意し、護憲・非同盟路線への批判としてこれを敢行した(『戦旗』四九八号森島論文)。

 そして市民運動内部での左派的部分が潮流的に結合しえる舞台設定として十二・一六集会を共同で打ち抜くことを提唱した。だがこれに対してはプロ青が一度は参加の態度をとりつつも、共労党長老グループの圧力により逆にこれに反対するという対処に出、赫旗もプロ青に連動して結局参加をとりやめるという二枚舌的対応をとったため、再度わが同盟は単独決起として、旧来の「連帯する会」潮流とは別個の安保-日韓体制打倒、ゲリラ・パルチザン戦闘貫徹の左派潮流構築をめざす闘いとして一二・一六を独自集会として打ち抜く以外なくなったのである。

 十~十一月「党のための闘い」の遂行を通じ本部ビル建設を完了し、革命党として本格的構えを作りあげたわが同盟は、既存の政治関係では基本的にはもはや何も生み出せない状況下にあることを認識した。もって十二・一六の大決起に向けた全党総動員体制を作り上げることに全力を傾注した。そして十二・一四には中間的対処をとりつづける大ボラ大言壮語のサークル集団赫旗の主催する「建党協議会」への参加・協力の凍結を表明し、十二・一六を堂々と単独で打ち抜ききったのである。
 十二・一六においては八五年にむけての全党全軍の意志結集をつくりあげることに勝利し、わが同盟の団結はより強まった。

 かくのごとき経緯のもとにあった八四年秋冬の政治過程は、ゆえにわが戦旗・共産同の党的飛躍においても画期的な位置をもつものである。それは第一に、七四年戸村選挙以来の「連帯する会」へのかかわり、第四インター、プロ青との共同歩調をもっての三里塚闘争の共同の創成という政治関係に対し、わが同盟が明確な区切りをつけたという点においてそうである。第二に「党のための闘い」に全党の意識性を喚起し、第二次ブント以来はじめて自前の本部ビル建設に勝利するという抜本的飛躍をとげたことがあげられる。同時にまたわれわれは第三に六・一七、七・二九、十二・一六と七百名以上の動員を三度貫徹し、中大・明大・同志社の自治会動員に依拠しただけの第二次ブントの動員力に実体的に迫り、これを労働者動員としては事実上追い越していくという飛躍的前進をとげた点でも、画期的なのである。

 八四年秋冬期を打ち抜ききった勝利の根拠は何か。
 それは言うまでもなく、第一にわが同盟の組織的団結が、こうした困難な対処の連続する過程にあってもゆるぎないものであり、われわれが固く結束し、単一の革命党として機能しきれたからである。この要素ぬきには何も語れない。われわれは革命党を構成する主体として、党の下に結集し闘い抜く己自身を実存的につくりあげる作業に真剣に取り組み、それに習熟したのである。その成果が八四年秋冬期過程において実ったのだ。

 第二に、もう少し実体的な組織建設の進展からいえばちがう言い方もできる。それは党の機構化、システム化として進められてきた組織政策との関連で見た場合、八○年以降の若手カードルの養成と引きあげといった、いわば総体としてのヘゲモニーの転換を、わが同盟の民主的中央集権制の強化・確立と一体のものとして遂行してきたわけであるが、こうした組織政策の成果が、本八四年において開花するに至ったということである。

 地区党レべルでの指導部の交替、若手カードルヘのヘゲモニーの移行と、個としても闘う能力を既に獲得した古参カードルの中央諸部局への集中政策を、七九年問題の実践的総括をかけて、われわれは八○年以降一貫してとり続けてきた。二〇歳代中期の青年労働者が地区党指導部、あるいは支部指導部のキャップの役割りを果たすことを当然のことと考え、古参カードルはそれを支える政策の具体化は、たしかに一定のあつれきを部分的に生み出しもしたが、総体として考えれば新たな青年労働者の多量のカードル層を組織的に生み出すことに結実し、これらの部分の働きに触発されてわが同盟は前進をとげてきたのである。しかもいまや活動歴七~八年位のカードル層の力は次第に定着したものとなりつつある。
 これは組織政策の採用においてわが同盟が保守主義に陥らなかった肯定面のあらわれであり、この若手カードル層のものすごい奮闘と主体的前進ぬきには七百六十二名などという動員も、本部ビル建設での一億円を上回るカンパの集中も、とても実現できなかったであろうことは全く歴然としている。

 つまり総じていえばわれわれ戦旗・共産同は、一方においてはレーニン主義党建設における政治的・思想的観点の豊富化を、戦略的基軸性を守りつづけ発展させつつ実現し、それを戦旗派建設十五年の歴史性として蓄積することに勝利し、しかもその深化をかちとりつつ、他方においては進取の精神と対象化された自由な気風にもとづき組織のスターリン主義的硬直化をいましめ、自戒することによって、全体としての組織の活性化と飛躍を実現しぬいたのである。だからこそ、あくことなき前進につぐ前進をこの間とげてくることができたのだ。
 わが同盟のすさまじいまでの組織的飛躍と発展・前進、これは誰もが否定できない事実である。実際八三年の最大動員が七・三一政治集会(牛込公会堂)での××××名の動員であったことをかんがみるならば、八四年十二・一六集会××××名は実にこれを×××名も上回っているのである。ちなみに八二年の最大動員は八・一政治集会(赤坂公会堂)の××××名、八一年最大動員は八・一政治集会(豊島区民センター)の××××名、八○年最大動員は八・三政治集会(新宿文化センター)の××××名である。文字通りわが同盟は八○年以降の五年間で実に倍増し、そして今もなお猛烈に伸張を続けているのだ。

 全党全軍の同志諸君は、このすさまじいまでの戦旗・共産同の増強・拡大の根拠を怜悧に分析し、革命的理性にもとづき内在的に把握し、徹底的に主体化しなければならない。それを通じてこそ次の発展の確証は生み出されるのであり、戦旗・共産同のプレゼンスもまた階級的に増大するのである。数は力であることを学んだわれわれの目標は、今や八○年代において武装せる革命戦士×××××名の登場を是非とも実現することにある。今日までの伸張を正しく継承するならば、これは全く実現可能なことであり、その時こそわが同盟はプロレタリア日本革命を中軸的に担うボリシェヴィキ勢力として、はじめて、日本階級闘争の最前衛の位置に登場することができるのだ。

 全党全軍の同志諸君! だからこそここで力を抜いてはいけない。八三年春「兎」と揶揄されたぶざまな思いを忘れてはならないのだ。何処がボリシェヴィキなのかはこれからの問題である。われわれは八五年階級攻防を鬼神のごとく闘い抜き、必ず圧倒的な、爆発的な前進をとげようではないか。まさしくわれわれは「一寸の虫にも五分の魂」という言葉を知っている。全党全軍は二期決戦勝利にむけ、ジハドの精神で武装せよ。八五年戦旗・共産同は死力を尽くした突撃を開始する。「勝利か死か」を合言葉に殉革の精神で突進するのだ。一切の怯懦はここに捨て去れ。わが同盟は八五年二期決戦勝利にむけ武装決起し、そして必ず勝利する。
 全党全軍の同志諸君のこの事業への尽力と協力を心から要請する。

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