バーチャル歌声喫茶『のび』にリクエスト
あの超有名サイトであるバーチャル歌声喫茶『のび』さまに、畏れ多くも掲示板でリクエストをしてみたところ、なんとこれに応えてMIDI音源を作成していただきました。感動です!しかも1月29日にリクエストしたものが、なんと2月2日にはもう完成版としてアップされているという素早さでした。
ちなみに同サイトでは今日現在1,207曲ものMIDI音源が楽しめますが、そのすべての著作権をクリアしておられます。要するにリクエストに応えるにもそれは「タダ」ではなく、苦労して音源を作成した上に、ポケットマネーで著作権までクリアしてみんなのリクエストに応えておられるわけで、本当に頭が下がります。
「古いヨーロッパでは」
さて、私がリクエストしたのは『古いヨーロッパでは』という曲です。私がこの歌を聞きたいと思い続けてきた理由は、以前に読んだベトナム戦争当時の「フォーク・ゲリラとは何者か」という本の中で、新宿西口広場で反戦歌を歌ったというだけの容疑で令状逮捕されたキリスト者の女性が書いた手記にすごく感動したからです。
この手記の中に警察の留置所で同房になった恐喝容疑のお姉さんにこの歌を歌ってあげたらそのお姉さんがすごく感動し「出所できたら彼氏と二人で西口に聞きにいきたい」と話してくれたというエピソードがあります。
この本を読んだのは80年代のことで、本には歌詞と楽譜は掲載されていましたが、音楽の素養が全くない私に楽譜が読めるわけもなく、どんな曲なのか一度は聞いてみたいとずっと思い続けてきました。少し長いですが多くの皆さんに是非とも読んでいただきたいと思い、この本の該当の手記を、このエントリーの後半に引用しておきます。
この女性の手記は、きっと今の皆さんにも共感を呼ぶものだと思います。最近は「反・反体制」でさえあれば統一教会でもなんでもいいみたいな愚かな人がいて、市民運動を暴力的に襲撃する街宣右翼に対してさえ「左翼に抗議する一般市民」とか注釈いれてるアホがいますが、もし「運動現場に登場する一般市民」というものが想定しえるのであれば、この手記の女性こそがまさにそうだったと思います。
フォークゲリラへの弾圧
簡単に背景を説明しておきますと、この本が書かれた1969年当時はベトナム反戦運動の真っ最中で、新宿駅の西口広場ではいつの頃からかギターを抱えて反戦歌などのフォークソングを歌う若者が見られるようになりました。それが通りがかった人たちの共感を得て一緒に歌っているうちに、いつしか自然発生的に毎週大勢の人が集まるようになっていったのです。
彼らは俗に「フォークゲリラ」などと呼ばれ、発祥は京都のようですが、そのムーブメントは東京に飛び火することでそこから若者を中心に全国に広がっていきます。具体的に彼らのやっていることは集まって歌を歌っているだけであり、そのムーブメントの全国的な中心が新宿西口広場だったわけです。
ところが当時の佐藤自民党政権は、「西口広場」という看板を単に「西口通路」と書き換えることをもって、この平和的な「運動」ならぬムーブメントを禁止するという政策をとりました。当然に「民衆が歌を歌うこと」を禁止するための唐突な看板書き換えに納得するような人は一人もおらず、ゆえに人々が集まるのをやめないと見るや、今度はなんと大量の機動隊を投入し、ただ歌を歌ってその前後に広場の掃除をしているだけのフォークゲリラたちを、棍棒で殴りつけて蹴散らすということを本当にやったのです。それを目撃した通りすがりの一般大衆までが、怒って機動隊に投石をはじめ、騒乱状態になることもありました。
これはまさしく現在の私たちが見聞きする独裁政権下の国となんら変わらない光景です。さらに自分たちの弾圧こそが騒乱の原因であるにもかかわらず、まるでフォークゲリラのほうが暴力的であるかのように宣伝したところも古今東西の独裁政権と全く同じ手口です。あげくに西口広場に大量の植え込みを置いて人が大勢集まれない構造にしたのですが、いったい大衆の不満に対するこれが「政治」と呼べるものなのでしょうか?
どうも最近は人々の自国の大衆運動に対する無知につけいり、人の文章を意図的に曲解して印象操作を行う人も多いので念のために注意しますが、『のび』さんやそこで紹介されている「うたごえ運動」はこの「フォークゲリラ」の末裔ではありません。全く別物です。
フォークゲリラで登場した人々は小田実さんらが中心になっていたベ平連などの市民運動に参加していた人々と重なる部分が多く、また、当時の学生運動などに同情的な人が多かったと思われます。歌う歌も新作・創作が中心でした。それに対してうたごえ運動は、共産党系の人と重なる部分が多く、学生運動やベ平連などの市民運動などには、どちらかといえば批判的な人が多かったと思われます。歌う歌もロシア民謡などの古典の比重が高かった。
まあ、今となっては共産党系だの非共産党だの、お互いの違いばかりを強調して反目するのは愚かなことです。安易な野合はいけないかもしれませんが、お互いに協力しあえるところは協力し(特に権力からの不当な弾圧への抗議)、一緒に手をたずさえるべき時だと私は思っています。
ともあれフォークゲリラはムーブメントの中心である西口広場を警察の圧倒的な暴力で制圧され、その後はちょっとでも街頭で歌を歌うだけで片っ端から公安刑事が令状逮捕していくという徹底的な自民党の思想弾圧下で急速に鎮圧されてしまいました。そのため今はその系譜を引き継ぐ運動は基本的にないのです。もともとが自然発生的なもので「運動」と呼べるような系統的なものではありませんでした。私が読んだ本はちょうどこの頃に書かれたものです。
権力の暴力にどう対応すべきなんだろうか
同じ頃に手塚治虫さんが西口広場への弾圧をテーマに描いたマンガがありました。タイトルも忘れて(『がらくたの詩』と判明「アポロの歌(3) 手塚治虫全集37巻」に収録)内容もうろ覚えですが、今でも印象に残っています。
いったい権力の圧倒的な暴力の前に、私たち丸裸の民衆はいかに対応すればいいのでしょうか?フォークゲリラという平和的な非暴力の試みが、これを恐れた政府の暴力でその初期段階で潰されていった過程は、私たちにこのことを考えさせずにはおきません。これは常に古くて新しい問題です。
手塚治虫さんの作品も、抵抗する民衆の側に同情的ながらも問題提起だけで終わっていますが、それは当時の知識人たち全般にも共通していることでしょう。このフォークゲリラの敗北とは別の行き方をしたのは、全共闘という一言では言い尽くせない多様性に満ち満ちたムーブメントでした。しかしそれも大きく見れば「大学」という枠組みのあり方を(根本的に)改革するためには、結局は日本全体を改革して政府を打倒する以外にないという壁にぶつかり、これを超えることができずに敗北していきます。
常に「権力問題」を意識し続けた新左翼運動だけがその後も長く粘り続けます。そしてこれらのありとあらゆる「今とは違う世界を求めるムーブメント」の集大成として三里塚闘争の位置と可能性があったと思います。
ですが今や新左翼運動も、全体としては終焉の直前にあると考えていいかと思います。その遺産は否定的にせよ肯定的にせよ、どういう形でか引き継がれるべきとは思いますが、今後何かの可能性があるとすれば、それは単純な「新左翼運動の再生」というような直線的な形ではなく、何か別のものだろうと思っています。そこにおいて権力からの暴力をどう考えどう対応するべきか、それは私自身にもまだ見えていません。
曲を聴いてみての感想
さて、話を『古いヨーロッパでは』に戻します。実際に聞いてみますと、本を読んで想像していたのとは違って随分とアップテンポな曲でした。ただ、ギター一本やアカペラで歌われる分には、随分と歌い手の個性が出るのでしょうね。歌う人が男性か女性かでもかなり印象が違うかも。
また、掲載にあたって『のび』の管理人である、えーちゃんが、いろいろと曲の情報を掲載してくれています。なんでも中川五郎さんの『終わり はじまる』というアルバムに収録されていた曲なのだそうで、えーちゃんはMIDIを作るための参考にわざわざこのCDを購入しておられます。
なんでも原曲は「ベースがガンガンなるフォークロック系」なんだそうです。また、レコード会社から発売される時に、当時一般に歌われていた元の歌詞が変更されていることも知りました。ただしこれは変更の内容から察するに、政治的な配慮というより作者の意向なんではないかと思います。
とりあえずこちらがリクエストに応えて掲載していただいたページです。『のび』はフレームを多用した作りになっていますので、こういう個別ページへのリンクだとメニューが消えてしまいますが、ちょっと他にうまい紹介の方法が思いつかないもので御容赦。トップページからも是非閲覧してみてください。
戦う女キリスト者
(「フォークゲリラとは何者か」1970年1月出版 より)
菊屋橋から出た日
菊屋橋署の階段をおりたとき、「太陽がまぶしい」……ただ、その一言しか言葉に出なかった。太陽がこんなにも、なつかしく、大切なものだと感じたことは、いままでになかった。その太陽に照らされたせいか、汗びっしょり、すぐお風呂屋に飛びこみ、好きなユカタに着がえたとき、はじめて、自分の気持を取りもどし、おちついて考えることが出来ました。
その姿のまま、すぐ西口広場へ行きました。そこでは、私が逮捕される以前から、行なわれていた、出入国管理法案に反対する人達のハンストが、今もなお、多くの人々によって続行していました。皆んな顔見しりで「いつ出て来たの」、「元気そうでよかったワ」、「もっと長いとおもって心配しちゃった」など、多くのやさしい言葉が、私を包んでくれました。
あの大きな円をえがいた広い広いタイル、太い柱、広い天井、交番、ソフトクリーム屋、皆んな皆んなとてもなつかしく感じた。
すごく長い時間、ここにこなかったようた気がして、なつかしさで目の奥があつくなるのを感じながら、ソフトクリームをかじり、西口広場のすみからすみまで歩いた、何回も何回も。ゲタの音だげが、私の気持をわかってくれたのか、はしゃいではしゃいでしかたがなかった。
私はこの西口広場で多くの人々と一緒にフォーク・ソソグを歌ったということで、3日前(’69年7月14日)に逮捕されたのです。その長い4日間が過ぎて、私は今、見せかけだけの自由にあふれた西口広場に立っているのです。そして、この4日間にいろいろなことを学びました。友達との暖かい触れ合いを、以前にも増して強く感じることができたことでは逮捕されて〝よかった”と冗談めいた言葉までいえるほど落着いた私に戻りかけていました。
日曜学校からべ平連へ
昭和23年、生化学の研究をしている父の6人兄弟の末っ子として、私は東京の練馬で生れました。小学校は練馬区立開進第三小学校へ入学、開進第三中学校へ進みました。そこで2年生を迎えた時、家が日野に移ったので日野第二中学校で残りの中学生時代を終えました。そしてどちらかというと古風な考え方を持つ母の勧めもあって、実践女子学院高校に学ぶことになりました。
この高校では、男子部もあったのですが、一切交際禁止でした。他の高校が大学受験のためにますます予備校化している中でお作法とか、行儀とかいったことを何よりも重視するという封建的な校風がありました。しかしお作法とか行儀というものがただ単にお嫁に行くためのものだけではなく、もっと広いものとして考えたいと思い、そのような校風の中である時には反発し、反抗的にさえなったものでした。私が女性であると同時に一人の人間であり社会の一員であるということから、私が成すべきこと、学ぶべきことがあるような気がしていました。私に、このことについて考える場を与えてくれたのは、教会の日曜学校でした。なにげなく訪れた教会で、明るく飛び回っている子供達を見て、規則と因習に縛られた心に何か感ずるものがありました。教会という所は私にはまったく新しい世界で、そこでは学校とは違って、私が人間社会の大きな輪につながっているのだということを絶えず感じました。学校ではお作法を一生懸命学ぶ一方、私は教会と自分との距離を次第に狭めてゆきました。良い意味で封建的な面とキリスト教の教えとを私なりにうまく調和した形で理解しているつもりでした。
私は、高校生活の3年間が終ろうとするころ、毎週通っていた教会の付属幼稚園から、アシスタントとしての話を受げました。この仕事について、いつも私と一緒に教会に通っていた兄はとても賛成してくれましたが、母はあまり良い返事をしてくれませんでした。というのは、この仕事をすることで私の接する社会が狭められるのではたいかと心配してのことでした。でも私の心が通じたのか、1年の期限付きということで許してくれました。この就職が決って、子供達の前に立つということを考えた時、ただ単に子供が好き、子供と一緒に過したいという単純な気持で過して来た私の中に、キリスト教信仰ということが重くのしかかって来ました。そのような気持の中で、何かはっきりとしたげじめをつげておぎたかったので、洗礼を受げました。昭和42年、封建的な女子高校生活から解放されて、教会付属幼稚園の手伝いをし、毎週日曜日には多くの子供達と一緒に過ごす日々が続きまLた。しかし一年間という日々があっという間に過ぎ去ろうとした時、母との約束通り次の身の振り方を考えねぱなりませんでした。結局、幼稚園を去らなければなりませんでしたけれども、教会の日曜学校というものからは離れることはできませんでした。
私の行っていた教会は、大きな団地の真中にあり、通って来る子供の大部分は団地に住む子供達でした。私はその子供達と遊んだり話したりする中で、子供達の求めているものは一体何なのだろう?そして、団地生活という一つの現代的な生活環境を考えた時、そのようなすベてのことをつきつめ、理解した上でなけれぼ、福音など口にできないと考えるようになりました。このように考え始めた私は、古くからいる教会の人達と意見が食い違い、また新たに、キリスト教信仰というものに対しての考え方が、心の中でわき始めて来るのを感じ得ずにはおられませんでした。
ある年の暮に私達の教会の属している日本キリスト教団の方針で、南北ヴェトナムの子供達に医薬品を送る運動を始めました。私はその運動をしてゆく中でヴェトナム戦争のこと、そして、その戦争の中でのアメリカの誤りを指摘した上でなくては、本当の救援活動などあり得ないと考えました。しかしそのような私の考え方は、古くから教会にいる人達にはやはり、すんなりとは入ってはゆけないものでした。表面的に活動をして満足してたり、困った人達を助けたのだというような、自已満足的な気持をその運動に積極的に参加して来た中学、高校生達が抱かないではしいと、その運動を終えた時、私は祈らずにはおれませんでした。そんな事を考えていたある日、友達の一人から“べ平連ニュース”を見せてもらった私は、10月の第一土曜日のべ平連定例デモに加わることにしました。
正しいと思って行動することは大変気持の良いものでした。それ以来、べ平連の運動に積極的に加わり始めた私は、それまでの私の視野があまりにも狭いことに気が付きました。そしてより新しく広い視野を求め、社会に出て仕事をしたいと思いました。そして、今、勤めている合同出版で受付と営業の仕事を2月から始めることになったのです。勤め始めたのと同じ、丁度2月頃から私は新宿西口広場でフォーク・ソングを他の仲間の人達と一緒に歌い始めたのです。新宿の西口広場で歌おうと言い出したきっかげは、昨年の12月28日に新宿で“花束を持ったデモ”が行われ、そのデモに大阪からギターを持って参加した、北摂べ平連の坂本君達がデモの後、多くの人々と一緒に西口広場に行きフォーク・ソングを力一杯歌っているのを見た時でした。
私は「大阪の人達は何と素晴しい運動をしているのだろう」と思いました。知らない間に私も一緒に加わって、マイクを持っていました。歌いながら、頭の中で西口広場は、こんなに広いし、ここを通る私と同じような若い女性、勤め帰りのサラリーマン、学生、ピラを配ってもなかなか読んでもらえない人々に、フォーク・ソソグで訴えてみよう。きっと、戦争について、社会の矛盾について一緒に考えていけるような気がしたのです。同じ考えを持った小黒さんや堀田さんと共に、私は新年早々に新宿西口広場に出てゆく準傭を始めたのでした。そして2月には、フォークゲリラが誕生したのでした。
会社で逮捕されて
7月に入って、すぐに伊津さんや堀田さんが逮捕されたので、皆んなが、次は小黒さんの番ではないのだろうかと心配しました。小黒さん(ゴリちゃん)を連れて、皆んなであちこち泊ったり、表通りを歩くのにもとても気を使ったものでした。私も逮捕される覚悟はしていましたが、彼より先だとは思ってもいませんでした。それで7月14日、いつものように会社に出勤していた私は、お昼に友達と会社の仕事で出かけました。
神田にある私の会社の近くには、日大、明大、中大があり、カルチェラタン闘争以来、機動隊が来たり、パトカーが止っていたりするのはもう珍しい事のうちには入らなくなっていました。それで、社の近くに、パトカーが止っているのを見ても「ビンなど出さないで下さい、学生が暴れるかもしれませんから」と注意しに来たのかと思って通り過ぎました。仕事を済ませて、社に帰り着く途中、今度は、私がいつも新宿で見かけた私服刑事がいるのを見つけました。その時、さきほどまでは、ほとんど忘れかげていた、朝、会社にかかってきたおかしな電話の意味がはっきりしました。私がいるかどうかの確認のための電話だったのです。一緒に出かけた友達とは郵便を出す前に別れ、一人で歩いていた私は、それでもその私服刑事の立っている側をやり過ごすと、会社に入って真直ぐに自分の席に着こうとしました。
すると、私の机の所に立っていた刑事が持っていたたくさんの逮捕状の中から一枚を抜き出して、私の同行を求めたのです。その日、べ平連の名簿や書類などを一つにまとめて会社に持って来ていた私は、その事を考えて、たまたま持っていたお財布だげを持って、そのまま淀橋警察署に向いました。私は荷物のことを会社の人に目で合図して出て来たのですが、その事が一番心配でした。淀橋署での長い取り調べの後、菊屋橋署の留置場に移された時、初めて寂しさがこみ上げて来るのを感じました。翌日、会社に残して来た荷物の中に入れておいたハンカチが友達の手によって差し入れられた時、荷物が警察の手に渡らずに済んだことにほっとすると同時に、その事を、このように私に知らせてくれた友達に心から感謝しました。
そして、私が逮捕された翌日、会社に、朝早くガサ入れが来て、私の机以外の、私に関係のない編集の所までも写真に撮ったりして行ったことを知った時には、私の逮捕を利用した形で左翼的な傾向を持つ出版社の内容を70年を前にして、権力側は知りたがっているのではないかと私なりに解釈しました。べ平連でも、私の会社でも、あらゆる活動を進めている所では電話が盗聴されたりしているのです。
取り調べは大変ていねいで、全体としては親切な印象を受けました。そして、その態度から警察の方でも西口のことを慎重に扱っているということを感じられました。私を会社で逮捕したということについては、本当は西口か、家で逮捕したかったのだが、しかたなく勤め先で逮捕したのだという、何となくいい分げのように聞える説明を聞かされました。地検に行って私がびっくりしたことには、警察が、つまらない事は良く調べていてもかん心な事はあまり解ってない様子でした。フォーク集会の後、何時にゴミを拾っていたとかいう事は調べてあっても私が引越した事などは少しも知らない様子でした。検事は、ゴミを拾ったり、フォーク・ソングを歌うことは、確かに良い事だと認めますが、新宿西口は公共の道路で……と書類を見せて説明するというような具合でした。
私の入っていた菊屋橋署は、女性だけが収容される所で売春、恐喝、家出などの容疑の人達が入っていました。私は恐喝をした人と同じ房に入れられました。房に入った時、このお姉さんからいろいろな事を教わりました。いつも頭から離れなかったことは、「ここは売春の人が多いので病気を移されることもあるのよ。洗面の時には気を付けなさいね」といわれたことでした。
食事には、麦ご飯とたくあんとお汁といったものが出て来たのですが、戦争中は、などと前に聞いたりした話を思い出したりしてもどうしても、食べることができませんでした。房の前の通りに、朝と晩に来て「差し入れを認めろ!」と怒鳴る共産党員の人達に、友達の差し入れでやっとどうやら息をついた私は、思わず「異議なし!」と叫んでしまいました。その人達は仕事があって決められた差し入れの時間には来られないのです。
しかし、大臣や代議士達は何時でも差入れができるのに、自分達は認められないなんて、そんなバカな事があるかという訳なのです。房の中には「約束事」というはり紙がはってありました。ここには、「話をしてはいけない」「口笛を吹いてはいけない」などと書いてはあるのですが、「歌を歌ってはいけない」とは書いてはありませんでした。そこで、私はいろいろとフォーク一ソソグを歌いました。最初うるさいから止めなさいと言った看守も、私の、はり紙を楯にとった抗議を認めないわけにはいきませんでした。同じ房に入っている、恐喝をやったというお姉さんは、「古いヨーロッバ」にすごく感動して、「ここを出たら彼氏と西口に行いきたいわ」などといっていました。それは、何もない留置場の中で、私とその人が気分を紛らわすことのできた、ひとときであったかもしれませんでした。
次の日、弁護士にあって、もしかしたら、10日問の拘留が付くかもしれないといわれた直ぐ後で、地検の検事に、“釈放”といわれた時の私は、飛び上って喜こんでしまいました。「僕の前で飛び上ったりして喜こんだのはあなただけだ」と驚いたような顔をして、笑い出した検事のその言葉もうわの空で最速手錠を取ってもらいにかかりました。私がこの貴重な体験をゆっくり考えることができるようになったのは、ずっと後になって私が落ち着いてからでした。翌日、私が西口広場でのフォーク集会で歌った、「古いヨーロツパ」は、私にまた新しい感動を呼び起こす歌になっていました。
私の好きな「古いヨーロッパ」
私は、前々からそうだったのですが、一番好きなフォーク・ソソグは?と訊かれたら、やっぱり「古いヨーロッパ」と答えます。1匹の兎を捕まえるために10匹の猟犬が走って行く、何も考えず、ただつかまえることの喜びだけで、馬に乗って行く貴族があった、というこの歌の文句は、悲しい事ですが古いヨーロッパでも今でも変らない現実、そこにある人間のむごさ、醜くさを、卒直に物語っています。私達はこの歌にもう一つ5番を加えました。1人の学生をつかまえるために何千の機動隊と何万のガス弾が投入される、西口では1人の平和な歌を歌う人間のためにそれをつかまえようと何十人もの私服が待っている、今の日本ではそうだ。というのです。
私はこの歌を歌う時、歌は短かいけれどもその中からあふれ出る人間の心からの訴えはとても強いものだと感じます。「いつも西口であなたの歌う『古いヨーロッパ』を聞いて、その新鮮な訴えにいつも何かを感じているのです」という手紙をいただいて、とっても嬉しくなりました。
フォーク・ソングを始めたころ、フォーク・ゲリラの中で、同じ歌に飽きたといった人がいた時、私達のフォーク・ソングは、歌謡曲とは違うのだということ、一回ごとに新鮮な心をこめて訴えるのでなけれぽならない事を、皆んなで確認し合いました。この人の私の歌うフォーク・ソングヘのこの上ない讃辞を忘れることのないようにして歌っていきたいと思います。
私は今、現在の私がやっているべ平連運動をこのまま生活の中で生かし続けていきたいという希望を持っています。具体的には、会社の近くにある小さな公園で、お昼休みにギターをひき、フォーク・ソソグを歌い、そこにぶらっと出て来るオフィスの女の人達に語りかけてみよう、と考えているのです。そんな楽しい計画も私の中にあります。私の家では、今、父が病弱のために母は私に、会社をやめて、昼の学校に通って父の手伝いをするようにといいます。私が母の希望通りにすることは、今まで何もしてあげなかった私の父への最初で最後の贈り物になるかも知れないということを考える時、私の心は揺れ動くのです。
そして、形こそ変りはするげれど、何かしら私のやってゆけることがあるのではないかと思います。そのような私の考えを、弱いという友の声も聞きます。しかし、私がべ平連運動を続けてゆくうえで、闘う先頭にいるのではなく、ビラも読んでくれず、戦争のことも考えずにいる人達に、常に何かを呼びかけられる位置にいたいと思います。
これからも、私は生活環境によっていろいろな規制を受けるでしょう。だれかの良い奥さんになるために、お料理を一生懸命作るようになるでしょう。私は、その中で、精一杯運動をしていくことを考えましょう。そして、私は、どんなに年をとっても、西口広場から得たすべてのことを決して忘れることはないでしょう。
私の心の中に、フォーク・ソングがある限り、私はヘコたれることはないでしょう。
この手塚治虫の漫画は、「がらくたの歌」という作品だったと思います。そして、この詩は確かドラッグで死んだ女性の書き残した詩と言う設定だったはず。そのテーマも「愛の大切さを歌い上げた詞」というのも勿論間違いじゃないけど、どっちかといえば、世界からはみ出し、ドロップアウトしてしまう人々への思いを歌った唄でした。
まあ、漫画についてはある程度記憶は確かなので間違いはないと思います。
手塚としては時代風景のスケッチとしてまあ隠れた佳作という感じかな。
ところが、今検索してみたらなんとこの詩に本当にメロデイを付けて歌っている歌手がいるんだな。どういう歌手なのか全く知らないのでここで紹介はしませんが、興味のある方は「がらくたの歌 手塚治虫」で検索すると出てきますので参考までに。
欧米に比べ、日本では事実上デモができないほど警察の取締りが厳しい、というのは日本人自身が意識していない日本の一面ですね。
でも何も知らない僕には左翼活動も公安警察も、もはや冷戦時代以前の遺物としか思えません。
ダーティセクションも必要でしょうが、日本にとっての脅威は左翼に限らないはずですし、健全な政治活動を取り締まることは赤子を流すことになってきているはずです。
逆にどんな運動もすぐ党に取り込まれてしまい、別の物語の一部にされてしまうという構造もおかしいです。物語は多様なはずなのに。
どうすればこの状況を健全にできるでしょう。
警察には必要でないことはさせず、必要なことをちゃんとさせる。
市民の側は決して暴力には走らず、冷戦期の枠組みに縛られず気軽に主張する。
それにはどうすれば?
Chic Stoneさん>
左翼的な国家論とか権力論を離れて、ごく一般的な生活感覚で言うならば、警察に思想的中立性を求めるということにつきると思うのですが、そのためにはとりあえず「公安部」という巨大なセクションを警察からなくすことからはじめるのはどうですかね。
つまりですね、公安というのは、畢竟、犯罪行為ではなくて「思想を取り締まる警察」なんですよ。自衛隊なら「敵」がいなくても日常任務はありますが、公安警察は無理からでも「敵」を作り出さないと仕事がないわけです。しかもその敵と味方を、相手の「行為」ではなくて「思想」で決定してしまうという宿命を公安は負っているわけです。
戦前の公安(=特高)には「治安維持法」という思想弾圧の法律があり、主にこの法律にもとづいて国民を取り締まっていたわけですが、現在はこのような法律はもちろん存在せず、適用している法律に違いがあるわけでもないのに、取り締まり対象者の「思想」を基準にして刑事警察と公安警察をわけてしまっている。さらに公安警察が警察機構の中で出世コースの「花形」あつかいされたことがそもそもの間違いかと。公安担当者は刑事部や生活安全課よりも自分の部署のほうが高等だと勘違いしてしまった。むしろこういうのは敗戦と共に完全に消滅させるべき遺物だったのに。
つまり思想で人をわけない、差別しない。警察こそそれが最も厳格に適用されるべき機関です。Aという人間がある法律で逮捕されるなら、日本中の同じ行為をしている人も逮捕されるのでなければならない。Bという人間が同じ行為をして逮捕されないならば、やはりAも逮捕されてはならない。Aが左翼思想の持ち主だからという理由で特別に逮捕されたのであれば、それは容疑事実とは全く無関係に思想弾圧以外の何者でもない。そしてそれこそが「公安の仕事」である。そういうことです。
しかも現在の公安警察の規模は70年安保の頃とほとんど変わっていない。だから仕事がない。だから旧「過激派」でもなんでもない市民運動まで弾圧して“仕事を自分で作っている”。そのためには反体制的な市民運動を「危険だ!」と宣伝して、デモの際にもわざわざ自分で「騒乱」を作ってみたり、愚にもつかないような形式的容疑で一般人を逮捕して「大事件」のようにマスコミに発表するなんてことをやらないといけなくなってくる。一般市民にとって過激派よりも公安警察のほうがよっぽど「危険」な存在になってしまった。
だいたい今や正真正銘に旧「過激派」セクトに所属している正式メンバーよりも、公安刑事や機動隊の人数のほうが絶対に多いんですから(笑)。一人に一人が張り付いてもまだ余ってしまうという。こんな馬鹿なことはありませんよ。税金の無駄もはなはだしい。だったら暴力団の担当者を増やせと言いたい。私は飲食店の店長をしていましたが、暴力団がらみで脅されても警察は人手不足で絶対にまともに動いてくれないんです。ええ、あたしゃ今でも根に持ってますとも。ところが市民運動への弾圧になると急にフットワークも軽くなってほんのささいなことでもホイホイ逮捕してしまう。
暴力団の担当刑事というのは、一般警察の一部門なわけでしょ。だったらもう公安警察も、生活安全課くらいの規模に整理して刑事警察に統合してしまうのがマトモな判断というもんですよ。旧「過激派」と暴力団のどちらが今の日本社会に具体的な脅威を与えているかは一目瞭然ですよね。それがなんで、公安だけが刑事警察と並び立つような巨大な人員と予算を確保されないといけんのでしょうか。わたしにはさっぱりわかりません。
「冷戦期の枠組み」云々の指摘については、確かに現状は「左翼の衰退」という一面的なものではなく、20世紀の「社会主義VS資本主義」という対決構造が崩壊していることをどう考え、どう対処していくかということではあると思います。しかしそこに話をもっていきますと、やはり運動の内容で差別なり区別なりしてしまうことになりますので、この話題には不適切かと思います。
どんな運動であろうが思想であろうが関係ない。そもそも運動しているかどうかを捜査方法ではなく法の適用の場面で考慮しては絶対にいけない。そういうことだと思います。これは政府が国民に約束していることであり、この約束が守られないのであれば実力闘争も正当であるという結論になると思います。「暴力」とそれへの「対抗暴力」は同じ地平で語れません。
三浦小太郎さま>
いつもいつもお気遣いある投稿ありがとうございます。
それにしても三浦さんは漫画に詳しいですね!漫画評論でもやっていけるんではないかと思うくらい。
オタクが主流の世の中になってから、たまに三浦さんのような直球の正統派な漫画評論を読むと新鮮に感じますよ。
件の作品を読んだのがもう20年近く前のことになりますが、その作品に間違いないと思います。
具体的な情報をありがとうございます。
そうそう、その最後の詩に曲をつけて歌っている人がいるという話も、どっかで聞いたような記憶がよみがえってきました。
私はとんと漫画には詳しくなくて申し訳ないのですが、手塚さんにはこの頃に描かれた別のアトム物の中で、アトムが脇役で出てくるアンチユートピアな未来を描いた作品があったと思うのですが、確か全集の中では「こういうアンチユートピアものは好きではない」「当時の世相(学生による異議申し立て)の影響の中で描いた」みたいなことを言っておられたようなおぼえがあります。
「火の鳥」は好きで特に鳳凰編は何度もくり返し読みました。過去と未来を交互に描きながら最後は現在を描き、すべてがつながって完結するという構想を語っておられましたので、「完結(現代)編」を楽しみにしていたんですが……。
それと、直接関係はないですが、思想弾圧への抗議に右翼も左翼もないという三浦さんの姿勢にはいつも敬意をはらっています。私も自分のふだんの言動が嘘にならないよう、それが不当な思想弾圧であれば、弾圧された本人の思想にかかわらず抗議していかねばと思っています。ただ、今までのところ、右翼関係では具体的な「事件」をおこした場合は別として、主義主張を超えても抗議すべきという事例をまだ知りません。まあ、そういうのはもちろんないほうがいいわけですが、そろそろここ1、2年のうちに、「右関係」でもそういうのがぼつぼつ出てくるような気がしています。何かあるようでしたらお知らせください。
ここは音楽を論じる場ではないんで、やや場違いとは思いますが、私は正直フォークと言う音楽にあんまり共感するタイプではないんです。その私が、この本は実に面白かった。フォークシンガーの高田渡の書いた「バーボン・ストリート・ブルース (ちくま文庫)」まあ彼のことは映画にもなっているようですが、まずこちらをご一読する事をお薦めします
なんというかね、こういう人はしぶといんですよ。
時代がどうであれ変わらない人というのが。それは政治姿勢が変わらないとかそういうんじゃなくてね(1930年代にナチスで最近死ぬまでずっとナチスでした、という人がいてもまあ大したもんだとは思っても尊敬は出来ないよね)自分はこれを表現する、という意志が変わらない人なんですよ。結局、自分の中に表現したいものがある人は一生できるんだな。それがないのに、イデオロギーや運動やあるいは商売で、無理やり表現するものを作り出そうとすると、これは疲弊しちゃう。
フォークゲリラについては私は良く分からないけど、いわゆる「関西フォーク」とかいったかな、反戦運動やアメリカのフォークの影響を受けて出てきた人たちは、機動隊の弾圧にも悩んだかもしれないけど、それ以上に、運動と表現の矛盾、また自分自身が何を表現したいのかで悩み、結局一部を除いては、正直私は音楽的にはコピーに留まったんじゃないかと思う。まあ、それはお前がフォーク嫌いだからそう見えるんだよといわれりゃそれまでですけど、今聴くと、少なくとも私はあんまり感動するものはないんですよ。でも、彼らのルーツであるデイランの曲とかピート・シガーとかはやっぱ今でも感動するわけ。それは、彼らの音楽が、やっぱりアメリカの伝統音楽の中に根を張ったもので、だからこそ逆に普遍性があるんじゃないかと思う。
まあちょっと話がずれましたが、この高田渡さんの本はほんとに面白い。
頑固な老人のすごさがにじみ出てるし、何より、これ読むとフォーク聴いてみようって思えますよ。是非ご一読を。こういう人間を知ると、CDが何百万売れましたとか、初登場第1位とか、そういうことが音楽にとってはどれほどどうでもいいことかを教えてくれる
> 私は正直フォークと言う音楽にあんまり共感するタイプではないんです
あっ、そうなんだ。実は私はすごく共感するタイプなんです(爆
それも政治的なことに「目覚める」前から、とりわけそういう政治的な歌ということではなく、ごく普通の流行歌でもフォークソング一般が好きでした。
これ言ってしまうと私のイメージ(どんな?)が崩れてしまいますが(笑)、中高生時代に好きだったのはイルカとかオフコースとか荒井由美とかグレープ(さだまさし)とか中島みゆきとか・・・私と三浦さんは、実は歳もほとんど同じなのでわかると思いますが、まあ、その手の子供だったわけですよ。クラスに一人くらいいたでしょ?やなせたかしの『詩とメルヘン』も毎月かかさず購読していまして、何回か詩も投稿したりしてました(あー、そうだよ!してたよ!ポエムだよ!もちろん没だよ!悪いかよ!それであんたに迷惑かけたかよ!(((p(≧□≦)q))))
同じフォーク好きでも三浦さんみたいにちょっとひねった(?)というか、「語れる」人は、やはり昔の関西フォークとか「デイランの曲とかピート・シガーとか」聞いていたりするわけですが、あたしゃそういうんじゃないから。イルカですから。中島みゆきですから。
あと少しだけ金子由香里を聞いてシャンソンもいいなあと思ったり。ロックも聴けるようになったのは頭脳警察からだから、きっと歌詞重視派なんですね。だから洋楽にはあんまりのめり込めない。
完全に余談ですが、実は左翼には中島みゆきファンと、『ゴー宣』以前の小林よしのりファンって多いんですよね。私も「異能戦士」とか大好きだった。でもなぜか戦旗派には少なくてね。中島みゆきファンなんかは不評を買うので隠れて聴かなくてはいけんような感じ。ボブ・マーリーとかだったらいいんだけど。なんと言うか、「語れる人」が多かったですね。これに対して中核派の場合は流行歌の「音楽ファン」であることそのものが不評だったそうで、段ボール一杯に録り貯めたカセットテープを無断で捨てられたという人がいた。中核派のそういうとこって、良くいえば真面目なんだけど、わたし的にはやっぱりアレです。
あんまりレスになってなくてごめんなさい。高田渡さんのお話は、読んでいてやはり私としては笠置さんを思い出しました。