不発な憲法論議の中で 丸山眞男「憲法第九条をめぐる若干の考察」を再読する

丸山眞男(1914年 - 1996年) 丸山眞男(1914年 – 1996年)by 味岡 修

(1)不活発な改憲内容についての議論

 今年は天皇退位や参院選挙などがあって政治の動きも何かと慌ただしいのでは予測されている。その中で人々が静かであるが注視しているものに改憲の動きがある。より具体的にいえば国会での改憲の発議と国民投票がなされるのか、どうかである。
 一昨年の5月に安倍首相は従来の改憲案(自民党が憲法改正法案などとして主張してきた改憲案)とは異なる改憲案(憲法9条の規定はそのままで、9条の二項に2として自衛隊明記をする案)を提起した。しかも、この改正憲法を2020年に施行するという具体的な日程まで含めてである。
 安倍首相は憲法改正のために自民党の総裁任期の規定を変更して三選をしてまで首相の座についたのも改憲のためであると考えられるから、改憲の具体的動きー国会での発議、国民投票―がなされることは誰しもがいだく予測だ。国会での憲法改正案の発議には衆参での総議員の三分の二以上の賛成を必要とされるから、現在の議員の政治的な配置から見て発議がなるかどうかは分からない。目下のところ与党の一角を形成する公明党が自民党案に賛成するか、どうか分からないからだ。様々な憶測が流れているが、それを僕らは判断できないものとしてある。
 一方で安倍が従来の改憲案とは異なる改憲案を提示してから動きとして特徴的なことは、改憲に対する議論が従来に比べた不活発ということである。これは今回の改憲の提起、「9条2項に2を加える」が巧妙であるといわれる由縁であるが、端的に言えば、「9条2項に2をくわえる」ということが、憲法9条の議論を封印というか、言及しにくくしていることがある。
 今回の安倍の改憲案は憲法9条の改正であることは間違いないが、憲法9条の条項はそのままにしておくのだから、直接に憲法9条の改正に触れるようには感じられない。それ故に、憲法9条についての議論をやりにくくしている。従来のような憲法9条2項の戦争放棄、戦力保持の禁止、及び交戦権の否定の改定ならば、憲法9条の直接的な改定だから、憲法9条をめぐる議論は出てくる。しかし、これをそのままで「9条2項」に自衛隊明記するというには憲法9条の論議を呼び起こしにくいのだ。
安倍改憲案は9条の無意味化である  この改憲案は憲法9条の改憲である。憲法9条は人々の戦争に対する意識の表現であり、その意識を自衛隊の国軍としての容認で変えようとするものである。憲法9条の無意味化である。それがこの改憲案の狙いである。従来の改憲提起には強い壁となって出てくる「非戦の意識」を議論のないままに解体させようする政治的なやり方なのだ。
 この間の憲法についての論議を見ているとこの狙いはある程度成功しているように見える。それは不発な憲法論議として現象していると言える。こうした中で、憲法9条についての論究も乏しいように思う。2006年に安倍首相(第一次安倍内閣)が改憲問題を引っ提げて参院選挙に現れた時に比しても議論は乏しいように思う。

(2)改憲をめぐる刺激的な考察

 確かに憲法についての本はいくつもあるし、おもしろい本もある。例えば『憲法の無意識』(柄谷行人)である。彼は憲法9条が単なる戦争の反省ではなく、それを超えた「戦争の罪悪感」が「無意識の罪悪感」になったものであり、それは日本人の集団的な超自我であり、文化であると述べている。フロイトを援用したこの9条論はやさしいものではないが、従来にない視座もあっておもしろいといえる。ただ、こうした本はあるが、全体として見れば、憲法の議論は乏しいし、議論を呼び起こすような本も少ないと言える。
『後衛の位置から』―丸山眞男著 僕は久しぶりに丸山真男の『後衛の位置から』を再読した。この本は丸山の主著と目されている『現代政治の思想と行動』(1956年から57年にかけて未来社から2冊に分けて出された)の追補本として出された。1982年に出ているのだが、この中には「憲法第九条をめぐる若干の考察」がある。
 最近、丸山眞男の『日本の思想』等を読み直したりしていることもあったが、憲法9条についての刺激的な考察本という記憶があったためである。この本に収められている「憲法第九条をめぐる若干の考察」は1964年11月に「憲法問題研究会」の例会で報告に加筆したもので、極めて短いものだが、憲法9条の事を考えるにいいものだと思う。
 「憲法問題研究会」は自民党によって提起された憲法調査会(第一次憲法調査会で岸信介が推進者だった。これは憲法改正のための調査会で、改憲に反対する当時の社会党などは参加しなかった)に対抗するために宮沢俊義や大内兵衛らによってできたものである。憲法調査会は1963年に報告書を提出するが、そのための憲法公聴会を全国で開いており、僕は憲法公聴会阻止闘争をやった記憶がある。
 この憲法調査会の報告書に対する批判的なコメントというか、報告がこの論文である。報告書は安倍首相の祖父である岸信介が憲法改正のための調査としてやらせたもののまとめである。この調査報告は分厚い冊子としてあり、僕の国会議員を通じて手に入れた。ただ、1960年の安保闘争で岸信介が失脚し、変わった池田隼人首相が憲法改正に消極的になったために、倉庫の隅に押しやられてきた。その後の憲法議論にも影響はしないできたとおもわれるが、憲法についての議論がこれだけなされていたものとして注目していいと思う。昨今の、さしたる憲法論議もなく、政治的に憲法改正の動きを目にしていると、そういう感をも持ってしまう。

(3)「九条改憲」が提起された歴史的経緯

 丸山の報告文は三つの構成でなっている。「一 改憲問題と防衛問題との歴史的連関、 二 日本国憲法における平和主義の意味づけ、三 現代政治の発展傾向と第九条」である。この二はさらに、<A、憲法調査会報告書における「平和主義」の問題性、B,前文と憲法九条の思想的連関、C,国民的個性ないし民族的伝統の問題>と分けられている。この論文ではこの二が中心であるが、昨今の憲法改正の提起とそこでの議論を見ながら読むと重要な問題が提示されているのが理解される。
 「われわれが第九条の問題を考えるときに、これは当然といえば当然なのですけれども、やはり改憲問題は、第九条が政治問題化したところから発していることは忘れてはならないとおもいます」(一 改憲問題と防衛問題との歴史的連関)。
 これは憲法、とりわけ改正問題の登場ということは、アメリカ軍の再軍備要請(アメリカの極東戦略の転換)にはじまっていることを歴史的経緯として人々に想起させるために示されることである。
 アメリカの要請を背景にして軍隊を創出する憲法の改正では都合が悪いから、自民党は憲法制定過程に問題があったから憲法を改正するという論(押し付け憲法論)を立ててきた。安倍首相もその主張を繰り返していた。最近はあまり表ではいわなくなっているが、自民党が後付けで憲法制定過程の問題を強調しだしたのは政治的策術である。こうした理由で憲法改正の提起がされてきたことを僕らはいつも想起しておいた方がいいと思う。安倍の憲法改正案の提示「自衛隊の憲法9条への明記」ではこういう動機は極力避けられているが、忘れないほうがいいと思う。
 つまりアメリカからの要請が国防問題という形で政治問題化し、それとの関連で憲法9条改正が提示されたのだが、そこで欠けていたのは、「押し付け憲法の是正―自主憲法の制定」と言ったところで、そもそも国民の立憲意思として「憲法9条改正」は存在しなかったということである。国民は柄谷行人のいうように憲法9条を無意識にまでしたのだから、こういう自民党の提案は反発されただけだったのである。
60年安保 調印式で語るアイクと岸 アメリカの要請で政府は警察予備隊を創り、それは保安隊から自衛隊をつくった。けれども、吉田茂はアメリカの要求する憲法改正は拒絶した。そして吉田の系譜にある保守本流とよばれた政治家たちは憲法改正(憲法9条改正)に消極的であり、隠れ護憲派ともいわれた。こうした中で1960年の安保改定を推進した岸信介は憲法改正を目ざした存在だった。
 丸山は改憲の動きを歴史的に取り出し出しているのだが、それは「改憲問題の現実的発生が、第九条問題を巡っておこり、第九条問題自体が、冷戦の激化に伴う日米合作の軍事的防衛力の設置及び増強と不可分に発展してきたことは争えません」(一 改憲問題と防衛との歴史的連関)ということを忘れないために提起していることでもある。
 僕らは安倍の改憲提起が集団的自衛権行使容認という憲法解釈の変更と関連づけてみれば、この事情はさほど変わっていないと言えると思う。この、自民党の中でかつて保守本流と言われた中に多くいた隠れ護憲派が見えなくなってきていることはたしかだが、柄谷のいうように無意識かどうかはべつにして、国民の9条改憲否定の意思は強いという構図も変わってはいない。

(4)九条が具体的に果たしている役割と思想性

 政府側の憲法調査会の報告書では総括として次のように述べられている。「現行憲法が掲げている平和主義の理想そのものは、あくまで維持すべきものであるということは委員の全員一致見解である。また、日本の防衛のあり方に関しては、日本は右の理想の実現を目さしながら、自らの防衛に備えるとともに、国際連合その他の集団的安全保障制度に参加することにより、自国な安全とともに世界の平和に貢献すべきであるということについても、見解の対立はない」(憲法調査会報告書527ページ)。
 この憲法調査会に当時の社会党は参加を拒否しており、左派、あるいは市民派系の学者たちは参加していないのであり、政府寄り、あるいは保守系の学者たちの集まりでも、憲法の平和主義は認めている。
 「憲法9条下でも、独立国家である以上、自衛権を有することは当然であり、かつそのために、なんらかの自衛力を保持することもみとめられ、したがって自衛隊の存在も認められるということは委員のほとんど全員の一致した意見だった」(二 日本国憲法における平和主義の意味づけ)。
 これにたいして、つまりは平和主義を認めながら、自衛隊の体制を認める、この報告書に対して丸山は疑念を持ち、批判する。これでは憲法9条の思想的意味を理解していないのだ。まず丸山は何を否定しているのかを明瞭にしない憲法前文や憲法9条の評価(平和主義)への疑問を呈する。彼は9条の理想の堅持が国家遂行の手段としての戦争の否定なら、具体的意味を持つが、これは1928年の不戦条約で存在したものであり、憲法の前文や九条はもっと進んだものと見なければならないという。
 「私は、第九条の規定には、それよりもう一歩進めた思想的意味が含まれているのではないか。と思うのです。ということは、第九条、あるいはこれと関連する前文の精神は政策決定の方向づけを示しているということです。」(前同)。
 憲法9条は憲法という規範力の表現であるが、それは理想主義であり、自衛隊という存在は認める(合憲)という立場も、憲法に反して出来上がってしまった自衛隊の存在から、九条は意味を持たないなどとする立場にたいして、丸山は政策決定の方向性を現実に制約する規定として提起している。現実の中で現実を動かす一つの契機になっている理念と考えるということである。
 これは安倍は逆のことをやっていると見ればわかりやすいといえようか。それは国家意志の遂行手段として戦争ができるようにしていることであり、自衛隊をそのように変えているのである。憲法九条は平和主義という政治的マニフェストでも、規範力を持つはずの憲法規定でもなく、政策決定を方向づけるものであり、具体的に言えば自衛隊なら自衛隊をどう方向づけていくかというものになる。
 憲法9条をごく普通に読めば、自衛隊を国家遂行の手段として軍隊にして行くことを否定する方向を示していると理解できるだろう。安倍は憲法9条や前文に反した政策をやっている。憲法九条の2項の改正ではなく、憲法9条2項に2(自衛隊明記)を加えるだけというが、両者は同じことではないか。

(5)議論の前提となる戦争概念の変容

 丸山は「三 現代国際政治の発展傾向と第九条」として、戦争の平和の変容という観点から第九条の思想的意味を提起している。これは冷戦構造化の戦争と平和の変容であり、ここから憲法第九条の先取性ということを取り出している。これは1960年代の前半に、まだ、冷戦構造が崩れる兆候すら見えなかった時代に書かれたものだが、現在の戦争と平和について考えるヒントが見いだせるものと思う。
 彼は第二次世界大戦後の戦争を主権国家間の戦争の変容という視点で取り出している。戦争形態や戦争手段の変化という面から次のように指摘する。
 「ここには一種の両極分解傾向を看取することができます。つまり、従来の国家のレベル、とくに政治制度的レベルでの戦争手段、および戦争形態というものが、一方では超国家化の方向に上昇し、他方では下国家化と言うか、非制度的な社会レベルの方向に下降する傾向を示していることです。」(「三 現代国際政治の発展傾向と第九条」)
 「超国家化というのは、いうまでもなく宇宙衛星を含む熱核兵器による戦争形態が、主権国家と主権国家との紛争の暴力的解決という伝統的な戦争概念では律し切れない問題を生みだしているところに集中的に現れている」(前同)。

米CBSドラマ『ジェリコー』より
米CBSドラマ『ジェリコー』より

 この超国家化ということは核兵器による戦争が戦争を不可能にする戦争をうみだしたということにほかならない。核兵器の国際管理も含めた問題を提起しながら、主権国家間の暴力的解決としての戦争を押しとどめてきたということである。少なくとも主権国家間の紛争の暴力的解決(戦争による解決)は押しとどめられてきた。これが核兵器によるのか、第二次世界大戦後の戦争に対する国民的意識によるのか、ということも検討されなければならないが、第一次世界大戦の後20年で平和状態が崩れ戦争状態に入ったこととは異なることの一つの理由である。
 僕はこの核兵器による戦争の不可能性の頂点は冷戦構造であり、それ以降はむしろEUの結成の方に注目する。第一次世界大戦や第二次世界大戦の中心をなしたフランス・ドイツ・イギリスが主権国家間の対立を超えて行く道を見いだしたことが大きいと思う。冷戦構造も踏まえてであるが、ここで丸山のいう超国家化ということは重要な指摘になりえるし、現在の戦争を考える場合の一つの軸になると思う。
 もう一つ、湾岸戦争以降の下国家化の行方もみてみる必要がある。
 「しかしこの反面において、従来の主権国家の戦争概念は超国家と全く逆方向の戦争形態でやぶられつつあります。それは常備軍とは徴兵制とか言った制度化された正規兵によらない、人民パルチザン闘争またはゲリラ的抵抗が、まさに高度の機械化・技術化の時代に巨大な役割を演じるようになった、という逆説です。これが先に、国家レベルからの下降傾向と仮に名付けた側面です」。(前同)
 この指摘はベトナム戦争で一つの頂点であったわけであるが、その後の地域紛争とよばれるものに受け継がれている。アフガニスタンやイラクの戦争になってきたことは疑いない。今日の『イスラム国』をめぐる問題もこうした視点でみることができる。
 この二つの戦争形態を丸山は次のようにいう。「こういうように二つの形態の性格はまさに対照的ですが、ともに伝統的な戦争状態―国家の正式機構として、主権の完全な統制の下にある軍隊によって闘われ、原則として戦闘員と非戦闘員の区別の上に立った戦争形態を、正反対の方向に引き裂く傾向性を帯びているわけです。」(前同)。
 そしてさらにつぎのようにいう。「ところで憲法第九条の問題につていて、戦力とか防衛とか交戦権とか、国家の独立を論ずる際に、人々にイメージにあるのはなんといっても旧来の主権国家間の戦争概念です。私はそうした戦争概念が今日では全く、現実には通用しなくなったというのではもちろんありません。ただ、それだけを引照基準にして、『丸裸で侵略をふせげるか』という議論をすることに対して右のような発展側面からみても、保留を要すると思うのです。」(前同)
 自衛権や自衛隊の保持をいう人たちは旧来の主権国家間の戦争概念に拠っている。侵略されるというイメージは無意識も含めて主権国家間の戦争を疑わざる前提としているが、これが現代ではどこか非現実的に思えるのはこの変容からきているのである。憲法調査会の報告は理想としての平和も、従って憲法9条もいいが、現実には侵略がとか、他国が武装しているのにという議論が多い。そして、主権国家間の戦争を前提にしている。
 現在の戦争と平和の変容を分析し、憲法第九条の評価も豊富にしていかなければいけないのである。丸山の論稿には示唆される点が少なくない。

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