去る2月18日に文京区民センターで開催された、安田好弘弁護士を支援する会の、最高裁判決報告集会に参加させていただきました。
敬意の表明として参加
私は安田さんのことについて、直接は何も知りません。特に今まで「支援」したこともありませんでした。そんな私にすぎませんが、それでも、安田さんの生き様、弁護士としての職責を愚直なまでにまっとうしようとされる、その圧倒的な人間性において、誰もが尊敬せざるを得ない方だと思います。
その点において、そんじょそこらの左翼なんぞ足元にもおよばない。なんというか、うまく表現できませんが、とにもかくにも、最高裁の判決が出た今、圧倒的なその存在の前に、せめてその敬意の一端をでも示したい、「おつかれさまでした」の一言でも言いたい。そんな敬虔な気持ちで足を運びました。
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「悪魔の弁護人」と呼ばれても-安田さんについて
ここで安田さんについてご存じない方に簡単にでも紹介しておかねばなりますまい。
安田弁護士は、多くの死刑事件の弁護を手がけてこられたことで有名です。「死刑事件」というと、マスコミでも大きな注目を集めた事件が主となります。ざっとあげるだけでも、「オウム真理教事件(麻原裁判)」、「和歌山毒カレー事件」、「新宿バス放火事件」、「名古屋女子大生誘拐事件」、そして「光市母子殺害事件」などです。
死刑事件の弁護はただでさえしんどい。記録を読むだけで嫌になるし、勝ち目もほとんどない。しかも被告の多くは貧困層であることが多く、ほとんどお金にもならない。おまけに、被告はマスコミから悪魔のように書き立てられており、悲しいかな、その弁護士や通常の弁護活動にまで、なんだかんだと非難や嫌がらせが行われることが日本の現状です。
麻原裁判で弁護士がなかなか決まらなくて、一時は公判の開始さえ危ぶまれたのも記憶に新しいように、こんな事件の弁護は誰もやりたがらないのです。まさに「貧乏くじ」です。運悪くこの貧乏くじを引いてしまったとしても、ただ情状酌量でひたすら被告人を謝らせておしまい。できるだけ自分に類がおよばないようにするのが普通の神経です。
安田さんも死刑事件の弁護はごく普通に嫌なのだそうです。特にオウムの麻原裁判とかは本当にやりたくなかった。けど、だれもまともにやる人がいないので、結局は安田さんにお鉢が回ってくる。そこで見てみぬふりができずに引き受けるはめになる。するとまた…。その繰り返しです。
しかも、安田さんはいったん引き受けたあとは、適当に情状だけでお茶を濁したりしない。まともに真面目にちゃんとやる。被告人の声に耳を傾け、たった一人の「味方」として、検察側の証拠や証言を精査し、そこに矛盾やおかしいところがあれば普通に争う。死刑事件では検察の立証も甘いというか大雑把になるのか、安田さんによって数々の矛盾が指摘され、とうとう死刑が回避された事案も複数あるそうです。
死刑事件で弁護士のやることは一つ。「死刑回避」です。つまり安田さんはいくつかの事件でそれを勝ち取ってきた有能な弁護士でもあるのです。当然に大変なエネルギーを使うし、経営的には大赤字です。しかも世間はそんな安田さんの献身的な活動を賞賛するどころか、時には心無い人から「悪魔の弁護人」として罵られさえする。
しかしよく考えてみてください。これは弁護士として当然の職責を誠実にはたしているにすぎないのです。なんら非難されるべきことではありません。弁護士まで二束三文の安い「正義感」にかられた人たちに恐れをなして、「吊るせ!吊るせ!」と合唱する側の回し者になってしまっては、それこそ「公正な裁判」など絵に描いた餅、最初から成り立たないではありませんか。
死刑存置派と死刑賛美派
安田さんはもともと弁護士として死刑廃止論者であり、そのための活動も熱心になさっているそうです。そういうバックボーンがあるにせよ、これはなかなか常人にできることではありません。あまりにネチネチした週刊誌などマスコミのセンセーショナリズムな取材ばかりが目にあまり、安田さんは大のマスコミ嫌いになってしまったと言います。
そんな安田さんですが、ネットでいろいろ検索してみますと、死刑廃止の運動には不信感を持っているような人からも尊敬されていたり、時には死刑存置派からの敬意さえ受けているという記述もありました。これはむしろ当然のことだと思います。
冷静な「死刑存置派」は、二束三文の週刊誌レベルで「吊るせ!吊るせ!」と合唱する「死刑賛美派」とは違うのです。まあ言えば、右翼とネトウヨの違いみたいなもんです。安田さんのような人がいなければ、それこそ死刑制度の正当性そのものが失われてしまう。
安直な週刊誌レベルの死刑賛美派の感性にまかしておけば、死刑は西部劇や中世の時代における「大衆娯楽としての公開処刑」レベルのものに堕してしまうわけですから、どんな貧乏くじを引かされても損得抜きで全力を尽くす安田さんは、まともな死刑存置派(というかまともな人間)にとって、尊敬せざるを得ない人物なわけです。
安田事件による検察の暴走
そんな安田さんでしたが、まさにオウム真理教事件の公判で検察と激しく争っていた1998年12月、なんと5年も前の任意整理に関しておこなったアドバイスが、今さら急に差押えの強制執行妨害にあたるとしてとして検察に逮捕され、弁護中にその身柄を拘束されてしまいます。オウム事件弁護に対する妨害・報復弾圧で、みえみえの別件逮捕でした。
これは当初から誰の目にも、麻原裁判で検察の目の上のたんこぶであった安田さんを狙い撃ちにした、ひっかけ逮捕だと思われていました。かつて検察の裏金疑惑を内部告発しようとした現職の検事が、まさにその記者会見の直前に、微罪で逮捕されて刑務所送りにされた例がありましたが、安田さん逮捕もそのタイミングから、これと同列のものではないのかという疑惑を強くもたれました。
また、みんなが嫌がる死刑事件を多く手がけ、かつ実際に、検察が軽視する証拠を発掘して死刑を回避しうる能力をもった弁護士は、日本中で安田弁護士しかいません。今後、政策的に厳罰化の方向をとりたい検察にとっても、安田弁護士が担当した事件は綿密な立証をせざるを得ず(まあ、それが当たり前なのですが)、彼は極めて邪魔な存在でした。
そしてまた、「容疑」とされたアドバイスにしても、それが(検察の言う通りの内容だと仮定しても)はたして犯罪を構成するようなものなのかどうか、しかもなんで5年も前の職務上のアドバイスを、いまさら急にこじつけてきたのか、極めて不自然なものでした。
この事態に、日本弁護士連合会は、「これは弁護士という職業そのものの危機である」として、抗議声明を発し、全国から1200名以上の弁護士が手弁当で志願して大弁護団を結成しました。最終的にその数はなんと2100名を上回ります。国際人権団体であるアムネスティ・インターナショナルなど、多くの人権団体からも、検察の暴走に対する非難の声明が出され、数千人が参加する抗議デモも繰り返されました。その中にはきっと死刑存置派の人もいただろうと思います。
一審「無罪判決」までの経緯
今後、厳罰化の政策をとりたい検察にとって、安田さんがまさに天敵であると書きましたが、強制執行妨害罪の場合、もし有罪となれば懲役刑となり、その時点で安田さんは自動的に弁護士の資格を失って法廷に立てなくなります。まさに検察の狙いはそこにあったのであり、安田さんの弁護士資格が奪われてしまうという緊急事態だからこそ、これだけ多くの抗議と支援があったのです。
報告集会では裁判の経緯についての説明がありました。そこにおいて特に重要なターニングポイントとして、任意整理の不動産会社において、社員たちが、社長にも内密に不正に経理を操作し、自分たちの「退職金」として2億円を裏金として積み立てていたことが発覚したことをあげておられました。報告の方は、この時に傍聴席で震えがきたといっておられました。この2億円のお金は、安田さんが強制執行を妨害して隠したとされていたお金、そのものだったのです!
これですべて金額の計算が合うじゃないか!まさにこの金額の不足(不正)を、検察が安田事件に付け替えてデッチ上げたのだ!と。これ以降、それまで証拠隠滅を警戒して頑なに保釈を拒んでいたはずの東京地裁が、一転して保釈の申請を認めたそうです。しかし、検察が異議申立して抵抗し、高裁で保釈が却下されること4回、結局は10ヶ月もの長きにわたって安田さんは不当に勾留されることになります。
この社員の不正経理については検察で立件されず、それどころかまともに捜査した形跡すらない。これはおかしい。おまけに、この件でいったん拘束して事情聴取した社員たちを、検察官が車で自宅まで送り、そのまんま喫茶店に誘うと、「まだ退職金の件はどうなるかわからないよ」と、自分たちが安田さんを陥れるために作った筋書きに従うように、暗に恫喝までしていた事実が、社員たちの証言によって次々と明らかになっていきます。
検察が提出した社員たちの事情聴取は、ワープロ調書と呼ばれていて、その供述内容が細かいところまで、実に95%くらいまでの文言がまったく同じものでした。ところどころ、ほんの2,3行だけが変えてあるというもので、そのことだけでも、あらかじめ検察が作成した文章であることは明白でした。
そうして迎えた判決の日、法廷で裁判長はまず、主文を読み上げます。「被告人は無罪」と。裁判長はそこで一旦判決文の朗読を中断すると、おもむろに安田さんに向かってこう言いました。「被告人は前に出てください」。そして安田さんが裁判長の前に進み出ると、安田さんを見下ろしながら、今読んだはずの主文をもう一度、安田さんに語りかけるように力強くこう繰り返しました。「被告人は無罪」。
それは裁判長の、不正義に対する静かな怒り、犠牲者である安田さんへの精一杯のいたわりであったのでしょう。この時の光景を説明する時、報告者の方は、涙ぐんで言葉が続かず、「被告人は無罪」という言葉が震えていました。私も見ていて、思わずもらい泣きしそうになって困りました。
奇妙な二審の「調停判決」
もはや誰の目にも、安田さんの無罪は動かない情勢のように見えました。負ける要因がない。それでも、もし負ける(逆転有罪)があるとすればどういう要因かとマスコミに聞かれた弁護団の一人は、「東京高裁という要因ですね」と冗談半分で答えたそうですが、それが現実のものとなります。
その高裁判決は一般に「逆転有罪」とされていますが、実際は大変に奇妙奇天烈な判決で、検察側も勝ったとは言い難いものでした。まず、形の上で検察の主張を認めて顔をたて、一応は有罪にします。ところがその量刑なのですが、なんと本来の刑罰である懲役刑ではなく、罰金(50万円)なのです。それも未決で勾留されていた期間を一日あたり一万円の高給で換算してこれに参入。すると全額を帳消しにしてもまだお釣りがきます。安田さんは一銭も払う必要がありませんし、罰金では弁護士資格も剥奪されません。今まで通りに弁護士も続けられます。
わかりますか?要するに一応は有罪だけど、いっさいお咎めなし!なのです。安田さんは何もしなくていい、収監はもちろん、執行猶予も何もつかない、どうぞこのまま帰ってくださいという、結論だけは無罪に匹敵する判決なのです。
たまに高裁はこういう判決を出すそうで、「調停判決」などと呼ばれているそうです。判決文だけを読むと、検察の主張(起訴状)をそのまま書いていますから、安田さんはものすごく悪いやつのように見えます。なのに量刑は実質的にお咎めなしなので、すごく不自然です。
要するにこれで検察の顔もたて、弁護士業界とも全面対決せず、お互いこんなところでどうですか?安田さんも名を捨てて実をお取りになってはいかがですか?ということです。
本当に良心にとがめるところがある悪人なら、「ありがたいご配慮で」と頭を下げるところですが、安田さんはこの判決に烈火のごとく怒ります。「冗談じゃない!こんなものは判決ではない!ただの調停案だ!」と。「私は法律にはもちろん、弁護士としての職責や倫理に違反したことなど一度もない」と、最高裁に即刻上告しました。安田さんの生き様を見るとき、この言葉は真実だと思います。
さらに奇妙な最高裁判決
安田さんの弁護士資格を奪えなかった検察も、無罪主張の安田さんと並行して最高裁に上告。あくまでも弁護士資格を奪うことを目指します。そして迎えた最高裁の決定は、検察と被告の双方の上告を棄却するものでした。
ところがこの決定を出すにあたって裁判官の意見がわかれ、一人が安田さん無罪の少数意見を出します。手元に決定文がありますが、冒頭に「双方の上告を棄却する」とあるだけで、判決の大部分は「安田さんは無罪」であるとして、その理由が延々と書かれています。私は報告会でこの判決文をもらいましたが、冒頭の棄却決定を見て、2枚目をぱらりとめくって飛ばし読みをはじめたところ、どうもなんか変で、あれあれ、落丁かなんかで一審判決と混在してるのかと思ったくらいです。
これだけ微にいり細にいり、決定文の大部分(というかほとんどすべて)をしめて、安田さんが無罪である理由が書いてあるのに、それに対する反論というか、棄却することの理由(安田さん有罪の理由)が何も書いてない。こんな判決があるものか!ということで、一応は最高裁に異議も申し立てる予定であるそうです。
本当にもう、検察の「弁護士資格剥奪」という目論見は粉砕したし、最終的に出た判決の大部分は安田無罪と書いてあるわけで、なんともはや、これでは勝ったのやら負けたのやら、なにがなんだかわからないような結論です。この結論を出すまでに、安田さんは実に13年間にもわたって、刑事被告人という不名誉な席に座らされ続け、いつ弁護士資格を剥奪されるかわからない日々をすごしてきたわけです。本当に理不尽なことです。
ですが、こうして弁護士を続けられることが確定したわけです。これも一審無罪という弁護活動の結果があってこそ、高裁も最高裁も無茶はできなかったわけですから、中途半端ですが勝利の一つです。実際、報告会はその後の懇親会も含めて、納得できない悔しさの中にも、笑いの耐えないなごやかなものでした。今はこの裁判のために安田さんを支えて13年間耐え抜いた人たち、そして何よりも安田さんに「ごくろうさまでした」と言いたいです。
わきあいあいとした懇親会
集会はそのほかに、まもなく劇場公開される安田さんの生き様を描いたドキュメンタリー「死刑弁護人」のダイジェスト版などの上映があり、後半は机を片付けての懇親会(慰労会)が、立食パーティとして行われました。
これは「いままでご支援ありがとう」の慰労会なわけで、私なんかがこれに参加するのは本当に気がひけました。最後だけ来てしまって申し訳ありません。しかもたった500円の会費でこんなに食べてええんやろか!でも、なんか会場の時間切れで、食べきれずに大量に余っていたご馳走を、パックに詰めて持ち帰れるようにしていただいたんで、貧乏人の私は遠慮なく3パックも持って帰りました。ゆっくり食べて3日もちました(笑)。
途中、アトラクションとして、「安田好弘弁護士へ辛淑玉さんから質問責め」というコーナーがありました。辛淑玉さんをお見かけしたのはこれが初めてでしたが、なんかずいぶんと印象と違ったな(笑)。辛さん結婚式の司会業とかでも充分に食べていけますよ。
途中で「和歌山カレー事件の真犯人」の話とかになって、どこまで言うのだろうとか思った。ネットでは真犯人についていろいろ出てるみたいだけど、それとは違うよ。まあ、ここはそのままアップすることはできませんでしたが、動画にしてあげてあるので、よかったら見てくださいね。
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私は死刑存続派ですが、これは反対派の方も存続派にもそれぞれ言い分があることと思いますし、反対派の方のお気持ちや論理も理解はしているつもりです。そのどちらの立場をとるかは、かなり個々人の性格や人間観の部分が多いのではないかと思います。そして、弁護士の仕事というのは最悪の殺人者でも彼の権利を守り抜くことですから、それを感情でどうこう言っても仕方がない。自らの仕事をそれぞれの立場で果たす、という当然のことをお互いにするだけですから。
光市の事件に関しては、その意味で安田氏を含む弁護団が殺人犯をあらゆる手段で弁護し彼の命を救おうとしたのは当然のことでしょうね。ただ、その弁護のテクニックは、私が弁護士ならばとらなかっただろうと思いました。ま、素人がこんなこと言っても仕方がないのかもしれませんが。とにかく、いろいろなことを考えさせられた事件だったことは確かですね。
三浦小太郎様
誤解されているようです。高裁差し戻し審で、どのような審議がなされたかを調べられてはいかがでしょうか。
弁護団は、真実を捻じ曲げたり、捏造したりして被告の死刑を回避しようとしたのではありませんよ。
少しお調べになればわかると思いますが、一審二審では、無期懲役で良しとした弁護士が、検察の造ったストーリーを従順に受け入れるという作戦を採ったために、結果的に、差戻審で、一見荒唐無稽とも感じられる、「真実」を、初めて明らかにしなければならなくなったのです。被告の「荒唐無稽?」な話は、逮捕直後の家裁ですでに語られています。
家裁の調書や精神鑑定書、また、死体鑑定書通りであれば、死刑どころか傷害致死であってもおかしくないと思います。この事件が、ここまで大きな残虐事件に仕立てられた背景に、少年法改正問題、裁判員制度を意識した厳罰化、被害者参加制度等の法務省のもくろみがあったことを認識していただきたいと思います。
ブログ主様 勝手にコメントに応答してしまいました。すみません。
いやいや、私は弁護団は一切事実を捻じ曲げたとは思っていません。例の「荒唐無稽」とされたお話し、あれは確かに本人がしたのですからそのこと自体は事実です。真実が捻じ曲げられたわけではありません。ただ、結果として、本来世論が介入すべきでない裁判の内容に異様なほどマスコミも燃えてしまったし、同時に様々な政治的思惑が絡みまくってしまった。あの発言を全面に出さない手段はなかったのかなあと思ったのですよ。ま、不勉強と言われればそのそしりは受けます。しかし、私のように感じている人もいるとは思いますよ。
ついでにいますとね、私は少年法改正にも被害者参加制度にも、ついでに言うと裁判員制度にもすべて反対です。ただ、この問題で専門家ではないので、裁判員制度断固反対以外はコメントしたことはないですけどね。死刑制度は今のところ存続派ですけれど・・
私も三浦さんみたいに感じないことはないんですが、それも刑事弁護の素人としての印象ですから、実際には何とも言えません。
ただ、被告は面会によるマスコミの取材に対して、「事実関係を認めてもらえるなら、判決は死刑でもかまわない。それを受け入れる」と言ってますよね。もし私が弁護士だったら、依頼人からそこまで言われたらなあと思ってしまうんです。
弁護士事務所の職員をやっていたこともありますが、裁判においては判決もさることながら、裁判の当事者が納得するということが一番大切ではないかという印象を持ちました。そこにおいては「自分の言いたいことを全部言い切った。裁判所は少なくともそれに耳を傾けてちゃんと考慮してくれた」ということが、時には勝ち負けよりも大切なこともあるんではないかと。
まだ互角に争っているような状況なら「作戦」もあるでしょうが、もとより今回は最終段階で、すでに結果は予測できていたように思います。その段階で依頼者がどうしても主張したい、その上で死刑でもいいとまで言う従来からの主張があるなら(それが絶対に嘘だという客観的な証拠に基づく確信があるなら別ですが)、私だったらもうここで言わせて、真正面からそれで争ってあげると思うなあ。たとえその結果弁護士としての自分の顔に泥を塗られようと、マスコミやら世論がなんと騒ごうと、自分がどんなにバッシングを受けようとも。
まあ、それもこれも素人の考えにすぎませんけどね。ただ、安田さんは「新宿西口バス放火事件」の被告が、判決後に自殺したことを、弁護士としてとても悔やんでおられましたから。「自分は一生懸命に弁護してなかった」と。本当は引き受けるだけでも大変な苦労と苦痛ですから、真面目に弁護しただけでも職業人として偉いことです。弁護士としてそこまで自分を責めることもないとは思うんですが、安田さんはそれを十字架というか、自分への戒めとして常に念頭においておられるように思います。
一応付け加えておきます。ちょっと別の方から個人的な質問を受けたので・・
まず、少年法改正になぜ反対かというと、この現代社会は当分、私自身を含め「人間が大人=社会共同体の一員としての意識」を持ちにくい世の中になってしまったと私は思うので、少年法をもし改正するなら引き上げるべきだという意見もありうると思います。法というのは全能ではないしね、今の状態をとりあえず維持するしかないと思う。たとえば前近代社会とか、日本でも1950年代くらいなら、「子供」という概念自体あまりなくて、もう10歳はじめから労働力だし社会の一員ですよね。でも、それはそういう共同体が堅固で、いい意味でも悪い意味でも閉鎖的で安定しているからです。今の時代、私なんて50過ぎてぜんぜん大人ではないからねえ。
後裁判員制度とかは「素人は口出し茶いけない」ので反対。今の日本の裁判官がいいかどうかは別ですよ。でも、だからといって、法律や判決のプロの世界に素人が出て行って決定権を持つべきじゃない。
そして、私はたとえば、親や親友が殺害されたら、事情がどうであれその犯人の死刑を求めます。これははっきりしてる。ただそれは感情として当然でも、その感情がどんなに切実でも、その感情と現実の判決は、常に法律と弁護士、検察、裁判官というクッションを通してしか実現してはいけない。そうでなければ、後は「あだ討ちの論理」を認めるしかない。ですから、被害者参加はやはり認められるべきではないでしょうね。
三浦小太郎様
ご返答いただいたのに、お詫びが遅くなってしまいました。私の誤読のようでした。すみません。
死刑存廃問題、少年法、裁判員制度、被害者参加制度などなどなど、抜本的な司法制度改革が必須ですね。
ちょっと話がずれますけど、私が尊敬していたのは遠藤誠弁護士。
あと千代丸健二さんかな。
1995年のオウム事件の時、私はほんとに、それまで一定評価していた人たちに失望させられました。私はご存知のように右派だから、国家秩序のためには、非常時には一定の統制は必要なことがあると思ってます。でも、それとは違い、どんなときにも、犯罪者でも人権を守るべきだ、様々な多様な価値観を認めるべきだ、と主張していた人たちの偽善を観た思いがした。
最終的には正しかったにせよ、警察情報に全面依拠したり、こっそりリークしたとしか思えない警察関係の情報に基づいて発言したり、オウム信者、それも犯罪に直接かかわっていない信者の微罪逮捕に全く抗議しなかったり、たとえ妄想であれ何であれ、その人が人生をかけて信じている信仰を侮辱したり(批判はいいんですよ、でも侮辱はいかんよ)、反オウムの人たちの発言のほうがよっぽど洗脳されてるんじゃないかと思いました。
私はあの時、治安のために必要なら、政府は非常事態を宣言して、それに基づきオウム信者を逮捕、管理するしかないと思っていた。彼らの信仰は信仰として尊重し、その上で、日本政府が治安維持の責任者として行動する。麻原逮捕後は、その時点で日本政府にやりすぎや過ちがなかったかを中立的に点検し反省すべきところは反省する。国家とはそういう意味で責任をとらないといけない。それをああいう形で、カッターナイフもっていたから、公園に土足で芝生に入ったから逮捕拘留という前例をはびこらせたのは絶対まずかった。「冤罪」とかいう著書のあるジャーナリスト(誰とは言わんが江川昭子)があそこまで警察に協力的とはこれいかに。
日本には、
人権も存在しない(数え切れない官民の人権機構・団体があるにもかかわらず)、
民主国家でも、法治国家でもない
犯罪国家になってます。
http://blogs.yahoo.co.jp/ansund59 で
本当の日本が見えます。
本当の事を知らなければ、
何をやっても変わらない、
正せないです。
よくもあんな基地外弁護士を支援したな!!反日プロ市民の基地外め、この俺が成敗してやる!!俺たち数少ないまともな日本人こそが、本当の意味で純粋な正義だ、お前たち基地外反日偽善者集団に明日はない!
安田好弘も、このブログの管理人も、三浦小太郎とか言う奴もみんな基地外だ。我々数少ないまともな日本人みんなにとって迷惑だから、今すぐインターネットを解約して、パソコンを捨てて死ぬまで一生家に引きこもっていろ
これは命令だ、これ以上何らかの形で周りに迷惑をかけることは断じて許さんぞ
なしさん>
はじめまして(*^∇゜)v 「このブログの管理人」草加耕助です。
とりあえず、二つにわけて連続投稿する意味がないので、一つにまとめときました。
これからも頑張りまーす。
どんな貧乏くじを引かされても損得抜きで全力を尽くす安田さんは、まともな死刑存置派(というかまともな人間)にとって、尊敬せざるを得ない人物なわけです
ブログ旗旗 » 安田好弘さんを支援する会(最高裁判決報告集会)に参加してきました […]
[過去記事ランダム] 安田好弘さんを支援する会(最高裁判決報告集会)に参加してきました http://t.co/5sUeTRHrQx
「弁護士の仕事は犯罪者の利益を生むことで、そのためなら何をしてもよい」なんて理屈が通るなら「依頼人の希望を叶える」仕事である殺し屋だって非難されるいわれはなくなるよなwww
結局は、犯罪者の利益=もとい成功報酬や弁護士の名誉(笑)のために被害者や遺族を愚弄し侮辱して、証拠の隠滅や捏造を繰り返して、そこまでして得るものは「犯罪者が自由に犯罪を繰り返せる世界」な訳だ
犯罪者の為に、真っ当な国民が馬鹿を見るような社会の実現を目指している刑事弁護士なんて連中は死んだ方が世の中の為になること間違いなし!
そもそも国民が、自分の利益や満足感の為に被害者を侮辱していい気分に浸ろうとする人間のクズの論理「弁護士は何をしてもいい」に賛同しなきゃいけない理由など欠片もない
寡聞にして「弁護士は何をしてもいい」とか「被害者を愚弄することも許される」などという主張を聞いたことがありません。「何をしても」というのが社会正義を実現するためにやむなくだとして、その行為が結果との関係で許容範囲だとかなら議論の余地はあるかもしれません。私もそこまで綺麗事を言うつもりはないのですが、文字通り「どんな悪行でも俺らは許される」という意味でならそれは暴論でしょう。是非そういうことを主張している人がいるなら教えてほしいと思います。私もそういう主張(いわゆる悪徳弁護士)は許されざるものだと考えます。それを正当化するなど考えられない愚論です。是非教えてください。
そもそも弁護士は社会正義の実現をその資格の条件として義務付けられています。「正義」が特定の主張であってはならず多様性や多面性が必要だと私は思いますし、それが刑事裁判制度でいうならば、まず検察官が被告の罪状(不利になること)を陳述し、弁護士がそれへの疑問点や被告に有利な状況を陳述します。そして最後に第三者である裁判官がその両方の意見を聞いて、かつ個人的な感情を排し、憲法と法律の範囲内において客観的な判断を下すという構造になっています。これは神ならぬ身の人間が、できるだけ間違いを避けるために、長年にわたって積み重ねてきた経験による知恵なのです。
さらに被告人には無罪の推定がなされ、検察官が完全に疑問の余地なく罪状を明らかにしない限り刑が課されませんが、これはあなたを含む一般市民を守るためにある原則です。これによってあなたや私たちは安心して毎日を暮らすことができるという構造になっているのです。
こういう中において、弁護士、裁判官、検察官が果たすべき職責や役割というものがあります。それを踏み外したり、外からの脅迫や圧力を弁護士にかけるなどしていては、裁判や裁判官が客観的に正しい判断をくだすことができなくなってしまいます。とりわけ弁護士は国家権力から独立した民間人であることが求められ、自由裁量が広く認められなくてはなりません。
かつて最高裁判事をつとめた刑法学の重鎮、団藤重光先生は、無罪を争った法廷で死刑判決を読み上げた瞬間、自分に向けた「人殺し……」という声を聞いて辛い思いをしたそうです。またある検察官は司法修習生に対して「自分は死刑の求刑はできるが死刑判決は下せない。だから検察官になった。裁判官はとても重い仕事だ」と語ったそうです。死刑制度は人殺しであることに変わりはありまぜん。それまで否定するのは欺瞞です。法曹は自分の判断で人を殺すのですが、それを「殺し屋と同じ」などと言えるでしょうか?
あなたの主張は江戸時代の磔獄門だの、西部劇の縛り首の世界、死刑が娯楽あつかいだった時代の倒錯した主張です。居酒屋で酔って語るくらいならいいですが、何かしら「正義の味方」みたいな面をしてシラフで検察官や裁判官を含む司法制度そのものを愚弄するのはできればやめていただきたいものです。
少なくとも、新聞で死刑の報道を見て溜飲を下げる程度の方々が、何かしら「遺族」や「被害者」を盾というかダシに使って、自分の二束三文の安い正義感を自己満足的に振りかざずことにはむしろ怒りを禁じえません。遺族の人生は死刑のあとも続くのですが、こういった安い自己満足な人々は死刑で満足してその後のことを考えていないのです。かつて遺族が「被告の死刑を望まない。罪を自覚反省して更生の道を望む」とマスコミに発言したら、こういう安い正義感の人々から激しいバッシングを受けた事件もありました。まったく「遺族のため」が聞いて呆れるというものです!「おうおう!俺っちの安い正義感をどう満足させてくれんだよぅ」と正直に言えばよろしい。
どうすれば長期的に遺族の心の平穏が得られるのか、そこで司法が果たせる役割は何か、また個々の刑事事件だけでなく、司法制度が社会に果たすべき役割はどうあるべきか、そういった文脈で真剣に死刑制度を考え論じた上で安田弁護士とは違う考えになるのならいいのです。
ただこれはあなたを批判するのでなく、素直で正直に感じた心配なのですが、あなたからはそういう真摯な悩みも態度も感じられず、遺族の悲しみさえダシに使って意見の違う他者を愚弄するという、他者への共感能力の程度が気になりました。あなたの言う「良心なんていらない、何をしてもいい」とうそぶく人がいるのなら、それとあなたはまさに同じコインの裏表の関係になると感じます。
とりあえずお元気で、あなたとあなたの周りの方々が幸福な人生を送れるよう祈念いたします。