左派が安心して集まれる隊列を
(「四トロ掲示板」への投稿より)
これはね、確かに「難しい」ですが、やれることをやれる範囲でどんどんやっていくしかないと思ってます(能天気)。
1万人とか10万人規模の参加者の中、毎回ほぼ一人とか数人でいろいろやってますよ。一人きりで参加することも多かったですが、そんな場合でも旗とかミニサウンドシステムとか、肩を痛くして一人で担いでやってます。
最近では付き合ってくださる尊敬すべき方々もいて、4,5人くらいになることが多いです。また、そうして派手にしていますと、会場内では見知らぬ方々からひっきりなしに声をかけていただき、がんばれ!と言ってくれるんですよ。
10万人の中でたった数人かとおっしゃる?
だって80年代には世界人口50億人(現在は70億人)、日本人口1億2千万人の中、千人にも満たない勢力で、世界革命や日本革命を「夢想」し、影響のおよぶ範囲で様々な政治を打つべく心血をすり減らして努力しておったのです。それに比べればいかほどのものでしょう。もっと能天気にいきましょう。
でもやはり悩みは、そうして次々と、ネットにさえ現れない「声なき声」の人々との出会いを繰り返し、みなさんから「よく言ってくれた!」と励まされても、それはやっぱりそれだけ、その場限りで持続性がないということなんです。かと言って私に持続的な団体や運動が作れるかと言えば、それは極めて疑問符がつくところです。そこでやはり、10万人の中でもこういう左派的な人が、「この指とまれ」的に安心して集まれる集団や潮流、そんな隊列がこの集会の中にあったらなあということなんですよ。
ちょうど安保闘争の時の「反戦-全学連」の隊列みたいなイメージですかね。この板の多くの人は、「ベ平連」みたいのをイメージされるでしょうから、そのへんはちょっと違うかもしれませんが、そういうのは後からでもいい。まず過激なのがバンとあって、心情的には理解するけどあそこまではちょっとという人が、その次に出てくるということで。
で、それはまっぺんさんが言うみたいに1000人でなくていいんですよ。100人、いえ、50人、いやさ、まず10人からでもいいじゃないすか。やってもらえませんかねえ。そういう左派がわだかまりなく誰でも参加できるような場所作り。
ただアレですよ、「反原発は差別問題だと言わないと参加させない」とかはダメですよ。感じとしては 「反原発は差別問題だ」と堂々と主張できるような場所 ということです。また、セクト系の人間が参加してきても、ちゃんと受け止めて私物化させないだけの力量も必要でしょう。つまり言論や主張については、左派限定の自由市場ということです。
つまり「分裂」するんじゃなくて、そういう潮流を大衆がチョイスできる選択肢として「登場」させるということです。「主催者」が、右翼も排除しないと言うなら、それはそれで好きにやってもらえばいいじゃないですか。わかったよ、あんたらの邪魔はしないけど、そのかわり俺らは俺らで好きにやらせてもらうぜ。ただし、「誰でも排除しない」という約束は、日の丸に対してだけでなく、我々に対してもちゃんと守ってもらうからねということで。
まず言いだしっぺがやるというのが、左翼の良き伝統なのは承知してますが、私は私なりに、私の周辺の方々と「流浪の民」として頑張って持ちこたえているつもりです。これ以上は私じゃダメなんだと自覚してます。
上の私のイメージに一番近い闘い方をしてるのは、現状では中核派のNAZENです。NAZENはそこそこ成功していて、中核派だけでは集められなかったような広い層が参加してます。もはや「中核のダミー団体」という域を超えていることは認めないといけない。
でも、やはり中核ではみんなが安心して集まることができません。彼らでは自分たちの「団子」を大きくすることしかできない。みんなが集まれる核にはなれない。それは彼らの過去の負の遺産の結果であって、自業自得であるわけですが。
中核派でもそこそこ成功しているのですから、これは「時代が求めている」ことなんだと思います。「なんでもあり」と言いながら、実際には自由な雰囲気のない、がんじがらめの今の反原発運動の中で、窒息しそうになっている人はたくさんいる。そんな人が「プハァ~」と息をつける場所が、くれぐれも繰り返しますが*安心して*集まれる場所(隊列)が是非とも必要だと思います。
本当にそれが今の時代、運動のパラダイムの中で渇望されている。それが時代に間に合うかどうかということかと。当面「逮捕覚悟の部隊」が作れなくてもいいし、そんなのが作れるまで待っていられない。「討論会」だって後からでも可能なんだから、まず登場してくれ!
(追記)現場に自由な雰囲気がなくなってきたり、右翼ばっかりが容認されるようになってきたのは、左派側が「主催者」なり「素人さん」を、そういう方向に追いやってしまった、もしくはそういう方向に正当性を与えてしまったという側面があると思います(たとえば昨年の611事態など)。
これはかつて前衛ショウビニズムとかセクト主義の問題として対象化されてきた問題だと思います。ここはきっちり反省しておかないと、単に運動内の二つの潮流の内輪もめ(内ゲバ)に堕してしまうと思います。それは過去の運動の中で果てしなく繰り返されてきた不毛な地平の、茶番的な再現にしかならないでしょう。
===以下、四トロ掲示板での議論から=============
どこまでが「大衆」?
投稿者:草加耕助 投稿日:2012年 8月14日(火)17時01分5秒
議論の前提なのですが、みなさん「大衆」という時、どこまでを想定しておられます?私は政党でも政治団体でもない反原連も大衆だと思って今までの文章を書いているんですが。
バッジさんの文章とか読みますと、ほとんど前衛政党に求められることまで反原連に要求しているようで、そこにすれ違いというか、私のバッジさんの「意見の違い」はその一点にのみかかっているように思います。
原発事故を受けて、大衆の間に「原発は怖い、恐ろしい」という意識は当然に生まれる。
これは当然だし、大衆がそう思うことは正当であると思う。これを否定するのは間違い。
そして「原発を止めるために、とりあえず原発に反対する人は全部来ればいいじゃないか」と思ったとしても、それはありうることです。
日の丸だって別にいいとか、ごちゃごちゃ言うならめんどいので別に来なくていいとか、そういう人もまあ普通にいるだろうなと。
共産党なり中核派が、核武装論者と共闘したら、そりゃあバッジさんと同じ言葉で批判しますがね。
官邸前にふらりと来た会社帰りのおじさんとか、反原連とか、素人の乱まで、それと同じ言葉で批判できる(すべき)なのかと思うんですよ。
別に彼らの言っていることなんて、大衆から当然普通に出てくるような「自然発生的意識」にすぎないだろうと。どんなに腹がたとうが、それは批判ではなく説得の対象ではないかと。そうでなくては、セクト主義や内ゲバ主義、スターリン主義を批判する資格なんてないだろうと。
自分に味方してくれる人には、いくらでも人は優しくも寛大にもなれるもので、そうでない人や局面でどういう態度をとるかによって、その人なり運動なり組織なりの真価が問われるのだと思う。
「原発に反対する人は全部来て」という集会だって、そりゃまあ、今の情勢なら当然にあるだろうなと思う。そこに乗り込んで「そんなのおかしい」と机叩くのがいいことなのかと。むしろそこに人がいっぱい集まっていることを評価し、素直に感動します。私らもそこに行って、やるべきことをやり、言うべきことを言おうと。
私らが批判するべきは、そういった大衆の自然発生的意識の間違いや不充分性なのではなく、議論や意見の表明が保障されない、行動が統制されて窮屈である、統制ばかりで自由にやらせてもらえないという点にまずは集中するべき。
まっぺんさん>
私もまったく同意見ですが、「原発と関係ない団体の宣伝の場にされては困る」という主催者の危惧も充分に理解できます。そのあたりは工夫や配慮も必要だと思います。まあ、そこは書くまでもないということで書いておられないだけなんでしょうが。
Re: どこまでが「大衆」?
投稿者:バッジ@ネオ・トロツキスト 投稿日:2012年 8月14日(火)17時36分54秒
草加さん、オレは反原連などと特定・限定して批判しているんじゃないですよ。
反原発運動に関わって、核武装論者を運動に引き込もう、そういう連中とも「連帯」しようと運動を方向付けようとしているような人間たちに向かって書いているのですから。
そういう人間は「前衛」ではなくとも、少なくとも草加さんの言うような「一大衆」ではないでしょう。既に、運動の先導者であり組織者であるんですから。受動的に運動の後から付いていくだけの「大衆」に共闘領域の拡張や運動の方向付けの意志や権限なんてないんじゃない?
それに、何よりも、運動には既に「プロ」も加わっている。既成党派の幹部とか。運動の「指導部」じゃなくとも、そういった「プロ」や経験者、論客に向けて厳しいことを言うのは当然じゃありません?オレが言わずとも、既に反原発運動の問題点についてはネット上で多くの「大衆」によっても取り上げられているんですから。
「自然成長性への拝跪」はマズいとか二枚舌運動は良くないとかの批判は、そういう連中に向けているつもりなんですがね。社会運動や階級闘争の歴史・理論どころか近現代史も知らないような「大衆」にレーニン持ち出してももちろんしょうがありませんよ。
Re: 主催者擁護も限界に近づきつつある
投稿者:鍋山 投稿日:2012年 8月15日(水)05時39分59秒
草加さん、みなさん~
脱原発運動は、「官邸前抗議行動」だけが戦場じゃないですよ。
「官邸前でどうするか」が核心ではない。
7.29国会包囲行動~私は地域のグループで、最初は正門前の歩道に陣取っていたのですが、
「ここはファミリーコーナーになりますので移動してください」という主催者の要請に素直に
従って移動し、結局、国会横の図書館方面にいました。
国会正門行動ではなく、国会包囲行動ですから。
「正門前にいないとつまらない、意味がない」ですか?
私の意見は、以前の投稿の通り「反原連無条件擁護」です。
「官邸前抗議行動から何を学ぶか」ですね。
「反原連から何を学ぶか」ではないですよ、何でこんなに集まるのかです。
毎回数万人の人々を結集し、毎回新しい人が参加している。
しかし、バッジさんご紹介のように一部文化人や識者が「労組や組織ではない本物の市民が
現れた」というような評価も違うでしょう。
「60年安保闘争とも違う」と以前書きましたが、どちらが良いかということでもない。
「60年」の時の数十万人の国会包囲は、労組のストライキ等各地域・各層の基礎的な闘いの
積み上げを基に実現されたものです。
今、そんな基礎的な闘いは絶望的に無い。
「官邸前抗議行動」に数十万人集まっても~
次の総選挙で「脱原発政府」が実現するかというと、そんな甘いものでもない。
●脱原発運動は持続するか?
持続するでしょう。
・フクイチ事故が継続し、被曝が続いている。
・原発事故をめぐって、東電はもちろん政府・マスコミが信用できない中で、
ネット等を利用しながら自ら調べる人々が沢山出てきた事。
(民主党・政権交代の裏切り、マニュフェストの総崩れも伴って~)
「官邸前抗議行動」はこうした人々を集めている
●脱原発を実現するには~
・「官邸前抗議行動」や「1000万人署名運動」だけでなく~
・福島の人々を支援する取り組み
政府・東電に原発を断念させるほど完全な補償をさせること
各種裁判への支援、避難できない子どもの保養を各地で取り組む事
・原発事故の対策として出てきた法律に対するロビー活動・要請行動
・民主党をはじめ地元の国会議員・各級議員への働きかけ、行政への請願
・連合・東電労働者への働きかけ、原発労働者・除染労働者への働きかけ
等々やれることは一杯あるでしょう
反原連無条件擁護か・・・
投稿者:まっぺん 投稿日:2012年 8月15日(水)11時16分11秒
ぼくはちょっと違うな。「反原発運動無条件擁護」です。
主催する団体に一定の敬意を表するのはもちろんですが、
現に、主催者のあまりに警察寄りな仕切り方には抗議も出ています。
抗議の声を無視して、仕切る側を一方的に擁護するという風には言い切れない。
いずれにしても指導部批判の自由は確保しておくべきだと思います。
※ついでに「無条件擁護」の語源について。
トロツキーは「労働者国家無条件擁護」ではありましたが
それを簒奪した「スターリン主義指導部無条件擁護」ではなかったでしょ。
兆候と危惧
投稿者:バッジ@ネオ・トロツキスト 投稿日:2012年 8月15日(水)15時01分3秒
あまりにもゆるい内容の脱原発運動を放置しておくと、来たる総選挙で原発問題が中心争点化しても、緑の党どころかハシゲのような好核(ウソ反核)ウヨ勢力にみんな持って行かれるかもよ!
金曜デモに顔出してる政治家や党派の顔ぶれ見ても、その意図がうかがえますしね。
結果、投票率は上がっても、公約に忠実な脱原発勢力は議会内にちっとも増えなかった、とか、むしろ、比較的当てに出来る党派の方がシングルイシュー選挙で議席激減・大惨敗、なんてこともありえる。
そして、脱原発の課題はまた数年棚上げ先送り、その一方、消費税増税やTPPだけはしっかりやってくるw
次期選挙の議席予想がメディアにポツポツ出始めていますが・・・・・・
あえて釈迦に説法
投稿者:草加耕助 投稿日:2012年 8月16日(木)02時55分28秒
そういった「プロ」や経験者、論客に向けて厳しいことを言うのは当然じゃありません?
批判は、そういう連中に向けているつもりなんですがね。
了解っす(>д<)ゝ 大衆ブラ下がり路線への批判ということですね。
まあ、私とそんなに感覚は変わらないなと思いました。それとも微妙に違うのかな?
あるいはまっぺんさんはもちろん、破鍋さんとも実践的にはさほど変わらない?
でもたとえ意見がどんなに対立しても、ここでは忌憚なく、しかも同志的に議論ができるからいいですよね。脱(反)原発運動全体でこんな雰囲気があれがいいのに。ほんとに一部のどうしようもない(以下略)
さて、私、あんまりバッジさんの経歴知らないんで、なんなんですが、ぶっちゃけて言うと、私は一応、「レーニン主義前衛党」を自称する組織にいたことがあるもので、その時の感覚が残っているんですよね。
その時に内部で言われていたことは、党や政治組織を自称して発言しているわけでもない大衆団体やノンセクトに「間違い」があったとしても、それを党(セクト)が糾弾してぶっ潰すなんてことがあっちゃならんと。そこでは説得が原則であって、そのためにはまず自分たちがやって勝利してみせることなんだと。
平たく言うと「敵を間違えない」ということになるかと思います。この考え方だと、そこはまず左派の連合(当時は党派間協定が軸になるべきだという主張でしたが)を形成し、積極的に方針を打ち出していく中で大衆を獲得して「数」の上でも勝利を見せつけ、全体を左に引っ張っていく中で、徐々に右派的な部分からヘゲモニーを奪って孤立させていくということになるかと思います。
今となってはアレなんで、あんまり書きたくなかったんですが(汗)、まあ、そんな元基的な発想があるという感じでしょうか。「大衆」からは「脱原発運動の内輪もめ」としか受け止めてもらえないような論陣張るより、そういう方向で考えていくしかないかなと。
「核武装論者を運動に引き込もうという連中」も、私の感覚では大衆ですよ。311後の状況の中で、大衆の中からそういう部分なり意見が出てくるのも、私には充分に理解はできます。だからと言ってそこに介入して「内輪もめ」してぶっ潰すという方針もどうかという意味なんですよ。やはりそこは説得が基本になるだろうと。
と言っても、そこは論争にならざるを得ないので、現実問題としてはバッジさんとそう変わらない結果になるんでしょうが、でも、現象的にはたいして変わらなくても、その根底にある基本的な考え方ってのが大切だとすごく思うわけです。それは先にいくほど大きな違いを生み出してしまうと思うので。
「プロや経験者」というのは線引きが難しいかなとは思いました。単にずっと昔から政治や市民運動やってる「論客」というだけでは、やはり大衆の一部だと思いますよ。なにせ自分たちよりもずっと実戦経験の長い三里塚反対同盟や、青年行動隊に対しても、彼らは大衆であって、党(セクト)が直接に批判するような対象ではないと教えられて育ちましたから。
もちろん明確なプロや元プロの場合は全然別ですよね。そういう大衆の中の右派的な部分や傾向を担ぎまわって、そこにブラ下がっているわけですから。たとえ今、現役でなくとも、こういう部分との論争は、明確に「党派闘争」としてやるしかない。ただその場合も、直接に攻撃を加えるというよりは、本当の敵に対する自分たちの実践を対置する形で、大衆の支持を争う中で勝ちきっていくことが基本だと思います。正しい意味での党派闘争は「共闘」であって、自分たちのヘゲモニーや運動に巻き込んでしまうということ。「対立」して潰してしまうのは、下策であって例外的にやるべきことだと思います。
長々と文字通りの「釈迦に説法」をしてしまい、申し訳ありませんでした。
お釈迦様以外の第3者も読んでいるだろうと思って、あえて書きました。
草加さん
投稿者:バッジ@ネオ・トロツキスト 投稿日:2012年 8月16日(木)12時31分47秒
了解っす(>д<)ゝ 大衆ブラ下がり路線への批判ということですね。
まあ、私とそんなに感覚は変わらないなと思いました。それとも微妙に違うのかな?
草加さん、あなたとオレの間には、確かに「前衛」と「大衆」の差異と同一などについて、若干の理解の違いがあるかもしれませんね。その原因は、究極点にまで遡れば、たぶん、レーニンとマルクスの違い、両者における「変革主体形成」論や革命論における若干の「ズレ」にまでおよぶものだろうと今、愚考しています。
そう、いわゆる「外部注入説」に典型化されたレーニン的な変革主体形成観とマルクスの人格陶冶論の違いです。この違いは、具体的には「前衛」と「大衆」、「インテリ」と「労働者」、「専門家」と「素人」のような対概念の関係把握、両者の関係と、後者から前者への推移・発展についての把握の違いとして表れるのでしょう。両者の「境界線問題」みたいなものにも表れる。
いま、手許に文献がないので出典を例示することは出来ませんが、この問題は機会を改めて一度詳論する必要があるように思います。この論点は、代々木内にとどまらず、「先進国革命」論の中心的論点として、国際的にも議論となったことがあるのですからなおさらです。「大衆」や「労働者」や「素人」が、いかにして「前衛」「インテリ」「専門家」に(も)なっていくのかという問題は、左翼の「世界観的確信」や「革命的オプティミズム」の理論的根拠などにもなってくるので重要だと思います。
マルクスの「資本の文明化作用」論や「資本の進歩性の承認」は、資本制社会を物神化の一路深化(=単なる物象化論)に矮小化しない対象把握態度の表れですし、資本による労働の社会化や生産過程への科学の充用の進展が「大衆」や「労働者」や「素人」を「前衛」、「インテリ」、「専門家」に転化させていく経済的土台だということでもあると思います。
ここには、前者と後者の峻別や、両者の対立の固定化ではなく、推移と発展の歴史的運動があることだけを、とりあえず強調しておきます。
平たく言うと「敵を間違えない」ということになるかと思います。
「大衆」からは「脱原発運動の内輪もめ」としか受け止めてもらえないような論陣張るより、そういう方向で考えていくしかないかなと。
権力や党派からの弾圧・差別が存在する現在の社会では、ブル新などでもペンネームや匿名言論を承認していますが、しかし匿名言論は、権力や資本の世論工作にとっても都合がよいんですね。
政府の公聴会やタウンミーティングの「やらせ」、潜り込み事件にとどまらず、匿名ネット空間などでは相手の素性は一部の例外を除いて全く解りません。「敵」(の手先)なのか「内輪もめ」なのかどうかさえ定かではない場面に遭遇します。だから、正体不明で怪しげな主張をしている連中にはどうしてもポレミックになる。ま、「間違えない」ように注意しますね。
「核武装論者を運動に引き込もうという連中」も、私の感覚では大衆ですよ。
「大衆」だけなのかもしれませんが、そうではないのかもしれない。
意図的に運動を分裂・衰退させようとする勢力の存在は否定出来ないし、警戒を怠るべきではないとも思います。
もちろん明確なプロや元プロの場合は全然別ですよね。そういう大衆の中の右派的な部分や傾向を担ぎまわって、そこにブラ下がっているわけですから。たとえ今、現役でなくとも、こういう部分との論争は、明確に「党派闘争」としてやるしかない。
このへんも匿名言論空間では解り難い点ですね。
ただその場合も、直接に攻撃を加えるというよりは、本当の敵に対する自分たちの実践を対置する形で、大衆の支持を争う中で勝ちきっていくことが基本だと思います。
これは場合によっては難しいですよ。
オレの主張に同調してくれそうなのは、例えば反原連内では園君という人ぐらいしか知らない。
代々木でもここでもオレの確信する任意参加の急進的大量直接行動部隊を運動全体で承認するような重層的阻止行動戦術は人気がない。そんな戦術の対置・実行は、もっかのところ運動に分派や分裂の可能性しかもたらしかねない。それに、まとまった人数の賛同が無ければそもそも不可能ですし。
ま、何事も言うは易し・・・・ですかね。
草加さん、冒頭に書いた件、しばらく時間をくださいね!
左派が安心して集まれる隊列の登場を待ち望んでいます
投稿者:草加耕助 投稿日:2012年 8月16日(木)15時55分49秒
これは場合によっては難しいですよ。
ま、何事も言うは易し・・・・ですかね。
うんまあ、これはね、確かに「難しい」ですが、やれることをやれる範囲でどんどんやっていくしかないと思ってます(能天気)。
1万人とか10万人規模の参加者の中、毎回ほぼ一人とか数人でいろいろやってますよ。一人きりで参加することも多かったですが、そんな場合でも旗とかミニサウンドシステムとか、肩を痛くして一人で担いでやってます。最近は付き合ってくださる尊敬すべき方々もいて、4,5人くらいになることが多いです。また、そうして派手にしていますと、会場内では見知らぬ方々からひっきりなしに声をかけていただき、がんばれ!と言ってくれるんですよ。
10万人の中でたった数人かとおっしゃる?
だって80年代には世界人口50億人(現在は70億人)、日本人口1億2千万人の中、千人にも満たない勢力で、世界革命や日本革命を「夢想」し、影響のおよぶ範囲で様々な政治を打つべく心血をすり減らして努力しておったのです。それに比べればいかほどのものでしょう。もっと能天気にいきましょう。
でもやはり悩みは、そうして次々と、ネットにさえ現れない「声なき声」の人々との出会いを繰り返し、みなさんから「よく言ってくれた!」と励まされても、それはやっぱりそれだけ、その場限りで持続性がないということなんです。かと言って私に持続的な団体や運動が作れるかと言えば、それは極めて疑問符がつくところです。そこでやはり、10万人の中でもこういう左派的な人が、「この指とまれ」的に安心して集まれる集団や潮流、そんな隊列がこの集会の中にあったらなあということなんですよ。
ちょうど安保闘争の時の「反戦-全学連」の隊列みたいなイメージですかね。この板の多くの人は、「ベ平連」みたいのをイメージされるでしょうから、そのへんはちょっと違うかもしれませんが、そういうのは後からでもいい。まず過激なのがバンとあって、心情的には理解するけどあそこまではちょっとという人が、その次に出てくるということで。
で、それはまっぺんさんが言うみたいに1000人でなくていいんですよ。100人、いえ、50人、いやさ、まず10人からでもいいじゃないすか。やってもらえませんかねえ。そういう左派がわだかまりなく誰でも参加できるような場所作り。ただアレですよ、「反原発は差別問題だと言わないと参加させない」とかはダメですよ。感じとしては 「反原発は差別問題だ」と堂々と主張できるような場所 ということです。また、セクト系の人間が参加してきても、ちゃんと受け止めて私物化させないだけの力量も必要でしょう。つまり言論や主張については、左派限定の自由市場ということです。
つまり「分裂」するんじゃなくて、そういう潮流を大衆がチョイスできる選択肢として「登場」させるということです。「主催者」が、右翼も排除しないと言うなら、それはそれで好きにやってもらえばいいじゃないですか。わかったよ、あんたらの邪魔はしないけど、そのかわり俺らは俺らで好きにやらせてもらうぜ。ただし、「誰でも排除しない」という約束はちゃんと守ってもらうぜということで。
まず言いだしっぺがやるというのが、左翼の良き伝統なのは承知してますが、私は私なりに、私の周辺の方々と「流浪の民」として頑張って持ちこたえているつもりです。これ以上は私じゃダメなんだと自覚してます。上の私のイメージに一番近い闘い方をしてるのは、現状ではNAZENを結成して闘っている中核派だけです。NAZENはそこそこ成功していて、中核派だけでは集められなかったような広い層が参加してます。もはや「中核のダミー団体」という域を超えていることは認めないといけない。でも、やはり中核ではみんなが安心して集まることができません。彼らでは自分たちの「団子」を大きくすることしかできない。みんなが集まれる核にはなれない。それは彼らの過去の負の遺産の結果であって、自業自得であるわけですが。
中核派でもそこそこ成功しているのですから、これは「時代が求めている」ことなんだと思います。「なんでもあり」と言いながら、実際には自由な雰囲気のない、がんじがらめの今の反原発運動の中で、窒息しそうになっている人はたくさんいる。そんな人が「プハァ~」と息をつける場所が、くれぐれも繰り返しますが*安心して*集まれる場所(隊列)が是非とも必要だと思います。本当にそれが今の時代、運動のパラダイムの中で渇望されている。それが時代に間に合うかどうかということかと。当面「逮捕覚悟の部隊」が作れなくてもいいし、そんなのが作れるまで待っていられない。「討論会」だって後からでも可能なんだから、まず登場してくれ!
(追記)現場に自由な雰囲気がなくなってきたり、右翼ばっかりが容認されるようになってきたのは、左派側が「主催者」なり「素人さん」を、そういう方向に追いやってしまった、もしくはそういう方向に正当性を与えてしまったという側面があると思います(たとえば昨年の611事態など)。これはかつて前衛ショウビニズムとかセクト主義の問題として対象化されてきた問題だと思います。ここはきっちり反省しておかないと、単に運動内の二つの潮流の内輪もめ(内ゲバ)に堕してしまうと思います。それは過去の運動の中で果てしなく繰り返されてきた不毛な地平の、茶番的な再現にしかならないでしょう。
いや!数は力です
投稿者:まっぺん 投稿日:2012年 8月16日(木)18時22分44秒
資本主義経済が音を立てて崩れ落ちている場面を我々は日々、眼のあたりにしています。この崩壊を「きゃつら」は必死に食い止めようとしてる。しかしそれは不可能です。不可能であるが故に、その矛盾を一方的に貧困者に押しつけ、また意図的に国際的敵対関係を作りだし、暴力的世界を拡げている。日本でも、いっさいの矛盾を政府は我々に押しつけています。それをもっともっと推し進めるために政界の再編があり、橋下のような危険な勢力が勢いをつけている。のんびりしていられる状況ではありません。
草加さんの善良さを僕は充分にわかっています。そういう善良な人々がたくさんあつまって反原発運動が発展してきている。また沖縄やTPPなど様々な課題を担って運動をしている。しかし、いま必要なのは、闘いの前進です。各人の闘いが何倍にも有効さをもって周囲にひろがっていくことです。ただ「左翼の証明」として参加しているだけではだめなんじゃないでしょうか。明確な方針をもって、運動を発展させていくことが問われているのじゃないでしょうか。僕はそれを「反資本主義統一戦線」として位置づけています。つまり「明確な方針」とは「資本主義では解決できない」という確信です。それこそ「赤の証明」とも言えるでしょう。
「赤の証明」とは「階級性」でもあります。「労働者の階級的たたかいが世界を変える」という確信です。いま、資本主義者の側における政界再編はいくつか見えてきています。小泉以来の伝統的な改革路線、それに異議を唱えながら結局そこへ迎合しつつある民主党本流、民主党の中でこの路線に対抗している小沢路線、そこへ安倍晋三の別働隊として全国に覇を唱えようとしている橋下派。橋下派はもはや大阪だけの地方政党ではありません。自民党などの中にも共鳴者を見いだし、東京も含む全国へ影響を拡げようとしています。
一方、左翼の側から見えているのは「緑の党」(左翼ではないが、元左翼の一部が介入している)、そして社民党・新社会党の護憲路線。それだけです。階級的立場から資本主義の限界を明確に打ち出せる勢力は、実は存在していないわけではない。しかし過去の内ゲバなどの状況によって、いまだにちりじりばらばらな状態にある。しかもそうした勢力の多くはセクト主義的に「我が派の拡大」を目指す方向でしか存在していない状況です。もはやそのような路線はとっくに破綻しています。それは新左翼諸党派が歩んできた、そして破綻した道です。そうしたセクト主義路線を乗り越えて団結することがもとめられている。数は力です。中核派でも日比谷野音2600席を埋める力はまだある。中核派の勢力を乗り越える数と、中核派のセクト主義を乗り越える民主主義に武装された勢力の登場が必要です。
曲がり角は・・・・
投稿者:バッジ@ネオ・トロツキスト 投稿日:2012年 8月16日(木)19時01分56秒
草加さん、まっぺんさん、問題は、「大衆」が焦れてきた時です。
今のような「大衆」による自然発生的運動は、「燃料」が無くなる心配をする以前に、運動の成果がそうは簡単には上がらないことを「大衆」が感じ取った時に重大な曲がり角を迎えるでしょう。デモや運動に毎週毎月参加しているような「大衆」はそのうち焦れてくるでしょうから、その時に脱原発運動全体の「指導部」や「顧問格的なプロ」たちが「大衆」の気分に適切な対応を出来ないと運動は重大な岐路を迎えることになる。
本当は、それまでにペガサスさんたちが研究しオレも共感している先述の戦術方向を準備したいのですがね。逮捕検挙されても経済的にほとんど困らない年金者左翼などを中心に、最低でも1000人規模の現地急襲阻止部隊を派遣して長期張り付きで原発の稼働に障害を与える、妨害行動をとる。もちろん救援体制は実働部隊以外の運動全体でつくるんです。
そういう運動で、金曜デモや7.16集会みたいな単なる抗議行動にとどまらない実質的な成果や運動次元の飛躍を実現して運動全体を鼓舞・激励するようなこと出来ないでしょうかね。
かつての党派方針で拘束された運動ではなく、混成の自由参加義勇軍。
セクト間の敵対や新旧左翼の反目、左翼と無党派の分離、闘志と後衛の差別など全てを乗り越えて、反原発勢力全体で組織し支援し救援出来るような、課題実現にとって「実効性」ある直接行動部隊を作って現地闘争をしたいものです。
おっ!反原連登場ですね!w
投稿者:バッジ@ネオ・トロツキスト 投稿日:2012年 8月16日(木)20時09分39秒
でも、○○くんって、以前ここにも顔出してたんじゃない?
最近はカキコより実践活動の方で忙しいんですか?w
ところでまっぺんさん、オレの提案はまず、代々木がカギになると思いますね。
代々木は、沖縄では似たようなことに党員の個人参加を認めていますが、本土で原発への「乗り込み・張り付き」を認めるかどうか?
しかし、年金暮らしの年寄りで動けるのが多いのもダントツに代々木なんで、そこが問題。
実名で党中央批判やってるペガサスさんや過激批判ばっかのオレのような人間じゃ今の代々木中央を引っ張ってくるのは難しいかもしれない(だから、無党派運動からの要請行動もいるw)。
あと、戦術は、絶対に非暴力ですよ。武器非携帯のピケット、座り込み戦術中心。そして、顔も晒す。逮捕覚悟の部隊なんだから、そのぐらい堂々とね。
どうでしょうね、もし代々木が乗ってくれば、それだけで500や1000は確保出来るんだけどね。諸セクトやフリーランサー無党派からの志願兵と合わせて2000人ぐらいの部隊は出来るかも。ブル新への意見広告考えるぐらいなら、予算面も難しくないでしょ?10万人から一人100円カンパもらったって1000万集まるんだし(←せこい!それじゃ宿泊費にしかならんか?w)・・・・どうでしょ?
なお、この戦術行動の効果は、沖縄やかつての三里塚の闘争より強力だと思いますよ。
大統一戦線でやればそれだけでエポックメイキングだし、何より原発の稼働妨害は米軍基地反対や空港建設反対なんかより手段の目的実現性が高い。ダメでも沖縄なんかよりよほど多方面への波及効果が考えられます(例えば、世界中からの注目や支援)。
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