主張の正しさは行動を正当化しない。逆もまたしかり(下)

デヴィッド・グレーバーさん◆デヴィッドさんがどうしたってぇ?

 昨日のエントリの続きなわけですが、まあ、もうこんなこと、Twitterくらいでしか誰も何も言わないし、私も別にもういいかくらいの気持ちになっていたんですよね。でもなんか「ヘイトスピーチに反対する会」のサイトに載った、個人の補足意見の末尾に、以下のような文章があって気が変わりました。

「主張はわかるけどやりかたが理解できない」というご意見もいただきました。でも……反グロ・アナキスト、デヴィッド・グレーバーも、こういうカウンターアクションの事例を紹介してますよ。ある行動を組むとき、それに乗れなかったら抜ける自由も、また乗れないどころかそんな行動やらないべきだと思ったら、たとえ仲間であれその行動をブロックする自由も確保されている、という事例

 これでちょっとカチンときました。私には、「デヴィッド・グレーバーが、『たとえ仲間の運動であっても、私にはそれを自分の判断で暴力的に妨害する自由がある』と言ってますよ。だから私たちだって自分の判断だけで実力で妨害してもいいんです。そんな『自由』が私たちにはあるんです」。そう言っているふうにしか読めませんでしたし、実際そういうふうに書いてある。

 デヴィッド・グレーバーさんという方の名前を私は全然知りません。つか、三回にわたる「素人の乱」系の集会における数万人の参加者で、デヴィッド・グレーバーさんの著作を読んだ人がいったいどれだけいるというのでしょう。イギリスの有名なアナキストだそうですが、自慢じゃないけど彼の著作なんて私は一冊も読んだことがありません。ちょっと検索してみて「ああ、そういえばそんな人がいたな」程度ですが、それだけでも私はまだ知っている方の部類だと思います。そのデヴィッド・グレーバーさんが「妨害してもかまわない」と言ってる?だから何?としか思えませんでした。

 だいたい集会参加者ほとんどの人がそうでしょう。それをデヴィッドさんの名前を出せば、多少なりとも恐れ入る人(=活動家)に向けてのみ、この文章は書かれているということです。なんかよくわからんが「偉い人」の言葉だということを伏せた上で、単純にこの発言だけを見せたら、まあ多くの人は「そんな無茶な!」としか感じないと思う。ついでに言えば、実はレーニンもその著作で似たようなことを言っているんだよね。けれどもまた別の著作では、結果を考えずに「正しいこと」だけを主張していればいいという、そういう無責任なお子ちゃま左翼のことを「左翼小児病」と呼んで戒め、妥協の必要性を説いています。一見すると矛盾するようですが、なんのことはない、当時の情勢を加味してよく読めば、「大衆に対して責任ある態度をとらねばならない」という同じことを言っているわけです。

 それをレーニンだろうがマルクスだろうがデヴィッドさんだろうが、何かしら崇め奉って、自分に都合のよい部分や一文だけを抜き出してくるから、何かややこしくなったり、矛盾しているようにみえる。これはただの想像ですが、本当はデヴィッドさんだってレーニンと同じく、引用(?)されている部分だけから受ける印象のようなむちゃくちゃなことはきっと言ってないだろうと思う。

◆これは内ゲバ主義そのものである

 デヴィッドさんのことはともかくとして、私が一番カチンと頭にきたのはね、これはもう80年代当時、三里塚闘争が分裂した直後に嫌というほどさんざん聞かされた理屈だからです。つまり「内ゲバの論理」なんですよ。この論理を述べる人に対する私の拒否感は、一筋縄ではいきません。当時の中核派は、まさしくこの論理構造でもって、熱田派系のすべての運動を「ブロック」しようとした。最後はインター派に対する内ゲバ襲撃というところまでいってしまって、もちろんそれは一線を越えてしまったものであるがゆえに、それだけがクローズアップされてしまい、ゆえにおそらく「反対する会」の人たちは、自分とは関係ないと思っているのかもしれません。

 ですがそこでおこなわれた大小さまざまの「ブロック」の「直接行動」はそれだけではない。中核派や解放(狭間)派による「直接行動」は、それこそ今回「反対する会」が6・11集会主催者に対して行ったレベルのものまで無数にある。そしてそれらは当時の彼らの主観としては、まさしく「闘争の本質を守るため」の「やむにやまれぬ行動」だったのです。また、インター派にしたところで「直接行動」こそなかったものの、中核派がテロ襲撃を行う以前の段階から、一つの路線(=セクト性)として、「中核派の全戦線からの排除」を主張していたし、組織的に中核派を「ブロック」することを路線化していました(反内ゲバ主義)。そしてことその点についてだけはインターはものすごく非妥協でセクト主義的だったのです。

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 もちろん中核派のテロの問題は別格ではあります。三里塚闘争の路線問題とは別に論じる必要があるでしょう。全国のあらゆる戦線、あらゆる大衆運動に与えた衝撃と傷は深いものがあり、それはいまだに癒えていません。しかしそれは何故でしょうか?中核派のテロのあと、非常に短期間に中核派は主だった左派運動や反戦闘争の枠組みから排除され、右派における「在特会」に対するそれと比較しても、左派の自浄能力の高さを示しました。また、そこで示された意思も、単に「中核派は嫌い」とか「中核派は恐い」というような右翼的なものではなく、「お互いの意見の違いを暴力で解決しようとするする人の参加はお断りします」というものであったはずです。

 「反対する会」の人の中にも、この当時にこの理由でもって、中核派が排除されるのを間近で見てきた人もいるはずです。今一度この言葉をしっかりと噛み締めてほしい。それとも当時から、「中核派なんて嫌いさ、あいつらなんてさぁ」というからかい半分や私怨のレベルで排除に加担していたとでも言うのですか。だったら中核派のしてきたことと以下のレベルでしかありません。

◆大衆的実践フィルター

 そもそも内ゲバとはなんでしょう。それは運動内部の意見の違いを、大衆的な実践を競い合うことで決着をつけるのではなく、間接直接の暴力(直接行動でも何でも言い方にかかわらず同じことです)をもって、いきなり直接に相手の意見の変更を強要する行為全般です。

 いったいぜんたい、三里塚で言うならば、権力の工事着工や欺瞞的な「話し合い」攻撃が吹き荒れているそのさなかに、「脱落派(熱田派に対する蔑称)粉砕」や「内ゲバ主義者の一掃」こそが「三里塚闘争の最重要課題」であるとして、必ずしも大衆的に明らかでないそれらの「課題」を、いきなり大衆運動そのもののメインとして呼びかけたり、そこへの結集を求めるなんてことが許されるのでしょうか?そんな運動に大衆がやる気になって、「よし!やるぞ」と思うでしょうか?そんなの活動家に対してしか通用しない論理です。

 そんなことをしている暇があったら、三里塚闘争の全人民的な大義や意義を掲げて権力と闘え!そしてその実践の中で自分の正しさを証明しろ!脱落派粉砕も内ゲバ主義者排除も、その補足的な課題として、大衆的な結集と包囲の中で実現するべきだ。今回もそれと同じこと。もう内ゲバの歴史はこりごりだ。

◆「○○における○○の重要性」という論理展開

 こんなふうに書きますと、だいたいインター派の方とかからは「君は反戦運動における内ゲバ主義者排除という課題の重要性がわかっていない」とか言われるんですがね。だいたいこの「○○闘争における最大の課題は○○である」にもかかわらず「他の人たちはわかっていない(俺たちだけがわかっている)」という論理展開は、新左翼活動家にはおなじみで、私たちはいつもこんなこと言ってました。で、これはだいたい社共両党に対する批判か、さもなくば運動の内部分裂の理由になったものです。

 だってそれが「最重要の課題」なんだから、その方向にいかないなら「運動がダメになってしまう」わけで、そしてそのことを「俺たちだけが知っている」わけですから、だったら運動を分裂させて潰してしまったとしても、自分たちの望む方向に純化したほうがいいわけです。こういう論理の場合、妥協の余地は少ないというか、ほとんどない。だから新左翼はすぐに分裂していがみ合うわけです。まあ、それで純化して、何かいいことがあったためしはないんですがね。

 たとえば80年代反戦反核闘争において、今の反原発闘争すら比べ物にならないほどの、40万人とか50万人とかの集会があったわけです。その最中において、だいたい新左翼系は最大公約数として、「帝国主義打倒なくして核廃絶なし」を掲げたわけです。細かい内容はやはりずいぶん違うんですけどね。で、単に「核は恐い」とか「戦争は嫌だ」一般ではダメだと。さらに帝国主義国家の足元で、その「経済繁栄」のおこぼれをもらい、そんな城内平和の永続を望むような感性や主張では、第三世界民衆や被差別大衆に犠牲を押し付けた上で、その上にあぐらをかくような、差別抑圧温存のカッコ付きの「平和運動」であって、それでは絶対に核廃絶などできないし、まさしく「平和ボケ」ではないかというようなことだったと思います。そして社共はそんなカッコ付きの「平和運動」に、民衆の核や戦争に対する怒りを押しとどめ、制動しようとしている。それを突き破って立ち上がれと。

 長々と書きましたけど、どうです!似ているでしょ。つか、そっくりでしょ。「反対する会」の「質問書」や「個人的な補足」の内容と。だからスラスラ頭に入ってくるんです。当時の意識に戻って「よし!異議なし!」とか言いたくなったりして(笑)。

 少し感想を言いますと、「核(原発)は嫌だ、恐い、おそろしい」という民衆の即時的な意識を、あまりにも軽視している上に、さらに(6・11主催者への反発のせいもあるんだろうけど)侮蔑さえ感じられます。「原発は嫌だ、放射能はおそろしい」というだけではダメだという主張はわかりますが、まず「原発は嫌だ」という点で一致することは大切なことですよ。まずそこからはじまるというか、それは民衆の素朴で正当な要求なのであって、それをすくいあげ、その実現のために共に努力して、信用や権威を勝ち取っていくことが大切だと思います。その上で、「じゃあその願いを実現するためには何が必要か」ということを、民衆と同じ目線で語り合い、説得なり討論していくことが大切ではないでしょうか。それは「直接行動」に比べたら、ものすごく地味で根気のいることですが、それなしに「『放射能はおそろしい』じゃダメだ」と言われても、周囲の人からは反発しか生まないでしょう。

 あと、特に「個人的な補足」に言えるのですが、意識しているかどうかはわかりませんが、これはまさにレーニンの「外部注入論」そのものですよ。アナキストからは一番嫌われている論理だと思っていましたが。ただ、レーニン主義組織論にしても、別に「遅れた大衆を目覚めた前衛が導いていく」というようなことではないんですよ。少なくともこの文章ににじみ出ているような、悪しき前衛主義的な発想のほうこそがダメだと思います。ネトウヨ系のみなさんへのメッセージにも同じことを書きましたが、まずもってその「遅れた大衆」から活動家のほうが学ぶ姿勢というか、左翼的に言えば「プロレタリア性の獲得」として語られてきた内容なり実存がないところで、誰も耳を傾けてくれないのではないでしょうか。

◆若干の感想を

 冗長になってきましたが、すこしばかり書いておいたほうがいいかなと思う感想を補足しておきます。

 まず「左翼が大政翼賛会やってどうすんだよ」という書き込みを見ましたが、それは6・11主催者への批判としては当たらないと思います。主催者は「大政翼賛会」ではなくて「何でもあり」なのです。この二つは正反対ですので、少なくとも同じ言葉では批判できません。このへんの混同は「個人的な補足」にも見られます。

 大政翼賛会の本質は反体制派の排除や自粛による挙国一致です。だから私はこういうエントリを書いたわけです。これは震災後も従来の反戦闘争を予定通りに進めた中核派に対し、一部の趣味者が「空気読め」的な揶揄をしたことに対してこそ投げつけるべき批判だと思います。対してそんな中核派も右翼も排除ではなく全部ウェルカム!なのが主催者です。だからいいとは言いませんが、正直、現在の復興ファシズム的な「がんばろう日本!」という政府側のスローガンの中では、一定の存在意義や小気味よさを感じるのも事実です。

 次、「直接行動」という言葉をそんなに軽々しく使わないでほしい。これだと内ゲバも(少なくとも当人の主観の中では)直接行動になってしまう。直接行動は間接行動(選挙や請願など他人にお願いする行動)に対するもので、民主主義の本来の機能を取り戻すものだと理解していますが、なんでもかんでも直接行動だと言って正当化してしまうと、逆に民主主義を破壊することにもなりかねません。その意味では非常に高いモラル、投獄や怪我や場合によっては死も恐れないようなヒューマニズム、目的のみならず手段の正当性、政治的な意義などが誰の目にもあきらかな客観性などが求められると考えています。

 私は直接行動は原則として、権力者に対する弱者や被抑圧民衆の側からする、やむにやまれぬ抵抗闘争として認められると思います。「在特会」が蕨市の外国人少女へのハラスメントデモに際して、この女児の実名を「犯罪者」と大書きして、女児の自宅や小中学校にまで押しかけようとした時、その横断幕を破った行為は、まさに自己犠牲的なヒューマニズムに基づく直接行動であったと思います。ですが、他人の集会に押しかけてその運営を妨害する行為は、必ずしも万人に明らかな直接行動とは言えません。それは行動した当人の中でだけ正当性があきらかなだけでは足りないと思います。

 針谷さんや統一戦線義勇軍とは思想性が違いますし、たとえば他人の集会に迷惑をかけない街頭で針谷さんと殴り合いの衝突になったとしても、私はちっとも非難しないどころか、私だってそんな殴り合いをする日がくるかもしれません。一方で、針谷さんらは「在特会」の行動や主張を強く非難し、彼らのような民族差別はいけないとの立場だそうで、一部では反排外主義の一点で共闘する左派もあるようです。それに対して「反対する会」は針谷さんらも「在特会」とまったく同じ存在であるとされていますが、その説明としてTwitterにあった文章が以下です。

ヴィヴィオルカの定義(ヴィヴィオルカ 1998)に当てはめれば、在特会はアイデンティティ衝突のレイシズム+没落と社会疎外のレイシズムであり統一なんちゃらは近代性にあがなうアイデンティティのレイシズム+普遍的レイシズムで軸的には対極だから対立するのは必然だけどどっちもどっちなのよ。

 ごめんなさい。ちんぷんかんぷんでまったくこれっぽっちもわかりません。まずヴィヴィオルカって誰で(人間の名前ですよね?)何をする人なんでしょうか?なんか私レベルの人間なんか相手になさっておられないようで、脱力して検索する気もおきませんでした。「八紘一宇」がダメなのはわかりますが、それも私が元左翼だからです。最初は「反対する会」を「素人衆」から孤立させちゃいけないと危惧して、そういうスタンスでいろいろ見て回ったんですが、この説明で「直接行動だ」と他人の集会に凸されても、どう反応したらいいのか正直わかりません。これは暴力的な排除ではなく、まず新宿をボイコットして芝公園なりに参加した上で問題を提起するのが妥当だったのではないでしょうか。

 また同会は、「在特会」は排外主義の思想が悪いのであって、暴力は排外主義の暴力だから問題なのであり、それ(暴力)は二次的な問題にすぎないみたいなこともつぶやかれていました。でも私は必ずしもそうは思いません。蕨市のハラスメントデモに見られるごとく、まさしく彼らは人間の屑なのであって、左翼が右翼の思想に反対しているとか、そういう問題なのではないと、このブログでも、何度も書いてきたところです。そういう人間として当たり前の「許せない!絶対に!」という思いが先にあって、その思いの結実が私にとっての左翼なのです。

 私は下層の非正規労働者ではあり、その生活は楽なものではありませんが、決して被害者面ばかりしているわけではありません。こうして日本でのほほんと生きているその限りにおいて、多くの人や自然をも踏みつけにし、犠牲にして今の生活があると思うし、その意味で私は差別者であると思います。そして私と同じように欠点だらけで差別にも無自覚に生きている民衆もたくさんいます。私はそんな民衆を愛しく思う。思想という鋭利な刃物ですっぱり切って腑分けして分類してというような発想は、私には無理です。

 私にとって、三里塚の集会に参加して農民を応援するのも、「在特会」にはらわたが煮えくり返って反対するのも、6・11新宿に行くのも、すべて川で子供が溺れている時に助けに飛び込むのと同じことなのです。私にとっての思想は手段であって、その実現自体が目的になって絶対にならないと思っております。

(追記)今、わたしらがやらなくてはならないのは、自分たちがたどってきた左翼の歴史や経験を、どんな小さなことでも、できるだけ多く語って残しておくことなのかなと思う。それは自己の正当性を主張したり、左翼の再生のためではなく、大衆運動の歴史化のためであり、同じ過ちを、後に続くなんらかの潮流が繰り返さないためにです。それはあまりにも効率が悪すぎる。「歴史を学ぶ」とはまさに本来そういうものでしょうから。

ここまで読んでいただいてありがとうございます!

5件のコメント

こんにちは、保守右派RRでございます。

上・下とも興味深く読ませていただきました。
私みたいな左翼の用語とか闘争の歴史がなんちゃらとか全然知らない凡人にもよくわかる文章だったと思います。特に6.11のアレはtwitterで拾い読みしていた程度だったので、あらためてまとめて書いてもらって初めてよく理解できました。

昨今それでなくても即時脱原発・反原発を唱える人たちからは一定の距離をおく人たちがぼつぼつ増えてきたという感じなのに(私のtwitterやリアル周辺での印象)、6.11の時の騒ぎみたいなの起こすとそこだけ悪目立ちして運動自体に決してプラスではないと思うんですけどねえ…。

今まで『絶対安全』だと言われて渋々許容していたものが、安全対策を怠って大事故になったことに対する怒り。
自分だけでなく、子々孫々にまで影響があるかも知れない放射能に対する不安。
これらの感情を持つのは人として当然のことであって、右とか左とか言うのは全く関係ないことでしょうに。
好き嫌いとイデオロギーをごっちゃにしているようでは・・・・『怪物と戦うものは・・・』というやつですかねぇ。
いくら『反対する』と言っても、考え方まで同レベルになる必要はあるまいに。

ま、『錦の御旗』が絶対だと思っているうちは、こちらが何を言っても無駄のような気がします。
あれこれ理屈をつけて自分の行動を正当化するだけでしょうね。何せ『自分は正義の味方』なんですから。
世間じゃそれを『傲慢』と言うんですけどね。

脱・反原発運動を左翼の運動として自分達の好きな方向に持っていきたいという願望は理解できますよ。
今までずっと左翼が最前線に立ってきたわけですから・・・やっと芽が出てきたという感覚なんでしょう。
でも、日の丸持って参加しかねない自分としては、『右の思想は排除』ということになれば支持するわけにはいかない。
一般の方だって『平穏な普段の生活』を犠牲にしてまで参加しようとは思わないでしょう。
加えて『左翼』というのはイメージが悪すぎる。(中核派とか、内ゲバとか・・・一般人の認識というのはそんなモノ)
結局残るのはいつものメンバーということになりかねない。それじゃ寂し過ぎるんじゃないですかねぇ。

RRさん>

まあ、「プラス」ではないでしょうねえ。
反原発運動は、わりといろんな傾向や切り口をもっている人々が、その違いは違いとしてすみわけをしていて、それぞれが違う場所で集会を開いたりしています。それはそれでいいことだと思うんですよ。
私が言いたいのは、特に反原発運動に限らず、「お前の傾向は間違っている」と言う。それだけなら何の問題もないと思うのですが、さらにすすんで「だから暴力的に潰してもいいんだ。それが正義なんだ」という発想ですね。それはちょっと違うんではないかという違和感なわけです。たとえそう言っている人の主張に一定納得できたり理解できたとしてもです。そのあたりの気持ちをタイトルにこめました。
繰り返しになりますが、これは反原発運動に限ったことではなく、日本の民衆運動が繰り返してきた醜態にほかならないし、また、それこそ「右も左もない」問題だと思うわけです。

たけ(41)さん>

反原発運動は、昔から地道にやってきた左派色の強いグループ、緑とエコロジーのグループ、そして「何でもあり」の新しい人々、それぞれが連携すべきはしながら、違う場所で思い思いのスタイルと主張で集会や運動をしています。RRさんへのレスに書いたことにつきるのですが、別に「考え方まで同レベルになるべきだ」という人がいてもいいし、そういう人に発言の場を与えることもあっていいとは思うんですけどね。それでも他人への押し付けがあまりに酷いスターリン主義そのものなので、いまどきそんなものを支持する人は少ないでしょうけれども。

たけ(41)さんには意味不明でしょうが、かつて「マル青同」というトンデモ党派がいましてね。数はほとんどいなかったのですが、あまりにもトンデモすぎることで左翼業界では有名な党派でしたが、なんかもう、今回の事件はそれを思い出します。

労働運動を検索していて見つけました。「元活動家」・・・今もこうしてブログで発言されているし、熱心に活動されているのですから、「元」ではなく、立派な現役活動家ですよ。
問題意識には僕も共感する面がありますので、お気に入り登録させて頂き、時々覗きにきますね。よろしくお願いします。

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