天は自らを助けるものを助ける(上)-左翼は「かわいそうな人」を助けられない‐または連帯と相互依存の違いについて

投稿者:草加 耕助

映画「ヘルプ~心がつなぐストーリー」より映画「ヘルプ~心がつなぐストーリー」より

今のままでは今のまんま

武器の使い方を習得し、武器の使い方に習熟し、武器をもとうとつとめないような被抑圧階級は、抑圧され、虐待され、奴隷としてあつかわれても仕方がない
ウラジーミル・イリイチ・レーニン(全集23巻 軍備撤廃のスローガンについて)

 これは現役左翼時代によく使っていたというか、あちこちに引用もされていた言葉ですが、今となってはもう(まだ)関係ないと思っている方が多いのではないでしょうか。ですが私の人生の中では今でもかなり大きな位置をしめている箴言であります。つまり、武器というのは銃だけではないのです。確かに現段階で、拳銃やバズーカ砲を苦労して備蓄することが賢明な闘争方針とは思われません。ですがその時々で必要もしくは効果的な武器というものがあると思う。

 何が言いたいかといえば、「天は自らを助けるものを助ける」ということです。抵抗もせず、そのための方法に習熟しようとしないものは、こき使われ、奴隷として扱われても仕方がない。それが私の人生訓の一つであり、それはレーニンから学んだものです。別の言い方をするならば、「待っていても何も変わらない」「今のままでは今のまんま」ということです。

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「非常識」な抵抗が歴史を進歩させる

 誰も抵抗も暴れもせず「秩序」や「伝統」や「常識」を重んじていたら、原発だっていつまでもなくならないし、それどころか今でも奴隷制度が続いていたでしょうね。スタートレックでそういう惑星の話がありました。日本において戦後も天皇制がなくならず、未だに日の丸を使っているのもそういうことです。そのせいで右も左も共通して全国民が、とりあえずは「国家のしるし」程度には認められるような旗(国旗)が未だに日本にはない(→こちらを参照)。歴史を前に動かすのは、いつだってその時代の「常識」やら「良識」を真っ向から否定する「非常識」な人々なのだと思います。

 また、三里塚の農民が多くの支援を集めることができたのは、踏みつけられ、虫けらのように扱われて「かわいそう」だからではなく、そこで命がけの抵抗をしたことが一番大きい要因です。最近の人はよくわからないんでしょうが、その闘いの正義性と可能性に多くの人が魅せられたし、表面的なニュースを見ただけの事情をよく知らない一般の人でさえ、農民に大きな同情心を抱いて心情的に応援した。そのことが闘争と支援の輪を巨大なものにしていったのです。

 これは余談ですが、よく「左翼は農民を助けるようなふりをして実際は自分達の闘争に利用し云々」みたいなことを書く人が(必ずしも右派的な人に限らず)いますが、こういう人は歴史や現地事情を知らないがゆえに完全に誤解というか左翼への過大評価をしているんであって、そんなことで闘争がここまで大きくなるはずがない。つまり私たちが「かわいそうな農民」を「助けてやる」ために現地に行ったと思い込んでいるんでしょうが、それこそ農民やその闘いを高みから見下しているわけです。

 そうではなくて、私たちは尊敬すべき闘う農民にお願いして「支援させていただいている」と思っていたし、農民に迷惑をかけてはいけない、農民の役にたたねばと思って必死に闘っていました。農民を「助けてあげる」とか、ましてや「指導してあげる」みたいに上から目線で入ってきた支援は、共産党みたいな大きな組織力と動員力をもった団体さえ、結局は現地農民は絶縁し、排除しています(→「小説・三里塚」)。

「かわいそうな人」を助けることは誰にもできない

 不当な目にあわされている「かわいそうな人」はたくさんいると思いますが、もしその人がそこに身をゆだねて現状を変えようとしないのならば、神様か魔法使いでもない限り、周囲の人は手のだしようがないものです。もしそういう人を助けるのだとしたら、それこそ自分の人生を24時間すべて投げ出して、その人のために生きるくらいの覚悟がないとできません。それがわが子や恋人だったらそういう覚悟もできるでかもしれませんが、それは極めて特殊な場合でしょう。

 だから支配者にとって一番都合がいいのは、奴隷自身が「私は今のままでいい」と思い込んで「ご主人様(主君・天皇・社長・国家)に忠誠を誓います」と自発的に言うことです。するとそこで客観的に見てどれほど不当で非人道的な支配や搾取がおこなわれていようが、その関係性の外にいる人間は手の出しようがありません。その目的のために、どんな時代にもその時代の支配や搾取を正当化するため、あれやこれやのイデオロギーが道徳や常識とかのいろんな名前で存在するわけです。そこでヘタに支配者を倒して奴隷(的)な立場の人間を自由にしてあげても、「わが主君の仇」とか言われかねません。

 この状態を作り出すために、いつの時代も支配者は必死になり、自分に都合のいいイデオロギーをふりまくわけですね。これも余談になるかもしれませんが、明治以降に人造的に作られた天皇制イデオロギー(皇国史観)もその一つであり、それ以前の天皇制の歴史とは隔絶した特殊なもの(武家の天皇制)だと私は思っています。だからこそかえって「理論的整備」がほどこされ、近代国民国家でも使いやすいようになっているのだろうなと。

 私は天皇制をちゃんと研究しているわけではないので、教えを請われても困るのですが、それ以前の天皇制はもっと融通無碍でいい加減なものだったのではないでしょうか。近代天皇制に反対する人は、もちろんこの近代に整備されたイデオロギーを相手にせざる得ないのですが、それにしても反対派もこのイデオロギーに縛られる(規定される)必要はないし、もっと突き放して客観視してもいいのではないかという漠然とした印象をもっています。

支配関係は「同意と強制」によって成り立っている

 要するに国家に限らず常に支配関係というのは「同意と強制」によって成り立っているわけです。さらにこの強制の部分は、賃労働制度のような経済的強制と、警察や軍隊や裁判所などによる経済外的強制にわけられます。また社会的強制のようなものを観念してもいいかもしれない。ですが、全面的に強制だけの関係というのは古代奴隷制ならいざ知らず、現代国家においては部分的にならざるを得ない。そのために支配を正当化するイデオロギーが必要になるわけで、それを植えつける「教育」というものを、ちょっと油断するととかく国家はすぐに手中にしたがるものです。そしてこの教育部門を国家からできるだけ切り離して自由にしておくことが、民主主義国家ではどこでも重要な課題になってくるというわけなのです。

 いずれにせよ、私は不当な支配と闘うといった場合、この同意の部分を重視しているわけです。日本では中核派などもそうですが、スターリン主義的な傾向の強い党派や個人はこの強制の部分に偏重して国家論を理解する傾向が強いと思います。ですが、「大恩あるご主人様のため」と思って働いている奴隷に、銃をつきつけて「主人を倒せ」と脅してもうまくいかないでしょう。ましてや奴隷主を殺した後に「さあ、今度はこの銃を買うために働け、それが自由だ」とか言われたら、この奴隷はどう思うでしょうね。それがスターリン主義なのです。

 私はこの奴隷の善良さをまず評価したいと思います。そしてその生活を理解し、どうしてそう思うのかという思考を共有したいと思います。その上で、彼が「ああ、今日もご主人様のおかげでご飯が食べられる。おお!今日は肉までつけてくださった。ありがたい」と言うなら、「うん、そうだね。そして、その肉を買うお金は、あなたが労働したおかげで得られたんだ」とねぎらうことからゆっくりはじめて、彼自身が自分でイデオロギーの呪縛を逃れ、自分自身の力で今の境遇を客観的に見れるように考えていきたいと思います。

レーニン「外部注入論」についてあれこれ

 レーニンの運動・組織論の肝にある「外部注入論」は、左翼の間ではよくスターリン主義や共産党独裁と串刺し的に批判されることが多く、ソ連のような社会を作り出した元凶あつかいされることもあるのですが、私は上のような文脈でこれを理解しています。むしろ外部注入論をちゃんと理解して節度をもつことのほうが必要なんであって、レーニン主義組織論や外部注入論を批判している個人に限って、他人に自分の考えを押し付けるような言動に抑制がきかないように思えるのは、私のひがみでしょうか。

 外部注入論自体はただの運動論であって、アレンジ次第で必ずしも左翼運動にしか使えないというものではない。しかもかなり強力な運動論的な武器であって、要は使い方しだいなのかなと。これは伝聞ですが、実際、いわゆる「行動する保守」系の某運動指導者が、この外部注入論の信奉者であって、それも「激烈な行動で大衆を外から目覚めさせる」という全く誤ったテロリスト的なレーニン解釈の元にこれを理解しているとのこと。スターリン主義以上に恐ろしいレーニンへの誤解だと思います。

 社会を変えようとか思って行動する人は、徹底的に優しくないといけないと思います。本人が優しくない性格でもそれはかまわない(てか仕方がない)んですが、運動の上ではそのことを心がける必要があると思うし、それができない人はそもそも政治にむいていないと私は思います。「何を甘いこと言ってるんだ。冷酷な判断を下す必要だってあるじゃないか」と言う人もいるでしょうが、そういう判断は100回に1回だからこそ生きてくるのであって、いつもいつも「冷酷な判断」ばかりしている人は、やはり政治を志してはいけないのです。

 そんなことを考えながら私はこのブログを書いています。

前ふりのつもりではじめた話が予想外に長引いてしまいました。いったんここで切って、次回に続きます。↓

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「外部注入論」 レーニンが著書『何をなすべきか』の中で提起した運動組織論。「共産主義的な階級意識は、労働者と資本家の関係の内部から自然発生的に生まれてくることはないのだから、それを外部から注入する目的意識的な前衛党組織とその運動を、労働者と雇い主の関係の外部に建設することが必要である」という考え。

映画「ヘルプ~心がつなぐストーリー」 “ヘルプ”とはお手伝いをする人。かつてのアメリカ南部では黒人家政婦たちのことを意味していた。作家志望のスキーターは南部の上流階級に生まれ、黒人家政婦の存在が当たり前の地域社会で育ってきた。だが、大学から戻った彼女は、白人社会で家政婦たちが置かれた立場が、もはや「これが当たり前」だとは思えなくなってくる。彼女は、身近な家政婦たちに現状に対してその想いをインタビューしようと試みるが、彼女たちにとって真実を語ることは、この南部という地域社会で生きる場所を失うことを意味しており、誰もが口をつぐんで語ろうとはしない。そんなある日、一人のヘルプが家でトイレを使ったという理由で解雇されるという事件がおこる……。
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8件のコメント

支配者と奴隷

簡単なテーマではないですね、
現代の日本における、支配者と奴隷とは何か、

政府は支配者で、その他国民は奴隷なのか、
会社経営側が支配者で、従業員は奴隷なのか、
個人経営の農家、自営のエンジニアで、過酷な労働を
行っている人は(比喩的な意味で)社会体制の奴隷なのか、
労働の質を指して奴隷と言うのか、労働の条件面を指して奴隷というのか、

そもそも今の日本でいうところの、奴隷とはだれのことなのか、

できることなら、
イデオロギーでしか解釈できない難しい論理ではなく、
一般の老若男女が見て聞いて理解できる、お話を期待します。

■草加さんの外部注入の考え方に全面的に賛同します。

たしか竜樹だったかの言葉に「目は目自身を見れない」というのがありますが、そういう時に外側から、その「自分自身を見れない人」に鏡を向けてあげるというか、被抑圧者が自分自身の主観的な世界観から脱出するために必要な「外部」になることが本当の外部注入なんだと思います。それはなにかを押し付ることではなく、その当事者自身の主体性に寄り添って一緒に考えることにもつながると思うし、そこから本当の連帯が生まれるのだと思います。

■外部注入への誤解と左翼の独善性
外部から思想だのイデオロギーだのを「教条主義的」または「強引に」押し付けることが外部注入なんだという
誤解が、エリートが遅れた大衆を指導してやるんだとか、統制や引き回しなんて当たり前なんだという考え方につながっていって、それが大衆から「左翼は独善的だ」と嫌われる原因になっていったのではないかと思います。

■ヘサヨクについて

>近代天皇制に反対する人は、もちろんこの近代に整備されたイデオロギーを相手にせざる得ないのですが、それにしても反対派もこのイデオロギーに縛られる(規定される)必要はないし、もっと突き放して客観視してもいいのではないか

>スターリン主義的な傾向の強い党派や個人はこの強制の部分に偏重して国家論を理解する傾向が強いと思います。

しばき隊関係者が「ヘサヨク」と呼んで批判しているのはこういう人たちのことかもしれません。

「社会を変えようとか思って行動する人は、徹底的に優しくないといけないと思います。本人が優しくない性格でもそれはかまわない(てか仕方がない)んですが(中略)それができない人はそもそも政治にむいていないと私は思います。」 http://t.co/Tpkv7gIiqo ブログ旗旗

「「天は自らを助けるものを助ける」ということです。抵抗もせず、そのための方法に習熟しようとしないものは、こき使われ、奴隷として扱われても仕方がない。それが私の人生訓の一つであり、それはレーニンから学んだものです」 http://t.co/evHsKNnM7y

RT @sakana20001: 『誰も抵抗も暴れもせず「秩序」や「伝統」や「常識」を重んじていたら、原発だっていつまでもなくならないし、それどころか今でも奴隷制度が続いていたでしょう』左翼は「かわいそうな人」を助けられない‐ http://t.co/iBUv7tdxy7 @k…

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