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八四年秋冬期の政治攻防を対象化せんとする際、いずれにしても問題となるのは、
(1)わが同盟が七月「連帯する会」を脱会し、別個の政治的観点をもって三里塚闘争ひいては日本階級闘争にかかわらんとする歩みを開始したこと、
(2)十・一四三里塚闘争への動員を大きくおとして限定動員とし、青年行動隊主導のエコロジー路線に規定された熱田原反対同盟の方向に対して疑問と批判をなげかけるに至ったこと、
(3)八・五三里塚用水粉砕闘争、九月用水決戦過程での九・二四単独決起に至る過程、或いは十二・一六安保-日韓集会の単独主催に至るまでの攻防関係にみられるように、第四インター系列から離れたわれわれが、左からの新しい共闘関係構築を展望しつつ「連帯する会」党派系列の再編を作り出そうとして、いずれも第四インター、プロ青同によって阻まれ、九・二四~十一・一一~十二・一六におけるように、結局単独決起とならざるをえなくなっている状況下にあること、
(4)それを革命党と革命勢力の密集した団結力、組織力で切り返しつつ、九・二~六全斗煥来日阻止闘争の鎖導に見られるように共通の課題が設定された場合には、第四インターではなく、わが同盟が闘争を領導する力関係が既に生み出されていること等をめぐる諸点となる。
もちろんそれをも規定する関係性として、(5)中核派の党派戦争宣言は継続したものとして存在しており、例えば今年三月蜂起戦と彼等が語っていることの内実には、わが同盟に対する内ゲバ、テロ攻撃の現実性があること等も、重要な考察の対象とならねばならないことなのであるが、ともあれここでは、地区党レべルでの動員オルグや他党派との攻防などにおいて直接問題となる前記した諸点についての、われわれの論点となるべきものをまとめておくべきだろう。
つまり第一には何故「連帯する会」系列からはなれ、第四インターを批判するに至ったのか、第四インターと同調して中核派批判をおこなうことを拒否しているのかをめぐる問題についてであるが、それはあくまでわれわれの戦略的総路線の帰結としての武装せる革命党建設、ゲリラ・パルチザン戦闘を内包した大衆的実力闘争路線そして第二次ブント以来の課題である『何をなすべきか』的なレーニン主義党建設の前進的歩みが、第四インターの主張する地域住民運動、幅広い全国運動、大衆の自立的運動展開への同調路線とくい違い、その対立がもはや差異を弥縫しきれぬまでに構造化されていることにねざす本質的問題である。
第四インターとの対立が根深いものとなったのは八三年七・五ゲリラ・パルチザン、八三年十一・六レーガン来日阻止常盤橋戦闘、そして八四年七・一六全来日阻止ゲリラ・パルチザン戦闘などの遂行に対し、第四インターが例の中核派批判にみられる「対日帝権力革命的武装闘争、ゲリラ・パルチザン戦争路線なるものは、政府・権力・資本に対する労働者農民大衆の直接的な戦闘的実力闘争の形成・発展にまさに路線として対立し、敵対する」(『世界革命』七七七号)という論法をもってわれわれの闘争遂行に対しても敵対を開始し、反トマ首都圏運動などの市民主義者に同調して、否彼等をたきつけて陰険な批判を開始したことを直接の契機としている。
いわく「三里塚はいいが、ヨコスカで七・五に火炎ビンを投げるのはいけない、現時点ではそれは反動だ」(ヨコスカ市民グループにまぎれこんだKを使っての発言)
「反トマ首都圏運動に労共闘名で参加している戦旗が、十一・六常盤橋みたいな闘いをやれば、反トマ首都圏運動はアメ大デモを許可されなくなる。戦旗のやっていることは運動破壊につながる」(反トマ首都圏運動に参加している第四インターKの論調)
「七・一六ゲリラ・パルチザンで依佐美基地を攻撃たのは依佐美の市民運動の発展に敵対する暴挙だ。ゲリラ・パルチザンを労共闘名でおこなう戦旗が反トマ首都圏運動事務局に入っているのは、反トマ運動の阻害にしかならないから労共闘は反トマ事務局から出ろ」(井上澄夫氏をあおりたててのKの七・一六批判)。
この結果わが同盟は結局反トマ首都圏運動の事務局から排除されることになった。そればかりか三里塚闘争にあっても反対同盟が菱田学区の統一の保持とか、村落共同体内の分岐のとりまとめとかの全くあいまいな理由で成田用水粉砕闘争への取り組みを放棄していた際に第四インターが、「支援は同盟の意向に反して闘争を組むな」との石井武氏の反動的どう喝に屈服し、用水闘争の取り潰し策動に打って出、結局熱田派支援は九月用水決戦を全く取り組めない事態さえもが現出した。
そこでなおかつ用水闘争に取り組もうとした戦旗は九・二四決起にみられるように、まったく単独決起になってでも闘う以外になかったのであり、かくの如き路線的にくい違う右翼日和見主義そのものの方向をとりつづける第四インターにわれわれが同調することは、結局わが同盟が党派としての戦略内容を捨てるということにしかならないのである。
構造的なものである路線的な百%の対立性を無視して第四インターと中核派批判で同調することは、われわれがわれわれ自身のやっていることを批判するという茶番的世界におち込むだけなのだ。ゆえにわが同盟は第四インター系列と別個の地平での路線的歩みを七月「連帯する会」脱会後の潮流的分岐をもって開始し、独自の観点で三里塚闘争にかかわり、中核派との攻防もそうした連関の中でおこなう対処をとるに至ったのである。この脈絡が全党的に把握され、主体化されていかなければならない。
第二には中核派批判の態度があいまいだとか、内ゲバを回避しているとかの批判がましい論調に対してであるが、われわれは内ゲバ主義を内ゲバ主義批判で切り返すことが問題の解決にはならないと問題を対象化してきた。
八三年三・八分裂以降われわれがとらえ返してきたことは、日帝国家権力との攻防、権力に対して徹底闘いぬくというプロレタリア革命運動の普遍的命題の貫徹が、人民内部の矛盾の処理に属する対立党派との関係性をも規定するということである。この骨格を崩した地平で、一対一的な対処を如何に強めても絶対に問題は解決されない。
第四インターは中核派から戦線逃亡だ、裏切りだと批判されることに対して、そもそも大衆的実力闘争なり、全人民的政治闘争の領導をもって日帝国家権力と闘い抜くことによって切り返していく方向を全くとっていない。否そればかりか、「十月蜂起戦などというのは蜂起のもてあそびだ」(『世界革命』八六一号)等という、ほとんどカクマルと同じ右からの批判をもって、右翼的にこれに反撥しているだけである。それでいてわれわれに対しては「彼らは、内ゲバ主義一掃のたたかいがプロレタリアート解放の事業の成否がかかった歴史的任務なのだということを理解しない」(『世界革命』八五三号)などと説教しているのだ。
「内ゲバ主義を一掃するために内ゲバ党派を孤立させ包囲していく」という観点、そのために自分達の主要な闘いを「反内ゲバ主義」に切り縮めてしまい、大衆運動上の課題としてこれに取り組んでいくというのがその路線的帰結になるわけであるが、ここにはそもそも帝国主義国家権力との攻防の弁証法、日帝打倒の闘いを広範に作り上げていくなかで内ゲバ主義を反包囲し、逆規定しきるという問題把握がないのである。
だから内ゲバどう喝やテロを振りかざしながらも、日帝国家権力に対しては闘わんとする中核派に対して、犬の遠吠え的な一対一の反中核主義の対応しかとれないことになり、当然日本階級闘争のドラスティクな激動とは無縁な地平で、権力とは闘わずに内ゲバ主義反対を振り回すだけのセクト主義としてのみ発現することになる。それが熱田派反対同盟をただの反中核同盟のようなものにおいやってしまい、日帝政府公団の攻撃に対しては全く無為無策な条件派的集団におとしこめてしまっているのだと、われわれは批判しているのである。
日帝打倒という普遍的課題と、その過程で発生する特殊的課題をとり違えてしまい、後者によって前者を規定する考えは、中核派の「二重対峙・対カクマル戦」→「先制的内戦戦略」と同様の誤謬でしかないのだ。
われわれは決して中核派の内ゲバ攻撃が第四インターに加えられることを認めているのではない。だが第四インターのように日帝国家権力の二期攻撃に対する態度をあいまいなものにしてしまい、ゲリラ・パルチザン戦闘の遂行そのものを批判し、空港関連事業でしかないことがわかりきっている成田用水攻撃に対しても闘争をネグレクトしてしまい、それでいて中核派に対しては毎号のようにシリーズを組んでその批判をやらかすという対処で、一体人民の支持を得られるものなのかどうかを第四インターは冷静に考えてみる必要があるのだ。
日帝国家権力の攻撃の激化に対する闘いがまったく不鮮明であり、そこに戦闘性の一カケラも感じられなくなったからこそ、人民は熱田派から北原派へと急速にその支持を変えつつあるのだ。事実、分裂直後は動員で熱田派が上回っていたにもかかわらず、八四年十・十集会では北原派の実数××××の動員に対し、今や熱田派はその3分の1の××××名にまでその支持の基盤を喪失させてしまったのだ。
わが同盟はこうした第四インターの対処の右翼性、革共同関西派そのもののサークル性に対し、日帝国家権力に対し戦闘的にゲリラ・パルチザン戦闘の遂行をもって対処しきり、なおかつ犠牲を恐れず九月成田用水決戦を実力攻防をもって担いきる道を選択した。その結果、中核派は直接にわが同盟にテロ攻撃を加える口実を喪失してしまい、なおかつわが同盟の党の武装の前進にともなう自衛武装の強化にもはばまれて、テロによる攻撃を停止する以外なくなったのである。
つまりわが同盟は文字通り目的意識的にテロを回避する方策を革命党の政策として採用し実践しつつ、内ゲバ主義を政治的に越えでる方向を開示したのであり、内ゲバ主義に対しあいまいな態度をとっているのではなく、それをこえでんとする実践的方策が、第四インターとは異っているのである。それはわれわれと第四インターの戦略的観点、総路線の差異においてももたらされていることであるが、いずれにしても中核派を左からこえようとしない限り、七〇年代のすべてを通じ闘い抜かれた革共同両派の党派闘争主義をこえでることなど、絶対にできっこないのであり、第四インターの「内ゲバ主義一掃のたたかい」は所詮口先きのきれいごとにすぎないのだ。
また七〇年安保闘争を全身全霊をかけて闘い抜き、二つの十一月を戦取せんとして傷ついた中核派に対しカクマルが襲いかかったという歴史的経緯から考えても、曰帝権力と闘い抜くわれわれの路線的帰結は、それに対して襲いかかってくるカクマルとの対決を本質的には必然化させるものとしてある。わが同盟や中核派よりも、むしろ権力とは闘わないカクマルの主張に近づいていく以外ない第四インターの対処は、それ自体が全く右翼的としかいえないのである。
わが同盟は八五年三里塚二期決戦の切迫に対し、決然と正面きって曰帝-政府公団と闘い披く。八四年秋冬の過程を省りみれば明らかなように、第四インター・プロ青・赫旗などは要するに没落し、右傾化しており、七八年三・二六管制塔占拠から五・二〇開港決戦時に彼等が示した戦闘性を今や完全に喪失している。つまりわれわれは単独決起をもっても二期決戦を闘い抜く気概を打ち固めないわけにはいかず、そこでの戦闘の爆発は、問題をより端的に表現せしめることになるだろう。要するに中核派の内ゲバ主義をこえでる正しい路線は戦旗・共産同の対曰帝武装闘争路線のなかにこそあり、決して第四インター流の内ゲバ主義反対の大衆運動とかのなかにはないことを、である。