青年の党派たれ! 戦旗派86年年間総括

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一.86年階級攻防の概要(前半期)

85年9・29三里塚_辺田大会戦_戦旗・共産同

 86年階級攻防は政治情況的には、三里塚闘争において85年9・29用水粉砕辺田大会戦などをつうじ、用水絶対反対農民との結合を深め、85年11・10三里塚現地闘争では遂に、反対同盟方針として「成田用水絶対反対」を提起せしめるに至るまでのヘゲモニー性を獲得したわが同盟が、さらに階級的規定性を全国に波及させることを課題とし、それまでの全国大衆運動の主流をなし、その右翼市民主義ゆえにわが同盟と常に反駁しあう関係性の下にあった反トマ潮流にかわる全国政治闘争を構築する必然性下開始された。

 84年1月と7月の二度にわたる中核派による第四インターヘの内ゲバ攻撃は、東京実行委内部よりの批判の噴出(⇒ブログ”狂おしく悩ましく”「三里塚実行委の盛衰」を参照:草加注)をともない、直接的な武装襲撃よりも、大衆運動的のりこえによる動員的較差の拡大をはかっていく方向に次第に路線修正されていくなかで、対中核(=内ゲバ襲撃への対処)を基軸として構築されてきたわが同盟の武装も、それに伴い、対日帝ゲリラ・パルチザン戦闘を苛烈に炸裂させることをつうじ、質的な飛躍をはかっていく転換期をむかえたのである。

 つまり内ゲバ党派を対日帝ゲリラパルチザン戦闘の遂行をつうじ逆規定していく闘い方から、全国政治闘争を革命的に領導していくための戦術形態としてゲリラ・パルチザン戦闘を位置づけ直し、大衆的課題実現のために対日帝実力攻防に踏み込んでいくという戦略的転換を、86年はじめわが同盟は己れに課したということだ。

85年2・28 成田用水の元凶 北総開発事務所へ火炎強襲

 86年最初の全国結集における取り組みは3・23三里塚闘争であったわけだが、そうした政治背景をふまえ、第17次現行隊を派遣しての85年をひきつぐ用水辺田・中郷工区建設阻止闘争への永続的取り組みと同時に、わが同盟は2月28日北総農業開発事務所に対するゲリラ・パルチザン戦闘を炸裂させ、用水絶対反対農民への支援・連帯の方向を鮮明に打ち出した。

 これは熱田派反対同盟のとくに青行部分などの多くが現下の用水攻防に主力を注ぎこれを阻止しぬくために決起するというよりも、現下の攻防はネグレクトしたまま、むしろ3、4月にも予定されると当初いわれた71年9・16東峰判決の量刑問題にその主要な関心を移してしまい、闘争に全く出て来なくなるといった事態の現出に対し、歯止めを与え、用水絶対反対農民を支え続けることを政治目的として敢行された戦闘である。それによって大きな政治的流動化を作り出すには至らなかったわけだが、こうしたわが同盟の姿勢は小川剛正氏を筆頭とする左派農民との結合を深めつつ、東峰支援のためのカンパとコンサート活動などにますます向かっていく方向にあった第四インター、三支労などとの分岐を再度つくり出していった。

86年三里塚闘争 戦旗・共産同のデモ

 3・23闘争当日は空前の大暴風雪にみまわれ、参加者の大半が十分な準備ぬきにそれに遭遇したため、ほとんど歯の根も合わぬほどの苦闘を強いられたのであるが、それでもわが同盟は××××名の動員を出しきり、二期着工阻止にではなく東峰判決減刑問題に不断に流れ込んでいく傾向をあらわにした反対同盟の空洞化を規制し、主流派として闘争を牽引しきったのである。

 だがここにおいては、わが同盟の政治的組織的影響力を全国に波及させていく闘いは作り出しえず、全国人民の注視する政治課題に対し、わが同盟の全力を傾注した取組みをもって党的プレゼンスを刻印すべきことが、依然残された。

 そのターゲットとなる課題こそ4・29天皇在位60年式典であり、5・4東京サミットであった。
 この二つの全人民的政治課題の牽引性においてわが同盟は、第一には84年9月全斗煥来日阻止闘争でその萌芽形態を作りあげた反トマ系列とは相対的別個の全人民的政治闘争潮流の創出と領導をはかり、第二には対日帝実力闘争を究極的なゲリラ・パルチザン戦闘の遂行において実現し、天皇式典・サミットそのものの粉砕をはかることを意志統一し、実行に移したのである。

1986年03・25 アメリカ大使館をM22ロケット砲で攻撃

 前者の実現のために靖問研、反天皇制運動連絡会(=反天連)、天皇制を撃つ連続講座(いわゆる反天講座)、LA実、三多摩パレスチナと連帯する会などとの結合を深め、それぞれ4・29実委と5・4実委を2月11日と2月末日形成せしめた。後者の物質化をはかる方策としては予測される権力・機動隊3万人連日動員の首都戒厳令を突破する戦術形態、乗用車のトランク・ルーム内にM22を装着しIC付時限装置を使ってトランク・ルームを開き、M22を連続発射し、しかる後に自爆するシステムを立案、製造したのである。

 いうまでもなくそれは、86年階級闘争の第一の獲得目標に掲げた「大衆的実力闘争やゲリラ・パルチザン戦闘を自己満足的なものに押しとどめてしまうのではなく、大衆動員や組織結集、政治展開の環として活用し、わが同盟の政治的プレゼンスを高め、政治的ポジションを形成する手段として駆使しぬく」「政治の手段として暴力と戦争を駆使しえる組織体にまでの自己止揚の追求」(85年総括「勝利を特続させる党」より)の闘いであり、それをつうじ「協商懇右派系列の再編成に対し左からクサビを打ち込み切り、共闘関係の再編と左のプレート形成に結節点を作りあげる」「戦旗系列といえるまでの統一戦線、共闘関係的領導性を作り上げる」(同)ことを政治目的とした闘いであった。

 3・25皇居・アメリカ大使館への攻撃は更にもう一ヵ所のターゲットをも内包したわけであるが、天皇不可侵のデッチ上げ神話を打ち破り、日米安保同盟に人民の抗拒の意志をたたきつける聖戦として打ち抜かれた。と同時にこの闘争を皮切りに4・29~5・4粉砕へと向かう人民の政治的流動化を作り上げ、反トマ潮流にかわる全人民的政治闘争部隊として反天連や4・29実委を押し上げることにわれわれは大勝利したのである。

天皇在位60年式典粉砕闘争(86年4月29日宮下公園)

 4・29闘争当日、宮下公園には実数で×××××名もの労学市民が結集した。もちろんそのうちの三分の一近くはわが同盟戦旗・共産同の隊列であったわけであるが、つづく5・4闘争にも元町公園に実数××××名の人民結集を実現し、ついにわが同盟は権力をして「戦旗・共産同系列」といわしめるような全人民的政治闘争の領導形態を作り上げ、協商懇系列中のヘゲモニーの転換、第四インター・共労党からの統一戦線的ヘゲモニーの奪還を物質化したのである。

 『東京サミット大江戸警備日記』(『文芸春秋』掲載)中に、警察庁長官山田英雄は次のように書いている。「明日の天皇御在位六〇年式典に対する中核派と戦旗荒派の反対デモが都心に向かうのを東京都公安委員会が路線変更処分したが、夕刻、戦旗荒派が処分の執行停止を求めて訴訟を提起したとのこと」(四月二十八日)。

86年5・4 東京サミット粉砕闘争(元町公園)

 路線変更処分の執行停止を求めて訴訟したのは4・29実行委であり、われわれではない。
 4・29実委の全部をひっくるめて「戦旗荒派」などと呼称する山田英雄の対象分析のズサンさはいなめないが、しかし日帝警察権力の最高中枢がそう判断せざるをえなくなるような政治関係を現出せしめたこと、この勝利性はかかげてきた課題性との関連で見た場合余りに歴然であろう。

 だがいわばそうした新左翼運動領域でのわが同盟の勝利性は、相反する価値観に立つ陣営=右翼民間反革命の猛烈な反発をひきおこすことになった。
 3・25戦闘の炸裂に対し、4月7日全国愛国者団体会議関東協議会、民族革新会議などの呼びかけで右翼団体40数団体があつまり、3・25への報復が協議され、なおかつ3月29曰には日青社が街宣車4台で戦旗社に押しかけてくる事態が生起したのである。
 これに対しわが同盟は本部社防隊を編成しウォッチ、パトロールの強化をはかるといった方策をとったわけであるが、未だ右翼との激突を戦略的に対象化しきれず、しかも右翼の存在の構造、その構成など敵の実態が皆目わからないといった事態のなかで、4・18日青社三多摩本部によるダンプでの本部突入を許してしまった。

 ここでのわが同盟が喫した敗北は、ウォッチが見過ごした等という戦術レベルの問題にその根拠があるのではない。急遽編成された社防隊(第17次三里塚現行隊の半数)は献身的、自己犠牲的にがんばりぬいたのであるが、党が戦略的レベルで右翼の報復を対象化しきれず、又余りにも敵を分析しきれなかったために、主体の構えを構築しきれなかったことに主要な根拠はあったのである。
 ゆえに4・18襲撃以降、わが同盟は生起している事態を革命党としての存亡にかかわる問題ととらえ直し、全党総武装、総動員による臨戦体制の構築にむかった。

「戦旗派粉砕、一人一殺」を叫び本部ビルに押し寄せる右翼と機動隊(86年4・22 蕨市末広公園)

 4月22日の末広公園での右翼55団体の戦旗社襲撃集会に対し、首都圏450名を動員し防御、迎撃の体制をとりえたのは、83年三・八分裂以来の中核の党派戦争宣言に対し対処しつづけてきた革命党としての武装力の、はじめての全的発動であり、ここまでに高め上げられてきたわれわれの軍事力量と組織力に右翼は驚愕し、ここではじめてわが同盟は右翼に対する逆規定性の関係を切り拓いたといわねばならない。

 以降4月、5月、6月の全過程は、文字どおり「党のための闘い」、戦旗・共産同の重武装と意志統一の高次化にむけ一切が費された時期である。
 わが同盟は労働者社防隊を組織し、党本部体制の二重化を実現し、全地区あげての右翼民間反革命に対する調査活動に従事し、防御を基軸とした闘いから「迎撃」「攻撃」を可能とする体制への転換を強烈におしはかった。

 その後愛知でのバス放火や5・11白色テロ(立哨中の社防隊員が右翼に刺されて重傷を負った事件:草加注)、幾多の発煙筒の投げ込みなどの襲撃をうけはしたが、基本的な線で右翼民間反革命との攻防にせり勝ち、撃退しつづけたのは、わが同盟戦旗・共産同が武装し闘う党として自らを立脚させようとして、意志統一の基本構造において全党全軍の戦略的武装を完了しえたからである。

 それ以上の発動、つまり報復の攻撃をわれわれが加えることをしなかったのは、政治的判断の問題である。敵が対戦旗の50団体以上の統一戦線を組み、しかもそれが全国に波及するという態勢で臨んできたのに対し、われわれは一派でこれを迎え撃たねばならず、革命的左翼間の統一戦線形成が遅れてしまい、そこにのめり込むことが、三里塚二期決戦、わけても用水三号工区の5・8着工=高谷川拡幅、仮排水路掘削工事などへの反撃に空白を生じさせることにしかつながらないと判断せざるをえなかったこと、要するに勝ちきる展望をつかみえなかったことがその根拠である。

 それゆえわが同盟は迎撃能力を高めあげ、現実の戦争遂行能力の高次化をはかる(地区党総務の建設、行動隊の編成)ことをつづけつつ、それを党の組織力量として蓄積する方向をとり、5月29日の公団秋富による二期年度内着工発言などもかんがみ、6月30日より第18次現行隊を再び三里塚現地に派遣し、右翼民間反革命との闘いは日帝中曽根の別働隊派遣との闘いであり、対日帝闘争の高次化をはかることが日本階級闘争全体の戦略的前進につながることを明らかにし、右翼民間反革命に対し一対一のデスマッチにおちいらない対処をとった。

第17次戦旗派三里塚現地行動隊(86年春夏期)_戦旗・共産同

 おりしも日帝中曽根は7・6衆参同日選挙での自民党圧勝、304議席獲得に有頂天になり、7月25日には第三次中曽根内閣運輸相となった橋本竜太郎に、同30日には公団総裁秋富に対し「国鉄改革、成田空港二期工事と懸案がたくさんあるので頑張ってほしい」「成田空港の第二期工事に着手し、早く空港を完成させよ」などと厳命し、右翼襲撃の仕掛人が自民党サイドにあること、つまりこれらが高度の政治判断にもとづいて仕組まれた過激派封じ込め作戦の一形態であることを露呈させたのである。

 われわれは7・27政治集会をつうじての大衆動員力の回復と、国鉄分割・民営化、三里塚二期決戦への意志結集の強化をはかり、中曽根との対決性を強めていくなかで、右翼の襲撃に対しては即応し、迎撃することを意志統一し、二重対峙体制を継続させつつ中曽根の戦争国家計画と再度全面対決する夏秋期の政治過程に突入することを意志結集していった。

⇒ 86年攻防の事実経過(後半期)

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