Political Compassテストについてのエントリーに対する反響が大きいようです。コメントやトラックバックの数も、よその人気のあるブログならどうってこともない件数でしょうが、うちのような人気のない弱小つぶやき系ブログとしては新記録でして、非常に意外です。
ところで皆さんのコメントやトラバを見てみますと、欧米人向けに作成された、この Political Compass テストでは、日本人は自分で思っているよりはるかに「左」に分類されてしまう傾向があることが判明してきました。
「えー!俺は左翼だったのか(ガ~ン!)」ってな反応もあって笑ってしまった。
まあ、おそらくそういう人の頭の中にある「右翼・左翼のコンパス」は、左端にスターリン、右端にヒトラーを配置した直線なんじゃないんかなと思います(図4参照)。そして自分の頭の中にあるこの直線をPolitical Compassの横軸に重ねて考え、自分はその直線の真ん中よりちょっとだけ右(または左)くらいの認識だったのだろうなと。
しかしことはそう単純ではない。このPolitical Compassでは、ヒトラーは右翼・左翼で言えば「中道」に位置付けられるし、権威主義度で言うと、スターリンとヒトラーは両極端どころか「お隣同士」になります。つまりこういう図4のごとき古い「左右のコンパス」からくる発想は無意味ということです。
Political Compassでの「左右の分類」は経済政策への態度によって単純に決められています。ですからこれを日常会話やネット上の「ウヨサヨ論争」におけるそれと重ね合わせて、過剰に反応する必要はないと思います。
たとえばこのテストのサンプルで、ガンジーはバリバリの左翼に位置付けられていますが、日本でガンジーを「左翼政治家」と認識している人は少ないのではないでしょうか?(欧米人が本当にガンジーを左翼と思っているのかは謎ですが)
また、「欧米での平均が、日本の平均よりはるかに右寄りだから」という意見も多くありました。私も最初はそう思ったし、その意見もある面では正しいかもしれない。
でも、日本の私達が日常感覚で思っている「左翼的な政策」とは、たとえば反戦であり、市民運動であり、福祉であり、難民の受け入れであり、同性愛や中絶などの「性の自由」であり、反差別であり、言論やプライバシーなどの自由の拡大であるわけです。
ところがこれらの運動や政策は、むしろ日本よりも欧米での方が規模が大きく進んでいる側面もある。ここに注目すると今度は逆に日本より欧米の方が「左傾化」しているとも言える。
つまり、経済・軍事では、日本人の感覚のほうが左とも言えるが、いわゆる「共同体意識」とか「ムラ意識」とか「お上意識」と言われる問題では、どちらかと言えば欧米のほうが「左傾化」しており、個人主義的傾向が強いってとこかな?(実はそれも右傾・左傾と一緒でいちがいには言えないかもしれない。このへん突っ込まれるとよくわからん。誰かあちらの経験長い人教えてちょ)
↑とか書いていたら、「あるコリア系日本人の徒然草」さんより、「The Political Compassの考察 (テストのバイアス)」という、見事に考察された記事のトラックバックをいただきました。
うーん、完全に負けた(笑 Political Compassテストを受けた方は是非一読されることを強くお薦めします。(テストを受ける前に読むとバイアスがかかるので、受けてから読んだほうがいいです)
だいたいが「たとえばドイツでは」とか「アメリカでは」とか言って欧米を持ち上げるのは左翼の「専売特許」だったわけで、それに「ここは日本じゃー!」って怒るのが右翼だったはずですもんね。
私の場合は「経済政策グラフの左右」よりも、「社会政策のグラフの上下」を重視しています。だって、「自由主義度が極端に高い右翼」(そういうのがいればですが)になら、まあ政権とられても、とりあえずはいいやくらいに思えますが、逆に「自由主義度が極端に低い左翼」には、死んでも政権なんてとらせたくありませんものねえ。
この前のエントリーでは、全員が「右翼か左翼」に分類されてしまうことに違和感を感じて、中道ゾーンというのを独自に設定してみました。こういう発想自体が、私の頭の中にも「図4」の直線があることの証明かもしれません。
しかし考えてみれば、右翼や左翼は固定的な定義が可能かもしれませんが、中道とか中庸とかいう政治路線は固定的には存在しないわけですよね。何しろ「中」、つまり真ん中なんだから、両端を決めないと真ん中も決まらないわけです。
右翼・左翼という発想から中道という概念を語る場合には、その「左右の端」を決めないと中道も決まらない。そしてその左右の端は任意になんとでも設定できる。その設定の仕方によって「中道」なんていくらでも動かせるので、単に「私は中道です」と言っただけでは、実は何も語ったことにならない。
たとえば両端を自民党と民主党に設定し、両党に対して是々非々で望むような立場を中道とした場合、共産党や社民党なんて問題外の極左野郎になってしまいます。しかし、両端を本物の共産主義者と極端な国粋主義に設定した場合は、自民も民主も「やや右寄り」で、社民党あたりが中道になるかと思います。また、欧州社民と日本の自民党を両端に設定すると、今度は民主党あたりが中道です。つまり中道概念は「両端」の影にすぎないんですね。
では「中道」という言い方はまったく意味がないのかと言えば実はそんなこともありません。「両端」の勢力が民主制の過程の中で主張を闘わせていくその綱引きの中で、自ずから当該社会において実現可能な範囲での現実的な政策のベクトルが出来あがってきます。こうして両端の力関係と現実問題の兼ね合いで生まれてくる「全体意思」を、中道政策と言えば言えるでしょう。
このあたりの過程を「数学屋のメガネ」の秀さんは、大西広さんの文章(「君は右翼か、それとも左翼か」)の
「両者の主張はまずは対立的に提起されなければ何がその主張点なのか分からなくなる。この意味で私は安易な中道路線というものは評価できない。」「ただし、もちろん、上記のように私の主張点が両者ともに正当な主張であるとすれば、最終的に下される社会的判断、たとえば政府の決定はその中間的なもの、バランスのとれたものでなければならない。」
という個所を引用しつつ、以下のように描写しておられます。
このあたりを整合的に理解するのはかなり難しい。対立は必要だ。それは、主張を明らかにすることによって、シャープな対立があった方が、より正しい判断が出来るからだ。最初から妥協的に取引すれば、何が正しいかがわかりにくくなる。対立は大切だが、結論はバランスがとれていなければならない。それは、両者共に、その存在に正しさがあるからだ。どちらか一方の主張だけに偏れば、偏ったことによって誤りに陥る (「右翼」と「左翼」の定義1)
こうして「両者ともに正当性のある」両端が、お互い相手にも一定の正当性があることを認めつつ、民主的な討論の中で「バランスがとれた結論」として浮上してくるものが「中道」の正体と言えるかもしれません。
こういう経験を繰り返していく中で、自ずからその社会における「バランスがとれた政治路線」というものが見えてくる。やがて当該社会に生きる一般の人々の意識は、左右の両端というより、最初からこの「中道路線」を基調に物を考えるようになる。そして投票行動などを通じて、その時々の左右の力関係のバランスをとっていこうとする。これが社会的な意義における中道の実態かと思います。
だから「死んでも共産党には投票しない」とか「支持政党はないけど自民にだけは絶対入れない」ような人は中道ではない。しかしそういう人もすべて含めたところでの社会的な総和が中道であると。
しかし、これはあまりにも議会制民主主義の現状を、楽観的に肯定した見解かもしれません。しかしそれには目をつぶって民主主義というものを、教科書的に美しく理解した立場で、とりとめもなくつぶやいて終わりにします。
1) やはり大西さんの言うように、「安易な中道路線というものは評価できない」っす。
結局は中道的な結論に落ち着くとすれば、最初から「人工的に想定した中道路線」を掲げれば人気がでるんじゃないかと考える人がいても不思議ではない。しかし結局そういう「お前どっちの味方やねん!」という中途半端な路線はどこの国でも人気が今一つのようです。
そういう中道路線はいわば「養殖物」でして、結局は左右の勢力がドンパチと角突き合わせて得た結論である「天然物」にはかなわない。また、こういう養殖物は、いわば「お前ら、みんながいいように俺が全部決めてやる」みたいな側面があります。欧州の極右ファシスト政党が判で押したように「中道政党」を自称しているのは偶然ではありません。
2) こういう社会意識としての「中道」から見た場合、左右の勢力(特に反体制派が)偏っているのは当たり前。それは悪いことじゃない。むしろその「偏り」が社会の健全な発展にとって大切なんだと思う。
3) これらは全部「体制内」のお話です。当該社会の体制の外にいる勢力にとっては、また全然違う視点の分析になってくると思われます。それでそういう体制外の勢力が、万一議会で多数をしめた場合は妥協が不可能となって、今までのべた「美しいお話」はすべて機能せず、議会制は崩壊するでしょう。ナチスと共産党が台頭してきた時代のワイマール共和国などがその好例かと思われます。
4) 結論:やっぱり選挙で革命するのは不可能やね(笑
おあとがよろしいようで (・・。)ゞ…
補論)私の想定している「左翼」とは
どうもコメントとか他のブログを読んでいると「左翼」と「社民」の区別がついてない人が多いっすよね。まあ、こっちも「右翼」と「保守」の区別がついてないんでお互い様だけどさー(笑
このへんの問題については一段落して、しばらくはふれない(?)つもりなので、この機会に、私が使っている用語としての左翼と社民について、現時点での定義を書いておきます。ただしこれは近日変更される可能性が高いですけど。
左翼とは、反体制派のこと。そこで言う体制とは「資本主義」と「国家」の二つです。よって、左翼の内実は、これらを「止揚」しようとする共産主義と、「廃止」しようとする無政府主義の二つが主なものになります。
「個人VS全体」の問題で言いますと(私のイメージでは)共産主義は「個人と全体の合一」と「西欧的個人主義の克服」を目指し、無政府主義は「全体」概念の否定による絶対個人の絶対自由を目指すものです。
そういう意味で「スターリン主義(ロシアマルクス主義)」は、ソ連国家の一国的防衛と発展のために民衆を犠牲にしており、そこでは「国家」と言う存在を再び一人歩きさせたこと、個人と全体を再び分裂させて個人を全体の犠牲にしたことにおいて、左翼にとっては二重の裏切り者なのです。
一方、社民とは、体制内改革派のこと。護憲・福祉・平和・弱者救済などをキーワードに、「よりましな資本主義」や「よりよい国家」を作ろうとする人々のこと。別名「朝日・岩波路線」。「個人VS全体」の問題では、個人が全体に優先し、全体は個人の幸福と福祉に奉仕するためにあると考えています。
両者は対右翼や対保守との闘争で「共闘」は可能ですが、本質においては全く異なるものです。日本においては共産党はギリギリ左翼で、左翼内の最右翼。社民党は内部に左翼(共産党よりも左?)を抱えているようですが、全体としては文字通り「社民」であって、左翼ではありません。もちろん朝日・岩波が左翼だなんて言い草は「本物」から言わせていただくと、ちゃんちゃらおかしいです。
ついでに言うと、左翼や社民から見た右翼や保守とは(すまん、とりあえずはごっちゃにする)、弱肉強食の「(左翼的価値観から見て)より悪い資本主義」の方向に引っ張っていこうとする人すべてのことであり(これは「彼らが強者の側に立っているからだ」と左翼は考えます)、国家や全体を個人の上にくる価値観であるとし、国家なくして個人もないのだから、個人は国家に資する存在でなくてはならないと考えている人ということになります。
つまり個人と全体を、ある意味対立的にとらえている点において、右翼や保守と社民の「個人観」は逆立ちした同類とも言えます(ブルジョアイデオロギー)。この点につき左翼は、それは彼らのいう「全体」が実は全体ではなく、一部の者の利益を代弁する特定の機構やそれを支えるイデオロギーの総体にすぎないからだと考えます。
そこで当面は弱者側に立ってその利害を代弁し、この全体(に名を借りた一部の者)と闘って打倒し、弱者の側がとって変わる(プロレタリア独裁)が、将来的には自分達だけの利害をも超克した、本当の「全体」(共産主義)を実現させるという考え方になります。
左翼用語を使わずに説明しようとしたら、何ともヘンテコな文章になっちまった。まあ、私の理解なんてせいぜいこんな程度のもんだ・・・。(と、言われる前に先に自分で言ってみるテスト)
どうも関係ない話で恐縮ですが
いまネット掲示板のライブドア祭りは希薄な政治構造を見る上で面白い状況になってます。
ネトウヨの総本山である切込み隊長山本一郎が、ライブドア全面支持で、同じくライブドア支持のイラク反戦だったサヨク市民派と同じ位置に立って、民族派とバトルをしています。
討論ゲーマーであるネットウヨと普通の保守思想論者と右翼団体員を区別できるHN採集のいい機会となっています。
The Political Compassの考察 (テストのバイアス)
皆さんのコメントを見ていると、思ったよりも左寄りに点数(経済的社会的ともにマイナス点)がでていて、驚かれた方が多いように見受けられました。一方僕自身に関しては、…
そおか、サヨクはホリエモン支持なのか(W
まあ、これって単に買収されようとしている対象がフジ産経グループで、買収される事によってエンタテイメント的要素がダメになるという事は別に無いし、報道的にはどう転んでもいまよりも悪くはならない(左派的には)ってとこで、「フジ産経ならいいや」という地平で「サヨクはホリエモン支持」って事になるのでしょうが。
俺も、フジ産経は買収されちゃって、それによって「資本の無制限に自由な運動はヤバイんじゃないの?」という気運が高まる捨て石になってくれればいいんじゃないかと思います(W
たまにはサヨクも現実主義(W
私の知り合い(バリバリの左翼で、「ぼたんの花と」いうHNの方です)は、「アメリカ資本、しかもロスチャイルド系ユダヤ企業のリーマンブラザーズに放送会社が乗っ取られるだなんて断固反対!」と言っていましたよ。
太陽に集いしものさん、「ライブドア支持のイラク反戦だったサヨク市民派」って決め付けるのは良くないと思います。この問題は左右思想は関係無い、というより左翼だからこそフジを応援するというスタンスも有り得ます。短絡的な判断をしていると本質は見えてきません。
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>討論ゲーマーであるネットウヨと普通の保守思想論者と右翼団体員を区別できるHN採集のいい機会となっています。
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この区分けそのものが間違っていると思います。
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ちなみにこの問題に対する私のスタンスはこんな感じ。
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「どちらが勝とうと興味無し。ただし戦況を見守るのは面白い。ライブドアは夜襲による先制奇襲攻撃(時間外取引)、フジは焦土戦術(新株増資)を用いて有利な戦場を作り上げた。これは戦争だ。資本主義も共産主義もへったくれもいない。全くもって戦争だ。両者ともルール無用、ならば思う存分に殴り合え」
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もう殆ど決着ついてしまいましたけどね。
今読み返してみても、何が言いたいのか自分でもよくわかんない駄文エントリーなもんで、コメント欄も別の話題に流れがちってとこかなー。(・ω・` )
ライブドア、NHK、定住外国人の管理職受験拒否と、最近、世間を騒がせてブログでも軒並み取り上げている問題について・・・なぜだろう。なんか燃えない(萌えない?(^○^;)。
それぞれのテーマの根底にあるのが、資本の自由な流動、報道の公正、公務就任権という、自分としては比較的興味の薄い分野であるからだろうか。
NHKへの報道圧力については、「安部さんってそういう人だったの?」という点において少し興味あり。ここは安部さんのキャラとして「あんな偏向国辱番組に圧力かけて何が悪い!」と断固として言いきって欲しかったなあ(笑)。理屈こねまわして「圧力なんてかけてまへーん」という「普通の政治家」みたいなコメントはいただけない。あんたが言うことは一般市民の意見とはわけが違うんやから。
反体制勢力側(自分もそうですが)も経済原論レベルでの目指す社会への政策論的ベクトルというものを再構築しないと、全体感のある現実的闘争課題での地に足がついたスタンスを喪失してしまうと思います。
60年まではマルクス経済学がその役割を持っていたと思うんですが、それをひとつのベクトルのツールとせず、絶対的な理論としたところがつまづきのはじまりだったと思います。その辺の再構築は危急の課題ではないでしょうか?
左の人がリアリティを喪失しつつあるのはその辺に原因があるのかもしれません。
経済原理の地点で見ると、他国への経済侵略性に帰結するマネー全体主義ともいえるネオコン理論の本質がリアルに感じれますし、かってのナチズム=国家社会主義が新しい時代の理論として支持を受けたところから始まったという歴史的事実とリンクして感じられます。
ちなみにLDは従来の保守派に襲い掛かるヒットラーユーゲントというところでしょうか。(ナチ本体は政権内部と民主党内部のネオコングループ)
今日の革命戦争は実弾でなくマネーで行われる訳ですから、ある程度の経済学的認識は持っていただきたいところですが、、
今回のLD問題は、僕なんか思想戦のいい契機だと思って萌えまくっています。(不正アクセスでソフトを壊された怒りもありますが)
マネーゲーム→富の虚像化→実質需要の抑制→デフレ要因→海外進出という現代版金融資本侵略に帰結し、その文脈で、イスラムとの対立も宗教対立だけでなく、本質的には富の収奪構造に対する植民地解放闘争と侵略者の闘いであるという展開まで喚起されてしまうんですけど(なんか70年代ぽいですかねw)
下に民族派の人からすすめられた経済政策論添付しました。途中までしか読んでませんが、かなりスッキリしたビジョンを描くことができました。よかったら参考にしてください。
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/index.html
すいませんアドレス間違いました。こちらが正解です。
http://www.asyura2.com/0411/hasan37/msg/456.html
結構骨太の議論になっていて、ケインズ理論に基づく経済政策のレギュラシオン的再構築になっています。
ネオコンが進める企業合併による資本の肥大化=富の偏在が、総需要抑制になり、不幸の連鎖を生むという論考になっています。
ただ今読んでいる所です。
うーん、なんか懐かしい(w
私がこういうのを一生懸命に読んでた頃は、ちょうどレーガノミックス、サッチャリズム、サプライサイドエコノミクス、マネタリズムなどが全盛の時代でして、先輩らの薦めで、というか半ば半強制的でしたが(W、超保守系の学者が書いたレーガンの経済政策の解説本とか読まされたもんです。
当時のキーワードは「双子の赤字」でしたが、共和党ブッシュも二期目になって、最近またこの言葉を新聞で目にするようになりました。なんかタイムスリップしたみたいな気分でした。
思想の起源となる精神構造とか経済システムとかの基本構造を踏まえて、対象となるものを社会にどうゆう作用を及ぼすか?という視点で捉えると、自己の行動原理の安定感のある暫定ベクトルをもつことができる気がします。
右のいうところの愛国的警戒心、左のいうところの革命的警戒心(なんか表現方法が違うだけですよねw)はそうした根っこの議論から担保されるんじゃないかと感じています。
大衆の大きな支持を得ていたはずの社民のローザルクセンブルグが何故、ナチに扇動された民衆によって虐殺されるところまで追い込まれたのか?同じ反体制という括りで容認し、ナチの台頭に対し、本質的革命的警戒心を鈍らせた為だと思います。
ナチという潜在的な脅威が、大衆を吸引し強大な暴力を持つ前に、その本質を見抜き、保有する現勢力をもって思想的、情報的、物理的せん滅戦を実施したなら、彼女の運命も世界の運命も違った流れになったと思います。(なんか戦闘的マルクスレーニン主義的セクトみたいなものいいですがw)
軍事的力学の行使という必要悪の積極利用が、スターリン主義に帰結しかねない危惧はあります。しかし、そうした外なる闘いの軍事的哲学の暴走に歯止めをかける、”内なる闘い”を内在化させる思想性(自然人の持つ善なる感性=人類愛)を、同時併行でたえず喚起しつづけ、スターリン主義への堕落を止揚するしかないのでしょうね。
スタ化を恐れるあまり、自然発生性に拝跪した”市民運動化”に埋没すれば、現代のナチになりかねない強大化したネオコンの暴力に蹂躙されてしまうと思います。直接利害関係になくても、ネオコン増殖につながるニューエコノミー思想の流布については、随時迎撃すべきだと思います。
情報のデジタル化は、アナログと違い完璧な情報監視とその統制を実現します。このサイトにしても、閲覧障害を起こすことは簡単なことです。多重アクセスによる世論の印象操作も簡単です。
LD騒動の影で着々とインターネットの投稿まで摘発の対象とした人権法=メディア規制法が成立しそうなのが無気味です。
http://www.nikaidou.com/column01.html
つーか、俺なんかの場合はウヨサヨ分別の基準って、国家というものをどのようなものとして捉えるか、というところだと思っていたのですが。この図だと上の方に位置する「権威主義的」という方向性のその権威とは、国家によって保障されるものであり、その逆の方向がまさに「無政府主義的」と言われるようにさ。
しかしアメリカの場合は左翼という方向性って、「大きな政府」であって、「国家の死滅」へと向かう方向じゃなくって、計画経済の方向なんですね。
この辺が完全に日本での我々の右翼左翼という概念と逆転しているんじゃないだろうか?
このテストの日本版を作るとすれば、宗教教育のあたりのかわりに、学校での日の丸君が代が入るであろうし、天皇制への考え方などの問いも入るでしょう。で、日の丸君が代や天皇制は、俺らの考えでは、それは明らかに「国家に属する問題」なわけですが、アメリカの宗教問題の位置は、それとはまたずれた地平で、で、宗教右派と新自由主義経済が結びついたあたりがアメリカ的な「右翼」という事になるんすね。
>?太陽に集いしものさん、ローザルクセンブルグを殺したのは、社民党政権のノスケとゆう奴で、ナチスが出てくるのはもうちょっと後の時期になります。
ローザルクセンブルクの暗殺についてですが、黒目さんのおっしゃるとおり社会民主党のグスタフ・ノスケが国防大臣に就任し、その革命派に対する弾圧政策のなかで起きたことでした。直接の下手人は反革命義勇軍の右翼軍人たちです。当時はまだナチ党は存在していませんが、塹壕戦帰りの軍人を中心とした左翼革命派への憎悪は、心性としてつながっていたと思います。
太陽に集いしものさんの、「本質的革命的警戒心を鈍らせた為」というのは少し酷だったのではないでしょうか。第一次世界大戦の殺戮戦自体が未曾有のものであり、戦場から帰ってきた連中がどれだけ心を荒廃させてきたのかということを、戦時中ずっと獄中で過ごしたローザに見抜けなかったのは無理もないことだったと思います。
このローザルクセンブルクの暗殺こそが、大量殺戮の20世紀のはじまりを象徴する事件だったと、私は勝手に思っております。「権威主義的」座標軸の最上辺に位置するのは、ヒトラーとスターリンですよね。この座標軸で上にいくほど暴力との親和性が高くなっていきます。強制力の発動という見地では、国家権力を握ることがいちばんの近道ですから、権力者が多いのも自然の傾向です。で、どうも人間を不幸にしてるのはこっちの連中のほうが多いのではないかと。「軍事的力学」を一概に否定するものではありませんが、反スタ左翼のなかからも「革命的暴力」を呼号する勢力も出てきたりしていますから、このへんはかなり明示的に非暴力の哲学を押し出していかないと、すぐに足をすくわれてしまう危険があると考えています。
・・・もうちょっと展開したいのですが、そろそろリハビリに行ってきます(笑)
アナーキーな科学?
草加耕助さんのサイト「旗旗」で、The Political Compassというサイトが紹介されていましたので、ちょっとやってみました。わたしとしては、普段の言…
ローザの虐殺はそうなんですか。へ~(w
僕が10代の頃、武闘派の先輩から、民間反革命への先制攻撃を実現し、革命防衛をする目的意識性の欠如の例として、教えられた話なんですが、記憶違いだったんですね。(~”!
そうした民間反革命への武装闘争理論とは内ゲバに帰結したわけですし、おっしゃるとおり安易な暴力傾倒抑制は重要課題だと思います。
元武闘派の哀しい性か!すぐエキサイトするのが自分の悪い癖です(~!
もっとも現在において暴力は、言論封殺ともいえるコメントスクラムで具現化しており、当然対抗手段も、世論誘導の先制迎撃の情報戦として体現されています。
ゲーム感覚で世論誘導を楽しむネトラーの存在が、バッシング=暴力を加速していますので、それに対抗する本質的構造的な問題提起ができる主体的理論武装は危急の課題だと思います。
ネトラーはIT業界に多いので、多重アクセス力など物理的に劣勢に立たされるのはやむおえませんが、論点を絞りこんだ本質議論をくりかえせば、中身がないゲーマーの印象操作ですからその影響力を減退させることができます。
目に見える成果がなければゲームとしての面白みがないですから、ネトラーは撤退していき言論の暴力化を防げれる気がします。
そうした意味で、本質暴露をする対抗的なコメントスクラムは、意識的に行使してもいいと思うんですが、そうした情報戦という軍事力学意識も問題ありでしょうか?
貴「旗旗」や「朝民研」で話題になっていたPolitical Compassですが、何せ英文サイト故、「いちいち翻訳してまでやって見る暇も無し」という事で諦めていました。そんな中で偶然にも、「あるコリア系日本人の徒然草」さんのサイトで日本語訳を見つけましたので、それを参照しながらやってみました。結果はご覧のとおり。さしずめ「強い左派的傾向を持った自由主義者」という所でしょうか。
(私の採点結果)
Economic Left/Right(横軸)-8.38
Social Liberarian/Authoritarian(縦軸)-3.54
このテストの面白いところは、単に「左翼vs右翼」「グローバリズムvs連帯経済」という対抗軸の他に「権威主義vs自由主義」という別の視点を加え、より立体的な評価を試みた所にあるのでは-と思いました。但し、あくまで米国基準での視点ですが。
中立・中道を唱える人たち。
kazitiさんごめんなさい、コメントしたものを記事にしました。ついでに少々修正