近年、とりわけ3・11後の反原発闘争が盛り上がる中で「非暴力直接行動」を名乗る運動が増えてきました。一時期などは新しく立ち上がる運動や個人はみんな、猫も杓子も「非暴力直接行動」を謳っているような印象を受けたことすらあります。
まあ別に学問的な意味で厳密な定義があるわけでなし、80年代に「○○ネットワーク」という名称が流行したみたいなもんで、名乗りたい人が自分流の解釈で勝手に名乗っていることに水を差すのもはばかられます。なので今まで黙っていましたが、どうにもこうにも「非暴力」もずいぶんと安くなったもんだというか、あまりにこの言葉がファッション化しすぎているような気がして嫌気がさしましたので、大変に申し訳ないですが、一度だけ書かせていただきます。
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直接行動とは何か
まず非暴力直接行動とは「非暴力闘争」+「直接行動」の二つの合成であることがわかります。そして、それぞれの反対語は「実力闘争」と「間接行動」ということになります。
最初に直接と間接について言うならば、たとえばある種の運動や要求があるとします。「原発再稼働反対」などです。これをその権限を実際に持つ人(政治家・役人など)にやってもらうように、要求でも請願でもお願いでもいいですが、何らかの行動で働きかけることが「間接行動」です。
間接行動の典型的なものとして署名運動があります。デモも権力者が想定している合法的なデモは間接行動です。国会包囲や官邸前行動なども参加者の心意気は別としても、少なくとも権力は間接行動であると受け止め、その範囲内でのみ存在を容認します。つまり「まあ一応聞いておく」という感じです。
たとえば石破が国家秘密法反対の包囲行動を「デモはテロ」と言ったのも記憶に新しいですが、つまり彼がそういう認識にどっぷり首まで浸かっている証拠です。「『お願い』以上のことはするな。俺らに迷惑かけんな」というわけです。
これに対して「直接行動」というのは、権限を持つ役人や政治家を飛び越して、民衆が自分たち自身で民意を実現すること、またはその志向をもった運動のことです。たとえば再稼働が予定されている原発の前に座り込んで、必要な資材や人員の運び込みを止めてしまうなどの行動をさします。経産省前テント広場も、発想的にはこの系譜にあると思います。
たとえばベトナム戦争の時、「ただの市民が戦車を止める会」というのがありました。これからベトナムに行って無辜の民衆を虐殺する米軍の戦車輸送に、文字通り役人でも政治家でもない、なんの権限もないただの市民が、その輸送路にただただ決死の覚悟で座り込むのです。
当然、政府は機動隊を派遣してごぼう抜きに排除して逮捕しますが、当時の機動隊はたとえ無抵抗の市民でも最初から警棒で頭をかち割り、血まみれにしてぐったりした所を排除していました。それでも頭から血を流しながらお互いにしがみついて必死にその場を離れない。さらなる警棒の乱打を受けてもその場を動かないのです。おそらくその場にいたら、たとえ米軍への協力に賛成する人でさえ、人としての良心を持つ者は誰でも感銘を受ける光景だったと思います。
非暴力運動とは何か
次に非暴力について考えてみるならば、実際に相手に手を出さなければ、なんでもかんでも「非暴力運動」というものではありません。非暴力運動の祖であるマハトマ・ガンジーは、非暴力とは「相手を許し、罰せず、違いを受け入れること」だと繰り返し語っています。
ただ相手を殴らないという消極的な態度だけでは、それは卑怯者や臆病者の言い訳にしかなりません。このことについてガンジーは「まず相手を罰することができるだけの力を得て、その上で罰さずに許すことが非暴力(運動)なのだ」と語っています。
つまり非暴力とは何らかの行為や不作為のことではなく、まさしく運動の精神であり真髄をさした言葉なのです。この精神を忘れたら、それは少なくとも「非暴力運動」ではありません。70年代以降、日本で非暴力運動を志して実践した人々は、たとえば他者(警察・右翼・敵対的な団体)に抗議する時も、乱暴な言葉使いや相手の人間性を否定し、意見の違いを認めないような言動を行うならば、その時点で、もはや非暴力運動ではないと語っていました。
私はかつてその意見を聞いた時、必ずしも同意はしませんでしたが、非暴力運動そのものには、深い敬意を抱いた記憶があります。それは今の私にも影響を与えています。
たとえば、どんなに激しく警察や右翼などに抗議する時であっても、差別用語を使ったり、相手の身体的特徴、もしくは社会的な立場などを揶揄の対象にするようなことを絶対にしてはいけないのは、非暴力云々以前に人として当然のことです。それ以外にも相手の人間性や人権そのものを否定するような意図や気持ちで抗議してはいけないというストッパーが働きます。どんなに激しく猛然と抗議している時でも頭の隅にあります(興奮すると守れているかどうかの自信はありませんが(ーー;))。
なぜなら、抗議は警察や右翼が他者の人権なり人間としての尊厳を踏みにじったことに対しておこなっているのであって、激しい怒りも興奮もそれゆえの「義憤」でなくてはならないはずです。ゆえにその抗議そのものが相手の人権や尊厳を傷つけるようなものであったら、それはまったくの自己矛盾であって、欺瞞以外のなにものでもないのです(「怪物と戦う者は自身も怪物となってゆく」の原則)。
ある運動が「非暴力」かどうかは、このような精神によってわけられるのであって、あれやこれやの細かい法律に違反しているかどうかとは全く関係がありません。
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「非暴力」と「直接」の大安売り
他にも非暴力直接行動としては、フランスのラルザックNATO軍事基地反対闘争で、農民たちが滑走路上に侵入してデモをおこない、体を張って飛行機を止めたりだとか、空港施設内に家畜を「放牧」したりなどの例があります。
またイギリスにおけるグリーナムコモン米軍基地反対闘争は、意識的に「非暴力直接行動」を掲げて闘われましたが、フェンスを乗り越えて反対派が基地内に突入し、機材にジャガイモを投入して使えなくするなどの闘争が激しく行われました。
ブログ「千恵子@詠む」さんの記事によれば、こういう闘争の前には話し合いが行われ、どこまでが非暴力と言えるのかについて、とことん議論されたようです。そういう風通しの良さも日本の運動とはずいぶんと違います。こうした闘争の末にラルザックもグリーナムコモンも勝利をおさめているわけで、比べてみれば、日本の運動が敗北しがちなのもむべなるかなですね。
参考 ↑「基地のフェンスを引っ張る抗議パフォーマンスをするデモ隊」( グリーナムコモン 1983年)後ろの警官も特に実害のない行動を弾圧はしないようで、このあたり日本の警察と比べても我が国の民主主義が遅れていることがわかります。
こうして見てきますと、警察と協力して「抗議行動」を行っている(だから「悪い」とか「意味がない」とは言ってないので念のため)人達や、あまつさえ自分と意見の違う者を小馬鹿にしたような態度で罵っている人たちまでが、「俺たち非暴力直接行動だよ」とか名乗られると、ちょっとばかしイラッとくることは理解していただけるかと思います。そんな安直な非暴力直接行動があるかいな!という。
勘違いされている人が多いのですが、非暴力かどうかということと、合法か非合法かということは全く関係ありません。むしろ上で見たとおり、元々の定義からいうと、非暴力直接行動とはその99%が非合法(違法行為)になります。
もちろんそれは権力者の抑圧が先にあるわけで、時の権力が抑圧的になればなるほど、なんでもかんでも「違法」と言われて弾圧もされるし逮捕もされるようになっていく。時代や地域によっては殺されることさえあるんです。それでも決して屈服も服従もしない。卑怯者や臆病者にはならない。そして暴力も使わないのです(非暴力不服従)。つまり非暴力の代名詞であるガンジーなんて、日本のネトウヨさんの定義からすれば「極左のテロリスト」に分類されてしまうというわけなのです。(゚▽゚)
直接行動は「俺様ルール」ではない
ところが「お巡りさんありがとう」な人たちとは全く逆にというか、裏返しというか、むしろ一部は重なっているまであるのですが、この点を強調して、自分が嫌だと判断したら礼儀も決まりも守らなくていいんだと言わんばかりに、ガンガンと法も社会常識も無視して行動し、その上でそれを「非暴力直接行動だ!」とか開き直る傾向もあるやに私には見えるのです。言っとくがそんなものは非暴力直接行動ではない。ただの俺様ルールにすぎない。少なくとも非暴力運動ではない。
私はいわゆるソクラテスの時代からの古典的な法治主義(悪法も法なり)が、ナチスの登場を防げなかった反省を受け、現在の法学ではそれが否定されて法の支配(人権を抑圧する悪法は法ではない=近代的立憲主義)にとってかわっていることを知っていますし、抵抗権の概念も知っている。ゆえにこういう俺様の「個々の行動」についての善悪の判断は留保します。しかしだからと言って、そういった態度一般を「非暴力直接行動」の名において、なんでもかんでも正当化するのはやめてほしい。断じてそれは違う。何か別のものだ。
結局は日本において、非暴力直接行動は根付かなかったと結論つけるしかないです。反原発運動を契機として、同じ名前でイメージだけ拝借して、実は全く別の何かが出現している。それが良いものか悪いものかは知りませんがね。思うに、ガンジー的な非暴力直接行動は、キリスト教的な文化的バックボーンを持つ欧州では、ナチス体験もからんで(法の支配概念)受け入れや発展がしやすかったのかもしれませんね。今後どうなるかはわかりませんが。
(次回に続く→)
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参考
もし、臆病と暴力のうちどちらかを選ばなければならないとすれば、わたしはむしろ暴力をすすめるだろう。インドがいくじなしで、はずかしめに甘んじて、その名誉ある伝統を捨てるよりも、わたしはインドが武器をとってでも自分の名誉を守ることを望んでいる。しかし、わたしは非暴力は暴力よりもすぐれており、許しは罰よりも、さらに雄雄しい勇気と力がいることを知っている。しかし、許しはすべてにまさるとはいえ、罰をさしひかえ、許しを与えることは、罰する力がある人だけに許されたことではないだろうか。
(マハトマ・ガンジー)
ガンジーの非暴力とは~ガンジーの言葉を通して(デモクラシー・ナウ)
ノーマン・フィンケルスタイン(米国の政治学者)
警察の取り締まりに抵抗せず、逮捕者が出なかったことが非暴力の証であるように語られることもあります。しかしガンジーの説いた非暴力とは、危険や衝突を避けることではありませんでした。それはガンジーがもっとも軽蔑した臆病で卑劣な行為でした。非暴力が価値をもつのは、身を挺し、死をもいとわない不服従を傍観者に示した時です。それが傍観者たちの良心を目覚めさせ、行動にかりたて、巨大な権力を倒す大規模な大衆運動になるからです。
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@gintatakamatu 暴力や非暴力についての論考でネットで見られるのではこれがまとまってるから紹介しときます。
http://t.co/zSNMsQN8YF
書いてるの知り合いですが…。
RT @kousuke431: [過去記事ランダム] 「非暴力直接行動」って何だろう?(上)-最も険しい困難な選択のはず https://t.co/VX9R0Vl3Ca
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