【転載】傘もささず、行方知れず

うつぼ公園30日に強行された、大阪の野宿労働者強制排除への抗議・阻止行動に参加してきました。本当はすぐに報告を書きたかったのですが、ブログを書くどころか、睡眠時間もろくにとれないような状況で、思うにまかせません。

一つだけ書いておくならば、排除にきた市の職員や、ガードマンの中にも、野宿労働者の命がけの必死の訴えを聞いて、とても辛そうな表情で頷きながら聞いている人が何人もいたことを伝えたいと思います。中には涙を流している人もいたそうです。

誰だって野宿なんかしたくない。公園になんて住みたくない。10数時間も重労働に耐えて、辛い空き缶拾いでやっと命をつないでいる彼らに必要なのは、排除ではなくて仕事なんです。 公園事務所の人は野宿労働者が本当はどんな人間なのかをよく知っている人も多いはず。普段なら顔見知りで笑顔で会話している人もいるでしょうに。野宿者も彼らも同じ労働者です。本当に悪いのは彼らではない。彼らに命令してる関市長だ。

野宿労働者を排除して「綺麗になった」公園で、バラの花に囲まれた関市長は、にこやかに皇族を迎えて談笑するのであろうか?本当に反吐がでます。

私からの報告は数日うちにアップしたいと思いますが、釜パトブログに、とある方の報告が転載されていました。私は主戦場(だったらしい)うつぼ公園に行きましたが、この方は大阪城公園に参加されています。当日の様子や雰囲気がとてもよくわかる文章だと思いました。是非是非多くの皆さんに、あの抗議の闘いがどのようなものだったのか知っていただきたく、ここに転載します。

あの行動は、良くも悪くも、勇ましい「実力闘争」なんかではありませんでした。みんな押し寄せる職員やガードマンや警察官の大群の前で、涙をこらえて必死にスクラムを組んでいた。たった一日参加している私ですら、何度も泣きそうになるのを堪えていました。私が見てきた野宿労働者の思い、支援の人の思い、そして強制排除を命令されてしまった多くの労働者の思い、今はそれらを受け止めて伝えていきたいと思っています。

—(転載ここから)———

【転載】傘もささず、行方知れず

今日も冷たい雨が降っている。
昨日の靱公園と大阪城公園、フェンスの中に入っていた人、外で見ていた人、もみ合ってた人、記録していた人、怒り狂って叫んでた人、泣いてた人、様々な人がいたかと思うけれど、現場にいたすべての方へ、本当にお疲れさまでした。でも、「お疲れ」と言って帰れる家がある人と、もう帰る所がなくなってしまった人がいる、という事実は厳然としている。自分は疲れて眠りこけたりもしたけれど、暖かい布団で眠りこけることさえ出来なかった人がいただろうと思うとやりきれない。

昨日の代執行が始まった8時前、雨が降り出した。ぼくは前日から大阪城公園にいたので、そこのケリがついて途中合流するまで靱公園のことはわからない。だから靱の方は仲間に任せて、大阪城の状況中心に少し書いておこうと思う。

泊り込みから起きて寝袋をたたんだのが5時過ぎ。代執行が何時から始まるのか判らず、警戒して早起きしたが、その朝到着した人たちの持って来た新聞で8時開始ということを知った。大阪城へは職員、ガードマンなど220名がやって来るであろうことも書いてあった。早朝散歩のぱらぱらした人影に向かってアジりながら駐車場を偵察していると7時過ぎから警察の車輌などが集まり始める。機動隊のバスも入っている。

昨日の夕刊各紙を見ても情報がバラけていて一部には事実誤認もあったようだけど、大阪城について言えば、当初の代執行の対象になっていたテントは5軒。うち1軒は住人がすでにいなくて荷物だけだったので除外。ただし残りのテントも、2軒、1軒、1軒と場所が分かれていてただでさえ守りにくい。その状況に対し、その朝間に合った者も含めて大阪城に集まった支援者は30名足らず。うち10名ほどが女性。動員というよりは個人的な呼びかけに応じた人の割り合いも多く、運動に関わりの薄いもいる。ぼく自身も行政代執行の現場は初めて。どう見ても弱体。組織的な抵抗など出来ようもない。支援者側も靱公園中心に動員をかける中、大阪城へ人員を振り分ける余裕もなく、こちらは人数的に準備もままならず、対応策を充分話し合う時間もなかった。悪いことに、大阪城公園を管轄する東部方面公園事務所は、靱公園を管轄する西部に比べても態度の悪い人が多く、野宿者や支援者に”私怨”を抱いているような人や、やくざまがいの口のきき方をする人さえいる。支援者側では東部方面公園事務所を「組事務所」と呼んでいるほどだ。

それでも当日が近づいて、当事者の人と話し込むうち、とにかく支援者側が指示云々するのではなく、当事者が「その時」どうしていたいかを重んじて、その意向に「寄り添う」ことにした。そういうふうに言って初めて、ある人は「自分のテントが潰されて行くさまを最後まで見届けたい」と言い、ある人は「事前に避難したい」と意思表明をしてくれたので、それを可能な限りサポートすることにした。避難する人の荷物の移動も仕事のうちだった。

でも実際にやれることについて、前日のミーティングでもこれといった具体策は固まらなかった。酷い行為は見届け、きっちり記録しよう。抗議はありったけしよう。でも状況がどう動くか判らない。それぞれの状況を予測して個々がどう動くか決めることなど出来なかった。ぼく自身について言っても、出来るだけ当事者の「思い」の近くにいよう、と
それだけだった。例えば興奮するうちに言ってることが当事者の思いとかけ離れて、自分の「やりたいこと」にすり変って行くことはあるだろう。それには注意しようと思った。

それと行動にはくれぐれも留意して逮捕者や怪我人を出すような事態だけは避け、命令で動いているだけの相手も含めて、出来るだけ傷つけあわないようにしようという合意もした。現場にいる者同志が個人的に憎しみをぶつけあっても意味がない。命令しているバカは手を汚すことなく、そこにはいないのだから。

そうして人員を振り分けようとしたのだけど、うち1軒は直前に住人が「靱の仲間と一緒に闘いたい」と自分のテントを放棄してそちらに移ったので、住人が残るテントは野音上の1軒と教育塔裏の1軒だけになった。そのどちらから始めるのか判らない。大阪城は広く、2ヶ所はかなり離れているので、朝にはその2ヶ所に分かれて待機した。

ぼくは教育塔裏のTさんのテント横で10人ほどと一緒に待機していた。「最後まで見届けたい」と言ったTさんは、昔の武将が床机に腰掛けるように折り畳みイスに座って何ごとかを考えているようだった。「大事なものや回収したいものがあったら自分でやると申し出て、作業を中断させることも出来ますよ」とアドバイスしたが、「いや、もう何も言うつもりはない」と言っていた。

やがて野音上の2軒から着手したとの急報が入ったので、監視を残してそちらに急ぐ。昨年春から囲われていたフェンスの外にさらにフェンスが張られ、ガードマンが監視。張り付いていた仲間は早々に追い出され、囲いの外からメガホンで抗議している。「邪魔や」と横柄な態度の職員もいる。長い間ずっと、大阪城でそのテントの2人の支援をして来た仲間も、昨日の夜、京都から駆けつけて、会ったばかりの学生たちも一緒になって「それはゴミやない。人の家や。何をやってるんか判ってるんか!」と怒鳴っている。その傍らでビデオを回し、写真を撮る仲間も自分の役目の重さを感じながら動いていただろう。

作業は既に始まっていてテントが解体されてゆく。ロープが切断され、ブルーシートが引き剥がされ、寝具や炊事道具や洗濯物や、Sさん、Mさんの生活の証しが大勢の作業員の手で無造作に運び出されてゆく。あっと言う間だった。作業があらかた終わったのを見届けて、ぼくらも次のFさんのテントに移動。Tさんテントの監視組にも連絡して待ち構える。住人のFさんは靱に行っていないが、テントの解体は記録するつもりだった。やがて220人は隊列を組んでやって来た。先頭は「排除班」の腕章を巻いている。無線で連絡をしている職員が「排除にかかってよろしいです
か?」と言っている。上からの指示を待っているようだったが、命令が出たらしく、すぐさま先頭が動き始める。

ぼくらは立ちはだかって「職階と姓名を名乗れ」、「令状の読み上げもないのか」と言いながら押し返そうとするが、あっさり無視され、人波の圧力に押されてゆく。まるで相手にされていないかのようだ。公安は遠巻きに監視しているが、制服警官の姿は見えない。機動隊もバスの中で待機しているらしい。ぼくらの人数を見て目立った抵抗が予想されないと踏んだのかも知れない。

Fさんのテントの解体がまだ途中のうちに職員の先頭がTさんの所に向かったので、急いで彼らを追い越してTさんのテントの囲いの入り口に移動してまた待ち構える。大阪城へはマスコミもほとんど来ていなかったのだが、それでもテレビカメラが数台入っていた。すると「報道」という腕章を巻いた職員が寄ってきて、彼らを外に出そうとしたので「撮られたらマズいことをするのか」と抗議する。「報道」の腕章は、報道担当ではなく、報道対策なのだろう。カメラが2重のフェンスの外側に出てしまえば中の様子が判らなくなってしまうが、なんとかそれは阻止する。

ぼくは相手の顔をよく見て行動しようと決めていたので、1人1人の顔を覗き込むようにする。目をあわさないようにする人もいるが、ふてぶてしい態度の職員もいるので、そういう相手には遠慮なく抗議する。公安はカメラを向けるとさっと木の陰に隠れるので、彼らにカメラを向けたままにして牽制しながらTさんを見失わないようにした。Tさんは支援の列に混じって立っていた。

メガホンは交代しながら休むことなく大阪市の非道、官制談合、汚職、あらゆることを訴え、板ばさみになっているであろう現業職員の思いにも時々フォローも入れながら抗議を続けたが、やがて排除が始まった。職員が雪崩れ込んでくる。ぼくらは誰も指示はせず、それぞれの意思に基づく行動をしたので、フェンスの中に入る者は中に飛び込み、職員をフェンスの中に入れまいと背中で突っ張るようにして抵抗したが簡単に押し切られてしまった。もみ合いになり誰がどこにいるのかも判らなくなった。しがみつき、踏ん張っている者もいる。ぼくは外に放り出される時に突き飛ばされて地面に転んだが、相手は「すみません、大丈夫ですか」と謝ったので許した。

Tさんの囲いには実はもう一つ入り口があり、そちらはノーマークだったので、ぼくはそちらに走ってまた中に入ったが、既に中に入っていた排除班の職員に素早く取り囲まれた。逃げ回ったがやがて捕まり、木にしがみついた手足も無理やり引き離され、5、6人に荷物のように抱えられてまた外に放り出された。ガードマンはさらに外に追い出そうとしたが、それをくぐり抜けて最初に放り出された入り口の方に戻り、フェンスに張り付いて中の様子を見守った。そこでは昨夜泊り込んだ時に敷いたブルーシートの上にまだ女性が3人座り込んで残っていた。「体に触るな」と言って抵抗していたみたいだったが、女性のガードマンが呼ばれて彼女らを抱え順番に運び出してしまった。

昨日の夜、ぼくらが泊り込みの準備している所に帰ってきたTさんと話をした。
Tさんは廃品回収で生計を立てていたので作業場もある。そこには荷物がまだたくさん残っていて、様々な思い出の品のこととかも聞かせてくれた。「最初はこれに寝ていたんだ」と指した小さなドーム型テントは、今は倉庫として使っていた。”母屋”はキャンプ用のテントを建て増して補強したものだった。シャワーを浴びるのに使う小屋もあった。それぞれ彼が工夫して自分で作ったもので、長年ここで暮らしてくるうちに蓄積されてきた生活の歴史そのものだった。

彼にとって”最後の晩”だと思うと、ぼくは水杯を交わすような気分だったが、彼自身は特に感傷に浸っている様子は感じられず、いつもと変らないかのように自分のテントに入って寝入った。ぼくらはたった一晩だけだったが、Tさんのテントの横で青天で寝た。木立の隙間から仰ぐ曇って星も見えない空を見上げ、そこで12年間暮らしてきた彼の気持ちを思ったのだった。

そのTさんのテントが壊され始めた。構造物はバラされ、フライシートが剥がされ、骨組みが剥き出しになった。作業場に残っていた様々な荷物も運び出されていった。その光景はひと言、「無残」だった。ミーティングで暴言は慎もうと言っていたぼくだったが、何時の間にか「こらー!丁寧に扱え!大事なもんやぞ。人の家や、ゴミちゃうぞ。壊すなぁ、引きずるなぁー!」と怒鳴り続けていた。涙が出そうになったが、一度そうなると崩れてしまいそうで、必死でこらえた。メガホンも仲間も今は中の作業員に向かって必死で怒鳴っていた。面倒臭そうにロープをナイフでぶちぶち切っている職員に怒鳴りつけ、写真を撮った。

荷物を運び出すために引越し業者の車も入ってきた。そこには動員されてきたアルバイトの若い子らもいた。わけも判らず作業をさせられている人たちもそこにいる。それも酷い光景だと思った。テントに使われていたブルーシートは風呂敷代わりにされ、そこに残骸や荷物をひとまとめに放り込むと、大勢で列になってトラックの方に運び去っていった。そんな中、ぼくはTさんを見失ってしまった。ひょっとして、支援者が騒ぎ立てるあまり、当事者を放り出したように感じてイヤになったのかも知れないと思い、そのことが気になった。

やがて作業班とぼくらは教育塔に移った。そこには代執行で追い出された当事者と荷物を収容するために支援者が張った緊急避難用のテントがあった。これは数日前に張られたものだったが、大阪市はこれに対してたった1日で弁明の機会、除却命令、戒告、令書と形式だけの手続きをとって順番に書類を叩きつけてきて、この日同時に代執行をかけた。こうなるともう滅茶苦茶だ。抗議する支援者はガードマンのピケットで進退もままならなくなり、抗議の怒号の中、そこにあった5つのテントはあっさり運び出された。そこにいたSさんは追い出され、放心してベンチに座っていた。慰める言葉も見つからない。すべてが終わったのは10時半頃だった。

ぼくらはいったんよろず相談所に戻った。みんなの無事を確認し、仕事などの都合で帰る人は解散し、靱公園に応援に行く人は順に出かけた。靱公園ではまだ抵抗が続いているということが判っていたからだ。でも当事者の事後についても考えないといけなかったし、使用した資材の始末の仕事などもあった。夕べ、寝付けずによろず相談所に戻ると、Aさんが1人で真っ暗な中留守番をしていた。ぼくは燃料切れで消えていたランタンを再び灯し、しばらく話をした。

「ワシも現場に行きたいがな」と、それはそうだろう。靱公園が”主戦場”という状況の中、ただでさえ目立たない大阪城の行動の中、さらに地味で目立たないポジション。でもこうした人もいるから行動も成り立つ。運動の派手なところだけに出没する人もいる反面、ぼくはこうした人のそばにいつもいられなくても、せめて忘れないでいたいと思う。

また、昨夜はおそらく全然眠れなかったであろうSさんなども休ませてあげたかったし、気持ちの上でも、そうした、たった今「家」を失った当事者の人たちと一緒にいてあげることも含めて、留守番でよろずに残る人が誰か必要だった。

それにぼくにはもうひとつ仕事があった。住民票の裁判で勝った山内さんが警察にマークされている可能性があったからだ。この裁判は昨日、大阪市が控訴したので、判決は確定せず、裁判は継続する。係争中の彼を逮捕して妨害するなどの事態は充分考えられるので、控訴されたと知る前から、彼は現場には来ないように言われていた。

またマスコミがかなり騒いだので、顔も割れて”有名人”だった。公園で住民登録することを認めさせたということを、公園の占有を認めさせたと新聞ですら誤認していたので、そう考えて反感を持つ人も多いだろうと思われ、それに
対する嫌がらせも予想された。そのため充分注意するようクギをさされていた彼だが、それらも含めて”監視”ではないが、友人としてそばにいて注意出来る人間としてぼくが頼まれていたのだった。そうしてぼくと山内さんは大阪城に残ることになり、当事者の人たちとも一緒にいることにした。

しかし、しばらくして先に行ったMさんから電話が入った。「スクラムの中に入っちゃった。なんとかピケを張って膠着させてるが、さっきから報道を外に出し始めた。機動隊も出てきて突入してくるかも知れない。どうしよう、こわいよう」と言っている。弱気に聞こえるが、これはでも、普通の感覚だと思う。それでぼくらもいても立ってもいられなくなり、とりあえず2人で出来る処置をして、靱公園に向かった。山内さんはシャレだが節分の鬼の面で顔を隠している。

で、靱公園での詳しい話はそっちに初めからいた人に任せよう。ほとんどの支援者がそっちにいたわけだから。ぼくらが着いた時点では、代執行の対象テントはほぼ撤去が完了していたようで、周りから攻めて残るは団結小屋のみという状況だった。ぼくは上の理由でフェンスの中に入るわけにはいかなかった。先に中に入ってしまった人たちとフェンス越しに再会し、無事を確認しあえた人もいたが、救急車が来ているのも目に入った。運ばれたのはIさんだった。ぼくはNからIさんが運ばれた入院先の連絡を受け、携帯を持っていない人に情報をリレーした。

結局、救急搬送された支援側の怪我人は3人。うち1人は全治1ヶ月の重傷だった。軽傷を負っている人も数人いるようだった。フェンスの外側でも怒り狂っている人が相当いて、フェンスを倒しかねない勢いだったが、やり過ぎて怪我や逮捕口実にならないようになだめて回った。気をつけて見ていると、中にはこちら側の激しい言葉に体を震わせているような職員もおり、隣の職員が「堪えろ」とばかり肩に手をかけているのが目に入った。個人的なレベルでは何も憎みあう理由もない者同志が、こうしてフェンスの向こうとこっちに対峙させられているこの状況はいったい何なんだと憤りを感じた。そうした「丘の向こう側」の人々、市の職員の中には、こちらの主張やテント住人の状況の説明を聞いて、涙を流し、顔をそむけている者もいたということだ。そうした様々な人々の「思い」をこの代執行は踏みにじっているのだ。

声を出しての抗議はありったけしたので声が枯れた。人を制止しながら自分は「こらぁ」とか「何しやがんだぁ」とか叫んでいる矛盾。「うわああ、やめろー!」と、フェンスにしがみつき、声の限りにみな叫んでいた。京都の音楽仲間はずっと太鼓を叩いていた。いつもの仲間も、久しぶりに顔を見る友人も、みんな自分の出来ることを必死でやっていた。いちいち声かける暇もなかったが、知っている人ばかりだった。それは心強かった。

外のフェンスはやがて一部が破られた。怒号とともに人の波が乱入した。フェンスは捻じ曲がり、鉄板はへこみ、パイプは折れた。知り合いの中にも軽い怪我をしている人もいた。もう滅茶苦茶だったが、かろうじて機動隊と衝突する
事態は回避して終わった。最後の団結小屋が潰されてゆくのが見えた。その後、フェンスの外に再集結して、シュプレヒコールをあげ、そのまま歩いて市役所に向かった。東京、横浜、名古屋からも応援が駆けつけ、100人前後はいたはずだ。そこでも機動隊がピケを張っている前で抗議を継続した。

しかし、大阪市は扇町公園や西成公園など他の公園でもこっそり同時に動いていた。「代執行の被害者」、靱や大阪城を追い出された仲間を収容しようと考えていたテントを早朝に撤去したり、封鎖したりしたのだ。予告も令状も何もなしにやったらしいが、支援が出払ってそこが手薄なことを見越しての計画的な作戦としか思えなかった。追い出された仲間の行き先を先回りして潰し、生活の立て直しを支援することさえ妨害するというのだ。

さらに卑劣なことに、仲間の危急を聞きつけて、靱公園に来て抗議行動に参加していた仲間のテントを、留守を狙ってやはり予告なしに撤去していたことも判った。「抗議に参加したこと」への報復らしかった。これまで大阪市の非道
にはたいてい馴れさせられているぼくらにしても、このようなほとんど信じられない行為に茫然となった。

そこまでして野宿者を追い出したいのか?
そこまでして寝るところを奪いたいのか?
そこまでして野垂れ死にさせたいというのか?
これは戦争か?
しかし、だとしたら何のための戦争なのだろう?
「国際バラ会議」、「緑化フェア」、それとも見てくれのいい公園のためか?

ぼくらは最終的に扇町公園に向かったが、そこで出来ることはもう何もなかった。
それで大阪城公園のよろず相談所に戻った。戻ってきたのはたった5人だった。
それでも夜のとばりが下りた中、まだ残った仕事、法的な支援の打ち合わせをした。
長い1日が終わった。
声はつぶれ、雨に濡れ、疲れ果て、そのうえ無力感に包まれた。
この日のことは決して忘れないだろう。

大阪城での抗議行動中見失ってしまったTさんだが、ぼくらが教育塔からよろず相談所に戻ってきた頃に姿を現した。ぼくはTさんに「何も出来ませんでした。ごめんなさい」と頭を下げた。もとより阻止できるとは思ってはいなかったが、もう少しなんとか粘りたかった。Tさんのこれまでの生活の重みを思うと、あまりにもあっけなく終わってしまったことが悔しく、情けない自分に怒りが湧き、さらにもう家を失ってしまったTさんへの言葉がなく、こみ上げて来るものが溢れそうになった。

それでもTさんは、「もういいんだ。みんなありがとう。言うこと言って溜飲が下がったよ」と言ってくれた。
Tさんは差し止め裁判の原告にも加わっていたが、2回の却下の後、いまの訴訟の原告からは降りている。現実的な判断かも知れなかった。ぼくはそのTさんの裁判資料の陳述書作成を担当したせいもあって、短い間だったが彼の人となりに触れることがかろうじて出来た。人の世話にならず、自分自身で生きてゆく意思を持ち、12年も野宿を続けているにしては、「普通の」感覚を失っていない人だった。本当にただ普通に頑張ってきた人で、ただ少し運が悪かったというだけで野宿になってしまった人だ。

彼のテントは教育塔の裏という、自然林に包まれた静かな目立たない所にあった。それには公園を利用する市民との摩擦も考えていただろうし、身なりもきれいにしていた。Tさんは最初から事後のぼくらの支援を断っていた。避難先も自分でなんとかする、と言って、最低限必要な大事な荷物の避難も自分でやっていた。シェルター収容は当たり前としても、生活保護も受ける気はなかった。やがて落ち着いたらテントを張れるところを探し、またテント生活に戻ると言う。結局、大阪市のやったことは、カネを湯水のように使って暴力をふるっただけで、何も解決しなかったわけだ。

「これからどうするんですか」と聞くと、「今晩寝るところは、とりあえずこれから探すよ」と言っていた。大丈夫なのかな? でもその表情には自信が溢れていて、世話にならなくても大丈夫という感じがしたので何も言えなかった。ぼくは「もし何か困ったら連絡ください。それによかったらまたよろずにも遊びに寄ってください」と言い、個人的な連絡先も渡した。彼は頷き、「じゃ」とそれだけ言って、自転車に乗って1人で大阪城公園を出て行った。

12年間住み続けた「ホーム」を、生活を後にして彼は淡々と出て行ってしまった。その時、何を思っていたのだろう? とぼくは思ったが、もうそれも判らないし、彼から連絡がない限り、もうどこに行ってしまったのかも判らない。

そのTさんの「家」はあっと言う間に跡形もなくなり、今はフェンスが張られている。
これから工事して、その自然の木も引っこ抜き、人工の庭園のようにするらしい。
それが「緑化フェア」なのだと言う。

誰が決めて誰がやろうとしているのか知らないが、人の命を脅かしてでもそれをやりたい奴らが大阪市を動かしている連中の中にいる。彼のテントがどこにあったのかもやがて判らなくなるのだろう。今朝まで人が住んでいた「家」を潰して、あとのことは知らんふり。これが行政が個人に対して行う暴力、行政代執行というものの正体だ。これが”人災”でなくてなんだろう?

夜になって雨はやみ、大阪城公園は何ごともなかったかのように静かな霧に包まれた。
Tさんは寝るところを見つけられたのだろうか?
いまどこでどうしているのだろう?
寝るところが見つかったとしても、ひとりで何を考えて眠りにつくのか?
その「思い」まで跡形もなくなってしまうのだろうか?
疲れた体で帰途につく電車の中で、そう考えていると不覚にも涙がぽろりとこぼれた。

ただ、まだすべてが終わったわけではない。
頭が痛くなるようなことも次々起きてはいるが、ここに書けないこともある。
現場に来た人でなければ共有できないこともあるが、来れなくて悔しい思いをした人にこれから出来ることもあるはずだ。裁判も続き、救援や抗議や作業、やり残したこともたくさんある。なにより、追い出された人にとっては、何も終わっていないのだ。

彼らは新聞が書くように「ホームレス」ではない。
追い出されてもどこかでこれからもまた生きてゆくのだ。
どこに居たって、そこには彼らの「ホーム」があるはずだ。
この同じ雨の降る、街のどこかで。

     ☆

雨が降る 雨が降る この街にも
寂しい影ひとつふたつ 道迷う流れ者
傘もささず 行方知れず 通りを抜けると
君もまた雨に降られ 彷徨う この街で
(「天王寺思い出通り」/大塚まさじ)

(2006年1月31日記)

————–

以上、釜パトブログより

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コメント

    • bandou
    • 2006年 2月 07日

    時々拝見しておりましたが、初めてのコメントです。

    悲しい。怒りよりも何よりもただ悲しい。
    小泉支持の人たちは「日本は豊かで自由だ」と言っている。野宿するしかない人に、それさえ許さない「豊かさ」「自由」。一体何なのでしょうか

  1. 初めまして、yamadaと申します。いつも読ませていただいていますが、コメントを書くのは初めてです。ホントはムービーのほうにコメントを書きたかったのですが、やり方がよくわからないのでこちらのほうに書かせていただきます。排除の模様のムービーを見て、怒りとともに悲しみを覚えました。どうして同じ労働者同士があのように対峙しなくてはならないのかと。あのような暴挙が平気でまかり通るこの世の中、どこか狂ってると思います。
    HPはありませんが、自分のmixiの日記にリンクを張らせていただきました。

  2. 坂東さん、山田さん、コメントありがとうございます。
    そうですね。本当に「悲しい」という意見をよく聞きますし、私もまた、今回のことでは怒りよりも悲しみのほうが大きいです。それは人間という存在への不信感からくる悲しみかもしれません。また、そういう精神状態の時、人はちょっとテロリズム的なものに傾斜してしまうような気がしています。今回の経験を通じて、「自爆テロ」に走る人の「悲しい怒り」のようなものを、少し理解できるようになったように思えます。
    しかし、やっぱりまだ諦めたくない。人間を信じたい。民衆の側からの「テロ(的な発想)」との闘いとは、やはり人を信じることなんだと、今回のことからも学んだと考えています。

  1. 2006年 2月 04日
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